霞中の少年
初投稿です。
末永く御愛読いただければ幸いです。
章回タイトルの語句については、その章回の最初の「前書き」に説明を記載します。
本文中の語句(※印)についての説明は、その都度「後書き」に記載しています。
「楔子」
序章。プロローグ。
白い、ただただ白い世界に、その少年は漂っていた。
しかし、そこは何も無い、所謂「無」の世界ではない。
ややもすれば、指先ですら視界から消え失せてしまうほど、深く濃密な雲霞の世界。
その一面の深い霧の世界に、肩の下まで伸びた黒髪、対照的に周囲に溶け入ってしまいそうな白い肌、整った眉に涼やかで艶やかな目元、すらりと通った鼻筋に紅く薄い唇、つまりは「美少年」と呼んで一片の憚りもない絶佳の容貌を携え、少年は揺蕩っていた。
年の頃は15、6歳。あどけなさが残ると言うよりも、あどけなさの中に少年から青年へと変わりゆく兆しが徐々に現れ始めた、そんな面立ちを携えて。
暫しの間、あお向けに身動ぎもせず瞑目していた少年は、やがてそれに飽きたかのようにゆっくりと目を開く。
普通、目が覚めて、突如、白濁の世界に放り込まれていたら、大なり小なりの動揺や狼狽はあっても良さそうなものだが、この少年にそんな素振りは微塵もない。
まったりと目を擦りつつ、ゆったり身体を起こすと、気だるげに辺りを見渡して、ぼそり独り言ちた。
「夢か…」
少年はよく夢を見る。
いや、夢ならば誰しもが見る。
その誰しもと少年が違うのは、夢の世界が色彩豊かである事、目覚めてからも夢の内容を克明に覚えている事、そしてその夢のバリエーションが豊富である事だ。
ある時は長方形の芝生の上で20人ほどの男達が一つの球を蹴り合い、それを囲むように造られた楕円の観客席で、数万人の観衆が熱狂している様子を──
ある時は見渡す限りの平原で、数千、数万の軍勢が激突し、雌雄を決する様子を──
ある時は地上を闊歩する、巨大な蜥蜴とも龍ともつかない生物が他を蹂躙し、補食する様子を──
肉体が覚醒し、現実の世界に引き戻されるまで堪能する。
夢の内容は、時につまらない物も無いではないが、多く刺激的ではあった。
しかし、それらが実際に起きた過去の出来事であれ、未来に起こり得る出来事であれ、いや、いっそ今までに観た夢の全てが、単なる空想の産物だったとしても、少年にとって大した意味はない。
少年の住まう現実世界の常識とは掛け離れたそれらを、過去の追究やら未来への警鐘やらと、高尚なお題目を添えて声高に訴えてみたところで、迎える結末は生暖かい眼で同情されるか、白い眼で見られるか、或いは全く相手にされずに終わるかのいずれかであろう。
というか、その程度で済んでくれれば、よほどマシである。
もしそんな事が知れ渡り、まかり間違ってお上から「妖言を用いて人心を惑わす者」認定などされようものなら、明日の朝日だって拝めるかどうか分からない。
大体、そういった事は為政者や学者、卜者といった類いの領分であって、そんな輩は少年の生きる現実世界にも、有象無象を合わせて腐るほどいる。そこへ割って入る必要もなければ、そもそも入り込む余地すらないのだから、夢の中身についてあれこれ頭を悩ませてみたところで、時間をドブに捨てるようなものだ。
少年にとって重要なのは夢の中身ではない。「その中身を克明に覚えている」という事実の方だ。
そして現実世界に戻った後、知り合いの女の子達を相手に面白おかしく披露し、キャッキャウフフな楽しい時間を過ごせさえすればそれでいい。
だから今、差し当たって少年の脳裏に浮かぶ事といえば──
「これじゃあ喋る事がないな…」
霧は一向に晴れる気配もなく、少年を包み込んでいる。
頭をポリポリと掻き、このまま目覚めて現実世界に引き戻されるのを待っていても仕方がない、と少年は立ち上がった。
【んー…「立ち上がった」って言うのかね、コレ?
大体、足下に地面が無い…てか、霧が濃すぎて、そもそも膝から下が見えてませんけど、何か?
