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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第十回  李柳蝉 金梁橋に暴虎を打ち 曹刀鬼 山東への壮途に就くこと
102/139

董家薬舗

「薬舗」

薬屋。

「ああ、そういえば落ち着いて名乗る間も無かったな」


 ホラね。

 全くもって副師範の仰る通りでございます。


 一同が店先を通り、奥の一室へ案内されると、郭静は腰を下ろすよう促される間もなく、深々と三人へ拝礼し、


「私は姓を郭と申します。この度は私どもを暴漢から救っていただき、衷心より感謝申し上げます。こちらは孫娘で姓を李と申しますが、この通りまだ年端もいかず、私の教育も行き届いておりませんで…数々の不躾な物言い、この()に成り代わり、深くお詫び申し上げます」

「お祖母(ばあ)ちゃん、止めて」

「柳蝉、お前はまたそんな事を──」

「そうじゃなくて!私の無礼は私が謝るから」


 そう言って、李柳蝉は林冲の前に進む。


「この度は祖母と私の為に御助力いただき、誠に有り難うございました。数々の無礼を心よりお詫び致します」

「ああ、いいっていいって、気にすんな。ああいう時は誰だって気が立ってるもんさ。気にしちゃいないよ。ま、止めに入って睨み返された時は、さすがにビックリしたが」

「…すみませんでした」

「だから賢弟、お前は一言多いんだ。何故、黙って謝罪を受ける事が出来ん…」


 呆れたように窘める王進にも、林冲は両手を頭の後ろに組んでどこ吹く風だ。


「さて、申し遅れました。私は姓を王、名を一字で進と申します。御令孫(李柳蝉)の推察通り武官ではありますが、身分は人に誇れるようなものではありません。ただのしがない一軍属です。そしてこちらの小生意気な男は──」

「師匠、小生意気って事はないでしょう!?」

「気に入らんのなら、これからは『口の減らない』にするか?」

「どっちもお断りします!もういいですよ、自分で名乗りますから。手前は姓を林、名を冲と申します。以後、お見知りおきを」


 二人の拝礼に郭静、李柳蝉も礼を返す。


「でも『師範』『副師範』というのは…?」

「そのままの意味ですよ」


 そこへ一度、奥に入り、細々とした指示を出した董博が戻ってきた。


「王師範は肩書きこそ殿前軍(・・・)鎗棒師範ですが、その抜きん出た技量で馬・歩軍の将兵からも指導を請われ、言うなれば禁軍80万総兵の鎗棒師範と呼んで差し支えないお方です。林副師範は周囲から『燕人(えんひと)・張益徳(張飛)の再来』と綽名(あだな)されるほどの武勇を誇る、鎗棒副師範であられます。それを『ただのしがない一軍属』などと…お二方とも謙遜が過ぎますよ?」

「師範など殊更にひけらかすような肩書きでもあるまい。まして副師範ともなれば──」

「…師匠、俺がいつ副師範をひけらかしましたっけね?」


 軽口を叩き合う二人を前に、郭静と李柳蝉は顔を見合わせる。

 殊に李柳蝉は改めて自分の無知と増長を顧みて、顔から火が出るほどの思いだった。


「こ、これは、まさか禁軍で師範を務めておられるお方とは露知らず…重ね重ねの無礼をお許し──」

「ああ、お止め下さい」


 慌てて膝を折ろうとする郭静を王進は再び制し、


「既に礼も謝罪も受けました。師範といっても、些か棒が使える為に任されているだけの事です。そう大袈裟に畏まられるような職ではありません。ともあれ、怪我をした足に立ち話はお辛いでしょう?どうぞお掛け下さい」


 郭静の身体を支えていた王進が、そのまま椅子へ座るよう優しく促し、ようやく皆が一息ついたところへ、董博の妻が膏薬やら包帯やらを持って室へ現れる。一旦それを置き、一同に拝礼すると、郭静の足元に跪いて靴を脱がせ、足を手に取って診察を始めた。

「何処が痛いか」とか「少し動かしてもいいか」とか、郭静の様子を伺い、声を交わし、手早いながらも微に入り細を穿つ様は、さすが生薬屋のお内儀といったところだ。


「そういえば、副師範はあいつと顔馴染みみたいな感じでしたけど、一体、何者なんですか?」


 その様子を心配そうに見ていた李柳蝉は、思い出したように隣の林冲へ問い掛けた。


「あいつ?…ああ、牛二の奴か。あの通り、馬鹿みたいにイキがって騒ぎを起こすしか能が無い(ろく)でなしだよ。それをまた、周りが面白がって『没毛大虫(ぼつもうたいちゅう)』(※1)とか何とか呼ぶもんだから、あいつも調子に乗りやがって」

