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一つ昔話を思い出した。私達が高校生くらいの時である。Hと市原と私の三人で、カラオケに行ったことがあった。未だ皆無邪気な時分だった。Hと私は思い思いの曲を歌っていた。Hは訳の分からないアニメソングを熱唱していたし、私は私で昔の洋楽が好きだった手前、英語の詞を淀みなく歌って、悦に入っていた。Hと私はそれぞれ、お互いが知らない歌を歌い、歌い終わると次の歌を探すために曲目の冊子を繰り初め、お互いの歌など聴いていなかった。
そんな中、市原だけは何も歌わなかった。市原は歌があまり得意ではなかったのである。ただドリンクを飲みながら、私達二人の歌を聴き、曲と曲の間の静けさに一言二言コメントを入れて、場を繋いでいた。私はそんな状況を見かねて、市原も何か歌うように勧めた。市原は、それならと言って適当な曲を選んで入れた。それが意外にも誰にでも分かる流行歌で、アニメソングや古い洋楽よりも場の雰囲気を心得たものだった。
それはよかったのだが、Hは何を思ったか、歌の採点システムを起動させた。
「A、お前の歌う歌がマニアック過ぎて上手いのかどうか全然分からん。ここは点数を付けて勝負だ!」等と言った。こんな風に、Hというのは昔から何かと人と競い合うのが好きな人間だった。
マニアックなのはお互い様だろうが、それにしてもこのタイミングで採点システムを起動するのはあまりにも市原に対して酷ではないかと思った。市原が歌の苦手なのを、Hだって知っていた筈だった。Hに思いやりがないというのもそうだが、私もその流れを止めなかったことは迂闊だった。
Hと私は九十点台をたたき出した。が、このときは私の方が僅差で高得点を出した。惜敗を喫したHは本気で悔しがっていた。競争心の旺盛なHは、事の大小を問わず、自分が誰かより劣っているということが許せないらしかった。それも相手が私となると、その競争心をむき出しにした。また、勝った私も採点システムそのものを疑いだした。Hも私もそれほど歌が上手いわけではなかった。大方誰が歌っても九十点台になるようないい加減なシステムなのではないかと思った。
それはともかく、市原の歌が始まった。市原は座ったまま仏頂面で歌い出した。声量は乏しく、声はかすれ、トーンは暗く、音程はヨレヨレのひどい歌だった。折角のダンスナンバーだったが、躍動感がまるでなかった。点数は三十点台だった。どうやら採点システムはいい加減ではなかったらしい。
私は、市原が歌の苦手なことを知りながら彼に歌を勧めたことを後悔した。市原に申し訳なく思った。市原も暫く黙っていたが、私の気持ちを察したのか、落ち込んだ素振りも見せず、笑いながら「やっぱダメだわ。これで九十点台なんてよく出せるなあ」と却って私を気遣っていた。私はそれに対して何も言えなかった。
ところがHは、先ほどの敗北に余程苛立っていたのか、
「こんな点数見たことないよ!」と口走った。初めは冗談かと思ったが、どうやら半分くらいは本気らしかった。
「普通に歌ってれば九十点くらいはいくでしょ。どうやったらこんな点数になるんだよ。こんなんでよくカラオケなんて来れたな。こんなに歌えないのにカラオケ来て何が楽しいの?」と続けざまに罵った。元々市原をカラオケに誘ったのはHだった。無理にカラオケに連れて来られた挙げ句この仕打ちは酷い。私はHを黙らせようとした。
「おいH、そんな言い方はないだろ。市原だって真面目に歌ってるんだから。歌が上手くないから怒るなんてどうかしてるぞ」
私は言い終わってからはっとした。余計に市原を傷つけてしまった。だがもう何のフォローもできなかった。それどころか、Hに付け入る隙を与えてしまった。
「真面目に歌ってそれかよ。なら尚更たちが悪い」と、Hはなおも横柄に言い放った。私は遂にHに掴みかかりそうになった。
その時、黙っていた市原が、落ち着き払った態度で私にこう言った。
「すまんね、余計な気遣わせて。俺はこの通り全然歌がダメなんだけど、Aと一緒にいるだけで楽しいから、つい来ちまったよ。今度はできればカラオケじゃなくて、別の所がいいかな。下手な歌を聞くと不愉快な人がいるみたいだからね。だけど別にカラオケがダメだって訳じゃないんだよ。他の人の歌を聴いているだけで、俺は十分楽しいんだ。俺は聴き手に回って手拍子たたきながらドリンクでも飲んでりゃそれで満足なんだ。だからこれに懲りずにまた誘って欲しい。勿論歌ってくれというなら、下手な歌でも何でも喜んで歌うがね」
そう言われて私は、何を言ってやる事もできなくなった。Hに掴みかかりそうな衝動も、嘘のように消えてしまった。
言い終わると間髪を入れず市原はくるりと身を翻し、Hを見据えた。そして淡々とこう言った。
「確かに俺は歌が下手だ。だが俺は歌う事で人様から金をもらっている訳じゃない。むしろ金を払っている側だ。金を払って自分の好きなように歌って何が悪い?どう歌おうが俺の自由だ。大体Hといるだけで窮屈なのに、その上素人の上手くもない歌まで聴かされて、得意でもない歌まで歌わされて、下らん点数まで付けられて、いい迷惑だ。もう二度とカラオケなんぞ来ないからな。馬鹿げた歌を聴きながら一人寂しく手を叩いてまずいドリンクを啜って時間を費やすなんてまっぴらだ。いいか、もう二度とこんな茶番に誘うなよ。下手糞な歌がどうしても聴きたいって言うなら別だがな」
市原の見事だったのは、どう考えても矛盾する二つの言葉を一つの場面で平然と言ってのけた事だった。市原にとって、何を言うかは問題ではなく、誰にどのように言うかが問題であったのかも知れない。市原には人によって言う事や態度を変える器用さがあった。多くの人間に囲まれて生きる市原の処世術はこんな所にも現れていた。事実Hと私はこれによって掴み合いの喧嘩をせずに済んだ。
そして何も言い返せずにいるHに、市原はこうも言った。
「もういい加減Aと張り合うのをやめろよ。HはAには勝てないよ。Aのような鈍才にはな」
私は、今もってこの言葉の意味が分からない。喜んでいいのかどうかすらも定かではない。話の流れからして、侮蔑された訳ではないだろうが、鈍才とは明らかに褒め言葉ではない。だが折に触れてこの言葉の真意を考えてみると、何やら当たっていなくもない気がするのである。
言い終わると、市原はドリンクバーに飲み物を汲みに部屋を出た。小心者なHは「俺も行く」と言って市原に付いていこうとしたが、
「Aの歌を聴いて勉強しとけ」と窘められて、結局部屋に残った。