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霊群の杜  作者: 柘植 芳年
30/57

ぬらりひょん

―――発端は、飛縁魔に俺が抱き続けている疑問だった。


この間、めでたく一児の父となった鴫崎が死にそうな形相で立派な椅子を担いで石段を登って来た。

靴底のゴムをシビアに跳ね返す硬く冷たい石段といい、一旦溶けて固まった雪がこびりつく手すりといい、冬の玉群神社は来る者をも拒む人外魔境である。

「……なんか、すまん」

俺も背もたれ側を支えて一緒に石段を昇っていた。ちらつき始めた粉雪の冷たさが、体中に染み込む寒気をいや増す。

「くっそぅあの野郎…普通こんな日に椅子抱えて石段昇らせるか!?あいつ絶対、嫁を未亡人にする気だぜ!?」

「……あー……」

そこまで考えてはいないだろうが、フォローのしようがない。降り始めの雪は既に石段を薄く覆い始めている。間もなく石段は雪に埋もれ、外界との接触は断たれることだろう。…めでたしめでたし。



というわけにもいかないのだ。



屏風のように背後を覆う山脈のせいか、この土地は雲の抜けが悪い。普段はちらつく程度だが、たまに戸が開かなくなるレベルの大雪に発展することもある。そうでなくても出不精の奉は、本当に飢え死にでもしかねない。

どぼぅ…という枝から雪が滑り落ちる音と鴫崎の悲鳴に、ふっと我に返った。

檜の枝から滑り落ちた雪の塊が鴫崎の頭を直撃した。半泣きで『あいつ殺す、この椅子で殴り殺す』とか配達員にあるまじき台詞を吐く鴫崎に、こいつ余所でもこんな態度じゃなかろうな、と一抹の不安を覚えたがそれはさておき。

「…まぁまぁ。きじとらさん居るかもしれないだろ」

「おうよ、この不毛な日参の原動力はきじとらさんを始めとした美女集団よ」

妹も奇跡的に可愛いし、美女の巣だよな何気に、ぐっふっふ…などと呟きながら気を取り直し、椅子の脚を抱え直す鴫崎。…こいつのメンタルの単調さが羨ましい。

「集団ってほど居たか?」

「居るだろ最近。あのオッパイでかい美女とか、眼鏡のおしとやか美女とか」

「飛縁魔と静流さんか」

飛縁魔には最近、借りを作りっ放しだ、気味悪いほど。だが妖の類には警戒を怠らない奉が、どういうわけか飛縁魔にはノーガードなのだ。

過去につけ入られている俺は、借りが増える度に戦々恐々としているのだが、今のところ完全に俺の一人相撲だ。

「静流さんはともかく、飛縁魔は…」

妖だぞ、と云いかけた瞬間、俺のスマホが鳴った。

暗い液晶に『奉』と表示されていた。俺は一瞬背もたれを離した。

「――何だ。今そっちに向かってんだが。鴫崎と一緒に」

『こっちに?』

「もうすぐ神社に着く。たまにはお前も手伝えよ、頼みっ放しじゃなくてよ」

『神社に?なに云ってんだお前ら』

―――自分で注文しといて、何云ってんだ?

『伝票をよく見ろ』

「伝票を…」

椅子の背もたれに貼られた配送伝票に目を走らせると。

「……おい、鴫崎。宛先見ろ」

「あぁん?宛先??」

面倒臭そうに伝票を覗き込んだ鴫崎が………崩れ落ちた。



配送伝票の宛先は玉群神社ではなく、玉群の実家だった。




雪まみれの俺達が玉群の玄関に辿り着いた頃、あのくそ堕落神は離れで餅焼いて食っていたらしい。ほうほうの体で椅子を運び込んだ俺達を、阿呆を見る目でちらりと一瞥して、奴は黙々と餅を食い続ける。

「―――おい、俺達に何か云うことはないか」

鴫崎が炬燵でのぼせかけている奉に詰め寄る。どうせうやむやにされて躱されるのに。

きじとらさんが運んで来てくれた茶を両手で包むと、漸く生き返った心地がした。最近こんな事ばっかりだ。縁側に置かれた七輪の傍で、エマさんが餅を焼いてくれている。手伝いますか、と声を掛けたがにっこり笑って首を振った。…こういう大人の女もいいなぁ。俺の周りには居ないタイプだ。

