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霊群の杜  作者: 柘植 芳年
40/57

陰火

―――視界が赤い。



目を閉じたままでも陽光の気配を感じる。…綿のような日差しだ。うっすらと目を開けると、カーテンを透かして朝の光が差し込んで来ていた。

…こりゃ、桜も咲くな。ゆっくりと半身を起こし、伸びをした。…体が軽い。何かの枷が外れたようだ。枕元の定位置に置かれた体温計を手に取り、腋に挟む。程なく腋下から軽い電子音が聞こえた。

「……む、下がっている」

この2週間近く悩まされ続けた高熱が、嘘のように下がっていた。

「そろそろか」

桜が咲く頃まで。奉はそう云っていた。膨大な石段の先に聳えるインチキ神社など、間違っても病み上がりに行っていい場所じゃなさそうだが…仕方ない。俺はもう一度軽く伸びをして、ベッドから降りた。




木肌が剥き出しの鳥居が連なる石段を、久しぶりに見上げる。




倦怠感…とも、安堵感とも違う奇妙な感情が胸を満たした。なんだろうか、この感じは。石段を踏みしめながら、俺は石段の遥か遠くの桜を眺めた。…まだ体調が不十分なせいだろうか、少し滲んで見えた。

「…つ、疲れた」

思わずそんな言葉が漏れた。2週間程度ひたすら寝込んでいる間に、体力が随分落ちていたようだ。鳥居を抜けた頃には既に息が切れていた。こんな石段を鴫崎は、本が入った重い段ボールを抱えて登っているのかと思うと、頭が下がる思いだ。友が皆、我より偉く見える日よ。

石段の途中に腰掛け、温くなったペットボトルの茶を呷った。桜が咲いている辺りまではまだ遠い。静流に声をかけようか迷ったが、やはり一人で来てよかった。この程度の石段で息を切らしている姿を静流に見られるのは…。

「んー…なんか、白いな。今年の桜は」

「桜だと…?」

背後の植え込みから聞こえた声に、俺は弾かれたように振り返った。

「―――何で居るの!?」

「仕事だよ」

植え込み裏の暗がりにぼんやり突っ立っているのは、俺の親父だった。ホームセンターの園芸コーナーで売ってそうな、農家丸出しの麦藁帽に、姉貴が高校生の頃に買った鹿だかトナカイだかの柄の赤いカーディガン、そしてもう何年も買い替えていないゴアテックスの登山靴を泥まみれにして、玉群の社周辺をずっとうろついていたらしい。

…自営業だと身なりとかどうでもよくなっていくのだろうか。この状態の親父に街中でエンカウントしたら全力で逃げる。多感な高校時代、俺は本気でそう思っていた。

「…もう大丈夫なのか」

「ああ、なんか熱下がった」

「…無茶だろ、病み上がりにこんなとこ」

「…そうだな」

全くだ。こんなに体力が落ちていると分かっていたら、奉んとこなど寄らなかった。

「親父は何やってんだ」

「だから仕事だ」

「なんの仕事かと聞いてるんだよ」

親父は一瞬、細い目を大きく見開いて俺を凝視した。

「珍しいな、お前がそんなことを聞くなんて」

家業のことなど興味ないのかと…と口の中でもごもご呟いて、親父は籠を抱え直した。

「…雑木の間引きとか、下草刈りだよ」

「下草刈りって…まだ早くないか」

「根が張る前に少し回っておくと、あとで楽なんだよ」

「へぇ…」

一瞬納得しかけたが、どうも親父が籠をかばうようにしているのが気になり、横目で籠の中を伺った。

「………ワラビ、入ってるぞ」

親父はふいと目をそらした。

「お前も山菜、好きだろう」

なんてことだ。俺の身内が下草刈りにかこつけて他人様の山で山菜採りに勤しんでいたとは。

「なんかこの季節になると食卓に山菜が充実すると思っていたが…」

「玉群の人達は山菜なんか採らないだろう。ちゃんと仕事しているんだから文句いうな」

「それ雇い主に云ってんのか」

植え込みの向こう側で言い争っている俺達を、興味深げに覗き込む少女がいた。

「………よっ」

手刀を軽くピッと立てて、縁ちゃんが木陰の俺達を覗き込んできた。

「お、おう…」

俺はそれとなく親父の籠が隠れる位置に回り込み、手刀を立てて返した。しょぼい鎮守とはいえ一応山の上は寒いだろうに、縁ちゃんは既に少し厚手のショートパンツに黒のハイソックスを着こなしている。膝に鳥肌とか立っていないかとつい凝視しそうになり、慌てて目を反らした。

