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霊群の杜  作者: 柘植 芳年
25/57

柿の精

挿絵(By みてみん)


まっこて、さかしい子じゃ…

くろい、くろい群れ。俺の頭上を取り囲む、おとなたちの群れ。

皆が俺を称える。さかしい子じゃ、まっこて、さかしい子じゃ。

てんがらもんじゃ、てんぎゃんじゃ。…口々に云う。



てんがらもん も てんぎゃん も、ヒトじゃあなかろうに。



じゃがのう。

さかしい子は、悪い心を持つ大人になると、よくないこと、ずるいことを思いつく。

俺を取り囲んだおとなたちは、白痴のような黒い顔を並べて、口を開けて俺を見下ろす。

俺は睨み返した。

俺を取り囲む大人たちの向こうに、泣きそうな顔をした子供達の姿が見えた。

つい、舌打ちが出る。

『こんな場面』を子供達に見せる気か?



おとなにしちゃ、なんね。

んだ、なんね。

んだ、んだ、んだ、んだ………



重い鉄の鍬が振り下ろされる。何十本、何百本………

まだ死ぬわけにはいかないのに。

もうすぐ、『あれ』がやってくる。

伝えないと。

せめて、子供達に。

備えろ、と。

つたえないと。



俺は汗にまみれて跳ね起きた。



「―――あぁ、もうそんな時期か」

寝不足でふらつく足で長い石段を登り切り、柿の木の下で休んでいる俺をいち早く見つけたのは、珍しく洞から出ていた奉だった。

「そうだよ。早く取ってくれ」

玉群神社の鳥居の脇に自生する、樹齢400年を超える柿の巨木がある。

注連縄が張り巡らされた奇妙な柿の木だ。庭師である親父が毎年注連縄を張り替え、実に丁寧に手入れをしている。

「ここのご神木だからなぁ…」

親父は一度だけ、俺に妙な事を云った。

「実が熟したら落として、干し柿を作れ。実を蔑ろにされると祟るんだよ」

その話を聞いて以来、毎年のように俺はこの悪夢を見る。

遥か昔の農村。頭は良いが無力な少年。彼が村人たちに鍬で滅多打ちにされるというバッドエンドで目が覚めるのだ。こういう場合、普通『鍬で打たれる瞬間』に目が覚めるのだと思うんだが、この夢の場合、彼は鍬でひたすら滅多打ちにされる。

滅多打ちにされながら『備えろ』『備えろ』と訴え続けるという。なんの拷問だ。

そして最悪なことに、この夢は鳥居脇の柿の実を収穫するまで繰り返される。

そして親父の話では『実を蔑ろにすると祟られる』という。普通神社で採れたものは食うものじゃないんだが、仕方ないので干した実を参詣者に振る舞う…というか本殿に『ご自由にどうぞ』と書かれた立て札と共に放置する。

「面倒くさいねぇ……あの眼鏡女でも呼ぶか……いや、戦力にならんか、どんくさそうだからねぇ」

「最悪だなお前」

「あぁ、そういやそろそろ鴫崎が来るか」

「よせよ、死ねって云われて一蹴されるだけだぞ」

「じゃ、今年もアレだ」

「―――気がひけるなぁ」

奉が『きじとら』と声を掛けると、本殿の影からきじとらさんがひょっと顔を出した。

猫は、木登りが得意なのだ。




「…柿剥くの、鎌鼬でぱぱっと出来ないかねぇ」

「そういうのは無理だ。リンゴで試したことあるが、芯しか残らない」

俺たちは節くれ立った老木に、するすると登っていくきじとらさんを眺めている。

寒風が緩く頬にあたるこの寒空に、きじとらさんは半袖にショートパンツで器用に柿をもいでは放る。

きじとらさんは、とても体がしなやかで柔らかい。

巨木にぴたりと体を添わせ、しなやかな四肢を幹に絡ませて枝から枝へするすると移動する様は、まるで巨木に絡みつく白い蛇のようだ。柿の実はみるみる袋に溜まっていく。俺は熟れて艶めく柿を受け止めながら、白くて瑞々しいその四肢をぼんやりと眺めていた。

