異界駅 前編
半壊、ではなく全壊だった。
かつて薬袋が居た病院の跡地に立っている。不思議と足が向いたのだ。少しだけ過ごしやすくなった晩夏の夜風が全身を包む。そんな時期だったから、だろうか。天頂で静かに光る半月が死に絶えたように動かない重機の群れを蒼く照らす。
「もっと広いと思ってたね⋯」
「建物がなくなると、意外と手狭だな」
静流が頬にかかる髪を軽くかきあげた。跡地に行くと告げると、ついて来てくれたのだ。⋯未来視を持つ彼女には、この光景はどのように見えているのだろうか。俺には⋯
跡地の隅、月光すら届かない崩れた壁の影に、30人ばかりの若い母親が佇む姿が見えている。⋯見えているというと語弊がある。壁の影に佇む、無念を抱えた思念の塊が、かつて薬袋が手を下して円柱のような水槽に沈めた『彼女たち』だと確信しているのだ。
俺には思い残しがあった。俺は薬袋を死なせない為に『彼女たち』を裏切った。⋯結局薬袋は死を免れなかったが、あの男の死をもって彼女たちが解放される訳ではなかった。今も彼女たちは、きちんと葬られる事もなく、寂しい瓦礫の片隅で一塊になって⋯こちらを見ている。恨んでいるだろうか。⋯そりゃ、恨むだろうな。
「もし⋯俺がここの跡地を掘り返して」
「やめよう?」
俺の言葉を遮るように、静流が視線を上げた。
「もう関わっちゃ駄目。あの人たちを見つけてあげるのも、葬ってあげるのも結貴君の仕事じゃないから」
「見つけてもらえるかな」
「⋯分からない」
何かを言い淀んで、静流は再び視線を落とした。
「私の『未来視』ってね、多分⋯選択を間違えた結果が見えるんだと思う。だから、不幸せな未来しか見えたことない」
そう言って彼女は眼鏡を外し、桜色の眼鏡袋にしまった。俺を見上げる黒目がちな瞳に、綺麗な半月が映り込んだ。
「ケーキとか、食べて帰ろう。珈琲も美味しい店ならきっと嬉しくなる」
「それは未来視?」
「ふふ、どうかな」
静流が微笑んだ。今日はもう、これでいい。手を取って指を絡ませると、軽く握り返してきた。
喫茶店に寄って、最寄りの駅に着いた時には既に22時を回っていた。
ケーキは小さめで珈琲も少なめだが美味しかった。もう一度『未来視?』と聞いたら可笑しそうに笑っていた。俺の可憐な未来視は、事前に評判のいい店をチェックしていたらしい。
「送っていくよ」
反対方向だが、遅くなった日は近所まで送り届けるようにしている。彼女は普段から脅威的な頻度で痴漢やら待ち伏せやらストーカーに付け狙われるのだ。それらの危機を彼女は未来視を用いて首の皮一枚で躱す生活をしている。しかし相手が女だったりすると残響岬の件のように攫われることもある。要は未来視をもってしても危なっかしいわけだ。
「月が出ているのに暗いね、今日」
車窓を流れていく夜の街並みをぼんやり眺めていると、静流がおずおずと呟いた。
「⋯半月だからかな」
俺にはいつもと何も変わらない車窓だ。車内の様子が映り込んでいて暗さまでは分からない。疲れた表情のサラリーマンに、塾帰りらしい中学生がもたれかかって寝ている様子が⋯。
「―――蓮?」