「わ、おじさんが着てるの、去年流行ったノルディックのカーディガンでしょ?かっこいいー」

「そ、そうかな」

「んん、男の人でこの色着こなしてるの、初めて見たー」

親父は満更でもないような照れ笑いと共に顔を反らし、俺の方をドヤ顔でチラ見し始めた。

……腹立つ。

だっさい親父のドヤ顔にも、適当なこと云っておっさんを調子付かせる縁ちゃんにも。ずばっと否定してくれる手厳しい女子が周りにいないから、このおっさんはダサさを拗らせて水子を慰める地蔵みたいなファッションにまで行きついてしまったのだ。自分の責任がどれだけ重大か分かっちゃいないのか、この女子高生は。

「……桜、と云ったな」

ドヤ顔を若干残したまま、親父が目を細くした。

「ああ。咲いてただろ?」

「この辺りはソメイヨシノの開花宣言すら、まだだろう」

「そうだけど…現に咲いてただろ、神社の周りは」



―――咲いてねぇよ。俺はさっき見て来た。



親父がそう、低く呟いた。

…何を云っているんだ。現にこの石段を縁取る桜は白い花を咲かせているじゃないか。俺は再度、鳥居が途切れた辺りから連なる桜の木を見上げた。

「…ほら、白い花が」

「そんなはずあるか」

親父は古い帽子の鍔を軽く弾くと、樹上の『白い花』を睨み付けた。

「ここの桜は『八重桜』だぞ」

―――八重桜…!!

そ、そうだ何故俺は忘れていたんだ。ここの桜は山桜でもソメイヨシノでもない、それらが終わった頃に咲く八重桜のはずだ。そしてそれはこんな「白い花」をつけない。ここの桜は特に毎年、はっとするほど鮮明な、薄紅色だ。

じゃあ今も見えてるあの花は…?いや、これ本当に花か…?俺が「花を見た」と思っていたのは、枝を覆う「白い何か」を遠目に花と見做しただけのことだったのではないのか…?

「あれ、花じゃなさそうだな」

「分かってるよちょっと黙ってくれ」

「お前さっき桜がどうとか云ってただろうが」

「うるさいよ悪かったよ!分かったから黙っててくれ!」

「わー、結貴くんてパパさんにはぞんざいなんだー」

「黙っ…いや、縁ちゃん。親父連れて山を降りてくれるか」

無邪気に話を混ぜっ返す縁ちゃんに親父を押し付けようとしたが、親父は微動だにせずに頭上の「花」を睨み続けている。…何、睨んでいるんだ。苛立ちに指先が震えた。親父が居なければ、俺一人なら鎌鼬で散らせるのに。

「…降りろって。親父が居たって何も出来ないだろ!」

自分でも驚く程、きつい声が出て俺自身が一瞬引いた。うわ、俺いま凄く厭な事を云った。

「…居たって何も…」

思わず小声で自分の台詞をなぞる。自分の言葉を正当化するように。…親父は汚れた帽子を深めに被り直し、すっと視線を下げた。

「そりゃ俺もお前も同じだろう。何で俺だけ山を降りるんだ」

「………それは」



「あれが出るのは、初めてじゃないよ」



白い靄から目は離さず、だがこともなげに親父は呟いた。

「あれはそう悪い質のものじゃない。こちらから何もしなければ害はないよ」

晩飯の話でもするような口調。

「あれ、何なんだ。親父」

「知らん」

……えぇ!?

