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霊群の杜  作者: 柘植 芳年
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のびあがり

ソメイヨシノの蕾が膨らみ始める春の巷。

まだ冷たさを含む陽光が古びた縁側をひやりと照らし出す。

仕事道具が乱雑に散らかる、だだっ広い『庭師』の庭。こういうのを紺屋の白袴というのだな、とぼんやり考えていた俺の前で、一番弟子の榊さんが途方に暮れて天を仰ぐ。

「…どうしましょうか、坊ちゃん」

榊さんは、大分年下の俺にも敬語を使う。師匠の肉親である俺に敬意を払っている、というより、人との距離を測ること自体が面倒なのだろう。だから彼は俺が知る限り、誰に対しても敬語だ。

……この際、そんな事はどうでもいい。

問題は一つ。



冷たい縁側に転がって腰を押さえて呻いている俺の親父についてである。



「これから繁忙期なのになぁ…」

「今日も2件ほど、芝植えの仕事があるんですが」

「お前らなぁ…」

腰を捻って物凄い声で唸っていた親父が、首だけこっちに振り向けて力なく呟く。

「人が苦しんでいる時に、仕事の話しか出来ないのか?」

「…奥さんを、お呼びしましょうか」

自ら、ねぎらいの言葉をかけるつもりはないらしい。家業を継がない俺の代わりに後継者として嘱望されている彼とは、不仲なわけではないんだが…俺は少しだけ、苦手意識を持っている。いや、別に嫌いなわけではない。仕事もしっかり出来て、この人が家業を継ぐことを承諾してくれて本当に良かったと思っている。姉共々、この人には仕事に必要な一切合切を継いでもらいたいと思っているのだ。

「病院行けよ、赤十字病院。俺、運転するから」

変態センセイ、こと薬袋の在籍する病院だが、この辺りでは一番大きい病院なのだ。癪だがこの辺で『ちゃんとした』治療をうけたければ、ここに行くに越したことはない。変態センセイも、嗜好としてジジイの標本には興味はあるまいし。

…よし、トラックで乗り付けて、親父置いてそのまま逃走する。手近にあったカーキ色のジャケットを羽織ると、親父もとても慎重に腰を固定しながら立ち上がった。

「行くよ。ただ赤十字病院以外な」

「何処行く気だよ。大きめのとこだと市外になるぞ」

「…隣町に整骨院あったろ。そこでいい…」

前かがみでじりじりと玄関に向かいながらも、親父は頑なに赤十字病院を拒否する。ため息が漏れた。昔から、なにやら突然意固地になる事があった。そうなると石に齧りついてでも動かなくなるのだ。今日はまだ動いているだけマシである。

「分かったよ、整骨院な!そこで駄目だったら赤十字にいくからな」

「厭だというのに。行かないというのに」

ため息が出た。これで整骨院で治らなければ片道一時間弱かけて市街の病院に通うことになる。頑張れ整骨院。

「…分かったよ。とりあえずトラックの荷台に乗って。毛布敷いておくから」

「坊ちゃん」

眉一つ動かさず、榊さんが声をかけてきた。

「どうしたんすか、榊さん」

「荷台に芝も積んで行きたいです。整骨院から現場が近いので」

「……帰りに寄りましょう。俺も手伝います」

榊さんは、こういう人なのだ。基本的に、予定通り仕事をこなす事しか考えていない。俺が手伝うと云いだすことも、勘定に入っていたのだろう。既に芝を積み始めている榊さんの脇をすり抜けるようにして、親父が荷台に潜り込んだ。






「今日の現場は、広さはそこそこです。二人いればすぐですよ。軍手は芝の上に積んであるんで」

親父を整骨院に預けた帰り道。色あせたハンドルを軽快にきりながら、榊さんがハキハキと話しかけてきた。機嫌が良さそうだ。親父よりは体力があり、文句を言わずに働く俺を作業に駆り出せることが、普段あまり感情を表に出さない彼を上機嫌にさせているようだ。

 俺達は『家を継がない息子と代わりに継ぐ他人』という、一見複雑な関係にあるのだが、実態は実にシンプル。榊さんは仕事人間、俺は労働力。…案外、俺と奉の関係と、大して変わらないのかもしれない。俺は何処に在っても、労働力を搾取される側なのだ。

