虚舟
アスファルトの照り返しに目が眩む7月。冷夏が予測されていたが、なんやかんやで泳げる程度には暑い。俺は海へ向かうバス停で、彼女を待っていた。
「海には、あまり良い思い出がないから⋯」
伏し目がちに、静流はそう言った。どんな思い出か掘り下げるような野暮はしない。俺はただ笑って、『じゃあさ、いい思い出作ろうよ』と言った。彼女は含羞むような微笑を浮かべて頷いた。⋯ しかし、しかしだ。
人を誘っておいてなんだが、俺こそ海にロクな思い出がない。
去年の冬、寒中水泳大会とやらで、知り合いが死んだ。俺は知り合い程度だったが、今泉の友達だったのだ。⋯彼の死後を苛んだ『水虎』の所業を、俺は見ていた。草間という男が、魂まで食い尽くされて完全に消えたのを俺は知りつつ、誰にも言えていない。
だがそんな不吉な思い出をねじ伏せてでも、俺は⋯
静流の水着が見たい。
服の上からでも分かるが、彼女は恐らく比較的、胸が大きい。巨乳とか爆乳という程ではないだろうが、まぁ⋯縁ちゃん以上、飛縁魔未満という感じだ。ならば水着は是非とも鑑賞したいではないか。出来ればビキニが望ましいが、無理ならばワンピースタイプでも是としよう。久しぶりの「彼女がいる夏」に、海に行かないという選択肢はない。
流石に例の事件の現場は避けた。一番近いビーチはそこなので『どうして?』という顔をされたが、俺は黙って微笑むに留めた。⋯知り合いが化け物に魂ごと食われたなどと言えるわけがない。
「お待たせ。⋯遅くなっちゃった」
微風のような細く柔らかい声に、顔を上げた。
つば広の麦わら帽子が夏の風に揺れる。静流は軽く手を振って小走りに近付いてきた。白いワンピースが深い藍色の空に映えて、俺は不覚にも『これが、本物の夏か⋯』などと意味の分からん感嘆の言葉を口走りそうになった。手にはバスケットを提げている。多分、サンドイッチ等を作ってきてくれたのだろう。⋯なんだろう、全要素がベタが過ぎて『夏デートのイデア』 みたいな存在が俺の目の前に居る。⋯実にいい。
「ううん、全然待ってないよ。⋯ほら、丁度バスも来た」
うだるような夏の熱気をいや増す排気と共に、バスが停車した。
夏休み前の砂浜には、ぽつりぽつりと人影があったがまだ少ない。辛うじて海開きはしているが、海の家も開店していないようだ。静流がバスケットを用意してくれて助かった。中身を聞いたら「えと⋯サンドイッチかな」とはにかみながら答えた。⋯うん、イデアが過ぎる。
「えと⋯場所取っておくよ。着替え、してくる?」
「⋯中に、着てきた」
そう言って彼女は白いワンピースのボタンをゆっくり外した。零れるように、白いビキニの胸が覗いた。⋯情けない話だが、喉がゆっくり上下するのが分かる。⋯静流は顔を赤らめて目を伏せると、少し笑った。
「見過ぎ⋯」
「あっごめん!」
咄嗟に目を逸らした。あっぶねぇ、完全に夏デートのイデアじゃねぇか。まさか今どき、ベッタベタの白ビキニを拝めるとは思わなかった。
―――白い、ビキニを。
「⋯変だった、かな?」
上目遣いに、俺の目を覗き込む。肌理細かい、柔らかそうな肩が触れそうなほどに近付いた。⋯背中に緊張が走る。同時に俺は⋯何故だろう、無性にもやもやしていた。
「いや、すごい似合う」
「ふふ、良かった」
彼女は微笑んでくれた。俺の為だけに微笑んでくれる、白い水着の彼女。⋯だがそれは俺の中で、既に無邪気な夏デートのイデアではなくなっていた。もやもやは既に、強い焦燥感に変わっていた。
「⋯なんていうか、その⋯」
これを飲み込んで永久に口に出さなければ、今日一日は幸せなデートで終わるだろう。だが俺は。
「なんか⋯静流が選んだんじゃないみたいだ」
