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霊群の杜  作者: 柘植 芳年
43/54

火車

―――今が、五月で良かった。


不謹慎にも、そんな事を思っていた。

もう少し暑い時期なら、スーツは厳しかった。

草間の葬儀から数カ月。喪服…というか黒っぽいスーツに袖を通すのはそれ以来だった。否、数カ月しか経っていない。

「なんか…これ着て就職活動するの、縁起悪いな」

今泉が余計な事を呟いた。…俺は全てを忘れてこのまま就活に使おうと思っていたのに。

草間の時と同じように、俺達は『薬袋』の葬儀に揃って参列していた。念のため鴫崎にも声を掛けてみたが、そもそも鴫崎は薬袋とそこまでの面識はなく、普通に断られた。奉は当然来なかった。

俺達が薬袋が巻き起こす様々な厄介事に苦しめられている間、鴫崎はコツコツ仕事をしていたのだ。

まるで真逆だ、小学生の頃と。

「…急、だったな」

間が持たなくて、さっきも呟いたことをまた呟いた。ここらで一番立派な葬祭場に、静かな黒い集団が連なっている。それをただぼんやりと眺め、同じ列に連なりじりじり進む。

「…そうか?」

思わず、そう返してしまった。

彼女は云った。

『あの人は、もう助かりません』

あの男は云った。

『もう長くねぇよ』

それは病の宣告のように、繰り返し聞かされた。だから俺は、薬袋の死を確定した事項と捉えていたのだ。訃報を聞いた時も、衝撃はなかった。ただ、張り詰めていた何かが緩んだような…。

「いやいや、急だったろ。地盤沈下に巻き込まれて圧死とか。伊藤の家、あの辺なんだよ。大丈夫かな」

伊藤が誰か思い出せないが、広げる程の話題じゃないので、適当に頷いた。



―――薬袋の病院が地盤沈下で半壊したニュースは、薬袋の訃報と同時に届いた。



この辺りでは一番大きな病院だったこともあり、地元のニュース番組ではトップニュースの扱いだった。外来はほぼ完全に休診していて、入院患者も比較的安全な区域に移し、徐々に転院の手続きを進めているという。

「あそこ、なくなるのかな。俺ん家、子供の頃からずっとあそこだったんだよ」

今泉が、遠くを見るように顎を上げた。昔っから健康優良児だった今泉が病院にかかる機会などほぼなかっただろうが、懐かしむからには担当は変態センセイではなかったのだろう。

「……困るなぁ」

「お前が困ってんなら、再建されるだろ。なんか、あるんだろ?地域に必要な病院の数…がどうとか」

実際、あれだけ大きな病院が廃業するとなると影響が大きすぎる。場所を変えてか地盤を固めてか分からないが、結局再建されることになるのだろう。薬袋がどうあれ、病院自体はまともな病院なのだ。

黒い列はゆったり歩むのと違わない動きで、俺達はそれから五分もしないうちに焼香台の前に居た。

白い花に包まれた棺は、しっかりと閉ざされ…その棺には『窓』が…『窓』が、ない。俺は息を呑んだ。

「…本当だったんだな、あの話」

誰に云うでもなく、今泉が呟いた。

地盤沈下に巻き込まれたのは、薬袋を含めた数名。そのうちの4人が死亡。そして薬袋は。薬袋、だけは。


―――全身を岩やセメントに砕かれ、無残な遺体となって発見された、という。


だから、棺に窓がついていないのだ。

―――祭壇が、近づいてくる。

白い棺の中に、つい数日前には生きていた、薬袋の残骸が収まっている。…実感が、湧かない。

「終わった…のか」

じりじりと、歩を進めながら呟いてしまった。

薬袋と俺達の邂逅は『事故』以外の何ものでもない。出来れば関わり合いになりたくなかったし、あの男との関わりが今後一切断たれるのであればそれは『終わった』と言うのが正しいのだろう。…しかし。