「すみませんね、親父の我儘で。…たまにああいう事を云いだすんです」

「ああいう事?」

「ここらで一番大きい病院がイヤとか。一番確実だっていうのに」

ふぅん…と榊さんは小さく呟き、暫くぼんやりと前方を見つめ続けていた。

「全く、子供じゃないっつうのに。何が不満なんだか」

「俺も、あの病院イヤですよ」

更に親父の我儘で話を膨らまそうとしていた俺は、口を噤んだ。榊さんは相変わらずぼんやりと前方を見ながらハンドルを切る。赤信号でゆっくりとブレーキを踏み、彼は再び口を開いた。

「数年前から、急にイヤな感じになったんですよね。病院そのもの、というよりは」

なんか、周りがイヤな感じになった、とでも云えばいいのか。そう口ごもって、榊さんは眉を顰めた。

「でも、あの病院の造園とか鉢の管理とか、うちでやってるんじゃ…」

「仕事ですからね」

実にドライに云い切る。

「仕事でよく行くからこそ、あそこのヤバさが身に沁みるんです。逆に」

「へぇ…」

素直に感心した。

親父に云われた通りだ。親父もこの人も、『ヤバいものを回避する能力』に長けている。この人達であれば恐らく、俺のように地下の標本置き場に閉じ込められたり、人面樹騒動に巻き込まれたりすることはないのだろう。

だからこそ『仕事』が成り立つ、とも云える。

俺では、巻き込まれまくって5年もしないうちに命を落としかねないな。そう思うと何というか、気が楽になった。俺が責任を放棄したわけじゃない。そもそも継いではいけないのだ。そう思うと隣でハンドルを握っている榊さんに対する苦手意識が、少しだけ和らいだ気がした。

「どんなとこが、ヤバいと思ったんですか?」

軽い気持ちで聞いてみた。

「……結貴さんは」

急にブレーキを踏み、軽トラが路肩に寄せられた。相変わらず前を見つめたままの榊さんは、実に慎重にハンドルを切り、完全に平行に駐車出来た事を確認すると、すっと俺に視線を向けた。

「あの病院でよく見かけますが、まさか、用もないのに入り浸っていますか?」

少し咎めるような口調。彼への苦手意識が少しぶり返してきた。

「あっ…と、なんか…知人、というか。あそこの医師に、妙に気にいられてしまって…」

「友達が増えるのは結構ですが」

「断じて友達じゃない」

「知人が増えるのは結構ですが、会うならあの場所はよしたほうがいいです」

榊さんは、断言する。いつもそうだ。含みのある云い方を一切しない。それでいて言葉が足りない。

「俺もそうしたいところです。ぜひ根拠を教えてもらいたい。説得に使わせてもらいます」

「云えるわけないでしょう」

病院には行くな、根拠は云えない。そうきっぱり云う。何なのだこの人は。奉のようにはぐらかされるのもイヤだが、やたらきっぱりと隠されるのも腑に落ちない。

「それじゃ、やっぱり行くしかないです。また呼ばれてるし」

少しだけイラついたので、嘘をついた。今はまだ呼ばれていない。というかお茶会のお誘いは頻繁だが全部断っている。

「じゃあ、云いますが」




あの病院の背後の山から、とてつもなく大きい影が伸びあがってるの、見た事ありますか?




「……は?」

そう云うしかなかった。

俺はてっきり、榊さんも地下の標本や人面樹に気が付いていたのかと思っていたのだ。

「そうなりますよね。…あれは俺や社長にしか見えないんです」

そう云って榊さんは小さくため息をつき、ドアを開けた。

「着きましたよ」

「……へ?」

「現場。軍手、してくださいね」

「は、はぁ」

そうだったそうだった。この後仕事だったんだ。俺も助手席のドアを開け、トラックの裏側に回り込んだ。芝をトラックから降ろし始めた辺りから、車内の話はお互いに忘れてしまった。




「…て、云われたんだ」

あれから数日後。いつも通り学食で落ち合った静流に、榊さんの話をした。家業のことを話すのは、初めてかもしれない。俺が家を継がずに普通の勤め人になるつもりと聞いたら、静流はどう思うだろうか?と一瞬ひやりとしたが、静流はただ熱心に聞いてくれているだけで、俺の家業問題には大して興味がないようだった。ただ、彼女が想定外に興味を持ったのは。