口にしながら俺は、惨めにも祈っていた。どうか、海デートを嗅ぎつけた悪戯な友人に無理やり買わされていてくれ。横暴な姉さんに『飽きた』という理由で押し付けられていてくれ、どうか⋯。
だが静流が口を開くことはなかった。ただ、すぅ⋯と青ざめた顔に張り付いた自責の表情。じわりと胸を満たした後悔の念。⋯俺はなんという、野暮なことをしてしまったんだ。俺の顔も、さぞかし青ざめていることだろう。
「⋯⋯やっぱり、許してもらえないんだね」
「え」
静流の言葉が途切れた刹那、身震いする程の悪寒が走った。
「ちょっ、これ、なに」
意味をなさない、うわ言のような呟きが零れた。ヒリヒリと肌を炙り焼かれるような空気に晒されているのに、静流はただ耐えるように、青ざめた顔を伏せるのみ。⋯慣れて、いるのか。
「ごめんね。⋯私は、海に来ちゃいけなかった」
何かを探るように、彼女は⋯波打ち際の辺りに目をさ迷わせていた。⋯なにやら、珊瑚のような、イソギンチャクのような、恐らく海の生き物だろうが⋯いや、何だあれは。
仰向いた掌が、波に洗われて藻掻くように蠢いていた。
その後のことはよく覚えていない。ただ静流の手を掴んで、転がるように走ったことだけは覚えている。⋯気がついたら、静流の手を握りしめたまま公道の端に蹲って震えていた。⋯怖い。あんな神社に出入りして、散々怪異に晒され続けた俺がこんな事を思うのもなんだが、久しぶりに感じた純然たる恐怖だった。
「しっかりしろ俺、あんなもの見慣れてるだろう、ほんとしっかりしろ俺」
ほら、見ろ。俺の傍らで座り込んでいる静流の方がずっと冷静だ。俺はどうかしている、俺は。
「⋯⋯ありがとう」
見上げると、憑き物が落ちたように表情を緩めた静流。その頬を、一筋の涙が滑り落ちた。
「―――わ、ごめん!俺ばっかりビビって⋯静流も怖かったよな!?」
静流の背中をぽんぽんと叩いているうちに、少し落ち着きを取り戻してきた。⋯いや、落ち着いたというより多分、脅威が遠のいたという方が正しい。しばらく背中を叩いていると、静流は泣きながら、頼りなく微笑んだ。
「⋯⋯連れて逃げてくれて、ありがとう」
海はやめておこう、という話に落ち着き、まぁ当然だがお互い着替えて公道で落ち合った。⋯もう、海に戻る気分にはなれなかった。というより、掌が漂着していた近辺が大騒ぎになっているし、恐らくそろそろ遊泳禁止になるだろう。
「ガチの漂流物だったとは⋯」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「今日の夜とかに、ニュースで報道されるかもな」
「されないと思う⋯多分」
潮風が静流の長い髪を、海の方へと煽った。⋯後ろ髪を、引くように。
「⋯初めての彼氏の話をしたら、怒る?」
少し考えて首を振ると、静流はぽつりぽつりと話し始めた。
高校生の頃、課題発表のグループに『あの人』はいた。グループに馴染めず孤立していた私に、『あの人』は声を掛けて、話を振って、皆の輪に招いてくれたのだ。(名前は教えないで欲しいと俺が頼んだ)便宜上、Sとする。
自分の拙い話を、間の悪さを、面白がってくれた。膨大な作業を一人で押し付けられた時は、笑いながら作業を分担してくれた。私は徐々に、Sに心を開いていった。そんな頃。
Sに、告白された。
公衆の面前で。グループメンバーの前で。どうしよう、どうしよう、どうしよう⋯頭の中が真っ白になり、何も考えられず、口の中がカラカラになった。へ、返事しなきゃ、でも何て?⋯その時。
「やったじゃん!おめでとう!!」
グループの女の子による、耳を劈くような祝福。
⋯え、祝福!?わ、私何も答えてない⋯!