おっさんにもたれかかって寝ていたのは、つい最近まで俺につきまとっていた中学生だった。残響岬の一件以来、何か思う所があったのか姿を見せなくなっていた。こいつが我が母校の後輩ということは、確実に目的の駅は寝過ごしてしまっている。関わりたくはないが、このまま終点まで寝過ごしというのも気の毒なので、つい肩を叩いてしまった。
「⋯おい、寝過ごしてるぞ」
「⋯⋯⋯ふぁ!?」
蓮はだらしない顔で飛び起きた。ふがふが言いながら周囲を見渡し、俺と目が合った瞬間叫んだ。
「な、何駅ですか!?」
隣のサラリーマンがビクッと肩を震わせる。疲れているだろうに、災難なことだ。
「亜久崎駅を過ぎたとこだ」
「あーーー!!」
頭を抱えて蓮が突っ伏した。
「お前やめろ電車の中で騒ぐな」
蓮は周囲の客にぐるりと会釈して声のトーンを落とした。意外と育ちがいいようだ。
「⋯ビキ兄ィは大丈夫なんすか?乗り過ごしじゃありません?」
「彼女を送っていくところだ」
「うっわ男前っすねー、言ってみたいセリフナンバー5に入ってますわー」
やめろお前もっと言え。
「じゃあ俺もこのまま乗ってこうかな、上り本数少ないし」
「いや帰れよ。親が心配するだろうが」
「沿線にばあちゃんちあるんですわ。今日はもうそっちに泊まります」
ついでにお小遣い貰います、と蓮は大きい目を少し細めてニヤリと笑った。祖父母に愛されている自信に満ちている。
「しかしそんないきなり⋯」
「いつもの事っすから。親も半分くらい、今日は帰ってこないかなーとか思ってますよ」
いつも寝過ごしてるのか⋯そして救済措置が充実してるもんだから反省することなく寝過ごし続けてやがるのか。
「⋯何処の駅だ」
「鴻ノ宮!」
終点近くじゃないか。
「あと20分は眠れますよね」
「やめとけ。俺らもすぐ降りるから、誰も起こしてくれないぞ」
「大丈夫!叔父さんが車で迎えにきてくれるし」
親族一同⋯このバカをとことん甘やかしやがって。どうなってんだ石踊一族は。
「誰かお前をシメてくれる家族がいればいいのに」
つい本音が出た。蓮はケラケラ笑っているが俺は本気だ。そうこうしているうちに電車は次の駅に到着して、隣のサラリーマンがすっと立ち上がって降車していった。
「あ、あれ?なんか⋯この駅って、こんなに降りたっけ?」
静流の怯えたような声に顔を上げると、俺たちが居る車両は貸切状態になっていた。
「当駅止まり!?」
蓮が立ち上がったのを合図に俺たちはドアに殺到した。⋯が、時遅く、ドアはプシュウ⋯と気の抜けた音を立てて閉まった。一瞬慌てたが、考えてみれば当駅止まりのアナウンスは無かった⋯と思う。俺はガラ空き状態の座席に座り込み、軽く息をついた。
「釣られたわー⋯」
「でも!⋯有り得なくないすか?この時間に、この路線で乗客ゼロとか」
蓮が貸切状態の車内をキョロキョロ眺め回している。⋯俺も仄かに不気味さを感じ始めてはいたが⋯まさか公共の乗り物で妙な事は起こらない⋯だろう、多分。
「この車両だけじゃないか?」
連結部のドアが開いて、息を切らせた静流が駆け込んで来た。⋯この短時間でほかの車両を見に行ったのか⋯?
