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霊群の杜  作者: 柘植 芳年
24/57

縊鬼

挿絵(By みてみん)


―――首吊り死体が出た。



そんな薄昏い話題が、大学構内に満ちていた。

このところ、めっきり話しかけてくる友人が減った俺は、講堂の机に突っ伏した姿勢のまま、そんな噂話に耳を傾けていた。

「…多いな、ここのところ」

「あの…いつだったか、久々に出て来たデブとかもなぁ」

ひだる神に憑かれて死んだ信田の話だ。…特別、仲が良かったわけじゃないが、あの記憶は今でも時折俺を苛む。奉が迎えに来たあの瞬間の、すっと心が冷える感じが忘れられない。

「今度の首吊り含めると、何人?」

「4人だよ。…多いな」

つまり、うちの大学の生徒が首吊り死体で発見された。そして本年度、学内での変死者数が4人に昇る…そういうことか。



奉は期末試験が終わるや否や、学校には寄付きもしない。



あんな薄情者でも、孤立を深めている今の俺には貴重なつるみ先だというのに。

今起きたような顔をして、ぐっと伸びをする。自分でも不思議だが、全然焦りが湧いてこない。奉と行動を共にしていると、こういう時期がしばしばあるのだ。遠ざけられるというか、様子を見られる時期が。こういう時はそっと距離を置き、俺自身は何一つ変えずに普通に過ごす。そのうち何事もなかったように、自然と人が戻ってくるのだ。

「結貴くん!」

……ほら。薄く目を開き、ん?と気怠く首を回した瞬間、俺は凍りついた。

「夜型人間は、こんなトコで睡眠を補ってるんだなぁ~?」



小さくどよめく講堂の片隅で、玉群家のかわいい隠し玉が、リスのように大きな瞳で俺の顔を覗き込んでいた。





「私、絶っ対ここの大学には入らない」

縁ちゃんは小さく肩をすくめて呟いた。昼時を少し外して訪れた学食に、客はまばらに散っている程度だ。

「どうして」

「…学食がおいしくないんだもん」

そう呟いて、彼女はいたずらっぽく笑う。…どうも、カレーがぬるかったらしい。ぬるいカレーは旨くあるまい。

「そこはパートのおばちゃんによる。ちゃんとカレー温めて出してくれるおばちゃんもいるぞ。…5割の確率で」

「低いなぁ」

そう云いながらも、品よくカレーを掬って口に運ぶ。縁ちゃんは基本的に躾がよいのだ。



半刻前。講堂で不意に声を掛けられて凍りつく俺に、縁ちゃんはこう云った。

「エマさんと待ち合わせしてるの。ちょっと付き合って」

は?エマ?エマって誰?と声をあげかけ、ふと思い当たり口を噤んだ。縁ちゃんは『飛縁魔』を『日野エマ』だと思い込んでいる。飛縁魔のほうも、その名を気に入ったようで『エマさん』と呼ばせているそうだ。

「…こうやって、待ち合わせて遊びに行くことってよくあるのか」

「んん、お誘いはちょこちょこあったんだけどー、県大会近かったから忙しくて♪だから二人で遊ぶのは今日が初めて」

んふ、と小さく笑ってイチゴミルクのブリックパックを畳み始めた。…中学校の給食を思い出す。

「ねね、大丈夫かな?今日のコーデ、変じゃない?」

ちょっとそわそわしながら、縁ちゃんが立ち上がってくるりと回った。落ち着いた黒のピーコートも、芥子色のミニスカートも、踵が高めのブーツも、いつものスポーティな縁ちゃんにしては少し大人っぽい感じがする。嫌いじゃない。むしろすごくいいが…。

「…踵、高すぎないか?えっと…エマさんと縁ちゃんは違うんだから、そんな無理して合わせなくても」

「え?え?…やっぱちょっと変?」

「いやいやそんなことない!そうじゃなくて…歩きにくくないかな、と」



「馬鹿ねぇ。そういう時は『可愛いよ』って云うものなの」



柔らかい指が肩に触れた。くらり、と頭の芯が揺れる。この感覚は。

「あ、エマさん!」

縁ちゃんが手を振る。俺は触れられただけで少し具合が悪くなるというのに、この子には何も影響はないのだろうか。

「いいわね、そのスカートの色。よく見つけたね」

「へへー、ちょっと遠征したよー」

巻き毛をかるく揺らして嫣然と微笑む飛縁魔に、縁ちゃんが駆け寄った。

「エマさんは食券買った??」

「私はいいわ。おいしくないもの」

「だよねー」

…時間つぶし、という俺の役目は終わったわけだ。これから二人でオシャレカフェでも何でも行ってお口直しでもするがいい。…ったく、食わないなら何で学食で待ち合わせするのだ。

