冥婚 後編
「今日の今日で拉致られるとは⋯なんて鈍臭い女なんだ」
助手席の奉が、ぼそりと毒づいた。⋯返す言葉もないが、逆に言うと『彼女ら』の行動力が尋常じゃないのではないか。その元カレのことは『S君』と聞いていたが⋯。
「大ちゃんというのか⋯そいつの人望はそんなに凄まじいのか。もうカリスマだな」
スマホをポチポチ弄っていた蓮が、ふと顔を上げた。
「さすがに違うっしょー、多分」
「だよね、私もそう思う」
縁ちゃんも頷いた。⋯相手が女子とはいえ、恋人が拉致されている。荒事が生じれば男手が必要だろう、と渋る奉を無理やり連れてきたが、蓮と縁ちゃんも一緒に車に乗り込んでしまったのだ。理由は『面白そうだから』。
「人望はあっただろうけど、これ絶対おかしいって。拉致までしちゃったら犯罪じゃん。なんか静流さんに恨みでもあったんじゃないのかな」
出発する前、縁ちゃんは警察に通報すべきだと主張していたのだが俺が却下した。
「⋯本人たちに、そこまでの自覚はないんだろう。多分⋯正義を実行して憂さ晴らしをしたいだけだと思うから、とにかく掴まえて、言い聞かせて、それでも駄目なら警察に通報⋯ではなく相談しよう」
静流自身も、大ごとにする事は望んでいまい。俺が着くまでの僅かな間、凌いでくれ。
「なんか、ビキ兄ィって」
蓮がスマホから顔を上げて、バックミラー越しに俺を見つめてきた。
「場慣れ、してますよねぇ。こういうことしょっちゅうあるんです?」
「苦労してるんだよ、結貴君は」
君らに言われたくない。
「―――なぁ蓮。一応、確認なんだが。残響岬ってのは、その⋯『事故』があった辺りなのか?」
最初は俺の質問の意味を測りかねていたが、やがて蓮は気まずそうに頷いた。⋯思わず舌打ちが出た。
「なんか⋯陰険じゃない?わざわざ元カレが死んだ場所に連れていくとかさ」
「すみません⋯オレたちが触れ回ったせいで」
「いや⋯こういうのは、遅かれ早かれ起こったことだ。知らせてくれたお陰で状況把握が捗ったよ」
こういうトラブルがランダムに起こって、対策が後手に回るほうが余程怖い。助手席の奉は、何か考え込むように腕を組んで前方を睨んでいる。⋯奴なりに、心配してくれているのだろうか。
「なぁ、結貴」
「どうした」
「少し、よくない事になっているかも知れないねぇ⋯」
「⋯何か、心当たりあるのか?」
「その⋯娘たちは、元カレとやらが死んだ場所にわざわざ静流を拉致ったのだろう?」
「そうだな」
悪趣味な話だ。反吐が出る。
「ただ有志で集まってあの女を詰りたいだけならば、もっと適した場所がありそうなものだがねぇ。女が大好きな喫茶店とか。そもそも最初は、同窓会で詰るつもりだったんだろ?残響岬に変更された理由は何だ?」
ざわ、と総毛立つ感覚が身体中を走った。
「じゃあ、静流は何をされるんだ⋯?」
俺は呑気だったか?静流は今頃⋯!
