びしゃがつく
図書館の大きな窓から、黒く湿るアスファルトを見下ろしてため息をついた。⋯天気予報は当たらない。20年以上生きてきてたどり着いた結論だ。
「ごめんなさい、私、雨女で」
静流はまた謝る。
今日は静流と図書館に来ていた。平日の図書館は人が少なく、片隅に設えられたソファ席は貸切状態で⋯互いに好きな本を読みながら、ただ隣に居た。⋯久しぶりの、何もない静かな時間。もうそれだけで十分だった。傍らに静流が居るなら、雨だって嫌いじゃない。二人で傘をさして歩きたい。
「雨は静流のせいじゃない。君は天気を司る神じゃない」
「うん、でも⋯」
本降りになり始めた外を眺めて、静流は表情を強ばらせた。
「雨の夜に外出ると⋯なんか、音がすることがあるの」
「音?」
「びしゃ、びしゃ、って、後ろから」
「誰か後ろから歩いてたんじゃなくて?」
「えぇと⋯誰も、居なくて」
いつも、振り向いても誰も居ない。ただ音だけがついてくる。そういうことか。⋯昔ハマったゲームで、そんな妖怪が出てきた気がする。あぜ道を歩いていると、後ろから何かが付いてくるのだ。逃げ切れるが、捕まったらバトルになる。中ボスクラスなので、何の準備もなしに挑むと普通に死ぬ。あれは、何といったか⋯。そうだ、『びしゃがつく』。
いやいや、びしゃがつくじゃない。リアルにストーカーの可能性が高い。
「家までついて来たことある?」
「音がし始めたら、ちょっと勿体ないけど⋯タクシーで帰るの。家が割れるのが一番怖いから」
―――ストーカー慣れしている。
「速くはないんだね」
「うぅん⋯雨足によるかな。小雨なら、ものすごく遅いの。本降りだと早歩きくらい」
―――何故。
「雨の強さで速さを調整⋯?」
「⋯変だよね」
読みかけの本や小物を鞄にまとめながら、静流がまた窓の外を見た。
「⋯でも、帰らなきゃ」
「送るよ。雨の日はずっと」
積乱雲でも出来たのだろうか、外は中々の豪雨だった。雨足が強いどころの騒ぎではない。一瞬『雨女だから』という言葉が脳裏をよぎったが、振り払う。静流は天気を司る神ではない。
「⋯もうスコールだなこれ。もう少しここに居る?」
スマホで雨雲レーダーを調べていた静流の横顔が、俄に曇る。
「待っててもあまり変わらない⋯かも」
そう言って静流が鞄の中から折り畳み傘を取り出した。
「帰ろ?」
こんな時でも彼女は伏し目がちに、笑ってくれた。そして俺の頭上に傘を翳そうと背伸びをするから、傘を受け取って静流の上に翳した。
「―――静流」
「うん、聞こえる」
びしゃ、びしゃ、びしゃ、びしゃ、びしゃ、びしゃ、びしゃ
街中なのに、確かに周りに、疎らに人がいるのに。にも関わらず俺たちの後ろを恐ろしい程一定の感覚で、びしゃ、びしゃ、という音が付いてくる。俯いている静流の表情は分からない。
「―――タクシー、呼ばなきゃ」
「いや、このまま歩こう」
静流が俺を見上げた。黒目がちの双眸が、僅かに潤んでいる。さっきまで俺達を包んでいた『平穏』は、脆くも瓦解した。⋯だが、俺は引かない事に決めた。今なら彼女の隣に俺がいる。
「あれが何なのか、突き止めよう」
「⋯⋯⋯⋯怖い」
「俺がいる」
正直、腹が立っていた。平穏を壊された事もだが、静流を怯えさせる足音にも、彼女に当たり前のように理不尽を押し付けてきた連中にも。人間のみならず、怪異もか。怪異までが彼女から奪うのか。俺一人であれば、今すぐ足を止めて足音に敢えて追いつかせ、鎌鼬を乱舞させてやる。だが⋯静流が隣で怯えている。横で震える体温が、滾っていた気持ちを少し落ち着かせた。⋯いかん、俺の憤りで静流を怯えさせては連中と変わらない。
「⋯足音に追いつかれたことって、ある?」
なるべく優しい声を心がけて、静流に問いかけた。静流は力強く首を振った。
「ない。⋯だって怖いから」
「そうか⋯じゃ、少しだけ付き合ってくれる?」
「⋯⋯え」
「アーケード街、行ってみよう」
躊躇う静流を、傘でさりげなくアーケードへ誘導した。