「云う事があるとすれば…伝票はしっかり見ないといかんねぇ。時間指定の荷物だというのに」

「毎日毎日!どっかのインチキ神社に日参してるもんでなぁ!!玉群奉って宛名を見ると条件反射でなぁ!!」

「これから暫く雪が続くというじゃないか。まじで陸の孤島になりかねない山頂の神社に籠る阿呆があるか」

「うふふふ…お二人ともそこまでになさいな。お餅が焼けたわよ。砂糖醤油にしちゃったけど、良かったかしら」

「あ、どうも!」

さっきまでの不機嫌は何処へやら、鴫崎は相好を崩してエマさんから餅を受け取った。目は常にエマさんの胸元を追っている。俺は鴫崎ほど露骨にガン視は出来ないが、ふとした瞬間にどうしても、そのざっくりと開いた黒のニットの胸元に目がいってしまう。…寒くないのかな、という見当違いな感想もちらと脳裏をよぎる。それだけだ。他意はない。断じてない。

「そうか…雪がおさまるまでは居るのか」

『屠られた子供たち』に嵌められたとはいえ、俺がつけてしまった深い傷跡はまだ、うすく体中に残っている。そんな目に遭っておきながら、なぜこの家に戻れるのだろう。

「何でだ。お前今度こそ殺されるぞ?」

熱々の餅を頬張りながら鴫崎が尋ねる。文庫本を片手に茶をすすっていた奉は、こちらを一顧だにせず答えた。

「そう思って近づかないようにしていたんだがねぇ。あの件で思い知らされたんだよ」

俺がどこに居ても、あいつらは追ってくるよ。そう呟いて奉は湯呑を置いた。

「なら何処に居ても同じってわけか」

「それにあの件からこっち、あいつらからのちょっかいは無いんだねぇ。秋の終わりくらいまで感じていた、あの息苦しさが弱まっているようだ」

「―――油断はするなよ、奉」

「いや、するさ」

は!?何で!?俺が目を剥いて奉を睨むと、こいつは面倒くさそうに仰向けに倒れた。

「ここ暫く色々あり過ぎなんだよ。あの未来視が持ち込む厄介事とか!そっちの運搬屋に憑いたクドい武士とか!」

「はぁ!?何だそれ俺に何が憑いてるって!?」

「変態センセイの件とか!…全部に警戒していたら神経が参ってしまうねぇ…」

―――おい、鴫崎は知らない状態なのかよ。もう少しは話してると思ってたよ。鴫崎、愕然としてんじゃねぇか。

「今だってこう見えて、新たな問題が生じていてな」

「おいスルーすんな!俺に何が憑いてるんだよ!!あと何だよ変態センセイって興味深ぇな!!」

奉の肩を八つ手のようにでかい掌でガッシと掴んだ。…相変わらず声も図体もでかい。

「あら、ふふふ…時間指定のお荷物、大丈夫なの?」

エマさんが腰をかがめて鴫崎を覗き込む。黒のニットがはちきれんばかりの谷間が俺と、鴫崎の眼前に張り出してきた。うっわ何これどういうこと!?ちょっとこれ大丈夫なやつ!?この後お金取られるやつ!?

「うっ…あ、そうだそうだ、のんびりしてる場合じゃねぇや」

鴫崎は鼻の下は伸ばしっ放しながらも残った餅を口に放り込み、制帽を被り直して立ち上がった。

「あははは青島、お前すげぇ顔になってんぞ?」

お前もだろうが。

「うるせぇよ。早く帰れ」

―――驚くべきことに、鴫崎は玄関を出るまでずっと笑い続けていた。





「―――嵐が来て去ったようだったな」

誰に云うでもなく、呟いた。

エマさんがくすくす笑いながら、鴫崎がとっ散らかしていった箸や皿をまとめて下げてくれた。こういうの本当にびっくりするんだが、あいつも奉も基本的に食い荒らして片付けない。ネグレクトに近い状態で育ってきた鴫崎は仕方ないとしても、奉も食った後全然食器を下げたり軽く片付けたりしないのだ。洞ではもちろん、学食でも食器置きっぱなしでふらりと何処かへ行ってしまう。渋々二人分の食器をさげながら、ふと『おかしいのは俺の方なのか?』と錯覚しかけることがある。