こんな終わり方を望んでいたわけではなかった。



いや、終わるとすれば突然、しかも薬袋の死という形で…というのは散々予告もされていたのだ、そういえば。

俺は殺されかけているし、彼がやらかした事を考えれば、当然の報いでしかないのだが…。

今泉の足が止まった。抹香の煙が俺達を包んだ。…そうか、俺達の番だ。

焼香台の前で小さく息を吐き、香を三回落として手を合わせた。白い棺が視界の隅に入るが、敢えて棺を見ないようにする。あの中に変わり果てた薬袋が『在る』とは、どうにも受け止められない、否、信じられない自分がいるのだ。

手の甲で肘辺りを叩かれ、ふと我に返る。今泉が不審な顔で俺を見上げていた。俺は少し不自然な程の時間、焼香台の前でぼんやり突っ立っていたようだ。

「……悪りぃ」

踵を返して焼香台から離れる間に、今泉に「マック行こうぜ」と声を掛けられた。

この時はまだ、俺は気が付いていなかった。



この時の勘が、あながち外れてもいなかったことに。




低く分厚い雨雲が空を覆い、俺達がマックに駆け込むと同時に、この一帯は豪雨に見舞われた。なんというラッキー。今泉と居ると、こういうことがとても多い。前世になにか非常に大きい徳でも積んだのだろうか。低い遠雷が響く。そろそろ、雷にも見舞われるのだろうか。丁度いいから暫くはここで雨宿りすることにする。

窓際の、少しガタガタする席しか空いていなかった。それでも二人掛けの席をとれたのはラッキーだ。傾いた白いテーブルにハッピーセットを置いて、椅子をひいた。

「お前なんだそれ」

今泉が笑いを含んだ声で揶揄う。

「小梅が集めてるんだよ。プリキュアカード」

今週のハッピーセットはプリキュアのカードとシールのセットがおまけで付いてくる。どのプリキュアが出るかは完全ランダムな上に、今期のプリキュアは8人も居やがる。

「小梅の推しキャラ『キュアヒヤシンス』が出てくるまで、俺はハッピーセットを食い続けなければいかんらしい。奉なんて毎日ハッピーセットだ」

「……ふぅん」

「……いいんだぞ、あいつちょっとキモいよなと言っても」

実際に自分の姪っ子に執着されるキモさは格別だ。

「玉群は、どうしてる?」

今泉はさりげなく話題を変えた。葬儀に顔を出さなかった奉は、相変わらず書の洞で本を読み漁っている…わけではなかった。

「あいつは…ここ数日、少し変なんだよな」

出不精で洞の外にすら自分からは出ようとしないあの男は、今、境内裏の森を彷徨い歩いている。普段の運動不足が祟り、森から出てくる頃には死にそうな程息を切らして足をもつれさせているが、一息つくと再度ヨロヨロと森に入り込む。お前なにやってるんだと声をかけてみたが『こればっかりはねぇ…お前といえど、巻き込んでいいものかどうか』とブツブツ呟きながら、森の暗がりに消えていったのだ。巻き込まれる所以もないので、俺はそれ以上追及しない。

「追及しないのかよ」

ポテトの油を指先から拭いながら、今泉が云う。

「当たり前だ。十中八九、面倒事なんだから。俺はもう学んだんだよ。面倒なことには自分から関わらない」

『回避する能力』に長けた親父や榊さんに、散々注意された。今回、薬袋に関わってしまったこと、散々命に関わるトラブルに巻き込まれたことで、俺も懲りた。俺はもう、首を突っ込むのをやめた。今泉や静流と一緒に平和に、穏やかな大学生活を送るのだ。奉のお守は最低限でいい。あいつだって子供じゃないんだ。

「うーん…それでいいんだけどさぁ…」

先をちょっと咥えたポテトをぷらぷら動かしながら、今泉は視線を彷徨わせた。

「なーんかさ、少し、嫌な予感がするんだよなぁ」

「そら来た!そういうのだ。俺はそういうのを大事にしようと思うんだ」

「そういうの…?」

「嫌な予感だよ。お前がそう思うなら確実だ。俺はもう関わらないぞ」

今泉の『嫌な予感』は、かなりの確率で当たる。だのに回避する能力がないのだ。そういう狡さを感じないところが、こいつが周りに愛される所以なのかも知れない。だが俺は愛されなくていい。面倒事は沢山だ。