「⋯⋯あ、聞こえない」
アーケード街の雑踏へ紛れて歩く静流の表情が、ほんの少し緩んだ。張り巡らされたオレンジ色のタイルが照り返す光のせいか、顔色も良くなった気がする。
「本当に⋯雨が降らなければ音がしないんだな」
背後に迫っていた気配も、解けるように消えている。何の変哲もないオレンジ色のアーケード街に、俺は神に対峙した時のように手を合わせて祈りたい気持ちが芽生えていた。
「やばい⋯屋根って神⋯」
「助かったねぇ⋯泣きそう⋯」
「喫茶店があるよ⋯もう、手を合わせておこう」
冗談半分に手を合わせて目をあげると、店内でチョコレートパフェを食っている蓬髪に羽織の眼鏡男子と目が合った。
「⋯⋯珍しいな、お前がその⋯街に一人で」
「さっきまでは一人ではなかった」
喫茶店に入って、奉の向かいに座った。この繁盛店で4人掛けのテーブルに通されているところを見ると、確かに連れがいたのだろう。
「きじとらさん?」
「あいつは甘味に興味はないだろう」
「⋯⋯⋯ああ」
小梅か。理解した。
「大学の帰りに甘味を買いにアーケードに寄ったら」
「お前そんな大学生みたいな」
「手駒が最近マヨイガに取られて甘味が調達出来ないんでねぇ」
「手駒」
「仕方なく、渋々大学に行き、甘味を買いにアーケードに寄ったのだ。マヨイガが落ち着くまでは免除してやるが、早々に甘味奉納に戻るように」
「⋯俺が間違っていたよ。おばさんの頼みとはいえ、世話をし過ぎていた」
「そのおばさんも、妹も、今や異界の初孫に夢中⋯甘味に興味がないきじとらの甘味選びのセンスは壊滅的⋯甘味の枯渇は俺が出張る程に深刻ということだ」
「きじとらさん、何買ってきたの」
「角砂糖だ」
⋯よーしよしよしよし、角砂糖をやろう。
「きじとらさんはジョジョとか読むの?」
「それで角砂糖買って来たなら、俺は何だと思われているのかねぇ。⋯それでも慶事もあるもので、アーケード街をぶらついていると、お付きの女と、『退屈だ』『もう買い物やだ』『甘味を食べるのはいつだ嘘吐き』と暴れる我が姫が」
グズる小梅と困り果てる姉貴が。
「女の苛立ちがMAXに達した頃合を見計らい、俺はにこやかに二人に近づき、お久しぶりです結貴の姉さん、俺は丁度そこの喫茶店でパフェを食べるのに一人で入るのは恥ずかしいと思っていたのですよ。小梅ちゃんをお借り出来ますか、お買い物が終わったら迎えにいらして下さい。と持ちかけた」
「事案発生」
「何を言う、ウィンウィンの取引だろうが。現に彼女は小梅を預けて喜びいさんで買い物に走った。俺は小梅と二人きりで夢のような時間を過ごした。⋯そして先程、彼女が小梅を引き取りに現れた。入れ替わりに俺を窓の外から拝むお前が現れたというわけだ」
奉を拝んでいたわけじゃない。
「でお前はどうした。何故アーケード街で俺を拝んでいた」
「雨を降らせないアーケードの屋根を拝んでいたんだ」
今までの経緯を手短に説明すると、奉は口元に手をあてて静流を凝視した。
「雨の日にのみ、静流を追う足音か」
「⋯⋯避ける方法はいくらでもあるから、どうにかしたい訳じゃないの、でも⋯やっぱり怖い」
「⋯⋯いい心がけだねぇ」
くっくっく⋯と喉の奥で笑うと、奉は空のパフェグラスを脇に退けた。
「お前らは『雨足の強さで速さを調整している』と解釈したようだが、少し違う。雨足が弱いと」
追うことが、出来ないんだよ。そう言って奉は静流の顔を覗き込んだ。
「⋯どうして?」
「それは、水を伝って動く。水が少ないと、うまく動けない」
雨は、断続的に水を供給する。だからその水を伝って『それ』は動く。雨が激しければ激しい程、『それ』の自由は増していく。水の中であれば『それ』は静流を包み込むだろう。そう言って奉はコーヒーを啜った。
「またか⋯⋯!!」
思わず歯噛みした。何故、静流ばかり。
「⋯静流はまた、海に行けなくなるのか?」
「さぁね。『それ』の目的が分からないことには」