「その、病院の背後に見えるもの…って」

私にも、見えてるよ。彼女はそう云って俺と目を合わせた。

「……んなにぃ?」

予想外の反応に、変な声が出てしまった。

「なんで、今まで云ってくれなかったの…?」

「わ、私もなんて云っていいのか分からなくて!…でも」

「でも?」

「…云おうとはしたの、この間のお茶会の帰りに…」



―――ふいに思い出した。

変態センセイに呼び出されて地下の標本室で茶を呑まされた日の帰り。

静流は確かに云っていた。



――あの先生は、もう助かりません。



「そか、背後の山から大きい影って云えば良かったんだ。私、どう表現していいのか全然分からなくて。…最初はね、もっと小さい影だったの。そんなのはいつだって視えているけど、あれは見る度に大きくなってるみたいで」

見てる間も、見れば見る程大きく見えてきて、途中で怖くなって見るのをやめた、らしい。

「それから随分経つから…今はもう、考えられないほど大きくなってるんじゃないかな…」




「それは、ないねぇ」




…舌打ちが出そうになった。必修の授業はないから、今日は敢えて声を掛けなかったのに。

「――珍しいな、奉。自分から学校に来るなんて」

「縁が鋏を持って、洞の周りをウロウロしてんだよ」

――成程。縁ちゃんは、数日前から伸び放題の奉の髪を切りたくてウズウズしている。切られるのが嫌ならさっさと床屋に行けと云っても、中々重い腰を上げない。

で、妹さん強硬手段というわけだ。

「お前もう…帰りに床屋に寄るからな」

「是非もなし…」

「偉い人みたいに云うな。…で、どういうことだ。奉にも見えてるのか。見えてないのは俺だけか」

くくく…と、奉が低く笑った。

「見えねぇよ、俺にだって」

「奉に、見えない?」

「あれはねぇ」

ビビリにしか、見えないんだよねぇ。そう云って奉がまた笑った。

「見越し入道、という妖がいるだろう」

「名前しか知らねぇよ」

「狐狸の類だねぇ。要は妖なんて云ったが、そんな高尚なもんでもない。…妖が出す、幻よ」



旅人が山道で、入道に行き合う。見ているうちに入道は、ずんずん大きくなっていく。そのうち自らの背を遥かに越し、山のように大きくなる。見上げ過ぎたものは…

「喉笛を噛みちぎられて、死ぬ。…見上げさせるのは、喉を差し出させるためよ」

「何の為にそんな…いや、意味を求めても仕方ないのか」

「分かってきたじゃねぇか。…まぁ、『見越し入道』的なものは数多、存在している。その全てが喉笛掻っ切る為に見上げさせてる訳じゃねぇだろうがな」

「じゃあ、病院の見越し入道は一体…」

と云いかけた静流を軽く制して、奉は指先を軽く組んだ。

「意味は似たようなもんだが、仮に病院の見越し入道的なものを『のびあがり』と呼ぼうかねぇ。おい眼鏡。お前にはのびあがりが見えているんだろう?」

―――眼鏡て。

「…はい、一応…」

「どの辺から、見えていた?」

「え?」

「病院の裏に、見えたのだろう?どのくらい病院に近付いたら、見えてきたんだ」

「それは…」



最寄駅に降りた時には、もう見えてました…。静流は戸惑いつつ、そう答えた。



「最初は、そんなに大きくなかった、と、そう云ってなかったか」

「病院は、最寄り駅から見えますよね。病院の裏側に、なんだか黒っぽい影があるなぁ…って、それくらいだったんです。で、でもそういうのが見えるのはいつものことで、騒ぐのもなぁ…って思って」