「立つ」ってのはさぁ、地面に足が付いてるからこそじゃん?一応、仰向けから「立って」はみたけど…てか、コレもしかして宙に浮いてんじゃね?って事は「立ち上がった」って言わなくね?
…うん、まあいっか、保留で】
などとまあ、現在置かれている状況を考えれば益体もない事を思いつつ、少年は取りあえず視線の先に向かって進んでみる事にした。
「立つ」の定義を云々する以前に、景色もへったくれもない白一色の世界では、あお向けなのか直立なのか、ともかく今の姿勢を正しく把握する方が先決だと思うんですがね。
素振りがないだけで内心は動揺しているのか、それともキャッキャウフフな時間の事しか頭にないのか、少年にとってそんな事は大した問題ではないらしい。
まあ、たぶん後者だがww
それはさておき、自分の夢の中であるから、当然、移動など少年の思うままだ。壁をすり抜けるくらいは朝飯前、面白半分に地中深く潜った事もある。
そんな環境でわざわざ歩く必要もないのだが、意識すれば地を歩く事もできるし、天高く舞う事も自由自在だ。
そうして少年はこれまで、実に様々な風景をその目に収めてきた。
中でもとりわけ強く印象に残っているのは、過去にたった一度だけ、この世界に生きる自分と遭遇した時のものだ。
現実とも空想とも、過去とも未来ともつかない世界へ無作為に招かれる中、自分が生きる時代、住んでいる国を訪れる偶然。
それがやけに嬉しくて、誰と祝う訳でもないのに「その記念に」と大地から、そして空から記憶に留めた、自分の屋敷や周辺の景色を、少年は今も鮮明に覚えている。
しかし、それをもって「自分の夢が現実と紐づいているのではないか」などとは、少年は露ほども思っていない。
夢の舞台に少年の暮らす国が選ばれる事自体はさほど珍しくなく、今までにも何度となくあった。
人々の営みがほとんどない原初の時代、そこから各地に集落が生まれ、都市が生まれ、それらを束ねる国が形成され、栄え、滅び、また新しい国が形作られていく。その様を夜な夜な観察した事もある。
一つの「物語」として観るのであれば、まだ興味も持てようが、それが史実に沿っているか否かなど、そもそも興味がない上に、検証のしようすらない。
むしろ「興味」という点からすれば、空想の世界と思しい景色の方が、よほど少年はそそられる。
雲を衝くほどの高層建築、火を吹く翼を持った巨大な金属の鳥、超高速で移動する金属の箱、夜になれば炎ではない明かりが煌々と都市を照らし、街路には投光する両目と四つの黒い車輪を持つ箱が、人々を乗せて列を成す。
その世界はあまりにも少年の知る現実と乖離し過ぎていた。「たとえどれほどの年月を経たとしても、その次元に現実が辿り着く事は絶対にあり得ない」と断言してもいいほどに。
だが、そんな刺激的な世界と比べれば、事実ではあっても、穏やかで有り触れた日常の一齣など、無味乾燥の退屈な世界以外の何物でもない。
その世界にも少年が見知った言葉が満ち溢れていた。まあ、読めて聞き取れはしたものの、その大半は持てる知識をどう振り絞ったところで、理解の及ばぬ内容ではあったのだが。
しかし、それこそ少年にしてみれば「だから何ですか」という程度の話であって、いよいよ興味の欠片もない。
自国の姿とは似ても似つかない、未来の姿とは尚、思えない世界に、言語がどうとか、過去や未来がこうとか、現実世界の常識的な疑問を持ち込んだところで、まともな答えなど得られる訳がない。というか、そんな疑問を持ち込む方がどうかしている。無粋の極みもいいところだ。