「どうにもな⋯こう、海がざわついているのが気になっている」
きじとらさんに持たされた緑茶の水筒をあおり、小さく息を吐いて言葉を続けた。
「荒ぶっている、というのは違うか。何かを待ち構えて、昂っているような」
ぐ、と喉が詰まるような呻きが漏れた。何かに耐えるように眉をひそめ、再び息を吐く。
「この空気に、俺は覚えがあるんだよねぇ⋯そうだな」
―――公開処刑場を取り囲む、民衆の昂りだ。
我知らず、アクセルを強く踏みしめていた。視界の隅で何かが光った気がした。
『残響岬』。その名の由来は、この地方に伝わる民話にあると聞いた。千年以上前、この地を襲った津波に恋人を攫われた青年の絶叫⋯その残響が、何年も谺し続けたという言い伝えだ。海抜30mはあろうかという切り立った崖の様相は近くで見ると中々の迫力で、俺でも崖下を見下ろしたいという気はおきない。
「青年の残響は、今でもたまに聞こえるらしいっすよ」
蓮が神妙な表情で、ご当地限定都市伝説のような事を言い始めた。だが今はそれどころではない。俺は車を適当に停めると、施錠する暇もなく車を飛び出した。
「静流!!」
辺りを見回すのすらもどかしく、大声で名前を呼んだ。残響岬にわざわざ来たのは小学校の遠足以来だ。こんなことでもなければ近づきたくない。眼下に暗い海を一望できるこの岬は、その陰鬱な地名の由来と相まって自殺の名所として名を馳せているのだ。
「静流、何処だ!!」
声は虚しく谺した。見晴らしのいい断崖だというのに、何処に反響するのだろう。
「ほう⋯残響岬とはよく名付けたものだねぇ」
辺りを見渡しながら、奉が呟いた。
「一件見晴らしがいいが、細かく隆起している板のような岩が音を反響させるのか⋯こりゃ、見晴らしがいいようで死角も多いだろうねぇ。ちょうど良かった、お前ら散開してここらを探せ。あのどんくさ女を見つけたら、大声で呼べ」
「了解っすー。⋯おーい、ビキニの姉御ー」
―――俺が散々、静流静流叫んでいるのにお前⋯ビキニの姉御ってお前⋯。
「結貴く⋯」
断崖寄りの岩陰から、か細い声が漏れた。最後の声は口を塞がれたかのように消えた。⋯俺が考えていたよりずっと、剣呑な状況になっているらしい。俺は他の三人に目配せすると、彼女らを刺激しないようにゆっくりと岩陰に近寄った。
複数の足音に観念したのか、俺たちが近づく前に岩陰から4人の女の子が顔を出した。⋯俺たちと同じ年頃の、ごく普通の子達に見えるが⋯。
「⋯君ら、その⋯駄目だよそれは。一応言っておくけど、そりゃ犯罪」「違うから!!」
ショートカットの女の子が、食ってかかってきた。
「ちょっと強引だったのは認めるけど!でもちゃんと念を押して誘いました!ね、ヤハタ!!」
「⋯⋯⋯⋯はい」
⋯あぁ⋯これ面倒臭いやつだ。クラスの権力強めな女子だ。普通に横暴だけどよくクラスを纏めるので先生の覚えが良くて推薦入試で大学に入るタイプの女子。⋯彼女らに囲まれて俯いている静流に視線を移す。何やら、白い布を頭に被せられ、白い着物のようなものを羽織らされている。『ような』というのは、なんというか⋯どうもシーツのような質感なのだ。木綿なのだろうか。そもそもあれは着物か?ヨレヨレというか安普請というか。着物ではなく、襦袢なのかもしれない。無理やりお仕着せられたのか、所々に静流の抵抗の跡が見てとれる。⋯状況は全然分からないが、ややこしい事に巻き込まれている事だけは、嫌という程分かる。
「なんでコイツの周りの連中はコイツに白いモン着せたがるのかねぇ⋯ぷっ」
俺の後ろで、堪らず吹き出している不心得者がいるがややこしいので放置する。
「⋯死装束?」
いじめか?
「死装束じゃないもん!」
ツインテールの女の子が泣き始めた。⋯え、今度は何だ?
「花嫁衣装だもん!一生懸命作ったのに!!」
「えぇ⋯⋯」
何故、俺の彼女が自殺の名所で昔の同級生4人に囲まれて無理やりお手製の花嫁衣裳?を着せられているのだ。そこらへんは全く謎のまま、俺が悪者にされるルートに突入したっぽい。
「あーあ、メイ泣いちゃったじゃん!謝ってよ!!」
「サイテー!」
「ヤハタ、こんな人やめときな?絶対モラハラ男だよ!超フツメンだし!」
―――うわぁ。ほんとなにこれ。
無理やり着いてきた中学生と女子高生は興味津々で成り行きを見守っているし、どっかの祟り神は「花嫁衣裳」がツボったらしく崩れ落ちて震えながら笑ってるし、どいつもこいつもマジで役に立たない。
「―――君たちは誰で、どうして自殺の名所で俺の彼女に花嫁衣装を着せているんだ?」
このタイプはずっと避けてきたのだが仕方がない。正直、魑魅魍魎を相手にするよりずっと面倒だが、やむを得ず俺が前に出る。
「⋯⋯冥婚」
長い黒髪の、痩せた子がぼそりと呟いた。目が隠れる位置でパッツンに切り揃えた前髪の隙間から、思い詰めたような視線を感じる。⋯冥婚?