「ああ、それで『虎』…」


 林冲は思い出すのも胸クソが悪いとばかりに顔を(しか)めつつ、


「まあ、あれだけ脅し付けといてやったんだ。もうお嬢ちゃん達にちょっかい出すような真似はしないさ。心配要らないよ」

「だといいんですけど」

「それで?」

「…『それで』?」

「何でまた、あいつと往来の真ん真ん中でやり合う羽目になったんだよ?」

「ああ、祖母が少しよろけた時、たまたまあいつの前を塞いじゃったんです。すぐに謝って道を譲ろうとしたのに、あいつがいきなり突き飛ばしたりするから、私もカーッとなっちゃって…」

「あぁ、それで足を…ったく、ホントに救いようがないな、あいつは」


 董博の妻の見立てでは、郭静の怪我もそれほど心配する必要はないという事であった。

 骨に異常はなく、長旅の影響もあってか、体勢を崩した拍子に筋を痛めてしまったようだが、それもしばらく安静にしていれば、痛みもじきに引くだろうという程度で、まずは一安心といったところ。


 患部に膏薬を塗り、包帯が巻かれていく様子を見た李柳蝉は、


「御厚意に甘えてばかりで申し訳ありませんが、何処か宿を教えていただけませんか?あまり上等なところは困りますけど、祖母の足の事もあるので、出来れば近場だと有り難いんですが」

「んー、それなら一旦、梁門大街に戻って──」

「梁門…?」

「っと、そうか、そういえば青州から来たばっかって言ってたな。そうすっと…お嬢ちゃん、ここへはどうやって来た?」

「宮城の前の大通りを西に向かって来ました」

「ああ、なら話は早い。ここからその大通りに戻れば、左に曲がってすぐのトコに信用出来る宿があるよ。ボッたくられる心配も無いし、性質(たち)の悪い客もまずいない筈だ」

「良かった…有り難うございます」

「それと、こちらは副師範でございますか?」


 郭静の手当てを終えた董博の妻が、立ち上がりしな、林冲に問い掛けた。

 奥から運んできた盆の上には、まだいくつかの薬が残っている。


「ええ。師匠は加減を知らないですからね。今日もこちらの売り上げに貢献させていただきました」

「何だ、加減が要らんのなら早く言わんか。明日からは心置きなく──」

「『して下さい』と言ったつもりですけど!?」

「ふふ。では、こちらは王師範の御母堂様へ」


 そう言って、董博の妻は王進と林冲へ包みを渡した。

 王進に妻子はなく、父も既に他界していて、ただ60歳を過ぎた母が一人いるだけだったが、その母が胸の持病を持っているため、こうして時折、その薬を求めに来ている。


 と、薬の代金を支払う王進を横目に林冲が、


「ところで、お二人はどうして京師(こちら)へ?どなたか知り合いを訪ねられたんですか?」

「いえ、その前に私の薬代の方を…」

「ああ、それならたった今、師匠が払いました」

「賢弟…だから何でお前が得意気なんだ?」

「あの、先ほどは副師範のお言葉に甘えさせていただこうかとも思いましたが、もう既に過分な御厚情を賜ってますから、この上、薬代までは…やはり私の分は私が支払いますので」


 義理も恩義も、あまり無尽蔵に受けるものではない。

 受けた恩は返さなければならないのだから、ほとんど着の身着のままで青州を発った郭静のように、返す物を持ち合わせていない身であれば尚更である。


 無論、王進達は見返りを求めて二人を助けた訳ではないが、傍目に見れば何を返すでもなく、そもそも返す宛てすらありもしないのに、王進達の施しを受ける郭静の姿が、並外れた厚顔無恥のように見られる可能性だって無くはない。


 人の噂というものはとかく広がり易く、それも『悪事千里を行く』(※2)ではないが、いい噂よりも悪い噂の方が圧倒的に広がっていく。

 仮に王進達が何の気なしに今日の事を語ったとして、それが人伝に広がっていけば、全く事実と異なる形となって噂される事もあるのだから、そこに郭静が不安を覚えたとしても仕方がない。