「うーん…」

ポテトは更にプラプラ揺れる。そして少しずつ短くなっていった。

「その、ほったらかしにした問題がさー」

一回り、大きくなって戻ってきたりして。そう云って今泉は、最後のポテトを齧って紙のケースを潰した。

「玉群ってさー、頭いいんだけど、なーんかこう…へんな基準で色々決定してない?」

ぐらり…と、俺の盤石の決意が揺らいだ。さすが今泉、痛い所を突いてくる。あいつは基本的に『人間的な』基準で物事を判断することはない。なにしろ『祟り神』なのだから。


「あ、結貴君!」


背後から、細く澄んだ静流の声がした。

「来てたのね」

振り向くと、突然の豪雨にガッツリやられて濡れ鼠と化した、我が恋人が立ち尽くして居た。

「あはは…私、雨女、だから…」

そう呟いて力なく笑う。くそ真面目に用意したらしき正式な喪服も台無しだ。彼女はこういう事がものすごく多い。前世になにか酷い悪行にでも手を染めたのだろうか。俺に出来る事は、黙ってハンカチを手渡すこと位だった。

「おー大変だったじゃん、俺のハンカチも使ってよ。なになに、静流ちゃんも来てたの?」

……全くだ。彼女とてあの変態医師にはホルマリン漬け候補として目をつけられたり、妊婦の死体に囲まれてのお茶会に付き合わされたりと、散々な目に遭わされているというのに。だから敢えて声を掛けなかったのだ。

「うん。お身内じゃないから火葬場まではいけないけど、霊柩車のお見送りをしなきゃって…」



―――何でだ。



妊婦になったら腹を裂かれてホルマリンに漬けられたかも知れないというのに、何の義理があってお見送りにまで付き合っているのだ君は。そんなことだから最後まで面倒事に巻き込まれまくるんだぞ。

「そしたら突然、大雨と雷で周りが見えなくなって、気が付いたら誰もいないし、霊柩車周りは大騒ぎになってて、お見送りしてる場合じゃなくなるし、誰かとぶつかって眼鏡落として、そのうちに雨は凄いことになるし…眼鏡ないと何も見えないし、運よく眼鏡は拾えたけど…」

拾えた頃にはご覧の通りの濡れ鼠、と。それは…。

「それは…運は良くない。むしろ、悪い」

深い、深いため息が、我知らず漏れた。この子は…この子は本当にもう…。

「ご、ごめんなさい」

「…いや、謝るところじゃない。…今が五月で、本当に良かった」

寒い季節だったら風邪をひくか、悪くすれば猛吹雪の中で眼鏡落として遭難するところだった。そしてここまで見事な濡れ鼠は、店内で静流一人だったらしく、店員さんが気を利かせてフェイスタオルを出してくれた。

「はは大変だったねぇ。でも合流出来てよかった。近くに銭湯あるから温まって帰りなよ。ところでさ」

―――霊柩車の周りが、大騒ぎだった…て?そう云って今泉は、少し身を乗り出した。

「ああ、うん。あのね」

温かい珈琲を飲んで少し落ち着いた静流は、同じように身を乗り出した。

「雷に驚いた斎場の方が、棺を取り落としちゃったんだけど、棺の中にはね」



―――石しか、入ってなかったんだって。



豪雨が、一段と強く窓を叩き始めた。






新緑に碧く沈む石段を、足取りも重く踏みしめる。

『明日、社に来い』

シンプルなLINEが届いたのは、豪雨の葬儀から7日が経った頃だった。薬袋の初七日にあたる日だ。…当然、俺は身内でも親友でもないので参加しないのだが。

つい最近まで社の森をウロウロ彷徨っていた奉は、葬儀以後はうって変わって洞に引きこもっていた。一緒に選択している授業で小テストがある日に声を掛けたが『それどころじゃない』というにべもない返事と共に音信不通になっていた。