「―――たまんねぇなぁ」

……い、今『たまんねぇ』と云ったのは誰だ!?弾かれたように振り向くと、鴫崎がまた巨大な段ボールを抱えて俺たちの後ろに立っていた。

「……お前」

「って顔してたぞ青島」

そう云う鴫崎こそ、涎を垂らさんばかりに下世話な顔で、きじとらさんをローアングルから舐めるように凝視している。

「おい…その顔はなんか駄目だぞ鴫崎。人の親にもなって」

「お前に何が分かる」

産褥期とやらがくっそ長いんだぜ、と呟きながら鴫崎は柿の木の裏側に移動した。…きじとらさんが移動したのだ。

「やめて下さいよ配達員さん、きもいので」

柿を仕分けしていた奉が、傷ものの柿を鴫崎の後頭部に放った。…あぁ、この男でもきじとらさんが露骨に好色な視線に晒されると不快を覚えるのか。

「厭だね、俺はもうこの木から離れねぇぞ!今日はここで飯を食うんだ」

「じゃあここで食っていろ。…きじとら、一旦休憩だ。洞に戻る」

樹上のきじとらさんが、こくんと頷いてするりと四肢を幹に這わせて降りて来た。お荷物重いんで運びますよー、とか云いながら鴫崎がついてきた。…ごめん、鴫崎。今のお前ちょっときもい。




木の下に立っているだけだったが、いざ炬燵にあたると俺は相当冷えていたらしい。手足の末端がほどけるように温まっていく。薄着で柿をもいでいたきじとらさんなど、茶を淹れたが最後、炬燵に首まで入って出てこない。やがて軽い寝息すら聞こえて来た。

「洞の分際で生意気にも電気引きやがって。キッチンはIHかよ生意気な」

カップラーメンをすすりながら鴫崎はぶつぶつ呟く。

「こんな通気の悪い洞にガス引いたら…山が一つ吹っ飛ぶような大惨事が起こりかねないねぇ」

きじとらさんが上着を羽織った辺りからようやく、鴫崎が『戻って来た』気がする。子供が生まれて以降、奴の新生活はどんなことになっているのやら。

「今年はどうも、収穫が遅れたねぇ…きじとらがこうなってしまっては、今日の作業はこれで終了、か」

僅かに見えている頭を軽く撫で、奉が薄く笑った。

「もう、いいんじゃないか。こんなにあるのだから」

悪夢は柿を『ある程度』取れば終わる。

いつだったか、試しに柿を一つだけもいで帰ったが、悪夢は終わらなかった。奉が『面白いねぇ…カウントアップしてみるか』などととんでもない事を云ったが、それでは俺は規定量の柿をもぐまで毎日厭な夢を見続けることになるじゃないか冗談じゃない!と断り、その日のうちに100個近くの柿をもいでやった。

「そもそも俺はそんなに干し柿が好きじゃない」

毎年この柿をもぎ、干し柿を拵えるが、俺自身は食べた事がない。

「―――おかしな話だねぇ」

奉が俺を上目遣いで覗き込んできた。

「何を今更。毎年のことじゃないか」

「そうじゃないよ」

悪夢のことを云ってんじゃないよ、俺は。そう呟きながら、尚も俺を覗き込みながら奉は湯呑に口を付ける。




「お前はどうして、一つも『この』柿を喰わない?」




―――だって俺は、干し柿がそれほど好きでは

「吐き気がするほど嫌い、というわけではないだろう?」

「まぁ…そうだが」

「干し柿自体、食べたことがないか?」

「え?いや、そこら辺にあれば」

―――ん?

