さとり
「依頼をしたいの。君に直接でいいの?」
昼下がりの学食で平和にカレーを食っていた俺の前に、前髪パッツンにして黒づくめの女子が立った。⋯カラーン、とスプーンが落ちる音が響き渡った。
「⋯⋯あんた」
⋯⋯何だっけ。名前が出てこない。静流の高校時代の同級生で数ヶ月前に静流を拉致して死んだ元彼に嫁がせようとした、霊が見える、あの⋯⋯。
「金城。金城音羽」
女子はため息と共に名乗りを上げた。そう、そうだ金城音羽だ。静流を拉致して、親友が裏切った直後、崖から落ちて亡くなるという最悪の体験を共有して、もうお互い二度と会いたくない筈だ。
「⋯⋯⋯何故」
「⋯悪かったわよ。あんな事した連中の一人と会いたくないよね」
そう呪いのように呟いて、切り揃えた前髪の隙間からじっと凝視してきた。背中がぞくりとする。
「別に⋯根に持ってるとかでは⋯」
慌てて目をそらす。あまり長いこと目を合わせていると呪われそうだ。
「じゃあ、依頼を受けて貰えるの?」
「えっ⋯あのさ、まだ開業とかしてるわけじゃ⋯準備中で⋯」
「今泉から聞いたんだけど、もう何件か依頼受けてるって」
―――あいつ、顔広いにも程があるだろう。
「身内だけだよ⋯まあ、ひとまず相談に乗るくらい、なら」
埒があかないので、話を聞くだけ聞いてみることにした。
「学校帰りに、四辻駅の高架下で『仕事』しているの」
「へぇ⋯ラーメン屋?」
この間通りかかったら、バイト募集の貼り紙を出していた。
「違う!⋯この私が、ラーメン屋で働くとでも!?」
「⋯いや」
接客ダメそう。
「高架下の『エキセントリックゾーン』で、占い師をしているのよ」
「⋯あそこで?」
たしか高架下の空きスペースだ。地域振興の為、若い人達に自由な発想で使ってもらいたいという行政のサービス精神で解放されている。『駅』に掛けてエキセントリック。命名は多分おっさんだろう。
昼はキッチンカーが屯しているが、夜になると占い師がパーテーションやら天幕やらで軒を連ねている。俺は行ったことがない。
「タロット占いで出店しているの。ファンもついた。なにしろ私は」
他の人より『視える』から。そう言って小さく笑った。適性を活かしたバイトで稼いでいるというわけか。
「でも最近、少しおかしい占い師が現れた。私の客も、他の人も、ほぼその占い師に吸われたの」
「え、それは⋯その、つまり⋯商売敵を追い出せと?」
無理だぞそんな力技。
「君にそんなの期待してない。ただ、気になるのよ。その占い師」
「急に人気になった理由?」
探偵っぽい仕事か。
「人気の理由は分かってる。驚異的に当たるからよ」
音羽の向かいのブースに店を構えた占い師は、客が目の前に座るなり『職場の人間関係に、悩みがある』『婚約者の素行に、不安がある』『転職を考えている』など、悩みの内容を当てるのだ。
「当てられた人はビックリするの。評判は評判を呼んで、私の向かいは長蛇の列だわ」
身体中から怨念のような黒い煙が立ち昇って渦を巻いている。学食の片隅が凄いことになっているが、見えているのは俺だけなのだろう。あぁもう怖い。この子以外の『視える人』は居ないだろうか。誰か俺とこの怖さを共有してくれ。
「貴方には、あの占い師が一体何者なのか、見極めて欲しいの」
「⋯⋯⋯場所変え」「私は逃げないわ!!」
彼女が椅子を蹴って立ち上がった。⋯あぁもう、興奮しやすい子だなとは思っていたが何これ、俺何に巻き込まれているんだ。黒い渦など見えなくても俺達は学食で注目の的だ。地雷系メンヘラ女子にブチ切れられる拝み屋コンビの片割れ。俺の大学での評判はどうなっていくのだろう。
「エキセントリックゾーンではみんな、うまくやってたわ⋯互いのやり方を尊重し合って!互いへのリスペクトがあったの!それを⋯あの新入りは!!」
何かを思い出したのか、彼女は更に激高し始めた。
「私たちには神聖な場所なの!新人が穢していい場所じゃない!!」
「あそこ10年前位まで小便横丁」「サンクチュアリなの!!私たちの!!」
学食でこれ以上騒ぎを大きくしたくないのとキレっぷりに疲弊したのとシンプルに有耶無耶のうちに、この依頼を受けることになった。
久々に、すっかり冷たくなった玉群神社への石段を登る。マヨイガの近所で見つけた和菓子屋は無名だが、そこそこ美味かったので最中と豆大福を少し買っていってやる。どうせまた『甘味はどうした』と言われてさっさと手土産催促されて俺ほったらかしで本でも読むことだろう。そう思いつつ石段を踏んでいると、境内の方から何かくぐもった音が聞こえてきた。
「くっくっく⋯くっくっくっく⋯⋯」
―――あいつ、出迎えにきた上に笑ってやがる。
いつもより笑い時間が長い。上機嫌⋯なのか?