―――『めんどい』ではなく『それどころじゃない』。



ここが、大いに引っかかっている。ここ最近の憔悴しつつ焦っている感じからして、確かに奉にとって大変なことが起こっていることは確かなのだろう。

ということは俺は、またしても望まぬ面倒事に巻き込まれに行く。…ということ。悶絶するほどイヤだが、これを放置するとさらに膨れ上がった『のっぴきならない面倒事』として、忘れた頃に襲い掛かってくるのだ。…経験則上。



最後の石段に足を掛けたあたりで、境内の中央に佇む陰に気が付いた。……思ってもみなかった男が、佇んでいた。

「―――何故、お前が、そこに」

「何を云っているんだ?俺が俺の住処にいるんだろうが。何がおかしい」

「だってお前…お前と云えば、人を一方的に呼びつけておいて、出迎えももてなしも全部きじとらさんに丸投げで、自分は洞の奥で本読みながらふんぞり返って『で?甘味は?』とか当然のようにほざく男だろう。まさかお前が殊勝にも、境内でお出迎えとは」

奉がつまらなそうに顔を上げた。日当たりのよい場所でこいつの顔を拝むのは、何週間振りだろう。肌が弱いとか、日光が目に障るとかいう話は聞いた事がないが、とにかく奉は日当たりのよい場所を嫌う。悪霊のような嗜好ではないか。こいつは本当に『神』なのだろうか。眼鏡が陽光を反射するのか、その表情は伺えない

「仕方なかろうが。まさかきじとらに気取られるわけにはいかないからねぇ…」



―――まて貴様、俺を何に巻き込むつもりなんだ!?



「おい奉、ちょっと話を」

「きじとらには使いを頼んでおいた。2時間は戻るまい。急げ」

そう言い捨て、奉は踵を返して足早に境内の裏側に消えた。…急げ、なんて言葉をこの男の口から聞く日が来るとは。




「この、風穴だ」

鎮守の杜を散々歩き回った末に、山の中腹あたりの窪地に連れ込まれた。

「……なんだこれ」

「風穴だ。山の洞窟近辺で見たことはないか」

窪地に穿たれた小さな横穴から、頬を切るような冷たい風が漏れだしてくる。そう云えば小学生の頃の遠足で、夏なのに冷たい風が噴き出してくる穴に、クラス全員で争うように群がった事があったような。鎮守の杜に、そんな大層なものがあったとは知らなかった。

「この奥に、隠してある」

「何を」

「………何から、話したものかねぇ」

奉はしきりに頭を掻きながら不自然に口ごもる。木陰に入って伺えるようになった奉の瞳には、明らかな『困惑』が見てとれた。おかしい。こいつは永久に困惑『させる』側の人間だと思っていた。

「ううむ、まずはあれから…いや、しかし…」

肌寒い風穴の前に佇み、首をひねったり頭を掻いたりを繰り返す奉に、俺は徐々に苛立ちを覚え始めていた。

「もういい、単刀直入に云え。何が隠してあるんだ」

「いいのかい、単刀直入に云って」

「いいから云え」



―――変態センセイを、隠してある。



風穴のせいだけではない寒気が、背筋を這い上ってきた。





スマホのバックライトをかざして、冷たい空気に沈み込んでいく。『変態センセイを隠してある』という爆弾発言を聞いた上で、その隠し場所に踏み込む。我ながら頭がおかしい行動だが、他に選択肢がなかった。奉が生きてきた時代がどうだったのかはさておき、現代には『刑法』が存在する。奉が薬袋の死体を盗み出し、あまつさえ隠匿、もしかしたら損壊などしていたら。そしてそれが明るみに出る事があれば。


「縁ちゃんはどうなるんだ…」

名家の長男が死体誘拐。この街は混乱に陥り、縁ちゃんはこの街には居られなくなることだろう。変態センセイには悪いが、この事はどんな手を使ってでも永遠に闇に葬らせてもらう。しかしこの男は。何故、何の目的でこんなことを。