「いない⋯誰もいないの!」
そう言ってドアの近くの⋯シルバーシートにへたり込む。爺さん婆さんどころか乗客が居ないので別にいいんだが⋯。
「変ですよこれ!俺ら、どうなっちゃうんですか!?」
「まずいな⋯このままだと車庫に入れられた上に点検に来た作業員に叱られてしまう」
大学生なりたての頃、終電を寝過ごして車庫に入ったことがある。見つかった瞬間ビビられるし叱られるし徒歩で帰らされるし、散々だった。もっともこんな時間に車庫入りする羽目になるとは思わなかったが。
「俺よく知らないんですけど⋯車庫に入る時って、こんな短時間の停車で送り込まれるんです?」
「どうかなぁ⋯」
何しろ寝てたから覚えていない。
「まだ11時にもなってないのに、車庫に入るなんて早過ぎですって!」
「うぅむ⋯まだ偶然貸切になった可能性がなくもないから、停車を待ってみようか」
そう言いながらも俺は、しっかりと嫌な予感に満たされていた。普段ならしつこい程に流される次の駅名のアナウンスも、減速の気配も全くない。
「⋯駅、全然見えなくないですか?」
実は俺もそう思っていた。しかしそれを認めてしまうと。
「何が起こってるんですか!?俺たちどうすればいいんですか!?」
―――ほらな。そうくる。
異常事態が起こっていることを俺が認めてしまうと、俺が対策を考え、行動をこいつに指示しなければならない。⋯冗談ではない。俺だって何が起きているのか分からないのだ。俺は思わずちらり、と静流を見てしまう。未来視をもつ彼女なら⋯しかし直後に後悔した。俺と目が合った途端、彼女は顔を覆って泣き出したのだ。
「⋯ごめんなさい⋯ごめんなさい⋯役たたずでごめんなさい⋯」
「え、あ、いやそんなつもりじゃ⋯!」
一瞬、未来視をあてにしてしまったことを見透かされた⋯。俺だって分かっている。静流の未来視は万能ではない。発動は自動的だし、命に関わるような大惨事でもない限りは発動しないのだ。⋯じゃあ、今のこの状況は危険ではないってことか。⋯俺は小さく息をついた。
「―――大丈夫だ。静流が何も感じないなら、危険はない。様子を見よう」
とは言いつつ、こっそりLINEのトークを開く。奉と連絡が取れたら、あるいは⋯。トークに『変な電車に乗った。降りられない』と送ってみた。⋯既読は当然つかない。分かっていた。いつまでもトークを睨んでいても仕方がないので、窓の外に目をやる。⋯暗闇の空に、薄い緑色の雲が静かに光っている。その淡い光が遠くの山並みを照らしている。人工的な明かりも、申し訳程度には見える。だが明らかに普段より少ない。
「何処だか分からんけど⋯そこまでヤバい感じはしないな⋯」
「⋯⋯⋯ビキ兄ィ達って」
少し落ち着きを取り戻した蓮が、隣に座って大きな目で見上げてきた。思わず息を呑む。大人しくしていればこの少年は、リスのような可愛い顔をしている。
「何者⋯なんですか」
「⋯⋯え」
「俺は幽霊とか見えないけど、残響岬でヤバい事が起こってたことは分かったっす。車の中に居たのに、崖の方に引っ張られるみたいだった。縁さんが⋯ずっと声をかけてくれて。『結貴くんが居るから大丈夫』って」
蓮はふと、車窓の方に視線を移した。
「⋯ヤバいじゃないすか、こんなの。俺には十分ヤバいっす。なんですか、あの緑色の光」
俺ももう一度、淡い緑色の光を見る。奉と関わって色々な事象に巻き込まれる中、俺の感覚は見事に麻痺していたようだ。
「あれって何だったのか、すげぇ聞きに行きたかったけど⋯なんていうか俺、怖くなって」
長いまつ毛が頬に影を落としている。⋯緑色の影だ。明らかにあの光は異質なものなのだろう。
「ビキ兄ィ達に関わり続けたら俺、なんか⋯戻れない場所に」
―――連れていかれるような。
蓮の言葉が途切れた瞬間、軽い揺れを感じた。⋯電車は減速している。
「自分で言うのもなんだけど俺、一人っ子で、超大事にされて育ってるんすよ」
「だろうな」
「だから責任、あるんですよね。俺にとって一番の悪は」
電車が静かに停止したのを感じ、蓮が言葉を切った。静流が俺の服を、力強く引いた。
「―――降りよう?」