「3分遅刻だねぇ⋯」
「いや怖ぇよ。3時『くらいに』行くと言ったのに」
「くっくっく⋯くっくっくっく⋯」
最中の袋をうやうやしく受け取ると、奉は軽い足取りで洞に戻っていった。
「⋯なるほどねぇ、凄腕の占い師に客奪われまくってメンヘラ地雷女が学食でブチ切れ」
「身も蓋もないがそうだよ」
薄暗い洞の中は相変わらず本が筍のように積み上げられている。中央のちゃぶ台には既にぬるめの茶が置かれていた。きじとらさんに軽く礼をすると、少し首を傾けるようにして笑ってくれた。奉は歩きながら最中を頬張っていて、座りながら二個目の最中を剥いていた。
「で?受けるのかその依頼」
「また学食に乗り込まれたらもう学校行けねぇよ⋯ただ、俺もさすがに慎重になっている」
今まで散々危ない橋を渡らされたのだから慎重にもなる。
「だから今日は⋯あ、来たみたいだ」
携帯が鳴り、静流からの「いまついた♪」というLINEが表示された。きじとらさんがぴくり、と身動ぎをして立ち上がり、岩戸へ向かった。
「⋯なんか最近きじとらさん、静流好きな」
「静流を呼んでいたのか」
「ヤバい依頼が多いからな。命に関わる場合もあるし、事前に静流に視てもらう」
「あの⋯お邪魔します⋯」
きじとらさんに手を引かれ、静流が入ってきた。芥子色のパーカーに白いワンピースを合わせた、最近お気に入りらしいスタイルだ。綿のワンピースをふわりと広げて俺の隣に座ると、きじとらさんがワンピースに覆われた膝の上に手を乗せて首を傾げて静流を見上げた。
「⋯来ますか?」
そう言って笑うと、きじとらさんがぐにゃりと脱力したように膝に寝そべってしまった。
―――なにこれ。
「マヨイガとか、由彦君の事で皆が一斉に洞から離れて、きじとらさん疲れてたみたい。たまに呼ばれて、お膝を貸しに来てたの」
「―――へぇ」
「くっくくくく⋯まさかの百合展開だねぇ⋯」
いやまさかそんな⋯まさかだよな?
「もう、玉群くん⋯それより、依頼の話⋯だよね」
「うん。危険はなさそうかな?」
「多分大丈夫⋯だと思う。あ、成功とか失敗とかは分からないよ?」
「命に危険が無ければ大丈夫、練習みたいなものだから⋯心を読むというから、今回も今泉を連れていこうかと」
「駄目だよ、今泉君は」
不意に静流の声が強くなった。膝で寝そべっていたきじとらさんも、ふいと顔を上げた程に。
「⋯⋯え?」
「分からないけど、今回は今泉君だけは駄目。彼をその占い師に会わせたら」
今度こそ今泉君、戻ってこないよ。そう言って静流はきじとらさんの髪をサラサラ撫でる。きじとらさんはゆっくりと首を落として軽い寝息を立てた。
「⋯⋯その占い師に、今泉が何かされるのか」
「ごめんね、何をされるのかまでは分からないの。ただ私達は二度と今泉君に会えなくなるよ。⋯私達は大丈夫」
「俺達は大丈夫⋯ねぇ。ならばタブーは今泉のように『心を探る』行動だな」
奉が顎に手を当てて空を睨んだ。
「ならば尚更、接触の前に情報が欲しいねぇ。⋯飛縁魔にでも頼むか。静流、心を操る方はどうだ」
「特に危険な感じは⋯え、なに?何でそんなに見るの?」
静流が困ったように身動ぎした。膝で寛いでいるきじとらさんを、奉がじっと凝視している。
「⋯⋯⋯まあ、いい。少しの間、きじとらを頼む」
そう言って奉は、俺を促して洞を出る支度を始めた。
静流が不可視の足音に狙われた夜、何故か三人で過ごした喫茶店で俺たちは飛縁魔を待っていた。