「じゃ、俺はここで」

二人分の食器を持って立ち上がると、飛縁魔は俺の手から食器を一人分取った。

「…もう帰りでしょ。一緒しない?」

「え?でも…」

俺はこの二人に囲まれて、微妙な居心地の悪さを感じていた。飛縁魔が苦手、とかそういう事じゃない。どちらか一方と二人きりでデートならばむしろウェルカムなのだ。だが午後から女子が二人でお出かけというとほぼ間違いなく『オシャレカフェでガールズトーク』『街でショッピング(2時間超)』の二択。ガールズトークに男一人で巻き込まれるのも、何が目的なのか分からん上に、永遠に続くのかと思われるウインドウショッピングに付き合わされるのも、等しく地獄だ。

「あー、感じ悪い。露骨にイヤな顔!」

縁ちゃんがぷぅ、と頬を膨らませる。

「だ、だって邪魔だろ?俺が行っても」

この面倒事から何とか逃れようと色々云い募ろうとすると、飛縁魔が俺の口元にぴたりと指をあてた。



「来 な さ い ?」



それは有無を云わせぬ妖気を帯びた口調だった。同時に『借りを返せ』と促されているような気配すら感じた。…つい一月前、俺が奉を鎌鼬で切り裂いた日。奉の命を救われたその借りを、俺はまだ返していない。

つまり飛縁魔に命令されれば、今の俺は傀儡同然なのだ。

「………はい」

俺に許されるのはただ一言だった。

「でも本当に邪魔にしかならないぞ。どこに行くんだ」

飛縁魔は墨を溶かしたような漆黒の瞳を細め、薔薇のような唇を動かした。

「―――結貴くんの、彼女を見に。ね?」



くらり、と眩暈が襲ってきた。





何の話だそんなの居ない、絶対何かの誤解だし相手の方にも迷惑だからと、引き回されながら何度も訴えた。だが二人は体中に好奇心を漲らせっぱなしの顔で聞く耳持たない。

「本当に、全く身に覚えが無いんだが!?その話、何処ソース!?」

「んん、お兄ちゃんだよ?」

「奉が!?なんでそんな出鱈目を!?」

「昨日ね、ついにお兄ちゃんを追い詰めたの」

「追い詰め…」

縁ちゃんの話を要約するとこうだ。

テストが終わって好き放題引き籠るうちに、ぼっさぼさに伸びまくった奉の髪を、今日こそアシンメトリ(?)にカットしてやろうと鋏を持って侵入すると、幸運にも奉は読書に夢中で近づいても気が付かず、取り押さえるところまで成功。しかし鋏を入れる直前になって、奉が興味深いことを口走り始めた。



『いいのか、こんな事をして。結貴の新しい彼女の情報を教えてやろうというのに』



「…っていうから、縄をといてー」

「縛り上げたの!?たかが髪のために!?」

「だって絶対逃げられるもん」

何だこの兄妹。

「交換条件として聞き出したのだよ、ワトソン君!」

「そんな武闘派のホームズ聞いた事ないし、推理じゃなくて尋問だし、しかもガセ情報だし」

つまり俺は妹のアシンメトリ攻撃から逃れる為に、奉に売られたのか。…あいつめ、今度会ったら前髪パッツンの上に襟足は長く残して辱めてやる。

「誤魔化しても駄目だよ。エマさんだって『心当たり』があるって云ってたもん!」

「エマさんが俺の何を知ってるの!?」

「…知ってるかもよ」

君も知らない、色んなことをね。と呟いて、飛縁魔は俺の反論を流し目で制した。…美人は狡い。




「例えば…誰も知らない、首吊りの木の事とか」




ぎくり、と両肩を掴みあげられたような衝撃が走った。縁ちゃんも戸惑うように『え、首吊り…?』と呟いている。

「…学内で起きた首吊り事件のことを云っているのか?」

馬鹿馬鹿しい。一瞬ぎくりとしかけたが、すぐに思い直した。

「特定の木で、連続して首吊りが起こればそれは首吊りの木なんだろ。でもあの木で首吊りが起こったのは今回が初めてだ」

「……だから?」

「つまりあれは『偶々首吊りがあった木』であって『首吊りの木』じゃないんだよ」

「初めてじゃないのよ」

かたり、と小さな音を立てて、飛縁魔は食器を下げ台に置いた。

「嘘だ、聞いた事がない」

「だからよ。誰も、知らないの」

上目遣いに俺の目を覗き込み、踵を返した。え、なになに首吊りの木ってなに?と無邪気に飛縁魔の後を追う縁ちゃん。…駄目だ、そっちに行ってはいけない。…そう云いたかったのに、声が出ない。飛縁魔の『気配』は声帯さえ麻痺させるのか。俺は辛うじて縁ちゃんを追った。