「死んだ鈴木が言ってるの⋯ずっと、そこで」
黒髪がスっと腕を上げて指を差したのは、静流の背後。⋯いや、うぅむ断定するのは早いんだが、過去の経験上、こういう事を言い出す長い黒髪の子は大抵⋯少しイタい感じのスピリチュアル系の思い込みが激しい子が多い⋯彼女が差した辺りには『そういうモノ』が何体かウロウロしているので、あの中のどれかについて語っている可能性もあるからなぁ。
「鈴木が、成仏出来ないでいるの。ずっと、この場所で」
「この場所⋯って」
『鈴木』というのを『大ちゃん』と仮定すると、彼が死んだのは海上ではなかったのか?
「鈴木の遺体は、残響岬の⋯入江の奥まったところにある洞窟に打ち上げられたの」
俺の疑問が彼女らに通じたのか、先頭でイキり倒していたショートカットが付け足した。
「ほう⋯ここらで海難事故が起こると、あの洞に流れ着くことが多いからねぇ」
顎の辺りに手を置いて、奉が興味深げに呟いた。
「で、その鈴木とやらは何を言っているんだい?」
お前誰だよ、という彼女らの視線をものともせず、奉が割り込んで来た。
「言っている⋯というと語弊があるわ。意識を感じるの。⋯ヤハタへの、執着というか、未練というか」
「そうだよね⋯可哀想だよ、あんなに早く死んじゃって」
ショートカットの言葉に、他の3人が素早く賛同する。
「でさ、もうすぐ三回忌だし、うちらクラスの子たちに追悼会?みたいなのやろうよって声掛けたんだけどさ、あいつら薄情で全然分かってくれないし。だからうちらだけでここに集まって⋯ヤハタにも、声かけようと思ってたけど」
ここで憎々しげに眉間に皺を寄せて俺を睨んだ。
「そっちのDV男と付き合ってるって聞いて、ちょっと腹立ってさ」
「DVなんてしていない!」
「ヤハタのビキニ毟って海に投げたんでしょ!」
「毟っ⋯」
俺はバッと振り返って蓮を睨んだ。蓮は手刀を顔の前に持ってきてペコペコと頭を下げた。今更謝っても遅い。
「大学入って早速DV男に引っかかってるのがヤハタらしいけどねぇ~。余計なお世話かと思ったけど、そのクズ男と別れさせて、ついでに冥婚の儀式に付き合ってもらおうと思ったの 」
ダメな妹でも見るような顔で苦笑するショートカット。
「若くして死んだ人を慰めるために、仮に結婚式を開くんだって。うちらが鈴木にしてやれることって、そういうことかなって。だから頑張って花嫁衣装作って、好きだったヤハタが着たら、きっと鈴木が喜ぶと思ったのに⋯」
死者の花嫁させられるヤハタの気持ちは。
「ヤハタ、変わっちゃったよね⋯」
「素直でいい子だったのに⋯ねぇ、こんなクズ男に気ィ使う必要ないんだよ?」
あぁ、目の前で物凄い罵倒を受けている。俺は巷でDV男という事になっていたんだな⋯。静流と目を合わせる。静流は被せられた白い布を取ると、ツインテールの子に押し付けた。
「水着は毟られたんじゃない⋯私が、捨てた。あの人が選んだものだから」
「えっ⋯」
「この白い服と同じ。本当は白いビキニなんて着たくなかった⋯ごめんね」
捨てたというか⋯本当は俺が今でも鞄に忍ばせているのだが。
「ちょっ、ヤハタ!信じらんない!形見の水着をそんなふうに!!」
叱りつけるように声を荒らげたショートカットが、一瞬怯んだ。⋯乱れた髪でよく見えないが、静流の表情に驚愕している⋯のか?