「⋯⋯何でだ」
玉群の本家に入り浸っている飛縁魔に、用事があると声を掛けたところ『じゃ、アーケードの喫茶店で聞くわね』と言われて渋々件の喫茶店へ赴いて飛縁魔を待っている、俺たちだ。
「俺の元部屋でちゃちゃっと打ち合わせればいいものを何故⋯」
プリンアラモードをつつきながら奉がぼやいた。俺もてっきり本家で話を済ませるつもりでいたのだが『お仕事の話は、家庭に持ち込みたくないのよねぇ』などとマイホームパパのような事を言われたのだ。
「飛縁魔は家族の一員気取り、静流は猫の飼い主気取りかい⋯続々と奪われつつある我が居場所」
ちらり、と目を上げて俺の方を見る。
「俺もマヨイガに住もうかなぁ」
「それいいな。お前が次の主。俺は実家に帰る」
「くっくっく、大邸宅ゲットだねぇ」
「あら、大邸宅のお話?」
キャバ嬢のように着飾った飛縁魔が、艶然と微笑んで俺たちを見下ろしていた。
「お前やめろよ⋯同伴出勤みたいだろうが」
奉がイラついたように飛縁魔を睨みつけた。零れそうなミルク色の胸元に単純に鼻の下が伸びつつあった俺は慌てて眉に力を込めて居住まいを正した。
「きゅ、急にお呼び出ししてすみません!」
「ふふ、そんな力まなくていいのよ、大邸宅の家主さん」
「気をつけろ結貴、マヨイガに入り込まれるぞ」
あっぶねぇ。
「で、例の占い師?」
俺の隣、すなわち奉の正面に座ると、ショールをするりと外した。⋯めっちゃいい匂いがする。
「出来れば客としてではなくて身内として入り込んでもらって、どんな人なのか探ってもらえないかなと」
「あー、それ無理」
飛縁魔が、手をひらひらと動かした。⋯注文と間違えた店員が寄ってきてしまった。
「え?えーと⋯じゃ、彼と同じものを」
向かいの『彼』を指さす。
「かしこまりました。デザートセットでコーヒーとプリンアラモードですね」
「えぇ⋯ごめん、やっぱりモンブランがいいわ」
「モンブランで」
店員が去っていったところで、飛縁魔が苦笑いを浮かべた。
「やっぱ和梨のサンデーがよかったな。⋯あの占い師なら、もうアプローチしてるのよ」
「まじで?仕事早」
「まぁ話題だし?縁ちゃんが興味持っちゃって、今度視てもらうとか言うから心配じゃない。入り込んで探ろうとしたんだけどね⋯あれ、人じゃないわ」
「⋯⋯え」
「あの占い師、見た事ない?」
「まだ見てないんだよ」
「表でフード被って水晶覗いてそれっぽい雰囲気出して座ってるのは人間よ。でも彼女のブース、異様に狭い」
「⋯そういうブースなんじゃなく?」
モンブランとコーヒーが運ばれてきた。全体に和栗のクリームがたっぷり掛けられていて美味そうだ。
「ありがと。⋯彼女の後ろに、モノリスみたいな黒い箱が設置されてるの」
モンブランを一口食べて「⋯いいじゃん」と呟く。⋯俺も追加注文しようかな。
「あの中に居るね⋯なーんか、獣臭いのが」
「獣⋯あれ、少しやばいねぇ」
奉が唸りながら顎に手をあてた。飛縁魔が軽く頷く。
「そ。あれはノータッチが正解。心を探るなんて以ての外」
「心を探ったら、どうなるの」
例えば、今泉をぶつけたりしたら。
「探った人も、探られた方も、狂っちゃう。心を読むもの同士が互いにさぐり合うってことはね、心が合わせ鏡になっちゃうってことなの。探る相手を探る相手を探る相手⋯ってね」
そう言ってモンブランを頬張った。⋯危なかった。俺の判断で今泉を呼んでいたら、あいつは⋯!