「カップル誕生じゃん!」
「おめでとう!」
「おめでとう!」
「くっそー、うまいことやったな!おめでとう!!」
拍手と歓声の暴力。その暴力に包まれて、照れたように笑う、S。私は。
―――私には『権利』がない事を知った。
晴れて『カップル』となった私たちは、平日休日問わずデートを重ねた。Sが好きなのかどうかも分からないまま。ただ、理解していた。⋯Sの告白を断った時点で私は『恩知らず』『存在価値なし』のレッテルを貼られ、空気だった時よりも酷い状況に置かれるということを。
話題のオシャレなカフェでタピオカを飲んだ。
ビリヤードバーに行った。
サッカー観戦に行った。
彼が所属しているフットサルチームに応援に行った。
チームの合宿に、お手伝いに行った。
海デートに行った。
ただ無心に『彼女』という仕事をこなし続けた。自分の気持ちが何処にあるのかなんて、最早どうでもよかった。『彼女』という仕事を疎かにすれば、また居場所を失う。グループの全員が牙を剥く。⋯だから頑張った。いい彼女にならなくちゃ。求められる事は、何でも応じた。
その年の秋、Sから『お泊まりキャンプ』の誘いを受けた。私は⋯さすがに男の人と泊まりは、家族が許してくれないから⋯と、やんわりと断ろうとしたけれど、『大丈夫!グループのメンバーがアリバイ協力してくれるってさ!』と、Sは晴れやかに笑った。⋯私はしめやかに、ペグ打ちの練習を始めた。
当日。
重い荷物を二人で分け合って、最寄り駅からキャンプ場まで歩いた。駅近のスーパーで食材を買って、火起こしの方法はWebで調べて⋯。二人で一生懸命組み立てた竈に火を起こして、網を掛けて肉を焼いた。⋯二人とも煤だらけになって、お互いの顔を見て笑った。
へとへとになるほどペグを打ってようやく立てたテントに入り、カンテラを灯した。まだ6時くらいだけれど外はもう暗くて、疲れているから意外とよく眠れそうだな⋯と、少しうとうとしていたら
服に手を掛けられて、目が覚めた。
嘘でしょう⋯?
こんな時間、ほぼ外みたいな場所で?
外には他にもテントが立っていた。外はまだざわめいている。
嫌だ、嫌、絶対に嫌だ⋯⋯!!
わた、私は⋯⋯!!
咄嗟にあの人を突き飛ばして、闇雲に走り出していた。
「6時とはいえ秋口だからもう、間もなく外は真っ暗になって、自分が何処にいるのか分からなくなって⋯山の中を一晩さ迷って、野犬の群れに追われたけど何とか巻いて⋯とにかく寒かった。翌朝、ガクガク震えながら這って斜面を登っていたら、産まれたての牝鹿と間違われて猟友会の皆さんに追い込まれて狙撃されて」
「狙撃」
「殺しかけたお詫びに振舞ってもらったクノールのカップスープが心に、沁みました⋯」
「よくそんなので許したね⋯」
「散弾じゃなくて、助かりました」
「怖」
その後、Sとはお互いごめんなさいして仲直りしたんだけど⋯と、静流は話を続けた。
小康状態は保っていたものの、二人の関係はギスギスし続けていた。そんなある日、グループの女の子が二人、心配そうに眉をひそめて近づいてきた。彼女らは、私にある情報を伝えたかったのだ。
「最近さ、Sのヤツ、A組の子と遊んでるらしいよ?」
彼女らは心配そうに、でも少し探るように私の反応を待っていた。私は。
「うん⋯そか。うん。仕方ないよ、私が悪いの」
私がつまらない子だったから。Sにはもっと活発な子が合ってるよ。そう言って少し残念そうな表情を作って笑った。彼女らは顔を見合わせ、何か腑に落ちないような表情を浮かべた。⋯しまった。対応を間違えた。そう思った時にはもう遅かった。
私の反応は誰からかSに伝わったらしく、程なくしてSはA組の子と付き合い始めた。グループでは再び孤立が始まったけれど、外面上は私が振られた形になったので、あからさまなイジメのような事は始まらなかった。やがて冬が過ぎ、三年生になるとクラス替えで私たちはバラバラになった。⋯それだけで、この話は終わるはずだった。
「終わらなかったの?」
「三年生の、夏くらいかな。一度だけ、話しかけられたの」
「静流ってさ⋯」