雨の夜に追いかけて、捕まえて⋯襲う気なのか、殺す気なのか、それとも。
「『びしゃがつく』やら『べとべとさん』やら、そういった付いてくる系の怪異は通常、道の端に寄って先を譲れば回避出来るんだがねぇ⋯静流の場合は少々⋯厄介な水の怪異に心当たりがあり過ぎるんだろう」
奉は他人事のように笑う。静流は運ばれてきたコーヒーを少しだけ飲むと、窓の外を眺めた。
「⋯先を譲る為に、足を止めるの⋯怖い」
「未来視としての予感か」
「⋯ううん、それとは違う。ただ怖いだけ」
「ならば死にはしない。立ち止まってみろよ」
静流は窓の外に目をやったまま、途方に暮れた表情を浮かべる。
「待て。死なないからノーダメって訳じゃない。一生取り憑かれるとか、地味な呪いを受け続けるとか、死にはしないけど地味に嫌な事ってあるだろ」
「ならば逃げ続ければいい。俺はどっちでも構わないよ」
そう言って奉は、追加で注文したコーヒーを啜った。
少しの間、沈黙が続いた。静流は窓の外に目をさ迷わせている。⋯アーケードの外を見透かすように。
「⋯夜半過ぎまで、雨は止まないらしいねぇ」
奉がぼそりと呟いた。静流はまだ窓の外を見ている。
「⋯こんなこと、そんな長くは続かない⋯よね。分かってる。でも⋯探しちゃうの」
「何を⋯?」
「アーケードの中に、ネカフェ、ないかなって」
泊まる気かい!!
奉もがっくりと首を落としていた。
「筋金入りのヘタレだなお前⋯」
「分かってるの。問題の先送りだよねこんなの⋯でも怖い。怖くてたまらない⋯」
「だったら」
―――俺たちに、依頼するかい?
「⋯え?」
静流が弾かれたように振り向いた。俺も一瞬、耳を疑った。
「依頼って、どういう⋯?」
静流には、開業云々の話はしていなかった。ただ、マヨイガに棲む事になった、と伝えただけだ。
「代償は貰う。正直、お前を追いかける『それ』が具体的に何なのかを突き止められるかどうかは分からんよ。ただ、そいつがどういう意図を持つ怪異なのかを突き止める方法は、あるよ」
目を見開いて、静流は少しの間奉と目を合わせていた。⋯そして、小さく頷いた。
「じゃ、報酬はここの支払いでいい。社割にしてやろう」
「しゃ、社割!?」
くくく⋯と喉の奥で笑うと、奉はスマホを取り出して誰かにLINEを送った。
「一緒に、アーケードを出たらいいの?」
奉に呼ばれて駆けつけた今泉が、静流を覗き込んだ。おいやめろ、近い。そう言うと少し身を引いた。静流の危機と聞いて、友達とのタコパだか何だかを切り上げて来てくれたらしい。
「ごめんな、助かる」
「お互い様じゃん。俺も助けてもらった」
片付け面倒だから助かった、と少し笑った。
「じゃ、ヒアウィーゴーだ静流ちゃん」
「⋯⋯はい」
俯いて、とぼとぼ歩き始めた。今泉に軽い苦手感があるらしい。奉は怖いから苦手、鴫崎は声が大きくて口が悪いから苦手、変態先生は遊び半分に殺されそうで苦手。静流は男性全般が苦手なのかもしれない。
「⋯へぇ、この音かぁ」
びしゃ、びしゃ、びしゃ⋯嫌な足音のペースは上がっていた。雨は確実に、先程より強くなっている。
「何か、分かるか?」
誰にも気付かれない程の小声で囁くように聞くと、今泉はバッと足音の方を振り返った。わ、馬鹿やめろ!と声が出そうになったが、今泉は臆する様子もなく立ち止まった。
「静流ちゃん、止まってみなよ」
「で、でも!怖い⋯」
静流は益々足を早めようとする。それを留めて、今泉は静流を覗き込んだ。
「あのね、大丈夫。付いてきている『コレ』ね」
静流ちゃんを、守るだけだよ。
「だとよ、止まれ静流」
奉が静流の鞄を掴んで無理やり止める。一瞬抵抗する素振りを見せたが、静流は観念して足を止めた。
「っく⋯⋯」
思い切り目を閉じて俺の腕を掴む。俺は静流を守るように、前に立ち塞がった。
その俺、いや俺達を、水の膜が覆った。足音は俺達の周りを小刻みに移動している。怯える静流を水の膜から守るように、腕でガードしたが⋯これは、何だ?