「最近、一緒に歩いてるのをちょいちょい見るなと思っていたのよ♪」

高いヒールを履いているとは思えないような軽い足取りで、飛縁魔が先頭を歩く。

「あの子の次の授業は…第二選択のドイツ語よね。ふふ…大真面目に朝から夕まで講義ギッシリ詰め込んで…可愛い子」

偶に学内で見かける程度の子の時間割まで把握しきっている、飛縁魔の情報網の恐ろしさよ。先に縁ちゃんを潜入させて俺を学食に足留めさせた手際といい、恐らく俺の時間割も握られている。

飛縁魔の話を聞いているうちに、彼女らがいう『新しい彼女』とやらが誰を示すのか分かってきた。奉は以前、俺たちにバスで感じる厭な気配について依頼してきた『静流さん』を『新しい彼女』と吹き込んでアシンメトリ攻撃から逃れるのみならず、きじとらさんの嫉妬をも躱すという一石二鳥をやってのけたのだ。俺を踏み台にして。

俺自身はまぁ…全く悪い気はしないが、静流さんに『ちっ…違います!誤解です!全く!全然!事実無根です!!すみませんすみません私なんかとそんな噂になって!!』とか必死に拒否られる様子を想像するだけで心が折れそうだ。100%、彼女はそうする。実際のところ、俺の事をどう思っていたとしても絶対に、よかれと思って拒否る。全身全霊をもって。凹む程。

「あら、何か元気ない?」

そしてこれは純粋な勘だが…この性悪な女怪はそれに気がついている。ただ面白がる為だけに、縁ちゃんまで巻き込んで学校にやって来たのだ。俺は極めて不機嫌な顔を作り、ぶっきらぼうに云い返す。

「俺が全身全霊で拒否られる様を、二人で眺めて笑えばいいよ…」

「つまらない男ね。…あの子、押せばいけるのに」

「断り切れずにね。そういうの一番厭だな」

「そうかなぁ…」

ふふふ…と口の中で笑って更に歩みを早める。そして静流さんがいると思われる教室のドアを開け放つ。…ああ、死刑執行の時間か…俺は軽く目を閉じてため息を噛み殺した。

「…あら」

いつも15分前には居るのに…などと呟きながら飛縁魔が教室を眺めまわす。

「あの子もさぼることがあるんだな」

「……そんなわけない」

大学じゃよくあることだろう…と云いかけて飛縁魔の横顔をちらりと盗み見た。

「何故、そんなに真顔なんだ」

飛縁魔は何度も確認するように教室中に目を走らせ、ゆっくりと口を開いた。

「今日は小テストがあるのよ。普段ならともかく、今日出席しなかったらサボりが確実にばれる。こういう少人数の教室だと、そういうの単位に関わるじゃない?」

「なに小テストまで把握してんだよ怖いよ」



「―――君たちは?」



よく通る中年男の声が背後から響いた。俺は第二選択は中国語なのでよく分からないが、多分ドイツ語の教授だ。俺はとっさにドアの前から離れる。

「あ、すみませ」「丁度よかったわ、教授♪」

一切臆する事なく、飛縁魔は教授の顔を覗き込んだ。くらり、と教授の背中が揺れた。今教授の中で何が起こっているのか、経験者の俺にはよく分かる。


飛縁魔は一時的に、人の記憶を混乱させて自らを『親しい人間』と思い込ませて居場所を作る能力を持つ。


「この授業を選択している八幡静流さんのこと、何か聞いてない?ノートを返し忘れちゃったの♪」

いや知ってるわけないだろ、中学校じゃないんだぞ。

「……彼女ならさっき、休講届を持ってきたが」

「休講届!?そんな制度あるのか!?」

つい口をついて出た。大学の講義って出るも出ないも自由なんじゃないのか。

「真面目な生徒は、勝手にサボらないのよ」

「ぐぬぬ」

「私も休講届を提出する生徒を見るのは5年ぶりくらいだったが…」

「形骸化してんじゃん」

「――学校には来てたのね。どうして休講?」

「よく分からなかったのだが…ごめんなさいごめんなさい、なんて説明していいのか分からないんですけど、お友達がその…首吊りのあったところで、その…ごめんなさい!事情はあとで説明します!!本当にごめんなさい、私急ぐので!!…と言い残して走って行ってしまった」