誰もいない放課後の廊下で、ふいに呼び止められた。その頃は受験の準備で忙しくて、Sとの事は忘れかけていた。だから本当に⋯不意をつかれて、私は固まってしまった。
「え⋯あ⋯」
「俺の事、どうでもよかった⋯?」
久しぶりにちゃんと見たSの顔は、何故だろう⋯とても、傷ついているように見えた。なのに、私は。
「⋯⋯⋯」
何も、言葉が出なかった。今も時折思い出して、激しい後悔の念に襲われる。
「⋯うん、分かってる。俺が悪い」
そう言ってSは、痛々しい笑顔を浮かべた。
「じゃあ、な」
これが、Sとの最期の会話になった。
「数週間後にね、Sの遺体があがったの。⋯いつか一緒に行った海に」
「―――まさか」
「自殺じゃないの」
今日一番、強い口調だった。
「小さな船で、海に出たって。そのまま行方が分からなくなって⋯泣きじゃくるA組の彼女を遠くから眺めて、ただ最期の会話を頭の中で繰り返して⋯涙とか、出なくて」
船には釣りの道具を積んであったらしい。静流の話ではアウトドア好きのようだから、新しい趣味として海釣りに手を出してしまったのだろう。
「後味の悪い話、だったな⋯」
「そうね⋯結局、Sの体は全部は⋯戻らなかったから」
「戻らな⋯!?」
「ボートのスクリューで寸断されて⋯あちこち、欠損した状態で揚がったって」
帰らなかったSの体と、波打ち際で藻掻く掌が、頭の中でリンクした。
「あの、掌は」
「⋯おかしいよね⋯あれから2年、経つはずなのに、さっきまで生きてたみたいな状態で見つかるの。そしていつも」
見つけるのは私なの。⋯まるで私が海に来るのを待っていたみたいに。そう呟いて、静流はまた瞳を伏せた。
「だから私は、海に来ちゃいけなかった。出禁⋯みたいな」
そして力無く笑う。⋯彼女にこれほどの理不尽を、死んだ後まで押し付け続けたその男には殺意さえ覚えるが、生憎本人は死んでいる。それに、なにより。
―――少し、おかしくはないか。
「なぁ、やっぱり、もう一度海に行こう」
「え!?」
「伝わってない気がするんだ。その⋯この現象を起こしている奴に」
「⋯あの人に?」
「⋯まぁ、うん。つまり何を言いたいかというと、色々とちぐはぐな気がするんだ。伝えるべき人に、伝えるべきことが伝わってないような⋯だから、『彼』が体の一部を送り付けることで何かを伝えようとしているならば、迷惑していることを伝えればいい」
伝えるべきだ。そして俺は。
「静流が二度と、海を見られないなんて嫌だ」
俺は海が好きだ。
今年も、来年も一緒に海が見たい。それは今まで静流と関わってきた奴らと同様、俺のエゴかもしれないけれど。
青い海に映える白い肌と、屈託ない笑顔が見たい。例えば遠い将来、俺たちが離れ離れになったとしても、大切な人と笑顔で海を眺めていてほしい。彼女は⋯不可解なほど、海デートのイデアだ。
「行くよ」
「で、でも警察が」
「じゃ、もう一つ先の海岸でいい」
俺は静流の手を取り、公道を走り出した。
小さな林を抜けた先に、黒い砂浜が広がっていた。河口が近いせいか、先程の海岸に比べると砂の色が濃い。というか土っぽい。水の色も濁っているのでビーチとしては人気が低いがその分、人が少ない。しかもこの海岸、河口から離れると急にトプっと深くなる、初見殺しのクセつよ海岸だ。間違っても静流を泳がせるつもりはない。俺は少し小高い砂丘に小さなシートを敷いて、腰を下ろした。静流も傍らに座る。⋯静かに、波が寄せて返すのを眺めている。
「⋯やっぱり、好きじゃなかった」
ぽつり、と静流が呟いた。俺には見えない誰かに語りかけるように。
「時間を掛けて、ゆっくり貴方を知れたら、そのうち好きになったかもしれない⋯って思った。あの時は。でも違う。私はきっと、どれだけ時間をかけても、貴方を好きにはならなかったの」
小さいけれど、ハッキリした声で静流は続ける。
「流行りのスイーツばかり置いてるカフェは嫌い。耳目を集めることしか考えてない、その場凌ぎな味がするから。スポーツ観戦も嫌い。どちらかが悲しい思いをするから。フットサルも⋯好きじゃない。やりたくないのに『やってみなよ!体験体験!』って善意でチームに入れられて、その日一日、針の筵だった」