結局のところ、少年にとっての夢は日替わりの籤のようなもので、籤であるから当然「アタリ」もあれば「ハズレ」もある。少年だって「ハズレ」を引くくらいなら「アタリ」を引いた方が嬉しいに決まっているのだから、幼い自分や父母との邂逅という「アタリ」を引けば、舞い上がるほど喜び、強く印象に残るほど嬉しいに決まってはいるのだが、それは「アタリ」だったから嬉しいのであって、現実か否かが問題なのではない。
「アタリ」ですらそんな按排なのだ。「ハズレ」に至っては何をか言わんや、である。
仮に、明らかに現実と分かる世界が夢に出てきたところで、その日は「たまたまそういう日だった」という結論にしかなりようがない。
──まあ、要するに話のネタになる程度に面白ければ、何でもいいのだ。
そんな愚にも付かない事をダラダラと考えながら、少年は延々と続く白濁の世界を目的もなく進む。
理由は単純明快、他にする事がない。
霧は今も深く、相変わらず少年の周囲には白以外の色が一切無い。少年が天に向かって昇っているのか、地に向かって落ちているのか、或いはそのいずれでもないのかも分からない状態がしばらく続いた。
「…痛ぁっ!!!!」
僅かに前傾姿勢を取って空中を飛行していた少年は、唐突に「ゴチーン!」という効果音が飛び出さんばかりの勢いで、額から「何か」に激突した。
それなりのスピードで飛行しながら、全くの無防備で突っ込んでしまったため、少年の身体は勢いもそのままに、その「何か」にへばりついてしまっている。
「…ぃ痛つつぅ」
少年はそこにある「何か」から身体を引き剥がすとその場に蹲り、それはもう火が出るほどの勢いで額を摩りながら、この世界で初めて行動を制止された事と、それすらどうでもいいと思えるほどの痛みに混乱する思考で、現状を整理していく。
少年の脳裏をまず掠めたのは、現実世界に置き去りにされている自分の身体に何かあったのだろうか、という事だ。真っ先にそれが思い浮かんだのであるから、先ほどの衝撃がいかに強烈であったかは想像に難くない。
しかし、すぐにそれが今、この場で確認できない事に思い至る。
現実世界で目覚める以外──つまり、自分の意思でこの世界から脱する術を、少年は未だに知らない。そして少年の経験則によれば、そもそもこの世界と現実世界の感覚は、おそらくだがリンクしていない。
親代わりである伯父に「起きるのが遅い」と頭を引っ叩かれ、夢の世界から引き戻された経験が、少年には何度もある。が、現実の世界で叩かれた衝撃が頭に残っていた事はあっても、目覚める前にその痛みを感じた事は、記憶の限りない。
という事は、今ここでどれだけ思い悩んでみたところで、辿り着くゴールは「目覚めてからのお楽しみ」一択だ。
「夢の世界から戻った少年は、取るものも取りあえず、足早に九泉(※1)の下へ旅立って行きましたとさ」では笑えないにもほどがあるが、といって今、少年に何ができるのかといえば、精々「五体満足で無事に目覚めてくれ」と切に願うくらいしかない。それが分かっていながら、いつまでもそこに拘うのは、はっきり言って時間の無駄無駄無駄である。それで何が解決される訳でもない。
だが、解決も検証もできない問題はともかくとして、こちらの問題はそう簡単に「さておいて」という訳にもいかない。
それはすでに少年が体感し、この世界における少年の常識を一変させた、極めて重要な問題。
即ち、この世界でも触覚と痛覚が働いている──という事実である。
幾分痛みも引き、思考回路も何とか正常に戻ってきたところで、少年は改めて考えてみた。
【この世界で俺は傍観者だ。
いや、まあ今となっては傍観者だったって方が適当かもしんないけど…
ともかく、物心が付いてからこの方、興味本意で色々試してみたけど、一度だってこの世界に干渉出来た事なんてないし、こっちの世界から影響を受けた事もない。そもそも、こっちの世界の住人には、認識すらされてないんじゃないの?