この短いセンテンスの中でどれだけ『ごめんなさい』を連呼するのだあの人は。しかも情報が『首吊り』しか伝わっていない。



―――首吊り。



背中から首筋まで、悪寒が走った。それは未来視にも似た、これから起こる『厭な事』を否が応にも想起させる感覚。…否、感覚がどうとかそういう話じゃないのかもしれない。

未来視の持ち主が『首吊り』という言葉を残して消えたのだ。

「―――俺は、急ぐべきだ」

自分の口から洩れた言葉に、俺はぞっとした。

「そうだ、急がないと」

未来が見えるくせに判断力に乏しい、あの人を守る為に。





―――胸が苦しい。

俺は息を切らせて走り続けていた。

呼吸はひりつくように熱いし、坂道はもどかしい程急で、イラつく程に辿り着かない。まるで悪夢の中だ。得体の知れない化け物から逃げたくて走るのに、空気がねばついて進まない。あの感覚に似ている。ようやく首吊りの木が見えた瞬間、舌打ちすら出た。

「静流さん!!!」

この辺りに居る事は分かっている。俺は怒鳴るように叫んだ。木の幹に隠れて靡いていた黒髪が、弾けるように動いた。

「青島さ…!」

かすれたような、悲鳴のような声がした。幹によりかかり、身をよじるようにして現れた彼女の白い喉に、細いビニール紐が食い込んでいた。

「…鎌鼬!!」

号令をかける前に、既に鎌鼬は俺の背後で蠢いていた。疾風の渦が奔り、ビニール紐が四散する。彼女の喉に一筋だけ走った傷に、思わず舌打ちが漏れた。静流さんが、黒髪をふわりと靡かせて崩れ落ちた。

「誰だ!」

ビニール紐の端を握っていた女は、夢でも見ているような顔で掌を開いた。細切れと化した紐が、ふわりと落ちた。

「…首を」

首を、吊らないと。首を…そう呟きながら、女は木の幹にもたれかかる静流さんの首に手を掛けた。嫌、と小さな声をあげて弱弱しく静流さんが抗う。

俺はあの女を知っている。第二選択の中国語クラスで見かける子だ。何度か席が隣になったことがある。

「ちょ…どうして!?」

知り合いと分かってしまうと、俺は情けない程に日和ってしまった。2人の間に入って彼女を押し留めようとすると、彼女はその指を俺の首に掛けた。…何だ!?何故俺が襲われる!?

「やめっ…何でだよ!?」

「だって、首を吊らないと…」

彼女は首を傾げて俺の顔を覗き込んだ。まるで『そこのページ、明日の小テストの範囲だよ?』とでも云う時のような軽い口調で。…何か、酷く厭な気配が俺たちを包み込んでいた。彼女の両手を掴み、首から引き剥がしたが…何故だろう。



何故俺は、首を吊らなければいけないのだったか。



ああ、首を吊らないといけないのか。そうだそうだ忘れてた、今日のうちに首を吊らないといけないな。いやしかし。2日後に小テストがあるしなぁ。それにまず怖い思いをした静流さんを落ち着かせて、縁ちゃんを無事に家に送り届けて。それが済んでから吊ろう。そうするか…。彼女はゆるりと腕の力を緩めて、くたりと座り込んだ。

「あーあ…どうしよう。この子を病院に…というのも加わったなぁ。今日中に吊れるかな…」

「あともう一つ、用事があるでしょう?」

妙に張りのある声に振り向いた。

「―――ついてきてたのか」

飛縁魔が、軽く息を切らせて背後に立っていた。

「用事?」

「そう」

妖艶な視線に射抜かれるように、頭の芯がくらりと揺れた。

「…それ、やめてくれる」

「やめない。やめてほしかったら、私のお願い聞いてくれる?」

あの木の枝、切ってくれる?飛縁魔は俺の目を覗き込んで微笑んだ。あぁ…面倒だなぁ。俺は再び鎌鼬の渦に命じた。やがて俺たちの頭上に枝を張っていた太い枝が、鈍い音を立てて落ちて来た。



―――は。



急に夢から引きずり出されたような感覚と共に、一瞬前まで俺が当然のように考えていた事が、鋭い恐怖となって後頭に突き刺さった。

俺は一体、何をする気だった…!?