うん、知っている。君は常に、そういう人だ。
「キャンプもバーベキューも知らないチームの合宿も⋯嫌だった。買い出しとか火起こしとか地味な重労働は丸投げされて、『家庭的だ』って褒められるのは何故か大勢で野菜切ってる子たち。楽しいのは我の強い人ばかりだよね、ああいうのって。バーベキューなんか⋯焦げたキャベツと焼きそばの余りくらいしか食べたことない」
―――女の子がやたら野菜を切りたがるのはそういうことか。
「なんか、災難だったな。肉、食べられなくて」
「いいの。ちょっと具合が⋯とか言って日が暮れる前に速攻で帰って⋯帰りにいいお肉を少しだけ買って、清潔な室内で丁寧に焼いて食べるから」
「あぁ、うん⋯」
静流の潜在的BBQヘイトが凄い。
「一生懸命、私をみんなに馴染ませようと心を砕いてくれてありがとう。一緒に火起こしした事、覚えてる。あれは楽しかったよ。⋯いい人だったなって、今でも思う。でも、私たちは多分、分かり合えなかったよ。あのまま一緒にいたら、そのうち私の事⋯嫌いになったかも。だからもう、私なんかじゃなくて⋯貴方を大事に思ってくれる人たちの許に⋯帰ってあげてほしい」
何だこれ、自分の彼女と元彼の別れ話聞かされるの、辛すぎて逆に斬新。
「私ね、好きな人が出来たんだ。⋯その人はいつも何かに巻き込まれて酷い目に遭うけど、いつも乗り越えて⋯何事もなかったみたいに飄々と、日常に戻っていくの。それに、気がついてくれた」
言葉を切って、静流は俺の目を覗き込むように、視線を上げた。
「⋯私が選んだ水着じゃないって。⋯私を、見てくれた」
静流がスカートの砂を払って立ち上がった。手には、白い布を持って⋯
「だから返すね、貴方が強引に選んだやつ!!」
「とんだスケベ野郎じゃねぇか!!」
つい叫んでしまったが、静流の手を離れた水着は宙を舞い、波間を漂った。⋯良い、手向けかもしれないな。Sよ、お前は幸せ者だ⋯。
「あ、あれ?」
大型の猿のような集団が奇声を発しながら海に飛び込み、浮き沈みするビキニに殺到した。⋯ちょっとまて、あれは⋯!!
「⋯男子中学生だーーー!!」
おぉぅ男子中学生⋯人生で一番バカでビンボーな季節が生み出す魔物。無尽蔵の体力を武器にパトスとリビドーの赴くままに刹那的に生きるバカな生物なので、信じらんないことをする。まさに今だ。
「え?え?ど、どうしよう⋯捨てたけど!使わないけど⋯!」
「⋯畜生!!」
遮二無二飛び込むしかなかった。彼女の白ビキニを男子中学生の群れに奪われる事で、俺は確実に何かを喪う。そして俺は初見殺しの海域で男子中学生の群れと大騒ぎしながら白ビキニを奪い合う羽目になった。白ビキニを抱え込む俺に男子中学生の群れが齧り付く様は猿人のマンモス狩りのようだったと、後にビキニの持ち主が語った。⋯そのうち奴らのうちの一人が、とぷっと深くなっている初見殺しスポットにはまりこみ、溺れかけたのでやむを得ず『捕まれぇ!!』と叫んで白ビキニを投網の如く放り、バカに端を持たせて引っ張りながらほうほうの体で海岸に辿り着くと、ビキニの持ち主が呼んだ警察に、何故か俺がこっぴどく叱られた。
―――傍から見ると、俺が中学生をそそのかして悪ふざけをけしかけたように見えたらしい。
最初は誤解に乗じてはしゃいでいた中学生だったが、愈々俺が傷害容疑で逮捕される段になって、ようやく事態の深刻さを察して慌てて証言を翻した。なんでこいつらこんなにバカなんだ⋯まぁ、翻されたところで中学生と白ビキニを奪い合っていた事実は翻らない。警察官は「あぁ⋯うん、まぁ⋯以後気をつけて」と、同情とも憐憫ともつかない感情を滲ませて去っていった。静流は「ごめんなさい私のせいで!ごめんなさい!」と一日中謝り倒しだった。⋯なんというか、彼女が悪い訳ではない。ただ彼女は、びっくりするほど凶運を引き寄せる。
結局このドサクサで白ビキニは捨てそびれ、今は俺の鞄にある。
という話を書の洞で奉に聞かせた。傍らにはきじとらさんが置いてくれた、冷たい緑茶が結露を落としている。家族の目を盗んで手洗いした白ビキニは、万一家で見つかったら家族裁判及び証人喚問確定なので念の為持ち歩くことにした。
