引っ越してきました!
三日後の午後。
裏野ハイツの二階に引っ越し業者が来て、荷物を運び込んでいた。
家具は全て借り物で、配置は業者にお任せだった。
引っ越しは業者さんに任せて、自分達は引っ越しの挨拶をしてまわる事にした。
各部屋にどんな人が住んでいるのか、知る為の調査だった。
まず101のチャイムを押して見たが反応は無かった。
建物のチャイムは古く、今時のインターホンではなかった。
押せばピンポーンと電子音が鳴り響くが、返事をするには扉を開けるしかない。
居留守を使うなら、出なければいいだけの事だった。
次に102のチャイムを押したが、ここも反応は無し。
103のチャイムを鳴らすと、ようやく、住人が顔を出した。
「はい、どちら様ですか?」
顔を出したのは、30代の女性だった。
自分の母親よりも一回り若い。
部屋の中からは子供の声と、テレビの音が聞こえてきた。
「本日、上の203に引っ越してきた頬白といいます。ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
真結がそう言ってぺこりと頭を下げたので、俺もならって頭を下げたが、リザリィはお辞儀をするどころか部屋の中を覗き込んでいた。
「あ、あの……ご丁寧に、どうも……」
「子供が居るのかしら? 元気そうな声がするわね」
「はい、3歳になる子がいます。こちらこそ、子供が暴れたりしてうるさいかもしれませんが、よろしくお願いします」
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「あ、はい、深谷です」
「深谷さんですね。それでは失礼します」
まずは真下の部屋の住人が誰か分かった。
見る限りでは、やはりごく普通の、何の問題もない家族の様だった。
子供がいるという事は、旦那さんもいて、今は仕事に行っているのだろう。
次に階段を登り、201のチャイムを押すと、がちゃり、と扉の開く音がして、年老いた女性が顔を覗かせた。
「本日、203に引っ越しをしてきた頬白です。ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
「ああ、そう。ご丁寧にどうもありがとうね。最近は引っ越ししてきても、挨拶なんてする人は居ないから」
お婆さんは俺達が挨拶をしに来た事で、気をよくしたらしく、扉を大きく開けて、笑顔で頷いた。
リザリィが部屋の中の様子を見ようとしたが、奥の部屋は仕切り戸がぴったりと閉じられていた。
「可愛らしい服をきた子だねぇ。孫の小さい頃にそっくりだよ」
「どんだけ昔の記憶を思い出しちゃったのよ!?」
「さぁー……もう40年ぐらい昔の事かねぇ……」
「40年前に可愛い子供なら、今なら美人な大人になってるわね」
「あはは、そうだねえ。長いことあってないけど、お嬢ちゃんみたいに美人になってるといいわねぇ」
「ダーリン! この人はいい人よ!」
褒められて喜ぶ、とても分かりやすい悪魔だった。
「あの、お名前を教えていただけますか?」
「私かい? 田吾知って言うのよ。不思議な名前でしょう。田舎者の名前よ」
「タゴチさんですか。よろしくお願いします」
「あ、お隣はね、気難しい人みたいだから、挨拶しなくていいと思うわよ。引っ越しの挨拶にも来ないし、部屋から出てきた所も見た事がないのよ」
「そうなんですか、分かりました、ありがとうございます」
挨拶が終わるとお婆さんは静かに扉を閉め、俺達はお婆さんの提言通り、202は挨拶せずに203の様子を見に行った。
引っ越し自体は殆ど終わっていて、あとは家具の配置の確認をするだけだった。
だが、冷蔵庫はコンセントの位置から殆ど場所は特定されていて、洗濯機も専用の置き場に置くしかなく、テレビもコンセントとアンテナケーブルの都合で殆ど融通は利かなかった。
せいぜいが箪笥と食器棚の置き場ぐらいで、あとは目立った家具もない為、確認を済ませると業者さんは帰っていった。
「新居ってなんだかいいよね」
数か月前に新居に引っ越してきたばかりの真結がそう言う。
「俺は、新居って、初めてかも」
生家でずっと暮らしてきて、引っ越しをした事もなく、一人暮らしもまだこれから先の話だった。
初めての引っ越しになるのだが、なんだかピンとこない。
「二人とも引っ越しした事あるんだよね?」
「そうね、引っ越しは何度もしてきたわ」
「真結はこれで三度目かな。お姉ちゃん達と離れて暮らすのは初めてだから、ちょっと楽しみ」
「ああ、そっか……そういう考え方があるんだ」
親と離れて暮らすのだ、と思うと、ここでの生活がどうなるのか、少し楽しみになった。
「ダーリンはどうして来たのよ。可愛い女の子二人と一緒に寝泊まりできるのよ? 男だったら、早く夜にならないかな、とか思わないの?」
「どうして俺は来ちゃったのか、で悩んでるぐらいだよ。ここに来たのって、縫香さん達がこの建物に近づけない原因を探す為だよね?」
「そう言えばそうだね」
「そんな話もあったわね」
「もしかして二人とも忘れてた!?」
「んー……夕ご飯はどうしようかなって、考えてた」
「リザリィは料理なんて作れないわよ」
「真結は材料があれば、簡単なのは作れると思う」
「それじゃ、まずは買い物かしらね」
この時、俺は女の子ってしたたかな生き物だと痛感した。
二人ともここに来た目的より、食事の事を気にかけている。
でもそれは正しくて、食事の問題は、今日からどうやってここで生活をしていくのかという現実的な問題だった。
この建物の調査はそれからでもいい、なんて俺には考える余裕がなかったし、リザリィが言う様に早く夜にならないかな、なんて余裕もなかった。
「ひろくん、そんなに責任を感じなくても良いよ。お姉ちゃん達はいつも、あんな風だから、ぬるーく相手した方が良いよ」
「そうそう。ダーリンは責任感が強いのはいい所だけど、それで自分を追い詰めちゃダメよ」
真結はともかくリザリィにまでなだめられては、俺も気持ちを切り替えるしかなかった。
まずは目先の問題である食事について考える事にした。
なんだかんだ言っても、俺はただの引っ越し初心者なのだった。
「一番近いスーパーとコンビニを探さない?」
「いいわね、行きましょうか」
引っ越しも一段落した事だし、あとはなるようになれ、という気持ちで部屋を出ると、敷地の外で硯ちゃんが待っているのが見えた。
どうやら本当にこの建物には近づけないらしく、遠巻きに見ながら、こちらに手を降っていた。