「…俺が意図的に、薬袋の死体を盗んだと思っちゃいまいねぇ」

「違うのか!?」

つい反射的にバックライトで奉の顔を直撃してしまった。奴はうるさそうに目を顰めて、ふいと顔を反らした。

「俺が死体盗難のようなアバンギャルドな犯罪に手を染めると思うか。俺はただ静かに暮らしたいんだよ」

「何処ぞの手首蒐集家のようなことを云うな。死体盗みそうな気がしてきただろ」

とはいえ、奉の云う通りだ。奉のような怠け者が、わざわざ薬袋の死体を盗んで自分の平穏を脅かす意味が分からない。ならば何故、薬袋の死体がここに隠される事になったんだ。

「…薬袋の死体は、ずっとここに在ったんだよねぇ」

薬袋の葬儀が始まる前からな。そう云って奉はぴたりと足を止めた。

「そいつが境内に放り込まれたのは、薬袋の死後1日目の夜だった。…焦ったねぇ、杜に担ぎ込むのも、風穴に隠すのも、全部俺一人の仕事ときたもんだ」

馬鹿か。俺は思わず舌打ちした。

「なんで警察呼ばずに隠した!?とっとと警察沙汰にすればこんなややこしい事にならなかったのに!!」

「ややこしい事…?」

くっくっく…と、奉が低く笑った。

「なってるかねぇ?…ややこしい事に」

「……あ」

携帯の薄明りを眼鏡の縁で照り返して、奉が再び笑った。

「おかしいとは思わないかい?主役が忽然と消えたというのに、葬式は決行されたんだよねぇ。棺にはご丁寧に石まで詰められて」

確かに妙な話だ。身内が直々に死体の失踪を隠匿した、ということになる。何故。何の為に。

「まさか、死体を境内に捨てていったのは…!」

「落ち着け、身内じゃねぇよ」



風穴の奥。冷たい風が一層強まる奥底の一角に『それ』は、在った。

握りしめていた携帯は、力を失った俺の掌から滑り、かつ、と乾いた音を立てて落ちた。

バックライトを頼りにしていたつもりだった。しかし光を失ってもなお、『それ』が俺の視界から消えない。発光しているのか、光源が別にあるのか。


―――これは、皮肉か。


そう思わずにはいられなかった。

風穴の最奥に設えられた、石の祭壇。そこに鎮座するのは、透明な液体が満たされた筒と、その中央で蠢く肌色の塊。皺に覆われた球体のような、その塊は。

「お前、これ…」

「どっかの誰かの、コレクションみたいだねぇ」

そう吐き捨てると、奉は再び低く笑った。…その肌色の塊…彼の、恐らく『彼』の脳が、青白く光る液体の中で、ゆらりと向きを変えた。それと同時位だろうか、地に落ちた俺の携帯が、淡い光を点して振動し始めた。LINEの着信だ。

「あぁ」

不意に現世に引き戻された気がして、慌てて携帯を拾い上げる。静流だろうか。静流であってくれ。祈るような気持で画面を覗く。…再び、取り落としそうになった。



―――『変態センセイ』のグループLINEだ。あの地下室の茶会以来、ほぼ薬袋しか使っていないはずの…。今更、誰が。初夏にも冷気に満たされたその風穴にあって、俺はじっとりと嫌な汗をかいていた。