「えぇ⋯お前それ持ってきたの」
奉は明らかに引いている。
「⋯成行きだよ。本人に返すわけにもいかないし」
「で、何だ。珍しく惚気に来たのか」
「違う」
白ビキニ争奪戦のせいで有耶無耶になったが、実は何も解決していないのだ。静流は海で死んだSが自分に向けて死体の一部を送り付けて来ていると⋯そう思っているが、俺は実は懐疑的なのだ。
「へぇ⋯何故そう思う」
「なんか⋯普通だからだよ。あの二人の始まり方も、終わり方も」
話題にするのも嫌だが⋯自分の見解を話すことにした。
「静流はSを良い人だといったけど、俺はそうは思ってない。⋯いや、悪い奴という訳じゃなくて、年相応に狡いところもあって、少し幼稚なところもある、まぁ⋯普通の男だよ」
彼らの始まりは多分、仕組まれたものだ。静流の、押しに弱く流されやすい性格を利用して、予め根回ししておいた友達と共にゴリ押ししたのだろう。最初静流に親切だったのも、この展開を作るため。⋯もう少し悪い奴なら、女友達に頼み込んで、敢えて孤立状態を作った可能性も⋯いやそれは考えすぎか?
「考えすぎだ。お前が疑心暗鬼になってどうする」
「そうだな。すまん、聞かなかったことにしてくれ。⋯可愛くて献身的な彼女は、自慢だったろうな。仲間に見せびらかしたかった気持ちは俺にも分かる。好きだったのは本当だろうし、大事にしていたんだと思う。⋯遊びとかではなく。ただ、こいつは静流を侮っていた」
彼の要望は、静流の我慢の限界を超えてしまった。その瞬間から⋯まぁ、これもこの男の『普通さ』を示しているんだが、静流に拒絶されたことで今までの我儘が急激に恥ずかしくなったのだろう、多分。⋯彼にはもっと色々な感情が湧くかと思ったが、今のところ『共感』が一番大きい。
「⋯共感要素、あるか?」
「最初の彼女なんてそんな感じなんだよ。⋯お互いに相手に期待し過ぎて相手を怒らせて、喧嘩の仕方がわからなくて関係が悪化してお互いボロッボロの状態で別れて⋯随分後になって、俺若かったよなぁ⋯て思い出すんだ」
「おい悲惨だな。なんでそこまでして恋人なんぞ欲しがるんだろうねぇ」
「それを繰り返さないように、人は成長するんだよ。⋯生きてればな」
だがSはまだ若かった。だから重ねて悪手を打ってしまったのだ。⋯静流に対する気まずさや後ろめたさを誤魔化して自己肯定感を保つために、一応キープしていた、自分に好意を持つ女の子と遊んだ。自分に恥をかかせた静流への当てつけもあったのだろう。これで静流が傷ついて泣いて一波乱起きれば、自分の恥は帳消しになるじゃないか。しかし。
『そか、仕方ない、私が悪いもん、その子のほうがお似合いだよ』
「波乱どころか!まさかの!淡白な反応!これ傷つくよな!?激怒されて殴られるほうが数倍マシ!!」
思わず白ビキニを握りしめてしまった。縋り付いて泣いてくれない!引き止めるつもりすらない!⋯俺がこんな反応されたら、俺が悪くても半日泣く自信がある。
「⋯よく分からないねぇ」
奉は軽く首をすくめた。そりゃ、祟り神には分かるまいよ。思春期の繊細な心なんてな。
「ここで気がついたんだろうな、あんなやり口で手に入れた恋人は、自分の存在を迷惑にしか思っていなかった、と」
「願望入ってねぇか?」
「入っていない!⋯で、ひっそりと破局した。⋯正直、まぁ⋯ありふれた失敗だと思う。しばらくは引っ張るかもしれないけれど、自殺は勿論、死して尚妄執に取り憑かれる程の関係でもなくないか」
「メンタルの力加減が分からん」
「そうなんだよ!そういうもんと思って聞け!⋯今、静流が認識している現象は『静流が海に近づく度にSの死体の一部が打ち寄せる』ってことだろう。この現象を引き起こしているのは⋯」
「―――ああ、Sとやらじゃねぇよ」
「何で知っている?」
「Sの事なんか知らんよ。だが、静流という女の事は知っている」
そう言って奉は、口の端を釣り上げた。煙色の眼鏡の奥は、伺えない。
「未来視なんてチート能力持っている人間の出自が、平凡なものだと思うのかい」
静流の⋯出自?