「あなただよね、木下さん。鈴木君に皆の前で告られた時、おめでとう⋯って叫んだの」
「あ⋯」
ショートカットの子⋯木下は、目に見えて動揺していた。静流の肩を押さえつける力が緩んだ隙に、静流は白い着物から袖を引き抜いて木下にそっと渡した。
「で、でもさ!木下は純粋に喜んだだけだよ!⋯そんなにイヤなら断れば良かったじゃん!!」
ツインテールの子が白い布を握りしめて怒鳴った。⋯無理やり絞り出した語尾は、明らかに震えていた。⋯静流は一体、どんな顔をしてこの子達と向き合っているのだろう。
「分かってるよ。⋯私が悪い。私は断らなきゃいけなかった。みんなを敵に回すのが怖くて、私は自分を売ったんだよ」
―――静流のこんな声を初めて聞いた。
「結局、鈴木君を傷つけただけだった。あの頃は自分だって辛かったって思ってたけど、今なら謝りたい」
「だったら!」
「だけど、多分⋯なんだけど、この儀式はやっちゃいけない」
「あ!?」
ツインテールのガラが悪い。このグループでは一番可愛いのだが。
「喜ぶかも⋯しれないけど、成仏なんてしない。鈴木くんは、多分この場所に留まりつづけるよ。だから」
「もう!ここに!留まっちゃってるの!!だから協力してって言ってるのに!!」
黒髪ストレートがヒステリックに絶叫して、ツインテールと木下から白い布をふんだくって無理やり静流に被せた。
「駄目だってば⋯こんな事をしたら『あれ』が来る⋯」
「来るじゃないの!もう居るの!」
静流は一体、何に巻き込まれたのだ。助けに来ておいてなんだが、俺は既に心が折れかけていた。
「冥婚に、生きた人間使っちゃいけねぇよ」
ごぅ、と強い風が一陣吹き、奉の声をかき消した。突然の強風に、彼女達の声も届かない。強風は断崖に吹き寄せる。まるで崖の下に誘うように。
「えー?そうなんすか?台湾だと道端に落ちてる赤い封筒を拾うと無理やり冥婚させられるっていうじゃないすか?」
風下の蓮が、強風の中で大声を張り上げた。
「台湾の冥婚ってのは、あちらさんの家制度上、色々辻褄を合わせるための儀式でねぇ。⋯昔は、未婚の女が死んだ場合は実家の墓には入れなかったんだ」
「へぇー」
「だから便宜上、元々付き合いがある親族などを相手に立てて『結婚した』という建前を作り、そちらに祀ってもらう、というやつが大半だろうねぇ⋯赤い封筒云々というのは、まぁ⋯そういう輩が全く居ないとは言わないが、日本で言えば当たり屋とかに近い感覚じゃないかねぇ。そもそも冥婚自体、今の世では殆ど聞かないよ」
「えー?こないだSNSでバズってたけどなぁ。『やばい、道端に赤い封筒落ちてた!』って」
「自分で置いたんだろ、それこそバズり目的で」
何の話を始めたのだ。
「日本の冥婚は違う。⋯もっと情動的なものだよ。若くして死んだ者の霊を慰める為に、『架空の花嫁』を誂え、巨大な絵馬に結婚式の様子を描いて奉納する⋯ムサカリ絵馬、などと呼ばれているものが有名だねぇ。似たような風習は」
「それ花嫁限定?花婿もアリっすか?」
「うぅむ⋯これは昔の家長制度の名残もあってねぇ、男は結婚していないと一人前と見なされず、祖霊になれないと考えられていた。まぁ、架空の花婿の例もないではないが、少なめだねぇ」
「台湾と同じ感じじゃないっすか」
「そこまで切実じゃあなかった。先祖代々の墓に入れないわけじゃないからねぇ。だからこそよ。冥婚はマストじゃない。親兄弟だか友人だかが故人の思い残しを晴らしてやるためにやるもんさね。この女子共のようにな。だからこそ」
―――決して、実在の人間を絵馬に描いてはいけなかった。
その呟きは、強風の中で不自然な程に俺たちの⋯恐らく全員の耳朶を打った。