「いやいや、もう払ってしまいましたから」

「ですから、私の分を王師範にお返しを──」

「御令閨」


 割って入ったのは董博。


「節度を弁えた御令閨の姿勢は確かに素晴らしいと思いますが、あまり頑なに拒み続けては、却って王師範の面子を潰してしまう事にもなります。王師範も林副師範も、人に施したからといって、それを殊更に吹聴なさるようなお方ではありませんから、御令閨が後ろ指を指されるような事にはなりませんよ」

「ですが…」

「それに、諺にも『取るべき時に取らず、後になって後悔するな』(※3)と言いますでしょう?ここは王師範のお気持ちをお受けなされては?」

「私も無理に恩を売ろうという訳ではありませんし、私の面子などは尚更どうでもいいんですが、一度、払ってしまったものを、御令閨から受け取るというのはどうも…」


 王進、董博に勧められた郭静は、感極まった様子で言葉もない。

 それを見ていた林冲が、そっと李柳蝉の袖を引く。李柳蝉が視線を返せば、林冲は更にその視線を郭静へと促している。


 すぐに李柳蝉はその意図に気付いた。

「郭静を言い含めろ」と言うのだ。


「お祖母(ばあ)ちゃん、ここまで言って下さってるんだから…」

「…そうね」


 立ち上がった郭静は改めて一同に拝謝し、李柳蝉も同様に皆に感謝を伝えた。


 一同が席に着き、出された茶を飲みながら世間話をしていると林冲が、


「そうそう、話が途中になっちゃいましたけど、お二人はどうして京師(こちら)へ?」

「賢弟、お前はさっきから立ち入った事をズケズケと…」

「いや、青州から東京ってなかなかの距離ですよ?それを女性の二人旅って聞けば、気になるじゃないですか」

「いえ、実は──……」


 と、郭静は経緯を語り始めた。

 無論、李柳蝉の名誉を守るため、青州を出た理由については適当な理由を並べて上手く誤魔化し、親類の李四娘を訪ねて東京にやって来た事、その李四娘が州西瓦市で夫と共に酒家を営んでいた事、その夫の姓名を忘れて酒家を探し当てられなかった事などを一通り語る。


「それは董家酒家の事ではありませんか?」


 口を挟んだのは董博の妻だった。


「御存知なんですか!?」

「あ、いえ『御存知』と呼べるような、親しい付き合いでは全然ないんです。知り合った切っ掛けも何だったのか思い出せないくらいですが、ただ、旦那さんの姓が主人と同じ『董』だったので、何となく奥さんの事も印象に残っていて…」

「そうでしたか…それで、その酒家は瓦市のどの辺りに…?」

「旦那さんを随分前に亡くされ、それを機に店は畳んでしまわれたようです。ほどなく御街(ぎょがい)の方へ越したと聞きましたが、詳しい場所までは…何より風の噂に聞いた程度ですから、御街に越したというのも本当かどうか」

「そうですか…」


 開封の皇宮を守る宮城の南面には門が三つ置かれており、正門にあたる中央の門を宣徳(せんとく)門と言うが、その宣徳門からは南に向かい、まっすぐに大通りが伸びている。


 旧城、新城の各南面にも、それぞれ門が三つずつ置かれていて、宣徳門から続く通りは、旧城三門の中央・朱雀(すざく)門、新城三門の中央・南薫(なんくん)門を貫いて城外へと至る。


 その存在意義はもはや言うまでもない。

 普段、皇宮に御座(おわ)す陛下は、いざ親征なり行幸なりに際し、正にその通りを通御(つうぎょ)なされて、京師を出行(しゅっこう)遊ばされる。


 故に名を御街。


 李柳蝉達が歩いてきた通りを東西のメインストリートとするのなら、皇宮の正門に直結する御街は、正に南北のメインストリートと断じて過言ではない。


「何にせよ、今日はもういい時間だ。人を捜すのは日を改めるといい」

「そうですね。私も色々あって今日は疲れました。明日また、ゆっくり捜してみます」


 さしたる抵抗もなく王進の勧めを受け入れた李柳蝉に、勧めた王進のみならず、林冲も董博も内心胸を撫で下ろした。


 いくら御街が陛下の通御を担うとはいえ、そのためだけ(・・)に存在している訳ではないので、当然、通りの両脇には多くの商家や瓦市が建ち並び、平素から大変な賑わいを見せている。

 人が集えば、中には悪党や破落戸(ごろつき)もいて、おまけに日が暮れれば、酒が入って気が大きくなっている者もいて、騒ぎに巻き込まれる可能性は、考えるまでもなく日がある内より高い。