「供え物をするのも片付けるのも、ヒトの仕事だろう」

俺の視線に気が付いたのか、奉が居心地悪そうに身じろぎした。

「きじとらさんが居なくなっても俺はお前の世話なんかしないからな。…で、何かまた問題が起きたって?」

「何だ、聞いてたのか」

「当たり前だ」

奉が実家に戻ったと聞いた時から、厭な予感がしていた。いくら無精者で尊大で傲慢な堕落神とはいえ、幼馴染には変わりないのだ。変な死に方をされれば寝覚めが悪い。

「……ぬらりひょん、という妖は知っているな。有名どころだからねぇ」

笑いを含んだ声で呟きながら、奉が俺の目を覗き込んで来た。…何かを探るように。

「まぁ…ゲゲゲの鬼太郎とかで見た事がある程度に」

「そんな認識でいい」

紫煙をくゆらせながら、奉が語り始めた。


夕暮れ時や、人の出入りが激しく忙しい頃、そっと人の群れに紛れ込み、その居場所に入り込む妖。火鉢の傍で茶をすすったりしているが、忙しさに麻痺した人間にはその存在も違和感も認識すら出来ない。


「…つまり、お前の居場所にぬらりひょんが入り込んでいるのか?」

「さぁね。なにせ認識すら出来ないのだからねぇ」

小馬鹿にしたような声色を含ませ、奉が答えた。煙草を弄ぶ指先に、きじとらさんが小さな灰皿を置く。…家事も力仕事もまっっったくしないせいか、奴の指は腹立たしい程に整って美しい。

やがて、襖の裏側から小さな咳払いが聞こえた。

「エマさん、本日から寝室はいかがいたしますか」

小諸さんの声がする。今日は見かけないと思っていたら、急に帰って来た奉の為、荷物整理に忙殺されていたようだ。たまに奉が動くといつも、漏れなく周りの誰かが迷惑を被る。

「空いてる部屋を適当に使うわ。気にしないで」

「お前っ、ここ、エマさんの…!」

シンプルだが小奇麗に整えられた居室を見回してみる。こいつの部屋にしては本がないな、とは思っていたがこいつ…!!

「お前な…一応実子だからって、やっていいことと悪いことがあるぞ!?」

奉は心底面倒臭そうに紫煙を吐き、本当に煩わしそうに立ち上がった。

「―――もう帰れ。そこのコンビニまで送る」




玄関を出ると、いよいよ強くなった吹雪が横面をはたいた。どうやらここ数年でも屈指の積雪になりそうだ。もう帰れ、と云われた時は少しむっとしたが、奉の判断は正しかった。ふと後ろを見ると、奉も紺色の襟巻に鼻を埋めて寒そうに、渋々ついてきていた。

「珍しいな」

「……あぁ?」

「奉が、送ってくれるなんて」

返事も、憎まれ口すらもなかった。視界が悪い中、俺と奉は黙々と歩き続けた。

「……さっきの、ぬらりひょんの話」

奇妙な沈黙に耐え切れず、話の口火を切ったのは俺だった。

「続きがあるんだろ」

奉の肩が小さく震えていた。俺は少しだけ歩を緩め、奉の横を歩く。奉を震わせる何かが…あの家で。

「くっくっく…」

……あ、これ恐怖とかじゃねぇや。笑ってるだけだ。

「お前、一応確認するが、さっき何かに気が付かなかったか?」

何を云っているんだ、こいつは。

「何かって何だよ。餅に変な物でも混ぜたのかよ」

「くくく…本当、気が付かないものなんだねぇ」

「そういうヒントのない謎かけ、本当に厭なんだよ。子供か」

「面白いねぇ……」

歩調を合わせる意味をまっっったく失った俺は、再び縦列で歩き始めた。…コンビニまでの雪中行軍。意味が分からん。別に何もないなら奉は何でついてきたのだ。

「結貴よ、本当に何も気が付かないのか」

背後から、尚もしつこく奉の笑いを含んだ声が聞こえた。あーもう、うるさい。謎々ごっこは終わりだ。

「しつっこいな、何だよ一体。ギブアップだよ答えを教えろよ」




「エマ…って、誰だったかねぇ」




―――え?