俺を見下ろす瞳には『確信』が宿っていた。立ち上がって蓮を軽く促すと、俺は意を決して⋯⋯。
「⋯⋯⋯静流」
「降りた方がいい」
静流が確信をもって、こんなに真っ直ぐに俺を見つめているのだ。静流の判断はきっと正しい。だが俺は足がすくんでいた。⋯やがて、ぷしゅぅ⋯と空気が抜けるような音がしてドアが開いた。
「降りるぞ」
声が震えたかもしれない。開いたドアから流れ込んだ緑色の霧が、足にまとわりついて消えた。俺は⋯視線を下げて足を踏み出した。
「まじですか⋯ほんとに降りるんですか」
「―――降りる」
「だってあれ!!窓の外に!!」
―――薬袋が殺めた30人の女たちが、静かに俺たちを見つめていた。
付いてきていたのか。俺の行先を察して先回りしていたのか。それともこの怪異は、彼女らが仕組んだのか。握りしめた掌が、じっとりと汗ばんでいる。肘の辺りに柔らかい掌が添えられた。静流が俺の肘を両手で包み込んで、そっと引いた。⋯僅かに、震えている。
「⋯目を閉じててもいいよ。引いてあげる」
「大丈夫だ。一緒に行こう」
気が遠くなりそうだった。静流が、蓮が横に居なかったら気を失っていたかもしれない。汗ばむ手を開いて静流の手を取り、ついでに蓮の肘を掴んで緑色の霧が立ち込めるドアの外に踏み出した。空調が効いた車内から、生ぬるい空気に体を沈みこませ⋯ぐいと顔を上げる。
「⋯⋯あれ?」
傍らから間抜けな声が聞こえた。
「誰も居ない⋯?」
蓮が訝しげに駅のホームを見渡した。
「おかしいな、さっきここに居ましたよね!?」
「あぁ⋯居たが⋯」
緑を帯びた霧は立ち込めているが、人影は消えていた。誰かが居たような気配すらない。
「金属バット振りかざして中指立ててましたよね!?」
―――んん!?
「ちょっと待て、お前なにが見えてたって?」
「あれ1年の時に所属してた野球部の先輩達です。横暴過ぎて頭おかしかったから夏休み前に辞めました!」
「え、違う⋯私は、海で亡くなった⋯鈴木君」
皆が違うものを、ホームで視ている。恐らくそれは⋯俺が呆然と立ち尽くしていると、二人がバッと振り向いた。
「結貴君は何が見えた!?」
「ビキ兄ィは!?」
「⋯⋯30人の、妊婦」
「ビキ兄ィスゲェ!!チンギス・ハーンみてぇ!!」
憧憬通り越して畏怖の眼差しが、蓮から注がれた。
「いや違う、待て、そういうのじゃない。俺の子じゃない」
「それぞれ、一番会いたくないものが視えたんだね」
俺の『説明がめんどくさい』という想いを察したのか、静流が無理やり話の流れを変えた。⋯殺されて標本にされた彼女らの、恨みに満ちた視線は俺をたじろがせた。静流に手を取られなければ、ここに降りることはなかった。恐らく他の二人も同様にたじろぎ、降りることを躊躇っただろう。⋯これが何を意味するのか。などと考えを巡らせていたその時、携帯が鳴った。着信を確認して、不覚にも俺は安堵で膝から崩れ落ちた。
「⋯よくぞ起きててくれた」
更に泣きそうになるのを堪え、スマホを耳にあてた。そして今までの経緯をごく手短に伝えた。
『毎回毎回厄介事に巻き込まれやがって』
奉の声は、怒気を孕んでいた。
「いや、悪かったがわざと巻き込まれているわけでは」
『病院跡に行っただろう』
「⋯俺、何で急に行く気になったのか⋯」
『誘われてたんだよ。お前は必ず今日、その電車に乗るように仕向けられていた』
病院跡地で俺を眺めていた、暗がりの人影を思い出した。
「彼女達が⋯」
『30人も雁首揃えてたった一人のサイコパスも始末出来なかった烏合の衆にこんな真似が出来るものかねぇ』
「いや手加減」
『第一、お前一体何処にいるんだ』
「駅名見てねぇわ。探す」
言われてようやく、自分が何処にいるのかを全く把握していないことに気がついた。慌てて駅名の看板を探し当てる。
『鼈妛囎堽岾』
「⋯⋯⋯は?」
一文字たりとも読めず、ようやく発した言葉は感嘆句だった。電話の向こうから舌打ちが聞こえた。
『⋯⋯読める字は、ないか?』
「⋯⋯すまん、読めない」
『読める駅なら、やりようがあったがねぇ⋯』
―――どういうことだ?