「あれを知ることも、どうにかすることも俺の仕事じゃないもの」

てことは何か、親父はなんだか分からない物に遭い続け、スルーし続けてきたのか?

「だって…気にならないのか?あれが何なのか」

「そういうとこだよ…」

お前がこの仕事に向いてない、と思うのは。親父はそう呟いて、こともなげに妖しい靄の下をゆるゆると歩き続ける。

「向いてなくて結構だよ。でもあんなの放っておいて、何かやばいことになったらどうするの?」

我ながら口調が冷たくなっている。

向いてない、と断言されたことに、些かカチンときていた。俺は親父の仕事を継げないんじゃない、継がないんだ。そう思っていたのだ。俺が親父に継がないと宣言して、特に継ぐことを強要されたこともなかったから、親父が『向いてない』と思っていたなんて考えたこともなかった。…後継として勤めている、遠縁の『榊さん』の、ひたむきなような無関心なような横顔を思い出す。俺は勿論、彼があとを継ぐことに納得していたけれど、もし俺の気が変わって『やっぱ継ぐ』と云い始めたら、親父は喜々として俺を育て始めるのかもしれない…そんなことは絶対にしないが…などとぼんやり思っていた。

「ここの守りを勤めてきた先代達が、誰一人としてあの靄に害されていない。それで充分なんだよ。だが」



最近見かけるようになった、参道脇の藪にちらちら見える鬼火みたいなのは多分、やばい。



親父は俺の脇に寄ると、声を押し殺して云った。縁ちゃんも倣うように俺の脇に寄って背をかがめた。…なんだこれ。

「お前みたいな迂闊な奴はどうせ、ひょいひょい近づいて洒落にならない目に遭うんだろ」

―――ぐうの音も出ない。

「俺達の稼業は『あちら側』と『こちら側』の狭間で草を刈る、そういう仕事なんだよ。意外な話だが、『あちら側』も俺達の仕事の意義を分かっている。だから、見て見ぬふりをしてくれているわけだ」

枝の上をちらつく白い靄を、再び見上げる。ただサワサワと蠢くだけだ。…俺が今一人だったら、どうしただろうか。正体を見極めようと、その枝先に近づいたかもしれない。でも。

「……俺はそんなに迂闊か?怪しいものを見かけたら普通、確かめるだろ?」

「迂闊とは云ってねぇよ。普通だよ。普通だから向いてないって云ってんだ。普通程度の好奇心すら命取りになるんだ。…折角向こうさんが見ない振りしてくれてんだ。こっちも干渉しちゃいけない。加えて、ヤバい匂いには敏感でなけりゃいけない。お前って普通な上に、ヤバい匂いには特別に鈍いんだよ」

「……はぁ!?」

「だってそうだろ。お前の周り、ヤバいのいっぱい寄って来てるぜ」

縁ちゃんがプッと噴き出した。…君の兄は『俺の周りに寄ってくるヤバいの』の筆頭なんだが、笑っている場合か。

「……もういいよ。俺は『上』に用があるんだ」

少し不貞腐れた気分で植え込みを跨ぎ参道に戻る。親父は鍔広の麦藁帽を深く被り直し、にやりと笑って暗がりに消えていった。縁ちゃんも誘おうと思い振り返ったが、目が合った瞬間、小さく手を振られた。…奉んとこから帰る途中だったようだ。結局俺は一人、重い足取りで書の洞へ向かう。





「土産は何だ」

―――これだ。数カ月振りに会う友人に対する第一声がこれだ。参道で親父に軽く不愉快な目に遭わせられつつ重い足取りで辿り着いたこの洞で、数カ月振りに聞くのが土産の催促。

「……ほらよ」

文明堂の包みを放ってやった。奉は空中で不器用に受け取ると、ふと眉を顰めた。

「紙包みかい…」

「何で手提げ袋じゃない事に不満を滲ませているんだ!いいだろ銅鑼焼きで!銅鑼焼き好きだろ!?」

「不機嫌なことだねぇ、久し振りに会ったというのに」

くっくっと笑い、奉は傍らに控えていたきじとらさんに包みを渡す。きじとらさんは数カ月ぶりに、俺を凝視した。…何でこんなに凝視するのだ。俺の事忘れたとかじゃないよな…と、少しドキドキする。

