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鈍才  作者: 北川 瑞山
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 市原は消え入りそうな声で、気怠く、しかし滔々と語り始めた。

「俺は、一人っ子だったからか、両親から溺愛されて育ったし、欲しいものは何でも買い与えられた。俺は相当に出来の悪い子供だったけど、だからと言って親に叱られた事は一度もなかったね。だけどそんな生活が却って俺を不安にしたんだ。この人達は明らかに俺に気を遣っている。それを意識することが俺を臆病にしたね。人から気を遣われると、何だかやましい気持ちになって、こっちからも気を遣わなければすまないような気持ちになるじゃないか。両親に気を遣われちゃ尚更だよ。それに一人でいる事の寂しさへの恐怖も手伝って、俺は物心ついた頃にはすっかり臆病者になってた。人の顔色ばかりを窺うような子供に育った。とにかく人の一挙手一投足にビクビクした。家に遊びにきた友達が夕方頃になると帰ろうとするだろ?あれがたまらなく怖かった。あれを食い止めるために、俺は尋常じゃない努力をしたね。面白い話を予めストックしておいて、夕方友達が帰りそうな素振りを見せたら、それを披露するんだ。そうすると、友達もなかなか帰れなくなる。涙ぐましい努力だろ?

 そんな風に、俺は傍らに絶えず人がいないと怖いんだ。人と一緒にいる事が俺の生きる術だった。そういう俺にとって、その場の空気を壊さない事が俺の至上命題なわけさ。要はご機嫌取りみたいなことばっかりしてたんだ。そうしていないと不安だったんだよ。そうやって年を重ねていくうちに、俺はどんなに強い人間にでも、また弱い人間にでも上手く取り入る事ができるようになったね。誰かと話をしていても、とにかく座持ちを良くしようと思う気持ちがどうしても頭から離れなくて、その場を上手く取り繕うような言葉ばかり並べた。そんな事ばかりが得意だった。俺のそんな性格を知る者は言う。「場の空気が読める、器用な奴だ」と。今じゃ全く皮肉にしか聞こえないね。俺だって最初はそんな自分の性質が誇らしくもあったよ。人間関係を上手く取り持つ事ができたし、昔から友人も多かった。異性にも全く不自由しなかった。学校生活だって、仕事だって、この能力さえあれば大抵は安泰だ。所謂コミュニケーション能力ってやつか?まあそんな大層な名前は要らないくらい俺にとってはそれが自然だったし、そのお陰で大抵の事は上手くいったんだよ。はっきり言って生きるのなんて容易い、甘っちょろいと思ってたね。

 だがそれがすぐに罠だと気付いたんだ。俺は世の中をなめていた。第一俺は勉強を全くしてこなかった。勉強だけじゃない。他に何の研鑽も積んでこなかった。居心地のいい人間関係の中でそれに浸って、そこでずっと居眠りをしてきたんだ。そりゃ友達からの誘いが多いからとか、彼女との付き合いで忙しかったとか、物理的な理由はあっただろうさ。でも一番大きかったのは、自分がなかった事だ。他人の気持ちに敏感な俺は、自分の気持ちには全く関心を払ってこなかった。自分が何をしたいのかさっぱり分からなかった。目標もないのに、努力なんてしないだろ?それにどこへ行っても器用にやっちまう癖が、何となく俺を「このままで大丈夫」な気持ちにしたんだ。ハングリー精神と言うか、向上心なんて言うものが全く生まれなかったね。だってそのままで大丈夫なんだから。でも実際には、全然大丈夫ではなかった。世の中の全員がお笑い芸人になる訳じゃない。全員が学者になる訳ではないのと同じようにね。学校の勉強も大事だった。俺には何の学もない。学がない所に何の楽しみもない。それに気付くのが遅すぎた。今じゃ何一つ俺の興味をそそるものなんてないんだ。だから増々人間関係に縋る。その中に自己を紛れ込ませて、安心していたいんだ。

 俺は○○兄弟と違って勉強もできなかったから、適当に入れる高校に入って、適当に入れる専門学校に入って、適当に入れる会社に入った。人生を流されるままに生きてきて、それに対して何を悪びれる事もなかった。こうしてみると、あまりにさらっと人生を生きすぎているだろう。元々執着心とかいうものが薄いのかもしれないな。俺の人生には結局何のドラマもなかった訳さ。まあこんなのは贅沢な悩みかもしれないけどね。いや、悩んでなんかないよ。ただ、俺の人生って何もなかったなあと、これからもこんなのが続くんだろうなあと達観してみるだけさ。

 俺は今やしがないサラリーマンだよ。全くこんな努力も何もしてこなかった人間でも何とかなる国ってのは素晴らしいな。しかし営業職ってのはキツいな。営業って俺みたいな口先だけの人間にとっては天職だと思われるかもしれないけど、なかなか無知な人間にはできない仕事だよ。専門知識は要るしな。厳しいノルマもあるから、どうしても人を騙すような事をする。それが優柔不断な俺には難しい。上司とも同僚とも、上手くやってる。後輩も慕ってくれてる。でもその全てに何となく嫌気がさす。馴れ合いだよ。これが後三十年続くのかと思うと、本当にこれで良かったのかと思ってしまう。

 とまあこんなことはよくある話さ。今までのはただの愚痴だ。聞かなかった事にしてくれ。俺の一番の悩みは合コンだよ。若い頃にはあんなにモテた合コンも、今じゃすっかり不振だね。俺みたいな底の浅い口先男は、この歳になると相手にもされんね。元々容姿に優れている訳でも、稼ぎがいいわけでもないからな。しかし一度成功体験を得られたことってのはやめられないね。俺はもはや昔の成功体験に縋って、過去の栄光を懐かしんで生きるしか道はないのかななんてしんみりと思ってるよ。何かまた愚痴になってきちまったな。

 で、何の話をしていたんだっけ?そうだ、生活の方向性とか言ってたな。俺だって何もない。というか生まれてこの方そんなものを持てた試しがないね。俺には自我というものがないんだから。そう、だからAは俺みたいになっちゃ駄目だ。自戒を込めて言うんだよ」

 市原はそう言い終わると、二杯目のビールを注文した。話しながら飲んでいたのである。

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