雨が⋯当たらない。
「これ、人の意識なのかな。それとも何か違うものの意識なのかな。分からないんだよ。この足音さ、多分一人じゃない。沢山の『何か』が、無数の顔を浮かべて静流ちゃんを見ているよ」
「⋯⋯何、それ」
「あー、無数の顔のくだりは忘れろ。今泉にはそう見える、というだけだ。視覚の方はアテにしなくていい」
「酷」
奉が水の膜に触れると、膜は容易く割れた。だがすぐに新たな膜が張られた。
「今泉の共感覚は、声や仕草、足音などを『顔』と認識して本心を暴く。無数の顔が見えるというのは『それ』が所謂人間と同じような狭い自我を持っていない⋯概念的な存在、ということだろうよ」
僅かに、舌打ちのような音がした。⋯奉の表情が屈辱に歪んだ。
「俺の管轄の人間に、ちょっかいを出してくるねぇ⋯」
⋯⋯神性か。
「静流の家系が元々、旧い海に関する神性を祀る宗教的指導者だったという話は、以前しただろう」
「⋯びっくり、したけど」
奉に突然「海の神性にありがとうと言え」と言われて海に拉致られ、祭祀に付き合わされた記憶は新しいだろう。静流の元彼を海で屠ったのがその神性である、とは静流には伝えてはいないが⋯。
「!じゃあ、ついてきているのは海の?祭祀とかやったから⋯?」
奉にゴリゴリに潰されんじゃないかという勢いで睨まれ、静流がびくりと肩を震わせた。
「⋯⋯⋯お前に言えない事情で、俺がどれだけの忍耐と軋轢と望まぬ恭順を強いられているか⋯⋯⋯!!」
「ごっ⋯ごめんなさいごめんなさい!」
ごめん、俺も知らない。奉に一体何があったんだろうか。
「A、B、Cという国がある。Cの国はある日突然Aの国から、この女をお前の国で管轄しろ、と押し付けられる」
「⋯⋯私、ですね」
敬語に戻った。
「それでもまぁ、その女には使い道があった。こりゃいい便利に使い倒してやろう、と手ぐすねひいていると」
「⋯⋯え?」
相変わらず静流の扱いが酷い。
「突如現れたBという国に『その女は我が国の出身だ、こちらにも税金を一部寄越せ、その代わり我が国も彼女を守る』などとふるさと納税のような事を言われているんだねぇ」
「あ⋯うちは今年、山梨のシャインマスカットを⋯」
「⋯⋯静流ちゃ~ん、生鮮は実物見て選んだ方がいいよ?」
「ふるさと納税は例えだ!引っ張るんじゃねぇ!!⋯要はそうやって俺の上前は一部ピンハネされていると言っている⋯旧い神性は話が通じにくいから交渉は出来ない。敵味方程度のおおまかな立ち位置しか分からず、正直、善意で静流に付いてきていることはうっすら分かっても『意図』までは分からないんだよ」
静流を捕え、奉の管轄から奪うつもりなのか、別の意図があるのか。細かい意図の特定には今泉の共感覚が必要だったということか。
「『それ』は静流を守るだろうねぇ。ただし、手が届く範囲に於いてだ」
「だから、雨の日だけ付いてくるのか⋯奉、これはその⋯どれくらい、彼女を守れるんだ」
「⋯水が出来る範囲だねぇ」
ま、雨の日は傘要らずじゃねぇの?とだけ言って奉は片手を上げて帰っていった。
「すげぇじゃん、手ぶらで歩けるの超便利!」
今泉がしきりに羨ましがるのを、静流は少し困った笑顔で躱して『今日はありがとう。⋯まだ7時だから、今日は一人で帰るね』と、帰っていった。静流が見えなくなるまで大きくてを振り続けていた今泉が、ふと手を下ろした。
「⋯⋯少しだけ、真面目な話していい?」
その目は笑っていなかった。ごくり、と喉が動いた。⋯俺は、気がついていた。
「無数の顔⋯って言ったけど、その顔の中に、明らかに異質な奴がいた」
今泉と目を合わせ、ゆっくり頷いた。
「俺たちと変わらない年齢の、男の顔があったんだろう」
あの崖の上で感じた少年の気配が、神性の気配の奥底に、残滓のように貼りついていた。今泉は小さく頷くと、俺の肩を掴んだ。
「例の元カレ氏だろ?あれ。あの顔だけは少し注意が必要かもよ。大したこと出来ないとは思うんだけどさ、あれ、執着だけで形を保ってる」
静流ちゃんへの執着が怖いよ。と呟いた。
「玉群は『水が出来る範囲』って言ってたけど」
水ってさ、人、殺せるよね。
背筋がぞくりと寒くなった。