「あれば、食うんだな」

ぬ…と、茶色く縮んだ柿を一片、渡された。

「去年の、干し柿だ。まだ残っていた」

手渡された瞬間、僅かだが俺の中にぴりっと緊張…に似たような何かが走った。…気を付けていなければ分からない程度の。

「…どうした、食わないのか」

どれくらい、掌の干し柿を睨んでいたのだろうか。ふと我に返ると、奉のみならず鴫崎も俺をいぶかしげに見ていた。

「なんだ青島、お前干し柿嫌い?」

「えっ…そんなはずは…だって俺、干し柿」

……あれば……食べるし……。

「ほら、食え」

なんだ、この感覚…俺は何故。

「食えるんだろ」

「ばっ…やめろよ、青島厭がってんだろ?」



「厭がっているのか、俺は?」



思わず口をついて出た。

そうか、そう考えれば合点がいく。

俺は。

「そうだよ、お前はこの柿に、嫌悪感を抱いている」

奉はそっと湯呑を炬燵に置き、両手で包み込んだ。俺は掌の中で静かに干からびている柿に、再び目を落とす。物言わぬ柿は、何て言うか…。

「この柿…俺をずっと睨んでいる…気がする」

「は?何云ってんだお前?」

思わず身を乗り出す鴫崎を存在ごと無視して、奉は湯呑を包んでいた手をそっとほどいて語り始めた。

「……この地には、こんな民話が伝わっている」



山に囲まれたこの地には、鉄を鋳造する技術をもつ民がいた。

元々は流浪の民族だったが、この近辺に鉄や銅の鉱脈が豊富にあることを知った彼らは、この地に定着して鍛冶場を作った。

地元の集落との交易もうまくいき、やがて集落の長から村の櫓に吊るす『鐘』の鋳造を頼まれた。


程なく見事な鐘が完成したが、困ったことが起こった。


鐘は重すぎて、櫓の上に運べないのだ。

集落の民は総出で知恵を絞ったが、誰もよい案を思いつかない。

困り果てたその時、鍛冶場で育った聡明な少年が、良い案を思いついた。

「鍛冶場から少し行った場所に崖がある。その崖の下に、崖より少し高いくらいの櫓を作れば、簡単に鐘を吊るせる」

村人は大喜びで、その案に従い…見事な鐘を吊るした櫓が完成した。

見事な櫓は村の守り神として、末永く大切にされたという。



「民話として伝わっているのは、これで『どんとはれぃ』だ」

「ほう…その子供はよく考えたもんだなぁ」

鴫崎は素直に感心して腕を組んだ。…炬燵の影に、奉がストックしていたカップラーメンが空になって転がっていたが、見なかったことにする。

「めでたしめでたし、じゃん。それと青島がこの柿を嫌うのと何の関係があるんだ?」

「―――この話には、とても厭な続きがある」



櫓は無事に完成したが、集落の民の間に新たな懸念が沸き起こっていた。

あの少年は、とても頭が良い少年だ。

人が思いつかないことを思いつく。

そういう子供は、大人になると悪いことや狡いことを思いつく。



頭の良すぎる子供は、大人になる前に殺さなければならない。



「―――はぁ!?」

鴫崎が目を見開いて体を乗り出した。

「なんだその結論!?逆だろ普通!?その子が誰も思いつかないような凄ぇこと思いついて、生活が超ラクになるかもだろ!?鐘を吊るせたのはその子のお陰なのに!」

「―――不作、天災、飢饉…山が多く水も豊富なこの地域は、様々な災害に見舞われた」

奉が適当に沸かした湯を急須に注いで、かるく回した。

「嵐の中で身を縮めて、必死に自らの食い扶持を守る。…それが全ての、閉塞した社会だった。この集落だけじゃない。日本中の多くの集落が、ここと似たような状況であり、同じような価値観を持っていた」

やがて俺たちの湯呑に、濁った出がらしが注がれた。

「彼らにとって変化は喜ばしいことではなく、僅かな変化が死に繋がる可能性に、常に怯えていた」

そして『天才』の存在は、変化を呼び込みがちである…奉は口の中で呟いた。

「その動機に『妬み』という感情がまったく介在しなかったかというと、それはまぁ…云い切れないが、大まかな動機はそれよ。カツカツの状態で辛うじて生きていた彼らは純粋に、変化を畏れたんだねぇ」

くっだらねぇ奴らだ…と呟き、鴫崎は乱暴に腰をおろした。…鴫崎よ、時間指定の配達物はいいのか?

「ところで、日本の信仰には『タタリ神』という特殊な概念がある」

「タタリ神??」

「菅原道真に崇徳天皇、平将門。無念の死を遂げた者は、祟りを畏れて非常に手厚く祀られるだろう?」

その辺に散らばった柿の実をコツコツと指で叩き、奉はふいに口の端を吊り上げた。



「殺された少年は、この木の下に埋められ…何代にも亘って祀られた」



思わず、掌の干し柿を取り落とした。干し柿はカシ、と地味な音をたてて炬燵の上に転がった。

「あとな…ある時期を境に、この地域に存在した筈の鍛冶場に関する記録が途絶えているんだよねぇ。元々流れ者だった彼らのことだ。鉱脈の資源が底をついたか何かでこの地に見切りをつけたのか…もしくは」

少年は、鍛冶場もろとも葬られたのか。

「鍛冶場もろとも…って何だよ…」

鴫崎が目を見開いた。こいつは意外にも、俺よりも性善説寄りの人間なのだ。

「元々流れ者の集団だろう。一夜のうちに集落ごと消えたとしても、それほど不思議とは思われないし、そういう流れ者は沢山いたからねぇ」

「うっわ……引くわー……」

いや軽いな感想!