「貸し、もう一つね♪」

飛縁魔が小さく呟いて、くすくす笑った。息を切らせて駆けて来た縁ちゃんが俺たちと転がる枝を見比べながら、え?なに?これなに?と叫んでいる。…本当だよ。何だよこれ。

「青島さん…!!」

目に涙をいっぱい溜めた静流さんが、子供のように顔をくしゃくしゃにして胸に飛び込んできた。何が起こっているのかさっぱり分からないのでどう声を掛ければよいのか分からないが、とりあえず落ち着かせるために、ぽんぽんと軽く背中を叩いた。

肩が、小刻みに震えていた。

「…なんか…すごく厭な気配がしたからっ…よく見たら…良くないものがあの子の後ろに…わ、わたし…」

事情を聞いてもよく分からないが、つまり静流さんはあの子が首を吊る状況を未来視したのだろう。そして彼女なりに、助けようとしたのだ。…ビビリのくせに。

「頑張ったんだね」

髪から、ふわりといい匂いがした。



「―――ふぅ~ん、その人が結貴くんの彼女か~」



どっ…と冷や汗が溢れた。

いい雰囲気に乗せられるように、背中に両手を回そうとした俺の背後で、二人の女怪が目を光らせていた。




「縊鬼、という妖が居る」

あれから数日。

目に余る程、蓬髪を生えるが儘にほったらかしにした奉を鎌鼬で刈り込みに行った際、念のために静流さんと俺に起こった事を話した。俺が首吊りの枝を切り落とし、一時的に『危機』らしきものは去ったように見えるが、俺は未だにあれが何で、何故俺やあの女子が首を吊ることに義務すら覚えていたのか、さっぱり分からない。

あの女子…鈴木さんは、首吊り騒動に関する全ての記憶を持っていた。ただ俺と同じく、首吊りは小テストやバイトと同じように『する予定のもの』くらいの認識になっていたらしい。正気を取り戻した鈴木さんは、自分がやらかした事に心底驚き、泣きながら静流さんに謝っていた。

「いつき…?」

「縊れ、鬼と書く」

「首を括らせる鬼、ですか」

初めて書の洞を訪れた静流さんが、少し首を傾げて相槌を打った。

きじとらさんが、温かい茶を持って来てくれた。静流さんは少しおどおどしながら茶碗を受け取る。…ターボ婆さん遭遇事件の際、彼女らは一度だけ対面しているが、きじとらさんは脅威の塩対応で静流さんを震え上がらせている。奉には『あの眼鏡を連れてこい』と指示されてはいたが、一抹の不安を隠せずにいた俺だ。

「あの…ありがとうございます…」

「いえ、うふふ…豆大福もお持ちしますね」

きじとらさんは口元に手を当ててクスクス笑いながら、暗がりに戻っていった。…え?なにこの対応の変化。

「―――おい、奉」

貴様、きじとらさんに静流さんの事を俺の彼女だと吹き込んだな。文句の一つも云おうかと身を乗り出すと、奉は文庫本から顔を上げて口元に指をあてた。

「眼鏡をここに出入りさせるためには、これしか手段がないんでねぇ」

「え、出入りさせるって」

「便利だろうが、未来視」

この男は全く…。

「話を戻すか。…こんな話がある」

江戸時代。

火消し達が酒を持ち寄り宴を開いていた。火消し仲間の中には、面白い話をする奴がいたのだが、そいつが中々姿を現さない。待ちくたびれた頃、その男が現れたが様子がおかしい。

「急用ができたので、今日は帰ります」

そう云って帰ろうとする。火消しの組頭は男を帰すまいと酒をどんどん勧め、男も酒を呑むうちに約束を忘れた。

やがて、門の外から『何某が首を吊って死んだ』という騒ぎ声が聞こえて来た。


組頭は得心した顔で「これで、お前についていた縊鬼が落ちた」と云った。


「…男は首を吊る事を、大事な約束と思い込んでいたそうだ」

「そうか。…そして俺が縊鬼が宿っている枝を切り落としたから、縊鬼が去ったのか」

お陰で飛縁魔に借りを作ってしまったが。そう一人で得心していると、奉が眉をひそめた。

「何云ってんだ?縊鬼は川に棲む妖だぞ?」

……え?