『ひ ど い よ』



「………は?」

シンプルな驚愕の言葉が転び出た。グループLINEに投稿している奴は『薬袋』。確かに『薬袋』だ。思わず目の前の光る筒を凝視した。

「原理は分からないんだよねぇ。俺は機械に疎いのでね」

「疎いとかそんな問題では…」


『いたかったよ』

『かんかくきかんは、せつだん されている』

『いたいよ じつはまだいたい』

『そこにいるね』

『わかるよ なにで はんだんしているのか われながらわからない』

『きみからは どうみえるんだい』


「返事してやらないのかい」

「出来るか…!どうなってんだよ」

「正直なところ、何も分からん。分かっているのは」

薬袋は産土神に拒まれ、その遺体を玉群に放り込まれたということだ。奉はそう呟き、小さく息をついた。

「遺体、というと語弊があるねぇ。境内に放り込まれていたのはそこの脳…みたいなやつと、薬袋の体の残骸だよ」

「脳…みたいなやつ!?」

「みたいなやつ、としか言いようがないねぇ。そいつがもしも脳だというなら、体から切り離されて放置された時点で死んでいるはずだろうが」



―――そうなのだ。



摘出された脳が培養液のなかでぷかぷか浮いて意識を保っているなんぞ、SFの世界だ。そんなことを可能にするようなオーバーテクノロジーなんぞ、存在する訳が……

「奉、お前」

「俺になんの得がある」

「それな」

そうなのだ。もし奴が『そういう方向』の異能があったとして、こんな形でこの男を生かしたところで何の得もない。それどころか法治国家でこんな無茶苦茶なことをしたら何らかの罪に問われることだろう。よくは分からんが死体損壊、とか。

「………死体」

そ、そうだ、体……!脳?はもうどうとでもなればいい。俺の関知しうる問題じゃない。この場合、真の問題は『ガワ』をどうしたのかだ。人の死体が敷地内に放置されている、という状況はとてもまずい問題を内包している。

「ガワはどうしたんだ!?」

「なんだ唐突に」

「あっ…し、死体だ!まだあるんだろ、この辺に!!」

あぁ…と、心底面倒そうに息を吐くと、奉は洞の片隅に立てかけてある鉄さびた鉈に昏い視線を投げた。

「切って、埋めたよ」



……まじか。



視界が、ぐらりと歪んだ。歪んだ視界はぎゅるぎゅると渦を描き、一点に吸い込まれるように回り続ける。

「……切って、埋めた……?」

「心底疲れたねぇ。当分、力仕事は御免蒙るよ」

冷気のせいで気が付かなかったが、洞の奥底に鉄臭い空気が溜まっている気がする。ここで、この洞で薬袋を…?吐き気とも呻きともつかない妙な気配が喉元からせり上がって来た。

「なんで、警察を呼ばなかった」

吐き気を堪え、なんとか声を振り絞った。

「まったくだねぇ」

鋸から視線を外すと、奉は洞の天井をぼんやりと見上げた。



「―――奴の遺族はどうして、警察を呼ばなかったんだろうねぇ」



言葉が、出なかった。

棺には、石が詰められていた。…誰が?

死体の損壊が激しく、棺を開けられない状態だったとしても。家族は確認できたはずだ。少なくとも棺に石が詰められていれば、持った時に違和感を覚えただろうに。

死体不在の状態で、葬儀は執り行われたのだ。何事もなかったかのように。

「…ご遺族は、何で…」

「彼らの気持ちまでは分からんよ。ただ」

気が付いてたんだろうねぇ。そう云って奉はガラスの容器に手を置いた。

「薄々か明確にかは知らんよ。次期後継者のセンセイが、良からぬ性癖の持ち主で、違法な手段で妊婦の死体を集めていたことや、『何か』の怒りを買ったらしいことにはねぇ」

―――そうかも知れない。奉や静流は元より、今泉や榊さんのような、少し勘のいい一般人ですら薄々違和感を覚えていたのだ。あの病院の地下に何があるのか、近しい人間が気づかないと考える方がおかしいじゃないか。

「それで、死体がなくなったのを確認した親族が…その状況自体を隠して…?そんなことあるか、いくら生前ヤバい奴だったからってなぁ…死体がなくなったことを隠すなんて」

「――警察を呼ばれること自体が、ヤバかったんじゃないかねぇ」

…ありうる話だ。俺が知っているだけでも、あの敷地内には何十体という女の亡骸が埋まっている。正直、今回の地盤沈下の一報を聞いた瞬間、それらが陽のもとに晒されて大騒ぎになる展開が脳裏をよぎったものだった。

警察はともかく、消防や自衛隊は入りまくっていたはずだ。なのに女の亡骸は出なかった。…どうして。

「事実として、あの病院の敷地内からは何も出ていない。おかしなことにねぇ。このセンセイの所業は」

ぽん、とガラスの容器を叩いて奉は低く笑った。


「身内は、知ってたってことだねぇ。それもかなり詳細に。それを知った上で、黙認していたんだろうよ」


女達の亡骸を隠したのは身内ということか。胸の奥がすっと寒くなる感覚に襲われた。

…地盤沈下が起こった瞬間に、彼らは決意したんだろう。『彼』が拵えた亡骸の山を、今こそ処分しなければ、と。そしてこのことを知っていたのは一人や二人ではない。皆が共謀して、『彼』の罪を隠匿する決断をしたんだろう。そうでなければ、地盤沈下発生から消防への通報までの短い時間で隠しおおせるとは思えない。