「どちらにせよ、全ては柿の下よ」

「お前…それ知ってて、よくその柿を食えるなぁ…」



「お前は知らなかったのに、何故食えないんだろうねぇ」



密かに、だが頑なに、この柿を食わなかったのだ俺は。

「…小さい頃、だれかにその話を聞いたのかも知れない」

「民話は『めでたしめでたし』でお仕舞いだ。その続きは俺しか知らない。お前に話すのは初めてなんだがねぇ…お前さっき、何て云ったか。柿の実が、自分を睨んでいる?」

俺は改めて炬燵の上に転がる干し柿を見つめた。睨んでいる…そうなんだが。

「―――柿の下の子は、まだ恨んでいるんだろうか」

「さあねぇ」

俺はその子じゃないからねぇ。などと呟き、奉は転がった干し柿を見下ろした。

「食ってみたらどうだ」

何か分かるかもねぇ。奉はそう云って、干し柿を拾い上げて俺の掌に乗せた。一年かけて干からびたそれは、何か海底にでも棲むマイナーな生き物のようだ。正直、この柿を食うことへのためらいは、さっきと比べていや増すばかりなんだが、俺は仕方なく口に含んだ。



「―――甘い」



驚いた。

滋味に富むというか、自然と体に沁み込むような心地良い甘みが口中を満たした。俺は干し柿は好きではないが、一口、もう一口と食べ進めていくうちに、いつの間にか全部食っていた。

「……分かったか」

「うぅむ…」

普通の、干し柿だった。

俺を睨んでいたのではない。根拠は全然ないんだが、そんな気がした。

柿は俺を、凝視していたんだ。

どういうわけか『干し柿担当』にされた俺が熟した実を蔑ろにしないか、監視されていただけなのだ。多分。

恨みを持つ者が、あんなに優しい甘さになるはずがない。俺は拍子抜けのあまり、仰向けに倒れた。

「だからいい加減、忘れたらいいのにねぇ…お前はいつまでも変わらず、要らんことで悩む」

奉がそんなことを云った気がした。



きじとらさんが一瞬だけ、もぞりと身をよじって目を開いた。そして炬燵の温度を『最弱』にしてペットボトルの水を少し呑むと、またすぐに寝息をたてて炬燵に潜り込んでしまった。たまんねぇな…とか呟きながらニヤニヤしていた鴫崎が、ふと真顔に戻って顔を上げた。