「…開口一番土産の催促するお前はどうなんだ。他に何か云うことないのか」

「俺になにか粘つくねぎらいの言葉を掛けて欲しいのか」

「御免蒙る」

ふてぶてしさの化身のようなこの男は、読んでいた本を伏せ、椅子の背もたれに精一杯よりかかって伸びをした。数カ月前に新調した椅子は、リクライニング機能に優れているタイプだったらしい。

「陰火にでも、逢ったのか」

陰火?と問い返そうとして、ふと思いあたった。奉のいう『陰火』というのは恐らく、俺達が先程桜の枝先で見かけた白い靄のことだろう。

「何で分かった?」

「ついて来てるからだよ」

「へ!?」

ばっと後ろを振り返る。洞の暗がり以外には何も見えないが…いや、いつもより少し明るいような…?

「後ろじゃねぇよ。肩に」

「!?なにこれ!?」

どうも視界がちらちらすると思ったら、肩にさっきの白い靄を砕いたような光が散らばっていた。奉が『陰火』といった通り、

近くで見ると蝋燭の火のようだ。

「なっ、わっ…熱っ!!」

即、肩の陰火を乱暴に払うと、それは一瞬だけパッと伸びあがってすぐに消えた。

「熱いわけないだろうが馬鹿め」

奉は伸びたままの姿勢でくつくつと笑った。この男と数カ月振りに会って、今のところイラつきしか感じていない。

「そいつは厳密には火じゃないからねぇ。もっと知られた言葉で云や、鬼火ってやつだ。死体から染み出た燐が原因だとか、色々と納得したがる輩もいるがまぁ…火によく似た形の、何かだねぇ」

「じゃ、何なんだよ陰火ってのは。お前は知ってんだろ?」

「いや…」

火が『陽火』。火と似て非なるものの総称が『陰火』なんだよ。そう云って奉は実に面倒くさそうに背を丸めた。

「だからその似て非なるものってのは」

「あのな…火に似てるけど火じゃないものなんて、いくらでもあるだろう。さっきの死体から染み出た燐がどうにかなった奴も、陽炎も、ホログラムで再現された炎だって『陰火』と云っても間違いじゃない」

「え!?そんなのも!?」

「だからキリがないんだよねぇ、陰火を定義づけようっても。そういう面倒なのは、そういうのが好きな奴らに任せりゃいい」

「お前といい親父といい…住処の周りに変なものが沸いてるのに、なんでそんなに無関心なんだ?」

盛大にため息をつこうと息を吸い込んだ時、ふわりと温かい湯気が鼻腔を満たした。横合いから滑り込んだ白い手が、温かい緑茶と銅鑼焼きが乗った小さな盆を、俺の目の前に置いたのだ。ざらついた気持ちが不意にすべっすべにされた。思えば俺はきじとらさんが差し出してくれる茶が楽しみで、ここに通っていたようなものなのだ。

「そう云うけどな…陰火にまつわる妖ってな、ものすごく多いんだよ。莫大なんだよ。河童や狐狸の妖なんか比にならんくらいにねぇ。何なら結貴、狐火って聞いた事あるだろう?幽霊画の背景にも必ず人魂が居るだろう?陰火の妖そのものに加え、そういう添え物的な存在も数えたらもう…気が狂う程の件数だ」

じゃんじゃん火に不知火、しらみゆうれん、たくろう火、天狗火…などとブツブツ呟き、奉は二つ目の銅鑼焼きに手を伸ばした。いつの間に。なんというスピードだ。

「お前が見た『陰火』もまぁ…狐狸の類かもしれんし、鎮守の杜に迷い込んだホームレスの死骸から沸いた燐かも知れんし」

「事件じゃねぇか!」

「折れた桜の枝から沸いた桜の精かも知れんし、お前にかかった呪いの残滓かも知れん。原因は数多、考えられる。そしてそれは俺にも特定はできねぇんだよ」

「お前にも分からない事があるのか?」

「そんなのなぁ…今年の春一番は日本に来る前にチベットの羊飼いの頬を撫でましたか?って訊くようなもんなんだよ。撫でたかも知れんし、撫でてないかも知れん。どっちにしろ春一番は吹いてくるだろ」