大体、地面を歩くのだって、正確に言えば「地面すれすれを歩くように移動」してんだよ?自分じゃ地面の高さに合わせて歩いてたつもりが、いつの間にか足首まで地面に埋まってたり、歩きながら周りに気を取られてた所為で、気付いたら「壁の中にいる」状態になってる事だってしょっちゅうだし。
要するに「意識すれば歩く事が出来る」ってのは、言い換えれば「意識してなきゃ歩くことすらままならない」って事じゃん?俺の存在感なんて、この世界じゃそれくらい極薄なんだから、何かに触れるとか、況してそれで痛みを感じるなんて論外…だった筈なんだけどなぁ。
一体、何にぶつかったってんだよ…】
少年がまだ残る痛みに顔を顰めながら、両手を前に差し出し「何か」に触れる。だが、霧で朧気な指先にその「何か」は見えない。
それはそうだ。激突し、その「何か」に張り付いていた時でさえ、少年はそこに「何か」がある事になど、気付きもしなかったのだから。
一応、周囲の霧と同化した白い壁が聳り立っているんじゃないかとも考え、少年は両手の感触を頼りに恐る恐るその「何か」に顔を近付け、注意深く観察してはみたものの…やはり何もない。
「透明な壁、って事ね…」
右にしばらく進むがその壁は途切れない。左も同じだ。
どうしたものかと逡巡した少年は、やがて頭と爪先の位置を入れ換え、右手で見えない壁を伝いながら下へ下へと進み始める。
理由は単純、上空に果てはないが、直下には地があるはずだからだ。
無論、景色が全く見えない現状では、元々の少年の足下が「下」であるという保証や確証など、どこにもないのだが。
だから、姿勢を把握するのが先だと、あれほど…
どれほど進んだろうか、少年の背丈の十数倍、いや、数十倍か。
進むほどに霧は徐々に晴れ、やがて少年の目に飛び込んできたのは、一直線に並ぶ茶色の帯。そして──
見えない壁から手を離し、再び頭を上にした少年が、その帯状の物体を僅かに避けて下り立ったのは、紛う事なく大地だ。
「立った」とは言うものの実際は…いや、そんな事はこの際どうでもいい。
「…目隠し、か?」
霧はだいぶ薄くなり、視界は10mほどあるだろうか。
少年の視界には目の前に連なる石壁と足下の大地のみ。その石壁は右へ、そして左へと進んだ先で霧の中に溶け込んでいる。
石壁の高さは2mを僅かに超えるほど。少年が知る一般的な城壁のように堅牢な物ではない。そして様式も全然違う。
壁の上には庇を持った木製の屋根が置かれている。少年が上空から目にした帯は、この屋根が連なっている様子だったようだが、女牆(※2)ならいざ知らず、屋根を持った城壁など少年は見た事も聞いた事もない。
物は試し、と少年はその石壁に手を突き入れてみたが、僅かに手が壁に埋まったところで、見えないもう一枚の壁に阻まれた。そのまま手を下に滑らせてみるが、見えない壁は地中にまで続いているようだ。
少年は石壁の屋根上へ。
見えない壁は屋根の中央、丁度、水はけのため山型に勾配が付けられた、その頂点付近から上空に伸びている。屋根そのものは、見えない壁に手を伸ばして触れると足が屋根から外れてしまう、申し訳程度のサイズ感。
先ほどは白濁の世界に、初めて景色と呼べる物が現れた事に気を取られて気付かなかったが、少年が改めて壁の向こうに視線を向ければ、石壁に沿うように菜園が造られていた。
僅かに霞んで曲がりくねった松や直立する檜、微かに揺らめくのは柳だろうか、それらが密集とは言わないまでも菜園の奥に立ち並び、更に奥には漂う薄靄の中、いくつかの建物が木々の隙間や上から朧気に顔を出している。
少年が立つこの石壁は、どうやら外壁のようだ。
「仏寺か、道観(※3)…かな?」
霧の中、目に見える範囲の情報を自らの常識と照らし合わせ、少年はそう結論づけた。
「…?」
しばらく景色に見入った後、少年はふと違和感を覚えて小首を傾げ、そのまま固まってしまう。
「では、何処が?」と自問しても、上手く説明ができなかったのだ。
強いて言葉にすれば「何となく」としか言えないような、単なる「気の迷い」と自分を誤魔化せる程度の微かな違和感。
その答えが出そうで出ないもどかしさに、少年はしばらくの間、納得のいく答えを捻り出そうと、腕を組んだり、右へ左へ頭を傾けてみたりと奮闘していたのだが、そうこうしている内に、今度は決して気の迷いなどではない、この世界での新たな初体験を自覚し、あるかどうかも分からない違和感の方は一旦、胸の奥にしまい込んだ。
「少し…寒い?」
少年がこの世界に来る時は、常に寝た時の衣服のままだ。今までそれで不便に思った事は一度もない。
灼熱の溶岩が迸る火口で、或いは全てが雪と氷に閉ざされた地で「暑そう」「寒そう」と思った事はあっても、実際に「暑い」「寒い」と感じた事は皆無だ。
「一体、何なんだ今日は…」
身震いするほどのものではない。
しかし、今、少年が抱いている感情を言葉にするとすれば、やはり「寒い」と表現する以外にない。
目に見えぬ壁といい、まだ頭に残る痛みといい、微かに感じる寒さといい、少年の胸に言い知れぬ不安がよぎる。
【どうすっかな。このままココに居ても大丈夫かな…
「自分の意思でこの世界から抜け出せるか」って聞かれたら、そりゃあ答えは「否」だけどさ。でも、この場から離れて、現実に戻るまで霧の中に隠れてれば、とりま何かあっても関わらずには済みそうじゃん?