「あー…首吊り松か何かとごっちゃにしているんだねぇ。縊鬼はな、川に落ちて死んだ者の霊だ。そいつが人を死に誘う。船幽霊といい、海座頭といい、水に関する妖ってのは嫌だねぇ…」

何かにつけ、他人を死に引きずり込もうとする…そう云って奉は小さく笑った。

「何で首吊りなんでしょう…川のものなら、川に引き込むのでは?」

静流さんが首を傾げる。…もっともな疑問だ。

「致死率の問題…かねぇ。例えばそれが海であれば、船を沈められた時点で助かる術はまぁ…ほぼないね。だが、川なら」

「頑張れば、何とかなるかも…なんて」

「それな。実体を持たない霊であるかぎり、河童のように力技で引きずり込んだり、尻こ玉を抜いて確実に仕留めることは出来ん。第一、いくら正気を失った状態だとしてもだ。川に漬かれば冷たいし、息が吸えなければ苦しい。正気に返るワンチャン与えてしまうねぇ。だが首吊りなら」

くっ…と縄で首を吊る振りをして、奉は舌を出した。

「吊った時点で、お仕舞いだ」

「…ならあれは首吊りの木だったんだな。俺が枝を落とした途端に消えたし」

「首吊り松は、場所の怪だ。枝を見て発作的に『吊る』。そういうものだ」

だがソレは、お前の知り合いの女子に憑いてきたのだろう?そう云って奉は俺の顔を覗き込んだ。吊らなければという思いが終始付きまとい、最終的に何処ぞで吊る。場所は問わない。

「なら、静流さんは何であの木で首を吊るって知ってたんだ」

「馬鹿かお前は。…この女は、未来視だろう?」

「はい…あの子とすれ違った時、あの木で首を吊る姿が見えて…」

「で、のこのこ一人で後を追ったってか、馬鹿正直に。ノープランにも」

「あの、はい…すみません…」

「云い過ぎだ。お陰で人が死なずに済んだだろう」

「へぇ庇うねぇ。可愛い彼女のことは」

絶妙なタイミングで現れたきじとらさんが、静流さんの手前に丁寧に豆大福の皿を置き、にっこりと笑った。…女は怖い。

「枝を落とした途端に縊鬼が消えたのはな」

鎌鼬を3匹も飼ってる奴じゃ、吊るした後でもワンチャンあるじゃねぇか、と判断したからだろうよ。そう呟いて奉は豆大福を頬張った。




「…ほう、その木が元々、首吊りの木だったと。飛縁魔がそう云っていたのか」

鳥居が連なる石段をゆっくり降りながら、奉が呟いた。講義が残っているから…と帰りかけた静流さんに、帰るなら麓のコンビニでアンパン買って来いとか意味の分からない事を云う奉を引きずり出して、静流さんの見送りに付き合わせることにした。この駄神は本当に、ここ1週間程外出していなかったらしい。

「縊鬼に憑かれた者が、首吊りの木を選びがちなのはまぁ…あり得るかもしれないねぇ。何しろ、首を吊るという大事な用事があるのだから」

首吊り松ってのは昔から、絶妙な場所にあるからねぇ。人目に付かず、枝ぶりのいい…などと物騒な事を云いながら、奉が余った豆大福を齧る。…余ったというか、静流さんからせしめたというか。

「じゃあ、縊鬼はまだ消えてないんですか」

「かもねぇ…お前らを仕留め損なった分、次の奴を探して彷徨うだろうねぇ。で、お前らには、学生全員に目を光らせている暇などない。諦めな」

そんな…と目を泳がせた静流さんが、ふいに足を止めた。

「あ…あの子。この前来てた」

連なる鳥居の向こうから、水色のスカジャンを羽織った縁ちゃんが走って来た。いつも通りのショーパンと、ニーソックスを合わせている。…うん。やっぱりこの方が縁ちゃんらしい。めいっぱい手を振って駆けてくる縁ちゃんに軽く手を振り返した。


しかし静流ちゃんが軽く手を上げた瞬間、縁ちゃんはふいと目を反らして一言も発することなく、石段を駆け上って行った。


「……え?」

な、なに?機嫌悪いの?

「―――なんで私、嫌われるんでしょうか……」

しょんぼりと肩を落とす静流さんの横で、奉が軽く肩を震わせていた。

「くっくっく……参ったねぇ……」

なに笑ってんだこの男は。

「あちらを立てればこちらが立たず…かい。あぁ、参ったねぇ。くくくくく…あはははは」

「おい、何だよそれ」

「あはははは参った参った。面白いねぇ、儘ならないねぇ」



茫然と佇む俺たちを後目に、奉は笑い続けた。

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