『異界駅の都市伝説は、聞いた事があるだろう』
「きさらぎ駅とか、そういうのか」
『それよ』
奉は一度言葉を切り、深く息をついた。
『やみ、きさらぎ、かたす。その辺が有名だねぇ。真偽は知らんが、それが実在の異界駅だとしたら⋯ごく浅層だ。読める、のみならず意味も推測出来る』
俺もきさらぎ駅の考察掲示板で読んだことがある。やみ駅は『闇』、きさらぎ駅は『鬼』の古い読み方、かたす駅は日本神話に出てくる『根の国』の別名『根之堅州国』⋯つまり、こちら側ではない、あちら側の世界を示している⋯とか。
『もし、きさらぎ駅が実在したとしてだ。その場を支配するものには人の言葉が通じる。人の価値観は通じんだろうが、俺なら交渉が出来たかもしれん』
だが、この駅は。
理解を拒む見知らぬ漢字の羅列を眺めていた俺は、頭の芯がぐらりと揺れるのを感じた。蓮が何か叫んでいるが、入ってこない。俺は⋯絶望しているのか。
「⋯⋯じです、れいもじです!!」
「何を⋯言ってる?」
しっかりしろ、俺。俺が真っ先に参ってどうする。奥歯をぎりりと噛み締めて絶望を飲み込み、ぐいと顔を上げる。
「幽霊文字です!!これ!!」
蓮が駅名の看板を見上げて、興奮気味に叫んでいた。
「幽霊文字⋯」
「昔、通産省がJISコード?制定した時に、手違いで存在しない漢字がいくらか登録されちゃったんですよ。ほら、この字!」
『妛』という文字を指差して、蓮が嬉々として叫んだ。
「俺、幽霊文字を題材にしたホラゲ実況で見たことあります!これの後ろに『原』ってつけると『あけんばら』て読むんですよ!ビキ兄ィ知ってます?つぐのひ!」
「知らん。しかし、グッジョブだ蓮。奉、読み方が分かった」
『聞こえていた。なんだ、きちんと日本語の範疇じゃないか。てっきりあちら側の言葉かと⋯あの小僧、意外に使えるねぇ。お前と違って』
「今度鎌鼬でその髪アシンメトリにしてやるからな」
気がついたら、軽口を叩ける程に俺は回復していた。奉の声も心なしか張りが戻ってきている⋯ような気がする。
「読める字なら、やりようがあるんだろ。俺達はどうしたらいい」
『さてねぇ⋯』
考え込むように、奉が黙り込んでしまった。電池の残量は30%弱、モバイルバッテリーは持っていない。
「一旦切った方がいいか」
『待て、また問題なく繋がるか分からん。むしろ繋がる限りは繋いでおけ』
電池が⋯と言おうと思ったが言葉を呑んだ。未来視を持つ静流が何も言ってこないなら少なくとも、奉の判断は間違っていないのだろう。
『恐らくお前をここに誘い込んだ『なにか』は、言葉のやりとりは出来る。だが⋯意図が分からないねぇ。少なくともそいつは、人間側のバグで産まれた『幽霊文字』を認識している。ということは近代から現代の日本に関しての知識がある、ということだねぇ』
「へぇ~、神社の兄貴すげぇ!」
気がつくと、蓮が俺たちのやりとりに耳を側立てていた。
『只のイタズラ⋯というパターンが一番のハッピーエンドだが、わざわざお前ら3人が揃う機会を辛抱強く待って誘い込んでいるというのが、どうにもねぇ⋯それに何だ、降車しようとしたら30人の妊婦を見せられているだろう』
「静流に言われなかったら、降りなかった」
『命拾いしたねぇ⋯その電車に乗り続けていたら、手遅れだった。未来視は相変わらず使えるねぇ。お前と違』「モヒカンにするぞこの野郎」
「あ、あの結貴くん⋯」
静流が携帯と自分を交互に指すゼスチュアをしてきた。代わってほしい、ということか。携帯を渡すと、掌に包み込み急きこんで話し始めた。