「騒がんでもいい、考えろ。お前は未来視だろうが」

「すみません…」

「他でも、似たようなものを見たことがあるんだな?何処で見た?」

「あの…そうですね…たしか……」

思い出すように斜め上に視線を彷徨わせた静流の視線が、ぴたりと止まった。

「……火事で全焼した、ビニール工場」

「……ほう」

「あと廃校跡と、不幸が続いたおうち。院内感染でニュースになった病院……その……」

悪いことが起こる前の、それか、起こった後の土地、です。そう云って静流は視線をすっと戻した。

「その場所に特別に近づかずとも、視認できる距離なら見える。そういうことだねぇ」

静流が頷くと、奉は少し顔を伏せて口の端を吊り上げた。煙色の眼鏡の奥は、うかがい知れない。

「ほら。眼鏡が見ている『のびあがり』は、なにも喉笛を噛み千切ろうとしてる訳じゃないねぇ」

「どうしてだ」

「危害を加えるつもりなら、もっと引きつけてから姿を見せるだろ?こいつらはまるで、眼鏡をその場所に近づけたくないみたいじゃないか。恐らく結貴、お前の親父も、後継者とやらも、眼鏡と同じものをみている」

「…てことは」



「予知、だねぇ」



眼鏡にも同じものが見えているなら間違いない。奉はそう呟いて、無料の茶を呷った。

「とはいえ、お前の親父は眼鏡のように自発的な未来視ができる訳じゃない。手がかりが要る」

「手がかり…?」

「地霊、とでも云うのかねぇ」

―――地霊?

「家が建とうが学校が建とうが、その地には古来から住まう者が居る」

「要は、霊が居ると」

「霊、とは云いたくないねぇ。その土地の個性、というか性格、というか。ほら、よくあるだろう。駅前でそんなに悪くない立地なのに、どんなテナントが入っても長続きしない貸店舗」

「あるねぇ!!」

「商売向きではない地霊が住まうからだ。これは古来からの約束で、駅近だとかオフィス街だとか、そんな後付けの事情は一切通用しないんだねぇ。地鎮祭やったって無駄」

今日一番納得した。

「入居者全員毒呑んで死ぬアパートとか数年おきにボヤが出る戸建てとかも同じことだ」

「そんな物件あんの!?」

「でだ。そういう『クセの強い地霊』が住まう土地に、地霊の癖に合わない建物が建てば、地霊は排除しようともがく。眼鏡、お前が見ている『のびあがり』は、地霊の感情、に似た何かだ。その『影』とやらを見てお前に生じた感情が、地霊の感情のようなものにとてつもなく近い何かだ」

「……感情」

「予知能力というよりは、そうだな、異様に研ぎ澄まされた感受性、とでも云うのかねぇ。親父の能力は」

少し考えて、静流はふと顔を上げた。

「分かりました。あの場所は病院には向いてないんですね。…でも何であの病院の影は、大きくなるのかな」

「我慢の限界を超え始めたんだな、当然だ。思い当たることが山ほどある」

「……はい」

上擦った声で短く答え、静流は旨の前で指を組み合わせた。そして、云い放った。



「…やっぱり、あの人は助かりません」



その澄んだ声は最奥の神殿に住まう巫女のように、厳かに耳朶をうち、俺はどきりとした。

「なぜ、そう思う?」

厭らしい笑顔を引っ込め、奉は静流のうつむき加減な顔を覗き込んだ。

「あの…のびあがりを見る時、必ずあの、先生の顔がその…見えるんです」

「見える、だけか?」

「感じるんです。その…うまく説明できないなぁ…でも、今『感情』って云われて、ハッとしました」


誰かの煮えたぎるような怒りと嫌悪感。

それに外側から触れる感じ。

その怒りはこの間『決意』に変わっていた。


グダグダの言葉を無理やりまとめると、静流はそんなことを云っていた…気がする。

ならば、変態センセイは。



「――馬鹿め。土地そのものを敵に回したな。長くないねぇ、変態センセイ」



こともなげに『死』っぽいものを宣告して、奉は席を立った。もう帰るらしい。あいつは何をしに来たのだろう。

俺はというと。

「あの…元気、出して?」

「……やっぱりそう見える?」

なんだか分からないが、俺はショックを受けているようだ。何度か殺されかけた相手で、今現在も命を脅かされているというのに。俺は何故。

「もうなぁ、厭なんだよなぁ…」

何が厭なのか分からないが、このモヤモヤした気持ちを口に出さずにはいられなかった。

「続いたもんね、お友達の…」

云いかけて静流は口を噤んだ。そして少し眉をよせて、目を伏せた。

自分でも何を云いかけたのか分からなかったが、まぁ、多分そういうことなんだろう。


もう単純に、人が死ぬのが、厭なのだ。


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