「玉村よ。その…櫓?って、いま何処にあるんだ」

「おお。あれはもうないねぇ…」

「え?ないの?」

俺も密かに驚いていた。この辺りには古い櫓が割とあるから、その中の一つだと思っていたのに。

「随分昔、この辺りを襲った津波が全部さらって行った。櫓も、鐘も」

昔話を語る時、奉はいつも遠くを見るような目をする。

「櫓も鐘も集落さえも、全て津波に呑まれて消えた。今も残るのは、高台にあったこの柿の木のみ。…皮肉なもんだねぇ」

少し黙ったのち、奉はこんな風に続けた。…柿の木は玉村の神木として地域の信仰を集め、手厚く祀られ…やがて『神』のような『妖』のようなものになった。

「妖!?そうなのか!?」

「実を採られずに放置された柿の木が、赤い顔の僧侶に姿を変えて現れる。『たんころりん』などと呼ばれる地方があるとか、ないとか」

「何しに出てくるんだそいつは」

「実を食えというばかりだ。結構、強引にぐいぐい来るタイプの奴だぞ」

「柿が自ら、柿を食えと」

田舎の道端によくある、牛がすごい笑顔で『おいしいよ!』とハンバーグを勧めてくる変な看板を想起させる。



「埋められた少年が『柿の精』になったのか、時を経て木そのものが妖と化したのかは分からないが…あの木の周りに恨みやら呪いやらはもう存在しないよ」

あれはただの柿なのだ。…思っていた以上に。

「柿の精にとっちゃ、集団殺人も、津波も全ては単なる『現象』…人の営みの一部よ」

「俺はそうは思わねぇな」

鴫崎がゆっくりと立ち上がった。…お、ようやく時間指定配達を思い出したか。

「ほう…どう考えるのかねぇ」



「何も思ってないなら、なぜ毎年、青島の夢枕に立つんだ?」



茶をすする奉の動きが止まった。…眼鏡の奥に感情は見えない。

「難しいことは分かんねぇけどよ、そいつ…その柿の精?」



―――そいつはまだ人間だ。



ま、カンだよカン。そう言い残して、鴫崎はのたりのたりと帰っていった。

奉は何の表情も宿していない顔で、鴫崎を目だけで見送った。

「―――賢しい、子供だったよ。あの子は」

そう呟いたきり、奉はあまり話をしなかった。






あの柿を食ったからか、俺はその日もう一度だけ夢を見た。

そこには、俺が考えていたより更に凄惨な現実が、あった。



おとなにしちゃ、なんね。

んだ、なんね。



そう呟きながら少年に鍬を振り下ろす大人たちの輪。

この日、俺は初めて『輪の外』からこの光景を見た。

俺は震えていた。泣いていたかもしれない。

傍らに誰かが居る。それも初めてのことだ。煙色の眼鏡をかけた少年が、何の表情も宿していない顔で、輪を見つめていた。

胸が痛んだ。輪の中で私刑を受けているのは、俺の『仲良し』だった。

だが『村』の決定に子供の俺は逆らえない。俺はこの酷い理不尽な私刑を止められない。

俺たちは気づいていた。この私刑の本当の目的に。



俺たちのうち、誰かのせいなのだ。



あの子は賢しい子だった。だが優しい子でもあった。

俺たちが本当に小さかった頃、この集落を飢饉が襲った。年寄りや仲良しの姿を見なくなり、墓穴が増えた。俺が覚えていたのはそんなもんだったが、あの子はしっかりと覚えていたのだ。あの子にとって飢饉は終わった災厄ではなく、必ずまた訪れる自然現象だったのだろう。驚く程、賢しい幼児だった。

あの子の飢饉に対する備えは、その頃から始まっていた。

山や森に入り、どんぐりやクルミなどの日持ちがする、だが大人が見向きもしない木の実を集め、干したり、あくを抜いて粉にして押し固めたりして密かに蓄え『次の飢饉』に備えていた。

そしてそれはあの子の予想通り、10年近くの時を経て再びやってきた。

かつて俺たちが経験した飢饉の、数倍の深刻さを孕んで俺たちの集落を襲った。

日々の忙しさに追われ、まともな備えをしていなかった集落の子供たちは、ろくに食えない日々が続いていた。

この飢饉は文献にも残るレベルの酷いものだった。人は落ちている木の実や農耕に使う牛馬を食い尽くし…ついには飢餓で亡くなった子供をも食らった。

ある日、腹を減らして倒れそうな俺たちに、あの子がそっと差し出したのだ。



甘い干し柿を。



飢えて死にそうな俺たちを見かねたのだろう。賢しいあの子なら、手の内を見せてしまう危険も察していた筈だ。だがあの子は俺たちに干し柿をくれた。大人には内緒だ、あの子はそう云った。俺も、他の子達も力強く頷いた。

だが秘密を秘密として保つには、俺たちはあまりにも愚かで、幼い。

俺たちのうちの誰かが、干し柿のことを大人に漏らしてしまった。

大人たちは、あの子が危険だから殺したのではない。



ただ腹が減ったから。あの子が10年かけて作った蓄えを、そっくり奪う為だったのだ。



やがて輪の中心に居たあの子が動かなくなった。

大人たちはぞっとするような相談を始めた。聞くのも汚らわしい、酷い内容だった。

まず…あの子が腑分けされた。あの子の蓄えも、集落の皆が等分に分けた。あの子の親は…姿を見ることはなかった。既に殺されたのか、危険を察して逃げたのか俺は知らない。



全ては、人の営みのうちだ。…煙色の眼鏡の少年はそう云った。

こんなのが人の営みだというなら…俺はもう人に産まれたくない。そう云って俺は泣いた。忘れろ、思い出すな。少年は繰り返し俺に云い聞かせる。

俺はもう、柿なんか嫌いだよ。少なくとももう、この柿の実は食べない。『食べ滓』となった少年を埋めた柿の木の下で俺はそう誓った。…おかしな話だが、妙に納得した。泣きながら誓った俺を、遠くからもう一人の俺が見ている感じだろうか。

「お前は、何も食べてないみたいなのに。柿も貰わなかったのに」

お前は食べなくても平気なのか?そう、眼鏡の少年に問う。少年はにやりと笑うと、人が居ないことを確認してから呟いた。

「俺はあいつのようにお人よしじゃないよ」




―――そこでようやく目が覚めた。




備えろ。あの子はそう云った。

あの子が俺に伝えたかったのは、飢饉に備えろということだったのだろうか。この平成の世に。

それとも…もっと違う何かに『備えろ』と、云いたいのだろうか。

恐ろしいほど賢しい、あの子は。


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