この世界で過ごす時間が、現実で寝てる時間と同じなのかはよく分かんないけど、こっちで数日を過ごした事はないし、何日もずっと隠れっ放しって事にはなんない筈だよな…】
少年はもう一度辺りを見渡す。目に見える変化はない。
意を決したように右手で見えない壁を伝いながら、少年は外壁の上をゆっくりと進み始めた。
少年に「この世界の謎を解き明かそう」などという気は毛頭ない。少女達との会話の事など尚更、今はどうでもいい。
それでいて、なぜ初めての事だらけで不安を抱き、この世界とは関わらずにいられそうだと分かっていながら、霧の中に身を潜めなかったのか。
少年自身にもその答えは分からない。
単なる好奇心か、或いは定められた運命か。
ただ、もしもこの先、この時の事を語るのであれば、そして、なぜこの施設から離れなかったのかと問われる事があれば、きっと少年はこう答える。
目に見えない何かに導かれたからだ、と。
少年は恐る恐る壁の上を進む。
それほど長い距離を移動する間もなく、視線の先、薄靄の中に、うっすらと「それ」は浮かび上がってきた。
その姿がはっきり確認できるほど間近まで進み、少年は立ち止まる。
門だ。
外壁よりも少し奥まった所に置かれたその門は、外壁の倍ほどの高さがあろうか。
簡素な物では無論ない。しっかりとした造りだ。
だが、豪華な装飾も色鮮やかな彩飾もなく、豪奢とは程遠い。むしろ質素な部類に入るだろう。門口の幅は3~4mと言ったところか。
門へと曲がる外壁の角に立ち、その出で立ちを見遣ると少年は呟いた。
「道観か…」
少年が仏寺に、或いは道観に対して特段に深い造詣を持つ、という事はない。とはいえ、全くの無知という訳でもない。
後者に至っては、普段から銀細工の露店の真似事をし、持ち前の美形を餌に少女達とキャッキャウフフな時間を過ごすため、ありがたく門前を利用させてもらっている。
全く知らないなどと言えばバチが当たる。
だが、一目見ただけで少年が道観と断じた根拠は、実のところ門の外観云々とは別にあった。
門には外壁のそれに数倍する屋根が置かれ、その下には牌額(※4)が掛けられている。
『上清宮』
「宮」が道観の大なる物を称する際に用いられる事を少年は知っていた。
何の事はない、タネを明かせばこの「夢の国」でも少年の見知った文字が使われていた、というだけの話なのだが、その名前自体の聞き覚えは少年にない。
両開きの扉を持つ門は幽玄の趣を纏い、静かに佇んでいる。
そして、まるで少年を招いているかのように、両の扉を内側へと開け放っている。
少年は震える右手をそっと「見えない壁」に押し当てた。
それは変わらずそこに在る。
何者をも拒むかのように。
何者をも逃さぬかのように。
※1「九泉」
死者が訪れる場所。黄泉の国。
※2「女牆」
城壁上の平坦部の端に置かれる背の低い壁。外部の様子が窺えるよう高さに凹凸をつけたり、身を隠したまま攻撃できるよう銃眼を設けたりする。「胸壁」とも呼ばれる。
※3「道観」
道教の寺院。
※4「牌額」
施設の名称などが書かれたり彫られたりしている木の板。看板。