「あいつ、どう考えても特殊なんでな、『俺の氏子』に引き入れる際に、奴の産土神に詳しい引き継ぎを頼んだ」
奉の表情が、一瞬曇った。静流は⋯一体。
「大まかなイメージしか受け取れないんだが⋯一つ分かっているのは、俺より数段古参の神を祀る、古代の宗教的指導者の家系だったんだよ。あの女は」
口調の所々に、苦々しいものが混ざる。⋯相変わらず、自分よりビッグネームの神性に謎に対抗心が生じるらしい。
「もう本人たちですら忘れ去っている程古代だがな。⋯卑弥呼みたいなものとでも思っておけばいい」
「卑弥呼」
「ここもまぁ⋯ぼんやりとだが、どちらかというと『海』に関わる神性っぽいな。で、なんだ。そのSとやらは数人がかりで静流をはめて、無理矢理モノにしたんだって?お前の見立てだと」
「お、おう⋯」
「ほら、道理が通った。自分の擁する巫女を無理やり追い込み、穢したその男は『重罪』だねぇ。神の所有物に手をつけたんだから。海釣りの小舟に乗せられた罪人は、審議の秤にかけられ⋯有罪となった」
そう言って奉は、本の山を取り崩して一枚の古びた和紙を差し出してきた。和紙には、稚拙な筆運びで描かれた、なんだろう、円盤のような?いや、UFOのような絵が。
「―――なにこれ」
「虚舟だ。⋯知らなかったか?」
古代から時折、流れ着いたと言われる一人乗りの船でねぇ⋯と奉は説明を始めた。
「こう⋯お椀のように上部を低い天蓋で密封された船の中には日持ちのする食料が積まれ、完全に海流頼みの状態で流されるんだ。虚舟から降りてくる『まろうど』は未知の知識や技術をもたらしてくれる『神』とみなされ、その船は神の乗り物とみなされていた。だが実際、虚舟に詰められて流されていたのは、罪人だ」
それは罪人の生殺を海に任せる、刑罰の一種であった。100日分の食料と共に海に放たれた船のほとんどは波に呑まれ、砕かれたことだろう。罪を許された僅かな虚舟だけが、たどり着いた地にて生き延びることを許された。
「さて、件のSさんよ。最期に『俺が悪い』と言ったんだよな?罪を認めた状態で、静流のホームに船一艘で乗り込んでしまったんだねぇ。⋯海の神性と静流の関係性は正直分からんが、まぁ⋯仮に、玉群と同様、何らかの契約を結んでいたとする。例えば、眷属に危害を加えた者に海で裁きを⋯とかな。それか単純に、いつしか祀られなくなった事に苛立ちを覚え、ご利益を示す事で祭祀を行えと訴えている、か。今何が起こっているかというとな、契約履行の書類が届きまくっているって状態なんだよ」
「そんな⋯じゃあ、Sに何を訴えても、死体は打ち寄せ続けるのか!?」
「理解しました、ありがとうございますって示せばいい。それこそ、祭祀でも行えばいいんじゃねぇの」
「祭祀!?じゃあお前がやれよ、氏神だろう」
「面倒くさいねぇ⋯まぁ、やるよ。お前や静流にも付き合ってもらうがな。ただ、覚えておけよ?」
ふいに奉が、ぐいと口の端を上げて笑った。
―――縁を連れて逃げる気なら、海路はお勧めしないねぇ。
⋯背中を冷たい汗が伝った。こいつは何処まで把握しているのか。
そして万一、俺が縁ちゃんと逃げるような事態に陥った場合、海が俺に牙を剥くのか。
「怖い女だねぇ、静流は」
くっくっく⋯と喉に引っかかるような笑い声を上げた。
彼女は本当に、海のイデアだったんだ。
それはいい。俺は彼女の大人しさや従順さに惚れたわけではない。
彼女の底知れなさを、何より愛している。だから、いいんだ。
問題は、いよいよ俺と縁ちゃんには逃げ場が無くなったということだ。