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私は、冷たい夜風に身を縮めながら、帰途を辿った。道すがら、昔のことを思い出していた。重い足取りの一歩一歩が、自ずと昔の思い出を蘇らせた。私の知る限り、Hは昔からあんな人間ではなかった。軽率な性格は確かにあったが、あそこまで好色で、貞操観念が破綻した人間ではなかったように思う。あるいはそういう性質の萌芽が私の知らないところで既に芽吹いていたのかも知れないが、そうだとしても少年期においてはそういう性質はむしろ少年らしい快活さとして周囲には映っただろう。ともかくも、Hがあのような下品な人間になるとはその時誰一人想像していなかったに違いない。
思い当たる節があるとすれば、Hは外面こそ快活な性格だったが、その内面は実に気の小さい人間だったということである。Hは一人になる事をいつも極度に恐れていた。トイレにもコンビニにも一人では行けない。ファミレスのドリンクバーに飲み物を汲みに行くときですらも、誰かと同伴しなければ席を立てなかった。その気の小ささが故に、見てくれのいい若い女を、それも数多く求めるのだとすれば、何となく合点がいった。自分の力を示す装飾品身にまとわないと、自分の小ささが露わになる、それが不安なのだろう。あれほど強気なことを言ってはいても、内心は兎のように臆病な性質なのかも知れない。だとすれば、そんな彼が、大手広告代理店に就職し、そこそこの重要なポジションを得た今、金の力にものを言わせてその臆病さを隠さない理由がどこにあろうか?
そこまで考えて、私は道路脇でふと立ち止まった。大きなトラックが轟音と共に目の前を取り過ぎた。枯れ葉が乾いた音を立てて路面を引っ掻いていった。
私だって人のことを偉そうに分析できる立場ではない。私も周囲から見れば、Hと同じ穴の狢かも知れないのである。何せ同姓同名である。中学で出会った頃から、Hと私は双子の兄弟のような一対として常に周りから扱われ、比較されてきた。また私達自身もそれに大した苦痛を覚えなかった。同姓同名なのに何故か同じクラスに入れられ、同姓同名なので五十音順で座ると必ず席が前後ろになり、同姓同名のくせにお互いを名前で呼び合った。実際に、私達の名字を冠して「○○兄弟」などと冷やかす者もいたくらいである。
とは言え、私達の性質は全くの正反対であった。まるで陽と陰、動と静、表と裏であった。Hが明朗快活な性格であれば、私は陰気な性格であった。Hが行動派であれば、私は理論派であった。Hが俊敏であれば、私は鈍重。Hが口達者であれば、私は口下手。外見だってそうである。Hが小柄であれば、私は大柄。Hが少し若く見えれば、私はその分老けて見えた。一人でいる事に関しても同様に、Hは一秒たりとも一人でいられない性格なのに対して、私はむしろ一人でいる事の方が性にあっていた。そのせいで、私は何度Hからの遊びの誘いを断ったか知れない。そしてそれはお互いがお互いにとって何であるかにも及んでいた。すなわち、私にとってHが数少ない友人の一人であったのに対し、Hにとって私は数多い友人の中の一人に過ぎないのであった。
私達が周囲から兄弟のような一対としての扱いを受けてきた理由は、その類似性ではなく、むしろその対称性であった。私達がお互いの存在を疎ましく思わなかったのも、相手に自分との同質性を認めなかったからであろう。都合の良い言い方をすれば、私達の関係は補完的だったのである。だから私がHに対して何かしらの欠点を認めようとするならば、それは同時に裏を返して私の欠点をも認めなければならない。そうした意味で、Hと私は似ても似つかないのに、それでいて同じ穴の狢なのである。
Hが好色で貞操観念が破綻している男であれば、私は淡白で女性経験のない男である。Hが臆病者なら、私は朴念仁。Hが金にものを言わせる成金趣味なら、私は金にものを言わせられない貧乏人である。Hを悪く言えば言う程、それが裏返って私に返ってきた。
家に着いた。家と言っても、猫の額程の広さのアパートの一室である。私はここで三年程前から一人暮らしをしていた。
荷物を降ろし、携帯をチェックすると、メールが届いていた。Hからだ。
「今日はお疲れ様!卓巳君から合コンの誘いを受けたんだけど、よかったらAも行かないかい?というか行くよね?」
私は暫し逡巡した。いつもなら即座に断りの返答をするところであった。が、そうしなかったのには、メールの文面に「卓巳君」の名前があったからに他ならない。
市原卓巳、これもまた中学以来の知人である。私は市原に対して、ある意味で全幅の信頼を寄せていた。ある意味で、というのは、彼がHと私の関係において、完璧なまでに潤滑油の関係を演じていた、という意味においてである。潤滑油と言うので足りなければ、通訳と言ってもいい。Hと私のような対照的な性質の二人が水と油の関係にならなかったのは、偏にこの「通訳」が働いて、それぞれの異なる言語を巧みに繋ぎあわせていたからである。そうでなければ、価値観のまるっきり異なる二人がお互いを理解する事ができず、とても友情など保持する事ができなかっただろう。価値観や性質の異なる私達がお互いを理解しあい、補完的な存在になるまでの関係を築きあげられた過程は、この市原卓巳の存在を抜きにして語れないのである。
その市原の誘いである。増して私は市原と久しく会っていない。市原の顔を立てるためにも、市原に久闊を叙する意味でも、私はその誘いを受けるべきであったのかもしれない。しかし、その時の私はかなりの量の酒を飲んでいたし、第一疲れきっていた。私はその判断を後回しにし、メールを返さないまま、一人暗い寝床に就いた。