「おかしいねぇ⋯心を読む獣ってのは『さとり』だろう?」
「そうね。めっちゃ動物臭だったもの」
なんか縁ちゃんの喋り方が感染っている。
「あの妖は、人里に降りてくることはない。山奥に迷い込んだ人間が出くわし、心を読まれて狼狽える⋯くらいだねぇ。それすら最近はなくなっている。登山ブームで相当な山奥に登山家がアホ程入り込んでも『さとり』に出くわしたという話は聞かないだろう」
「そりゃ、そうだけど⋯」
今や妖怪全般そんなもんだろう。
「その⋯占い師は、どうやって『さとり』を⋯」
「それは聞けたわ。ただの人間だもの」
―――それは小さく、無力な猿だった。
雨に打たれ、車に轢かれ、足を潰された猿。パワースポットとやらを巡るために車で山を訪れていた占い師は、偶然この猿を拾ったらしい。
猿に近付くと、それは口を開いた。
『汚い猿だ、どうしよう』
『まって、この猿、私の心を読んでいる』
『気持ち悪い、置いていこう』
『でももしかしたらこの猿の力を使えば』
「―――で、その得体の知れない喋る猿を車に積んで、箱に閉じ込めて商売道具に」
商魂やばいな、その女。
「猿は驚く程大人しく、箱に入り続けてる。⋯くらいかな、あとは彼女もよく分からないみたい」
「よし、依頼は完了だねぇ。あれがどういうモノなのかは分かった。あとは伝えるだけだ。結貴、依頼主のメンヘラ呼び出せ」
「⋯⋯金城音羽さんな。本人の前でメンヘラとか言うなよ?」
LINEを交換しておいたので、トークを入れた。
「で?どうすれば追い出せるの?」
『さとり』について報告したところ、早速音羽の追及を受けた。
「⋯あー⋯どうするって⋯」
「放っておけばいい」
追加注文したモンブランを頬張っていた奉が、顔を上げた。
「このまま好きにさせとけっていうの?」
「占いってのは、自分の『今考えてること』を当てて貰う遊びなのかい?」
「⋯⋯⋯あ」
口元に手を当てて考え込んでしまった音羽をよそに、奉はモンブランに戻ってしまった。⋯あとは俺に『やっとけ』ということだろう。⋯仕方がないので軽く補足する。
「その人、水晶玉覗いてそれっぽいこと言うけど、当たるわけでもトーク上手いわけでもないよね」
「よく知ってるんだね」
「ああ、まあ、調べて貰って⋯なら、そのうち飽きられると思うんだ。少しの間は客を取られるかもしれないけど、きっと戻ってくる」
「待てない。すぐに出ていってほしい。その猿を箱から引きずり出せばいいの?」
「⋯聞いてみるわ」
静流に電話したところ『死ぬよ』とキッパリ言われた。相当やばいらしい。
「じゃあ、どうすればいいの!?」
音羽が少し苛ついたように足を鳴らした。⋯この子は少し、ヒステリックな所がある。
「あなたが、勝てば?」
ふふ、と笑って飛縁魔が身を乗り出した。⋯それはやめろ、音羽がおっぱいの圧でたじろいでいる。
「さっきから何この女!?同伴出勤!?」
⋯⋯ほらそうなった。
「私は、エマ。この人の元カノよ」
俺をちらりと流し目で捉えて艶然と微笑む。
「ちょっとあんた、元カノと繋がってんの!?最低!!」
「やめろよもう⋯冗談だから。仕事仲間だから」
「く、黒服」「違うから」
100%ややこしい事になるから飛縁魔を誰かと関わらせる際には『仕事仲間の』と前置きしよう。
「⋯簡単に言うけど、私がそんな簡単に勝てるわけが」
言いかけた音羽の顎に、飛縁魔がくいっと指先をあてて上げた。あ、顎クイ⋯。
「ちょっ⋯」
「⋯可愛い顔してるじゃない、あなた」
「そっそんなの言われたこと⋯それに!占いは顔じゃない!私はタロットの的中率で」
「的中率、ねぇ。そんなの、あなたを初めて見る相手には伝わらなくない?」
「い⋯一度みてくれたら⋯」
「あのね、お嬢さん?占いってエンタメなの。まず見てもらうには⋯」
魅力的な、ビジュでしょ?
