杜若
「この道、久々…」
事件以来極力家には近づかなかったため、何度となく通っていた道も私にはとても新鮮に感じる。辺りを見渡しながら歩く私とは対照的に、朔弥は黙ったまま前を向いていた。
道を抜けると、長い橋が見えた。あまり幅は大きくはないが、長い橋。小さい頃祖母の家に向かうために通った橋だ。
その橋を渡ると私が住んでいた町に出る。人口はさほど多くはない静かな町。
そう、この橋を渡れば、私たちの町が。
「…杜若」
「は?……って、え、何、どうした?」
橋の途中で私が立ち止まったことを知らずに前を歩いていた朔弥は、振り返ると引いてきた自転車を慌てて隅にとめて私に駆け寄った。戸惑う朔弥を見て、私は自分の涙に初めて気がついた。
「おい、やっぱり行くの」
「自転車…」
「え?」
「やめようか」と言いかける朔弥の言葉を阻止するように、私の口からはたくさんの言葉が溢れてくる。
「私、自転車で朔弥とここに来たことある?この橋の下に、杜若、紫色の花咲いてた?」
朔弥は困惑の表情で私を見つめる。
「ないよ。子供の頃は俺らが会うの公園だけだったろ。お前がこっち来てからも会うのはお前のばあちゃんちかおばさんの病院。」
返事をしながらハンカチを私に差し出すと、朔弥は少し控えめに笑った。その顔は引き返すことを意図していたが、私はそれに応えなかった。
「誰かの自転車の後ろに乗っていたの。橋の下に杜若がたくさん咲いてた。それで、その人は私を安心させるように、何か話しかけ続けてくれて、…私…誰の後ろに乗っていたんだっけ…。」
理由もなく、いや、もしかしたら理由はあったのかもしれないが、涙が止まらなかった。
せっかく借りたハンカチは涙を拭うという役割を果たさずに私の手に握りしめられた。
「知りたいの。その人に会わなきゃいけない気がする。」