「あの、あの、奉⋯さん」
『あのあの煩い。充電が切れるだろうが』
「ご、ごめんなさい!あの⋯あ、ごめんなさい」
―――何故、あの男は静流には厳しいのだろうか。
「⋯停車した時⋯その、どうしてもここで降りなきゃ⋯って思ったんです。多分、なんだけど、その⋯」
『そのその煩い』
「ごめんなさい!⋯私たちを電車に乗せた人と、この駅に電車を停めた人は⋯」
『別の存在』
「そうなんです!それだけ!」
それだけ言うと、静流は時限爆弾でも放るように携帯を押し付けてきた。⋯静流は静流で、奉への苦手意識が止まらない。⋯再び携帯を耳に当てる。
『⋯どうにも、ちぐはぐなんだよねぇ。⋯よく選んだものだが、この三人を『戻れない』電車に乗せて、『手遅れ』寸前で停車して、幻を見せて降車を躊躇わせる⋯そして幽霊文字を見せ、俺に連絡がとれるように電波は生かしたままにする、と。こいつはお前らを生きて帰らせたいのか帰したくないのか分からんねぇ⋯とは思っていた』
「この三人てなんだよ。⋯俺と静流はともかく⋯ほぼ無関係の中学生を巻き込んだのは何故だろうな」
くっくっく⋯と、奉が電話口で笑うのが聞こえた。
『⋯まあいい。とにかくこの件には、複数の思惑が絡んでいるようだ。正直、俺に出来ることは⋯』
ぎりり、と歯ぎしりの音がした。⋯ああ、そうか。俺は把握した。
「お前より、上位の神性なんだな?」
『上位も下位もない。ただ俺が干渉しにくい種類の存在なんだ』
それを上位の神性というのでは⋯人を散々役たたず呼ばわりした割にはお前も相当⋯という言葉は呑み込んだ。
「つまり、何も干渉は出来ないんだな」
『何も出来ないとは言っていない。⋯複数いるらしいのが厄介なんだよ。しかも思惑は多分正反対。ということは』
「出来れば俺たちをこの駅に引き留めた方と交渉したい。⋯だがもう一方には気付かれてはいけない」
『もう一方に⋯あぁ、そういうことか⋯』
携帯の充電はもう10%を切っている。そろそろ、俺たちがこの場でどう行動すべきなのか、奉はどう動いてくれるのか、結論を聞きたい。携帯に添えた手が、じっとりと汗ばみ始めた。
「なぁ、結局俺達はどうすればいい」
声が上ずっているのが分かる。だが奉は沈黙したまま、恐らく机をコツコツ叩いている。
「充電切れる、早く!」
もう5%を切った。
『―――あの小僧、どうしてる?』
あの小僧⋯そういや、あの小僧はどうしているのだ。さっきまで俺の傍で会話を聞いていたのに、奉が黙り込んだら飽きたのかフラフラと何処かへ歩いていってしまったが⋯。
「見てくださいよ!これ、こんなところも幽霊文字!!」
『壥彁閠』と書かれた缶ジュースだけがズラリと並んだキモい自販機を指差して、興奮気味に静流を引き摺っている。
「100円入れたらどうなりますかね!?飲めるんかな!?」
「⋯絶対、飲んだらダメだからね⋯」
静流が珍しく断言している。恐らく、飲んだら死ぬのだろう。
「⋯奴なら、ワクワクしている」
『帰りたがってはいないのか』
「腹が減ったら帰りたがるんじゃないか」
⋯俺も中学生の頃は年相応にバカだった覚えがあるが、傍から見たらここまでバカだったのだろうか。
『帰りたそうにし始めたら、お前がすべきことがある』
そう前置きした上で奉が俺に課したミッションは、とてもじゃないが正気で受け入れられるものではなかった。断固拒否したかったが『じゃあ戻れんぞ』と言われ、鉛を飲む思いで受け入れるしかなかった。
やがて充電は切れ、俺の携帯は金属の塊と化した。
続