ふふ⋯と笑って飛縁魔は指先で音羽の口元をつついた。
「特にこの、唇が可愛い」
「えっやだ、やめ」
「でもこのままじゃダメ、中途半端ね。私がキレイに仕上げてあげる。⋯結貴くぅーん♪」
妙にイキイキした顔で、飛縁魔が俺の方を振り返った。
「⋯⋯何でしょうか」
「この子、私に任せてちょうだい?」
「⋯⋯なんかもう⋯お願いします⋯」
飛縁魔は音羽を引きずって、意気揚々と去っていった。⋯追加のモンブランを平らげた奉が、口を拭いて顔を上げた。
「俺もう帰っていいか」
「俺も帰る」
なんというか⋯百合付いた一日だったな⋯。
一週間後。
俺と奉は飛縁魔に呼ばれ、エキセントリックゾーンに出向く事になった。結局、さとりの占い師に勝つ方法とやらは飛縁魔が教えてくれないし、どうするつもりなのか気にはなっていた。
「まだ行列が出来ているな⋯何も変わってないのか」
箱⋯とやらが見当たらないが、行列の出来ている占い師がいる。恐らくあれがさとりの⋯⋯んん!?
「次の下僕は⋯オマエかしら?」
げ、下僕!?思わず占い師を凝視する。あのパッツン前髪、そして怨念の籠った目つき、あ、あれは⋯!
「前へ出ろ、下僕!」
黒のヘッドドレス、黒い唇、漆黒にワインレッドが覗く豪奢なドレス⋯ご、ゴスロリだ!!
金城音羽がゴスロリ地雷系美少女になっている!!
「んふ、見違えたでしょ?私の最高傑作よ!」
背後から飛縁魔が現れたがそれどころじゃない。依頼人がエライ事になっている。
「オマエは⋯そうね⋯」
おずおずと進み出て、何かごにょごにょ⋯悩み事だろうか?訴えていた青年の顎に黒い扇を突きつけ、次の瞬間バシッと肩を叩いた。
「イッ⋯」
「何も憑いてない!偉大なる御霊がお前ごときを相手にするものか、おこがましい!」
⋯⋯まぁ、確かに何も憑いてないが⋯⋯。
「す、すみま」
「無知な者が、見えないものを恐れるのは仕方ないかしらね⋯」
音羽がスカートのフリルをまさぐり、深紅のタロットカードを出した。その端に唇をつけると、黒いキスマークがついた。青年は目の色を変えてカードを押し頂く。
「恐れが消えないなら、また来る事ね⋯下僕のオマエが私を忘れたりしたら」
ぐい、と襟を掴んで低い声で呟いた。
「⋯⋯呪い殺すよ⋯⋯?」
傍から見ていて怖くて仕方がないのだが、青年はホクホクしながら帰っていった。
「⋯⋯⋯なにあれ」
「音羽ちゃんが渡したあのカード、Xとかインスタのアドレスが書いてあるの。キスマークのサービスつき♪」
「何てものを仕込んでくれたんだ」
「素質あると思ったのよ」
「金城さんが大変なことになってんじゃねぇか。あれもう後戻り出来ないぞ」
「行列の略奪には成功したじゃない」
モノリスのような箱の前に、ローブの女がぽつりと座っていた。手が、わなわな震えている。もう客が離れつつあるのか。この業界の隆盛は恐ろしい。
「⋯⋯じゃ、依頼は終了ってコトで」
立ち去りかけたその瞬間、ローブの女が立ち上がり、何かを叫びながら黒い箱を強かに蹴りつけた。軽い材質の箱は簡単に吹っ飛び、湿った音がした。女は机を蹴って何か悪態をつきながら去っていった。
「ちょっ⋯中!!」
思わず箱に駆け寄った。飛縁魔の話が本当ならばあの中には瀕死の猿がいる筈。材質は厚手のダンボールだ。俺は黒い箱を力づくで破いて中の猿を覗いた。
「⋯⋯かわいい」
小さな猿が、そう呟いた。足が潰れたと聞いていたが、傷が癒えている。手当てをされた様子もないのに。猿は透き通った瞳で俺をじっと見て、さらに呟く。
「可哀想に、山奥の妖にこんな扱いを」
「帰りたいよな、帰してやろう」
「轟山でいいのかな」
ここまで呟いて、猿は頷いた。本当に心を読むんだな⋯轟山でいいのか。
「本当に心を読むんだな」
猿が言い終わるのを待たず俺は猿を抱えて上着で包み、破れかぶれで走り出した。
車で来なかった事をこれほど後悔した日はなかった。