「この風習は根底に『死者の執着』が強く根付いているだろう。この無念、焦がれる程の生への執着に生者を、ましてや想い人を巻き込むってのが、どういう事かわかるかい?」
「⋯⋯⋯あ」
黒髪の子が口元を両手で覆って後ずさった。見開かれた目が凝視しているのは⋯崖の先。俺が最前から見ないようにしていた崖の、向こう側に蠢く⋯⋯。
「死者は生者への執着を捨てられなくなる」
風は強く、引き摺るように強く、低く吹き付ける。誘われるように、彼女達が数歩、崖の方へよろめく。その崖の先には⋯こればかりは見える者には見えるし、見えない者には見えない。そして俺は見える側の人間なのだ。遺憾ながら。
「結貴」
奉が俺の名を呟き、睨むように俺を見上げた。何故だろう、その瞬間俺は全てを察した。
「⋯鎌鼬」
俺の呟きに呼応するように、三体の『刃』が俺の背後に立ち現れた。久々に姿を現した彼らは、俺の体を中心に2~3回ほどひゅんひゅんと駆け巡り、俺が睨め付ける崖の先に照準を合わせた。
「蓮、縁ちゃん」
崖から目を離さず、恐らくまだ俺の後ろにいるであろう二人に聞こえるように、声を上げた。
「⋯⋯車の中に戻れ!」
「な、なんすか⋯あっ」
「こっち!」
縁ちゃんが蓮を引きずって駆け去る音がした。車のドアが閉じた音を合図に、奉が俺の前に出た。
「時間稼げ、5分くらい」
「5分⋯」
背後から強風に追い込まれながら、崖を這い登ってきた『それ』を観察する。
崖の先に、無数の青白い手が爪を立てている。一部は強風に押し上げられるようにするすると這い上がって来ていた。文字通り手探りをしながら。
「あ、あれ?動けない⋯?」
木下が、上擦った声で呟いた。
「やだ、なんで!!」
ツインテールが甲高い悲鳴と共によろめいて倒れた。同時に静流も巻き込まれて倒れ込む。彼女らの足を掴む複数の長い腕が、俺には見えていた。
「やだやだやだ、来ないで、来ないで!!!」
黒髪ストレートが絶叫をあげながら、腕を避けて逃げ惑う。⋯あの子には『あれ』が見えているようだ。だから彼女はあんなにもヒステリックに儀式を急いでいたのか。⋯鈴木とやらの姿も、彼女には見えていたのだろう。
―――あいつには、見えていた。
これはどういうことだ。あの子達はただ、夭逝した友達を慰めるために静流をここに呼んだのではないのか?
「やだ、やだってば⋯なんで!?なにこれ!?」
じりじりと⋯彼女らが崖の方に引き摺られていく。これは俺の鎌で切れるのか、考えている暇はなかった。
「鎌鼬!!」
闇雲に旋回していた3頭の鎌は燕のように高く翻り、螺旋を描いて長い腕を裂いた。だが長い腕は次から次に彼女らを絡め取りにくる。⋯キリがない
「⋯えーと、なんだっけ、君ら!少しでも足が動いたら崖から離れて走れ!!」
長い腕は節榑だった指でを鈎のように曲げて俺と奉にも絡みついた。彼女らも一時的に拘束が解かれて走り出したが、間もなく絡め取られた。
「ねぇ!これ何!?」
混乱の中、木下がほうほうの体で俺の方に顔を向け、叫んだ。
「いや、俺が聞きたい」「やっちゃったねぇ、あんたら」
笑いを含んだ声で、奉が叫び返した。
「さっきの坊やが聞かせてくれた『残響岬』の由来。実際は少し違う。⋯結貴、3分追加」
「後にしろ!!」
「渋いねぇ⋯千年程前、津波が来たのは事実だ。数多の民が波に呑まれた。その中には誰かの恋人も、当然居ただろうねぇ。だがよ、一緒に逃げた恋人を呼ばうのが30mはあろうという『崖の上』ってのは、少しおかしくないか?」
確かにこの崖の上まで到達するような絶望的な津波など聞いた事もないし、ここから見下ろせる砂浜は⋯ないでもないが、そこを蠢く人間を判別できる人間などマサイ族くらいだろう。
「地震も津波も雷も、嘗ては神の怒りと思われていただろう。ならば人間がしそうなことってのは何だ」
―――生贄か!!