 そしてまた、人が群がる場所には昼には昼の、夜には夜の顔があるものだ。


 それ自体は他の瓦市でも似たようなもので、何も「御街だけが特別に」という事ではない。

 とはいえ、御街には良く言えば紳士の社交場、平たく言えばムフフで大人なお店が軒を連ねているような一角もあり、それがまた一層、御街の夜の顔を艶やかに、(きら)びやかに、毳々(けばけば)しく、毒々しく彩っているのだが、そんな御街を行き交う紳士達の本性となれば、それはもう生粋のエロ男爵と相場が決まっているのだから、それを知る三人が日も暮れようかというこの頃合いに、わざわざ女性の二人歩きを勧めようとは思うはずもない。


 頭にきたからと棒で打ち掛かり、癇に障る物言いをされたからとドギツいガンを返してしまう、李柳蝉の姿を見た後でなら尚の事だ。


「さて、じゃあ宿に行くか。送ってくよ」

「え?でも、わざわざ送っていただくのも…」

「何、俺らもあの通りを戻るから丁度、帰り掛けだよ。気にするなって」


 四人揃って店先へ出たところで、郭静と李柳蝉は見送る董博夫妻に改めて深々と首を垂れた。


「縁も所縁も無い私どもに多大な御厚情を賜りまして、本当に何とお礼を申し上げたらよいか…」

「いえいえ、手前は特に何も。強いて言えば、手前はただ商いをさせてもらっただけです。それよりも、足の痛みが引くまでは、くれぐれも御無理をなさらないようにお気を付け下さい」

「はい。御忠告、確と心に留めておきます」

「もし、この東京に身を落ち着けられるようでしたら、近くをお通りの際にでも、また気兼ね無くお立ち寄り下さい」

「有り難うございます」


 夫妻に別れを告げ、四人は梁門大街に向かって歩き出す。

 西の空では今しも落日が新城の女牆(ひめがき)に掛かろうとし、すでに通りは影に包まれようとしていた。


 と、思い出したように林冲が、


「あ、そうだ。お嬢ちゃん、気が向いたらでいいんだが、落ち着いたら(ウチ)へ遊びに来ないか?」

「…はい!?」

「賢弟。お前、自分で何を言ってるのか分かってるのか?まだ正式に小蘭を娶ってもないのに、張師範に知られたら──」

「…あっ!!いやいや、今のはちょっと言い方が悪かった!っていうか、師匠も人聞きの悪い事を言わないで下さいよ!」


 林冲には美貌の許嫁がいる。

 姓を(ちょう)、名を雪蘭(せつらん)

「小蘭」というのは、李柳蝉が周囲から「小蝉」と呼ばれるのと同じで、愛称のようなものだ。


 父の(ちょう)(とう)は禁軍で弓術師範を務め、言ってみれば王進や林冲とは同僚にあたる。

 その美貌のせいか、或いは御多分に洩れずと言うべきか、はたまた一人娘であるからか、ともかく張雪蘭は張統から溺愛され、蝶よ花よと育てられた生粋の箱入り娘だ。


 張統から娘の結婚相手について相談された王進が、三十路を前に独り者だった林冲を勧めた事が切っ掛けで二人は知り合ったのだが、そこで互いに互いを見初め合い、仲は(すこぶ)る良い。


義父(おやじ)殿(張統)の親バカが過ぎて、碌に雪蘭を表へ出さないから、話し相手にどうかと思っただけですよ。お嬢ちゃん一人で勝手に向こうの家を訪ねてくれ、とは言えないでしょう?」

「ああ、そういう事か。普段は一言多いクセに、肝心な時に言葉が足りんな、お前は」

「あの…雪蘭、さん?というのは…?」

「んん、俺の許嫁でな。今年で18になるんだが…お嬢ちゃんも見た感じ歳は近そうだし、そういう話し相手がいれば、お嬢ちゃんだって何かと相談したりも出来るだろ?」

「それは確かに嬉しいですけど…」

「まあ、よくよく考えてみれば、賢弟にそんな甲斐性は無いか」

「…それは『褒められた』と受け取っても?」

「好きにしろ。それにそんな節操無しなら、そもそも小蘭が見初める訳もないしな」


 李柳蝉の胸がチクリと疼いた。

 無論、王進に他意はない。が、何やら「そんな節操無し」に見えなくもない相手に想いを寄せていた、自分が小馬鹿にされたような気がして、気恥ずかしくもあり、腹立たしくもあり…