電車に駆け込んだのはいいものの、ずっとブツブツ呟いている小猿と俺を不審な目で眺め回す乗客に取り囲まれ、俺は初秋に似つかわしくない滂沱の汗をかいて「すみません!猿が!ペットの猿がすみません!猿が!」と弁明し通しだった。轟山駅で駆け下り、夜の山道を死に物狂いで爆走し、無人の山奥を右往左往してようやく猿が納得するベスポジを見つけてそっと猿を置く。
「元気でな」
また猿が呟く。俺の台詞だそれは。踵を返して山を降りようとした時、背後で猿がもう一度呟いた。
「お前の、願いは」
⋯⋯え?俺はそんな事思っていないが⋯⋯
振り向くと猿は、消えていた。
数日後。
大学でまた俺に関する噂が流れた。
「青山が、轟山行きの電車でサルがどうとか叫びながら小猿を抱えて走って逃げていた」
⋯頭を抱えた。駄目だ、俺はもうヤバい学生だ。まともな就職は挑めない。講義でも俺の周りだけドーナツ現象が起こる。それでも隣に座ってくれるのは静流や今泉だけだ。⋯今日授業選択の関係上、奉だけだが。
「下僕!⋯今日のオマエの宿命を占ってあげる」
売れっ子占い師のゴスロリが来た。音羽はここの生徒じゃない筈だ。何故。
「⋯あの、金城さん、何でここに」
彼女は右手の黒い扇で俺の顎をビシリと捉えた。
「OTOHAとお呼び!この下僕!!」
様子のおかしい人脈が増えた。いよいよ俺の風評がピンチだ。
「⋯で?例の猿占い師はどうしたんだい」
奉が面白半分に声をかけた。
「居なくなったわ、影も形も」
音羽が声をひそめた。⋯なぜひそめる。
「でも、居るの」
どういうことだ。
「あなた達も『視える』人でしょ。⋯居るの、あの場所に」
「⋯⋯生霊?」
一応聞いてみると、音羽が首を振った。⋯死んだ、のか?
「何故⋯」
俺たちがしたのは、音羽のプロデュースと猿奪取だけだが⋯。
「死んだのは、偶然⋯か?」
くっくっく、と奉が笑って鼻先で指を汲んだ。
「『さとり』ってな、奇妙な妖だと思わないかい?」
「妖は大抵奇妙だろう」
「人の心を読み、声に出す。心を読むこと自体はとても高度な『術』だが、それを用いてやる事と言ったら、ただ声に出すだけなんだよ」
「⋯特に人を襲うとか、悪さをするという話は⋯そんなにない、けど」
「そう。特に役に立たない。烏賊の目のようにねぇ」
「いかのめ?」
思わず音羽と二人で声に出した。
「烏賊の目ってな、とても性能が高く情報量が多い。だがその情報を処理する脳がちょっと⋯足りないよな。だから奴らの目はオーバースペックなんだわ。ならばその高性能な目は何のためにあるのか。⋯とか言い出すとオカルト領域になるんだが、そういう界隈では『あれは神の目では?』などと言われているねぇ」
「神の目って⋯」
「人知を超えた何者かが烏賊を介して世界を見ている、という考え方だ」
「そうなのか?」
「知らんよ、聞いたことない」
もう少しお互いに情報共有をしないか、神よ。
「烏賊の目はどうか知らんが、さとりに関しては⋯そうだねぇ、あれはそういう意図の妖だ」
奉が口の端を少し吊り上げた。
「人の心を読み、さとりが声に出す。その声は、その土地を治める『何者か』に届いている。本来、人里に降りてこないさとりが、車に足潰されて占い師に拾われたのも偶然じゃないのかもねぇ」
「『何者か』が、人の声を拾う為に⋯?あの占い師が死んだのは、神罰?⋯さとりを箱から引きずり出してたら、私も死んでた!?」
音羽が両肩を抱えてガタガタ震えた。⋯静流に確認してよかった。
「キレイな言い方すれば『神の使い』だよ。危害を加えりゃ、そうなるねぇ」
「俺、箱から引きずり出しちゃった⋯」
俺は死ぬんだろうか。奉は俺をまじまじと見つめて、首を振った。
「や、多分大丈夫だろ。ただ⋯気に掛かることがあるんだよねぇ⋯さとりが、人里に降ろされた」
「山道だけど」
「アスファルトの道路だろう。人里だよ。⋯何か目的があるんだろうよ」
呟いて、奉は何か考え込んでしまった。轟山に連れていったさとりは消えたが、目的を果たして帰ったんだろうか。
そして最後に残したあの言葉。
『お前の、願いは』
あの言葉を聞いた瞬間、俺の頭を過ぎったある光景。
俺は少し、嫌な予感がしていた。
俺の願いは、決して叶えられてはいけない。