「数多の悲劇が繰り返されたのはねぇ、実際は『津波後』よ。口減らしも兼ねて、毎年何人もの生贄が『ここ』から落とされたのよ。その大半は波に打ち寄せられ、入江の洞窟に打ち上げられたのだろうねぇ。⋯あの洞窟の奥を探してみな?潮にやられてボロボロの祠があるはずだ」
「探さんけど!!⋯じゃあ、彼女達がやってたことって、彼らから見たら!!」
くっくっく⋯という低い笑い声が、多分俺にだけは聞こえた。
「人身御供だねぇ!!」
木下とツインテール、そして黒髪の、愕然とした表情が視界の隅に過ぎった。⋯いや、待て。
一人だけ、ずっと一言も発する事なく、この場所で成り行きを見守っている『誰か』がいる。
鎌鼬を繰りながら必死に様子を伺うが、『彼女』だけが全く表情を伺えない。この状況でも一言も発しない⋯やがて『彼女』を気にしている余裕すら無くなっていった。―――やがて奉は手を後ろに回し、御幣を取り出した。⋯古くからのツテで時折地鎮祭のような事をしていることは知っていたが⋯御幣を持ち歩く程、神職の自覚があったのか。それとも、今日使うことを予感していたのだろうか。
「ここから5分だ」
「まじかい」
奉の両手が御幣に添えられ、暴れ狂う潮風を薙いだ。暴風を感じないほど水平に、ゆっくりと数回往復する。やがて、静かな祝詞が暴風に乗った。
「⋯此の岬を神の座します磐座と祓い清め、掛け巻くも綾に畏き八百万萬神、産土大神、綿津見神の大前に霊群の現人神なる玉群奉⋯恩頼を蒙りて言挙げたもう⋯」
以前、地鎮祭をちらっと手伝った際は、もっと色々な神性の名を並べていたし文言も多かった。奉も必死で短縮しているのだ、恐らく。祝詞の詠唱が始まってからも、無数の手は崖から這い登り、絡みつく。⋯切り裂きながら、息を呑んだ。俺が傷つけているのは、津波に呑まれて苦しみながら死んでいった御霊であり、生贄として恐怖のうちに断崖から突き落とされてきた数多の御霊なのか。俺に縋り付く手には、まだ幼い子供の手も混ざっていた。白く細い、女性のものもだ。その瞬間どれだけ、掴める『何か』を切望して腕を伸ばしただろうか⋯だが切った。
「天の磐座に仕えまつる人等の犯しけむ雑雑の罪を聞こしませ⋯死に膚断ち蟲物し疎ぶる物集めたまふ、許多の罪出でむ。かく出でば玉群が民侍りて罪祓えつ物を、獣鎌にて選りて大海の原に押し放ち祓い清め根堅洲国に解き放ちけむ」
大きくはないがよく通る声をしていることに、今更気がついた。しかし⋯けもの、かま⋯?俺の事を言われているのか?祝詞には詳しくないし、考えている余裕はない。
「おい、松を一枝寄越せ」
「くっそ⋯!!」
岬から続く緩やかな勾配の先に、遠巻きに植えられた松の枝に鎌鼬を飛ばした。枝は強風に煽られて俺達の方へ飛んできた。咄嗟に空中で掴み、ほうほうの体で奉に手渡す。
「⋯何に使うんだ」
奉は松を逆手に持つと、崖の先にずぶりと立てた。⋯榊の代わりか。常緑樹だしな。
「掛けまくも綾に賢き綿津見神に賢み賢み、敬い慎みて願ぎ申す!」
ふ、と風が嘘のように凪いだ。許されたのか⋯?と、俺は不覚にも勘違いした。⋯鎌鼬を、止めてしまった。
「きゃああぁ!!」
後方から悲鳴が上がった。無数の腕は彼女らを滅茶苦茶に羽交い締めにしていた。俺達にも、無数の腕が絡みついている。
「⋯話がついたぞ、結貴」
「何言ってんだ、風が止んだだけじゃねぇか!」
「そりゃそうだねぇ。⋯だから切れ、絡みついている奴を」
言葉を切って、奉は俺の顔を覗き込んだ。⋯眼鏡越しにも、その瞳の色が見える。奉は⋯何故だろう、俺を憐れんでいるのか、気遣っているのか⋯嘗てなかったほど、哀しげだった。
「ただし、一人を除いてだ」
「誰を!?」
「お前が選べ。⋯必ず、誰か一人だ」
―――誰か、一人。
「お前はもう、分かっている。選んでいるよな」
胃がきりきりと痛んだ。⋯その通りだ。俺はもう、選んでいる。
「―――鎌鼬」
天高く垂直に舞い上がった三つの刃は燕のように旋回し、絡みつく長い腕を切り裂き始めた。
―――ただ一人を除いて。
一人、『彼女』に絡みつく腕だけを、俺は切らなかった。不安、驚愕、絶望の悲鳴が上がり⋯数多の腕が『彼女』を呑み込み、崖下へと引きずり込んだ。⋯残響が、岬を満たした。