「だって…春一番はそれでいいかもしれないが、あんな怪しいものを、そんなあやふやにしていいのか?」

「要は、それよ。お前はどうして原因を特定すべきだと思う?」

「そりゃあ…害のあるものだったら、困るから…」

既に温めになりつつある湯呑を置くと、すっと瑠璃色の急須が滑り込んで来て、茶を注ぎ足した。瑠璃色に添えられた白い手が映える。奉の身の回りの家事をしているのだろうに、なぜこの人の指はこんなにも…

「害があってから、何とかすればいい。…お前の親父さんは、それをよく分かっている」

きじとらさんの指から目をあげると、奉が何やら仔細ありげに俺を見ていた。

「……何だよ」

「親父さんは正直…『こっち側』の事に関しては全く知識がないんだが、実に的確に『よくないもの』を見分ける」

「そうみたいだな。この仕事は向いてないってさ。…継ぐ気はないって云ってんのに」

いかん、さっきほんのり感じた、しこりのような不快感が地味に盛り返してきた。

「そうな、ここの園丁は『そういう人間』にしか出来ないねぇ」

「どうでもいいんだよ。継ぐ気はないんだから」

「そりゃそうだ。お前が園丁を継ぐようじゃ困る」

……は?

「…俺が何処ぞのサラリーマンになるより、ここの園丁になって近くに居た方がお前にとっては好都合なんじゃないのか?」

「いいこと教えてやろうか」

「いいこと?」

「親父さんな…小さい頃から玉群に出入りしているのに、この洞に近づいたことはねぇんだよ」

そう云って奉は口の端を歪めて笑った。

親父の小さい頃を何でお前が…と云いかけてやめた。奉の言葉が全て事実なら、奉は小さい頃の親父を知っているのだ。厳密には、『前世の奉』が。…ていうか奉。

「…じゃあこの洞に日常的に入り浸る俺は親父にとっては…」

奉はもう耐え切れないと云った風に肩を震わせてうずくまり、笑いだした。

「迂闊で迂闊で仕方ない、馬鹿息子だな!あはあはははは…」

「うっわムカつくわこいつ。いいか、俺が就職して多忙なサラリーマンになったら、この洞には滅多に顔を出さないからな」

「あはあははは…絶対来るね、週3で来る」

「そんなに来ねぇよ!」

「来るんだよ。今までずっとそうだったんだよ。くっくっく…」

どうにかこうにか爆笑を収めて、奉は茶をすすった。『これまで』とやらを俺は知らないのだが、奉に流れる膨大な時間の中で、この洞に頻繁に顔を出す存在が必ず在ったのだろう。それが俺である可能性は、もう確信に近い程、高いということか。それもこれも全て、俺が迂闊でそして。

「お前はな、強いんだよ」

完全に笑いを収め、奉は湯呑をコトリと置いた。

「…色々と、強いんだ。訳が分からんくらいにな」

「そんなこと云われるの、初めてだが」

「だから、迂闊でいられる」

そもそも危機回避能力とは。そう云って奉はゆっくりと湯呑から手を離した。

「災厄から弱い我が身を守る為に必要な力だからねぇ。お前には必要がないんだろ」

背後の本棚から適当な文庫本を抜き出し、奉は再び本に没頭し始めた。…完全に、『呪い』以前の日常が戻って来た。そのうち、鴫崎が不平たらたらで本のぎっしり入った段ボールを担いで現れるのだろう。俺が親父を継がない、否、継げないことにも、鴫崎が毎日ここに本を運ぶことにも何かの意味があるのなら。


俺はやはり、死ぬまで週3でここを訪れるのかもしれない。諦めにも似た気持ちでそう思った。


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