「ま、そこら辺はあちら側の人間の事情だ。決めたのは彼らだよ。俺は関知しない」

『決めた』の部分に、不吉な含みを込めた声色に感じた。

「問題は、何故センセイは思考のみ生かされた状態で俺達のもとに寄越されたのか、ということだ」

「…そういや、そうだな」


天罰覿面、というだけならシンプルに殺せばいい。実際、奉のもとに死体を放り込まれた理由はとてもシンプルなものだと思う。殺しても死体を残されれば、産土神の領土である薬袋家の檀那寺に葬られる。それすら許せないから、奉の領土に放り込んだのだろう。…多分。だが、わざわざ人知を超えた何らかの方法を用いてまで『思考』のみ生かされた、理由は。

「好意的に考えればな」

「庭先に死体放り込まれて好意的!?」

「まあ聞け。…こいつの医師としての能力は優秀なんだよねぇ。大病院の後継者として将来を嘱望される程度にはな」

携帯が微かに震え、変態センセイLINEに『面映ゆいね♪』というムカつくレスが表示された。

「単なるイチ客人神である俺に面倒事を押し付けたことに、多少の負い目は感じているのかもしれないねぇ。なのでその見返りとして『名医』をくれてやった…てことかねぇ」



―――名医!?



「そ、それはこの脳だけのセンセイに診察をさせるってことか!?」

「脳があればガワの問題は何とかなる。…前科があるからねぇ、自由にはさせないがね」

くっくっく、と低く笑って奉は軽く手を広げた。

「例えば、この洞からは出られない。俺には危害を加えられない。アラハバキってのはねぇ」



塞の神なんだよ。そう云って奉はガラスの容器を撫でまわした。



「結界を司るのが、俺の本来の仕事なんだよねぇ。俺が出るなと云えば出られないんだよ」

塞の神。村の出入り口などの『境界』への侵入を防ぐ神。それが奉の性質か。俺は妙に納得していた。…だから玉群は、客人神のこいつに縋り、宿敵を封印したのか。そしてこの地の産土神もこいつの性質を『牢獄』として活用するつもりで。

「なぁ、床屋の前に立ってる、アホみたいにグルグル廻る赤と青のポール、あれ何を意味しているか知っているか」

「あ?ええと…」

「赤は動脈、青は静脈。嘗て床屋の仕事ってのは、医者が兼業していたんだよねぇ」

奉はここ数日で一番の笑顔を浮かべてガラス容器の上部を叩いた。

「床屋、ゲットだ。縁に云っておけ、俺には専属の床屋が出来た。もうハサミを持ってくるな、とな」

……はぁ!?

「いやそんな無茶な!!そりゃ昔の話だろ!?」

『出来るよー。プロ並みに』

「出来るの!?」

ホント優秀なんだけどな!変態殺人鬼じゃなければ!!



――俺は昔、祖母に聞いた昔話を思い出していた。

悪いことをした人はね、死んでも天国にいけないんよ。お葬式の最中に『火車』っていう地獄のお使いがね、死体を攫いに来るんだよ。そして火の車に乗せて、地獄へ運んでいくんだからね。だから結貴、悪いことはしちゃいけないよ。


死して火車で連れ去られ、安らぎを得られることなく、思考だけの存在にされて理不尽な祟り神に使役されながら薄暗い洞の中で永久に近い年月を過ごし続ける。これは針の山や血の池のような目に見えるものではないが、確実に『地獄』に分類される状況なのではないだろうか。そしてこの状況は好意に捉えれば奉への報酬かもしれないが、悪意に捉えれば、薬袋にとっての『地獄』の始まりなのでは…。


地獄とよばれているものは、あの世ではなく、より過酷な現実のことなのかもしれない。



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