「⋯終わったの?」
ツインテールを抱え込んで耐えていた木下が、最初に立ち上がった。ブルブルと震えて泣いているツインテールは、まだ立ち上がれていない。
「見えない⋯もう、全部終わったみたい⋯」
一人、車の近くまで逃げおおせていた黒髪ストレートが、恐る恐る戻ってきた。⋯やはり、彼女は『見える』側の人間だったのだろう。⋯だから欺かれたのだ。多分。
「ビキ兄ィ!無事っすか!?」
蓮と縁ちゃんも戻って来た。⋯彼らが怖い思いをしなくてよかった。本当に⋯良かった。俺はただ、立っているのがやっとだった。もう⋯俺は。
「結貴君!!」
白い着物をかなぐり捨て、静流が駆け寄って来た。⋯全身の力が抜けて倒れ込んだ俺を、彼女は優しく抱きとめてくれた。いつもは嫌味のひとつは忘れない奉が、押し黙って海面を見下ろしている。最後に御幣をひと振りして、そっと松の横に置いた。
木下の下の名前は珠希、ツインテールは日吉舞美、黒髪は金城音羽と名乗った。念の為、海の怪異に害を及ぼされる事がないように祈祷を行う、という名目で聞き出したのだ。彼女らはすっかり憔悴していた。無理もない。仲間が一人、目の前で海に落ちていったのだ。30mの高さから落ちたのだから助かるまい。警察は呼んだ。
「あの落ちていった子はさ⋯」
奉がそう呟いた時、金城音羽が俺を正面から睨みつけた。⋯無理もない、彼女には見えていたはずだ。
俺は敢えて、彼女に絡みつく腕だけ切らなかったのだから。奉は続けた。
「A組の⋯あんたらの死んだ友達と付き合っていたという娘だろう」
彼女らは沈黙した。⋯そういうことなのだろう、やはり。静流も、目を伏せていた。
「もしかして、ここで冥婚の儀式しようとか言い出したの、その子?」
俺が聞いても彼女らは皆、沈黙したままだ。
「俺⋯最初は金城、さんが考えたんだと思ったんだ」
「何で⋯ですか」
俺への警戒を解くことなく、金城が身動ぎした。
「金城さんには、見えていたようだから」
「⋯⋯あんたにも、見えてたわよね当然っ!!」
噛み付くように金城が叫んだ。他の二人が目を見張る。
「途中から莉子に伸びてきた腕だけ、切るのやめたよね!?」
「う、腕!?」
「音羽どうしたの!?」
吐き気がしてきた。⋯そうだ、言い訳のしようもない。俺はあの子を⋯。
「仕方なかろうが。全員を見逃して貰うことは出来ねぇよ。全員連れていかれるところを、どうにか一人で頼むと交渉したんだよ、こっちは!!」
奉が、怒気を含んだ声を出した。
「数百年途切れていた人身御供に、ここの神性は飢えていた」
「お腹空いてたってことっすか?」
おい、混ぜっ返すな蓮。
「違う。供物を受け取るということは、この地に住まう民の信仰心の現れだからだ。信仰心をもって恭しく差し出されるのであれば、人だろうが米一俵だろうが大差ない。例えば俺は信者から甘味を受け取っている」
信者じゃない。
「結貴。お前はもう分かっているな。⋯話せ」
―――珍しいな。お前が、怒っているのか。俺がどんな目に遭っても虫でも観察しているかのような無機的な関心しか寄せないお前が。俺は吐き気をこらえてもう一度、顔を上げた。
「君にはあの腕が見えていた。腕を避けて逃げるのを見て気がついたんだ。ならばこの場所に『鈴木』が留まっているというのは君の狂言じゃない」
「⋯うん」
たった一言だが、口調から硬さが消えた。こういう「見える」性質の子は、早めに気が付いて性質を隠さないと散々に嘘つき呼ばわりされる。⋯俺は知っている。
「それを莉子⋯というのか、その子に話してしまったのか、知られてしまったのか」
「莉子にも見えていたの」
「やっぱり、そうか⋯」
彼女のまとまりのない話を無理にまとめると、こういうことだ。
霊感持ち同士で交流があった金城と莉子は、同窓生の間で流れている『ヤハタに彼氏が出来た』という噂を共有した。噂を聞いた莉子が、金城を連れて残響岬を訪れ、岬に留まっていた鈴木の思い残しに触れさせる。そして『あの人が好きなのは、ずっとあの子だった。せめて結婚式を挙げて成仏させてあげたい』と懇願した。