「え、え、ちょっと待て、エマってあれ?どうして俺…あれ?」

混乱する記憶の中で、何か強引な手段で捻じ曲げられていた記憶のピースが、不意に形を取り戻し、かちりとはまった。信じられないことに、俺はすっかり忘れ果てていたのだ。さっき、鴫崎と話したばかりだったのに。



………何故、飛縁魔が玉群の家で普通に生活しているのだ!?それに。



「何で俺は気が付かなかったんだ!?」

愕然とする俺。背後で大爆笑しながら雪の中に崩れ落ちる奉。

「お前らのやりとり見ながら吹きそうだったよ、何が『実子だからって』だよなぁ!あっちはガチの妖怪勢じゃねぇの!」

「笑いごとじゃないだろ!?鴫崎もごく普通に接してたぞ!?」

「さっきの答えだよ」

―――あれが、ぬらりひょんだ。

そう云って奉は膝の雪を払って立ち上がった。

「何の目的で?」

「本当のところはよく分からんねぇ…だが俺は飛縁魔の侵入を見逃すことで、対価を得ている」

―――合点がいった。

あれは『取引』だったのだ。

玉村宅に居場所を得る対価として、飛縁魔は奉の為に動いていたのか。

「…すっきりした顔をしているねぇ」

まだにやにや笑いながら、奉が呟いた。

「合点はいったが、もやもやが増えたよ」

そうだねぇ…奉はそう呟いて、舞い散る雪を目で追うように視線を動かした。

「ぬらりひょんという妖は、他の妖とは一線を画す描かれ方をされることが多いねぇ、不思議なことに」

「…それは俺も思った」

あらゆる漫画や小説で、ぬらりひょんという妖はえらく高い地位に設定されている。やること自体は他愛もない家宅侵入なのに。正直、忙中ひっそり人ん家に入り込んで茶を呑むくらい、俺にだって出来そうなことではある。

「ぬらりひょんと、他の妖怪の決定的な違いとは何だと思う、結貴?」

「ヒントのない問いは嫌いだと云っただろう」

「妖ってな案外、素直なものでねぇ。大抵の妖は『理』に忠実に動くんだよ」

「なんだそれは」

「人ん家に入り込んで尻こ玉を抜いていく河童はいないし、陸に上がってアクティブに仲間を集める船幽霊もいない」

「あー…」

確かに尻こ玉が欲しければそこら辺の民家を襲撃すれば早いよな。

「こう云い切ってしまってよいのかは知らんがねぇ…これは人と妖の間に太古から育まれ続けている暗黙の『契約』のようなものに思える。俺がここに居着く前から、人とあいつらはずっとこんな感じだった」

だからそれが果たして契約なのか、もっと別の何かなのかは分からんが…と、前置きをした上で奉は続ける。

「ぬらりひょんだけは、その『契約』の部分がひどく曖昧なんだよ」

「曖昧…?」

「例えば、垢舐めは風呂場を綺麗にしておけば寄ってこない。この間の輪入道は、『勝母の里』の札を貼っておけば近寄れない。船幽霊は柄杓をよこせ、と凄んできて、ビビって渡すとその柄杓で海水を掬って船に流し込まれて沈められるが、予め底を抜いた柄杓を渡すと海水を掬えず、逃れることが出来る。だが」

「ぬらりひょんには、そういうのはないのか」

「そうなんだよねぇ…家だぞ?家に入り込む妖ってのは往来で行き逢う輩に比べて、約束事が多いものなんだが…」



ぬらりひょんは、実に自由に人の領域に這入り込む。



「…人ばかりが、妖を畏れているわけではない。お前も『視える』質なら、思い知らされているだろう?」

妖が人を畏れているかどうかは知らないが、俺は奴らが意外と不自由な存在であることは知っている。俺は返事をしなかった。少しの間、無言の雪中行軍が続く。

「…つまり、ぬらりひょんって妖は、妖の『理』の外に居るってことか」

「そうだねぇ…『理』ってのは所謂、線引きさね。人と、妖の。外に居る…というよりは、線引きが曖昧…ということにしておくかねぇ。妖の理から外に出てしまったら…」



あいつは、人間ってことになっちまうからねぇ……。



その云い方は、やはりひどく曖昧で…その言葉選びに、奴には珍しい『迷い』を感じた。

「―――なぁ、飛縁魔は、ぬらりひょんなのか」

「野暮だねぇ。飛縁魔もぬらりひょんも、人が考えた呼び名だろ。…今のあいつは、自分の名を選んでいる」

「そうなのか!?」

「…エマって云うんだってよ」

背後から奉の忍び笑いが聞こえた。

俺は、酷くホッとしていた。

飛縁魔…エマさんが人に近い何かなのだとしたら、玉群に居たがる理由が分かる気がする。



エマさんは、名をくれた縁ちゃんの傍に居場所が欲しかったのだ。

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