「ん?どした、お嬢ちゃん?」

「あ、いえ…えと、お宅へ伺うのは構いませんけど、林副師範のお宅は城のどの辺りになるんでしょう?」

「こっからだと、あーっと…御街を南へ向かって、麯院街(きょくいんがい)の手前を──」

「あの、地理に不案内なんですが…『麯院街(きょくいんがい)』って?」

「あ、そか、んーっと…宮城の南にある大通りを南に向かって暫く進むと汴河があって、橋を渡るとその内、右手に大きな通りが見えてくるんだが、その手前を…説明すんの難しいな…うん、落ち着き先が決まったら董将士にでも知らせといてくれ。俺が訪ねてくから」

「いえ、そんな御足労を掛けては申し訳ありませんから。それでその麯院街(きょくいんがい)の手前を…?」

「んん?んーっと…」

「…もしかして、自分で誘っておきながら説明がメンドいとか?」

「コラ、柳蝉。お前はまた──」

「…御説明がお面倒臭くてあらっしゃいますか?」

「おめ…何て!?」

「柳蝉!」


 まるで遠地の兄と、その兄を久しぶりに訪ねてきた小生意気な妹との掛け合いでも見るかのように、二人の様子を楽しげに眺めていた王進は、


「まあまあ、御令閨。そう目くじらを立てずとも」

「ですが…林副師範、申し訳ございません」

「ああ、いや、別に…」

「この()がまだ幼い頃の流行り病で、家族は私とこの()だけが遺されてしまいまして、村の保正(ほせい)(村の顔役、村長)の屋敷で下働きをさせていただく傍ら、この()も大層可愛がっていただきましたが、あまりにも甘やかされ過ぎてしまったものですから」

「もしや、その保正には実の娘さんがいらっしゃらないのでは?」

「ええ、まあ」

「はは、それでは仕方がありませんよ。先ほど話に上がった拙弟の許婚も一人娘ですが、傍目にも呆れるほど可愛がられていましてね。何処の家でも『男親』というのはそういうものです」

「はあ…」

「それに言葉が過ぎるのは拙弟も同じですから。寧ろ存分に言い負かして、鼻っ柱をへし折ってやってほしいくらいです」

「そんな畏れ多い…ただでさえこの()は気が強くて、人様と話しているのを見る時はヒヤヒヤさせられているというのに、これで王師範のお墨付きを頂いたなどと勘違いでもされたら──」

「あー、いえいえ、そういうつもりでは。まあ、これでも一応、副師範の肩書きを持つ身だし、そこへ喰って掛かる姿を見れば、眉を(ひそ)める者もいるだろうから、人前では程々にな」

「師匠、俺の肩書きはいつから『一応、副師範』になったんですか?」

「はい。御忠告、有り難うございます。人前では気を付けます」

「お嬢ちゃん?人前以外でも全然、気を付けてもらっていいんだぞ?」


 それをまた王進がくつくつと笑いを堪え、郭静が李柳蝉を窘めてとする内に、どれほどの間もなく四人は梁門大街へと出た。


「お二方。今日は本当にお世話になりました」

「お?何だ、お嬢ちゃん。やれば出来るじゃないか」

「それに引き換えお前は…」

「俺が何ですか?師匠」

「何でもない、察しろ」


 暮れなずむ通りで暫し談笑の後、四人は別れを告げる。

 去りゆく王進と林冲の姿が人波に飲まれて見えなくなるまで見送ってから、李柳蝉と郭静は宿へ入った。

※1「没毛大虫」

「大虫」は「虎(老虎)」の意で「没毛」は当然「毛無し」。人に対する綽名(あだな)で「毛無し」というと、どうも「薄毛」や「ハゲ」のイメージになってしまいますが、この「没毛」は「大虫」を形容しているので「毛皮を纏っていない虎=人の姿をした虎」的なニュアンスではなかろうかと。

※2「悪事千里を行く」

『北夢瑣言(六)』。原文は『好事不出門、惡事行千里』。「文○砲はすぐバズる」的な事。第二回「錦毛虎」後書き参照。

※3「取るべき時に取らず、後になって後悔するな」

中国の成語、諺。「當(当)取不取、過後莫悔」と書き、意味は読んで字の如しですが、字句を変えた似たような意味の成語が色々あるようです。『水滸伝』にも第15回に本文の成語が、第86回には『當取不敢、過後難取(取るべき時に勇気を出して取らないと、後からでは取るのが難しくなる)』とあります。

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