「だが金城さん。さっき奉も言ってたけど、日本の冥婚はこんなのじゃない。白い服を着せるのも、目隠しをして崖の先に連れていくのも、多分⋯嘗てここで行われていた人身御供の儀式をなぞっていた」
「莉子は⋯良かれと思ってやったのに」
「俺はそうは思わない」
3人は、ばっと顔を上げて俺と目を合わせた。⋯誰も反論しなかった。要は、そういうことだ。
「静流の件で君らが⋯怒っていたこと、吊るしあげようとしていたことも、彼女は知っていた。だから鈴木の霊を慰める、という話を聞けば、君らが協力することも見越していたんだ。⋯多分。それに彼女の自宅は、ここの近くだったりしないか」
「少し歩いたところの旧家⋯」
「旧家なら、ここがどういう場所なのか知ってたはずだ。⋯自殺の名所だったことも利用したのかもな。『あれ』に引き摺られて落ちたとしても、突発的な自殺で片付けられる」
ここが自殺の名所となるには、あの無数の手が少なからず関係しているのだろう。この近くに住んでいる霊感持ちなら、気がついていたのではないか。
「人身御供の衣装を着せて、あわよくば静流を『あれ』の餌食にしようとした⋯と思う」
「大体合ってるが、あと少し足りない」
不機嫌の極みのような顔を隠さず、奉が呟いた。
「あの娘の生家は、まさに人身御供を取り仕切っていた庄屋の家系だねぇ。儀式の手順も、長い腕の対処法も知っていた筈だよ。⋯お前、気がついたんだろう」
⋯頷くしかなかった。絡みつく無数の手を切り落とし続けた俺だからこそ、見抜けたことがある。あの子には『あれ』が見えていて、うまく避けていたからかもしれない⋯そう思おうとしたが。
「あの子だけ、あの腕があまり絡みついていなかったんだ。同じようにあれが見えて、避けられた金城さんと比べても、明らかに少なかった。⋯とはいえ、完全に絡みつかないって訳じゃなくて、隣の子との二択なら何となく選ばれにくいという程度だけど。⋯何となく、許せなかった。だから」
俺は、あの子だけ守らなかったんだよ。
水を打ったように静まり返った岬の草原に馴染むように、一人の少年⋯だったものが佇んでいた。俺たちを見ていた気がするが、俺は敢えて視線を交わさず話を続けた。
「彼女の出自を聞いて納得した。多分、お守り程度の何かを持っていたんだろう。自分だけ逃げ切るなら、それで十分だからね」
「私たちにはその⋯お守りをくれなかったのは」
「あの程度の護符、全員で持ってたら無効みたいなもんだからねぇ」
奉が片頬を上げて笑った。
「あんたらを囮に、自分は確実に逃げおおせるつもりだったんだろうよ」
「あの子っ⋯」
木下が唇を噛み締めて唸った。⋯何で、全部言うんだ。文字通り、死者に鞭打つようなことを⋯!彼女のしたことは許される事ではない。意図に気がついた俺は彼女を『選んだ』。だが⋯
「彼がさ、死後も望んだのが自分じゃなかったんだよ」
ふと顔を上げると、草原に佇む少年と目が合った。⋯執着、だけがその形を保っている無力な気配の塊が、そこにあった。彼はこの場に自分の想い人が居ることに、気がついているのだろうか。
「⋯これが罰なんだとしたら、もう十分だろう?」
「でも!⋯わ、私たちを囮にしてまでやること!?」
「この事が彼女をどれだけ傷つけていたのかは、彼女にしか分からない。ただ⋯彼女は君らが静流を羽交い締めにして着物を着せていた時⋯静流を恐ろしい程冷たい目で見下ろしていたよ。彼女が確実に殺す気だったのはきっと、静流だけだよ⋯俺はもう、全員不運だった、と思うことにする」
一刻も早く、ここを立ち去りたかった。俺は一生涯、残響岬には近寄らない。
踵を返して歩き出した俺の背後に、奉が歩み寄ってきた。
「あの子達は『次の供物』としてマークされている。少なくとも3年は海に近寄らない方がいい、と伝えるかい?」
「何で俺に聞くんだよ。伝えてよ」
くく、と短く笑って、奉は背後から俺を覗き込んだ。
「だってお前こそ、あの娘の意図に気がついた時」
もの凄く恐ろしい目で、あの娘を見ていたよ。⋯そう言い残して俺を追い越した。後から追いついた静流が、そっと俺の手を取ってくれた。⋯自分の手が、ずっと震えていることに気がついた。
俺は今日、俺の意思で人を殺した。