逃げよ、逃げよ。
拾った端末を片手に、部屋の中央に置かれている丸いテーブルを迂回してコンセントの近くに行くと、奥さんが立ち上がったのが視界の隅で見えた。
なんだろうかと奥さんの方を見ると、すすり泣きながら絵の方へと歩いて行く。
絵の前にはリザリィがいて、芸術鑑賞をしている様だった。
また絵を見てしまったら、虜になってしまうだろうと思い、絵は見ない様にして奥さんとリザリィの背中だけを見る。
後ろから近付いてきた奥さんに気付いたリザリィが、一歩退いて様子を伺う。
奥さんはリザリィに危害を加えるつもりはないらしく、絵に両手をついて、すがりつきながら嗚咽を漏らしていた。
「うわ!?」
「きゃっ!?」
突如、その奥さんの身体が空中に吹き飛ばされ、バン! という衝撃音と共に反対側の壁に打ち付けられた。
そのまま奥さんの身体は床に落ちず、壁につり下がったままになっている。
俺は絵を直視しない様にしてた為、奥さんの身体がどうなったか、しっかりと見ていなかった。
何が起こったのか分からず、床上を辿って奥さんの身体が飛んで行った方を見る。
両足を伝って血がしたたり落ち、床上に血だまりを作っているのが見えた。
無事じゃないのは、それだけで分かる。
何が起こり、どうなったのか。
ゆっくり視線をあげていくと、胴体におびただしい血が流れ落ちていて、足先へと伝って流れ落ちていた。
血が噴き出しているのは、首ではなかった。
もっと上、顔の部分……両目からだった。
左右両方の眼窩に太い錆びた杭が刺さっていた。
血は涙の如く、目からどくどくと溢れ出していて、頬を伝い、したたり落ちていく。
両目を貫いている赤く錆びた杭は頭部を貫通し、奥さんの頭を壁に釘付けにしていた。
「う、うわ……」
「なにこれ何なの!? どうして杭? どうして目なの!?」
リザリィが絵の側を離れ、奥さんの身体を避けて俺の方に駆け寄ってくる。
二人で怯えながら壁に釘付けにされて、全身を痙攣させている奥さんの無残な姿を見ていた。
玄関から出るには、どうしてもあの奥さんの目の前を通らないといけないのだが、出来ればあの死体には近付きたくない。
ならばガラス戸を開けて、ベランダから出るのが最善のような気がした。
外に出る為、すぐ脇にあるガラス戸に手をかけて開けようとしたが、開かない。
ガラス戸には内側からロックがかかっている。
それを外そうと手をかけたが、そのロックも赤くさび付いていて動かない。
もちろん、そんな筈はない。
先日、子供はガラス戸を開けてこの部屋に入っていった。
さび付いたとしたなら、今、この時だった。
ギシ、ギシという金属の擦れる音をさせながら、力任せに何度もロックを動かすも、
びくともしない。
だが、何故か諦める事も出来なかった。
この、ロックを、開けて、ガラス戸を、開け、外に、出るしか、方法は、無い。
頭の中にそれしか思い浮かばない。
ロックを開けて……この、錆びたロックをなんとか、開けて……。
頭の中で繰り返し響く、その言葉に従って何度も何度も手を動かす。
ガラス戸はまだ動かないかと、引き手に手をかけて動かすが、ロックが外れていないのに開くわけがない。
「な、何? ダーリン……タンス、触った?」
「えっ……?」
部屋の隅、目の前においてあった洋箪笥の扉がゆっくりと開いた。
背広やコートをかける為の大きな洋箪笥の扉が、触っていないのに音もなく開いていく。
箪笥の中に、衣服は無かった。
代わりに、二人の子供が首をくくられて吊り下げられている。
その屍が、宙で揺れながらゆっくりと回転していた。
「ぶふっ! こ、今度は子供!?」
二人とも、顔はどす黒く変色していて、醜く腫れ上がっている。
首から下の肌は生白くなり、血管が浮き出ていた。
どうみても死んでいるのだが、目だけはこちらを見ていて、頭の中に直接語りかけてくる。
音声を逆転再生させた様な、不気味な声だった。
『にげよ、にげよ……すべての、じゅねーぶから、にげだせ』
『おうごんのまちは、てつくずにかわり、さびつくだろう』
『そして、ひかりの、はんたいのものが、すべてをとかす……ふふふ、ふふ、ふ』
耳を塞いだが、子供の笑い声は頭の中で響き続けている。
力を込めてガラス戸のロックを下ろそうとするが、ロックは外れない。
「むむ、無理無理、帰るわよダーリン。この部屋に住んでた人間は、みんなもう死んでるわ。手遅れだったのよ」
「リザリィ達に出来る事は無いわ。今、できるのは逃げる事だけよ」
リザリィは俺の手を取ると、奥さんの死体の前を横切って真っ直ぐ玄関へと走った。
俺はその手を強く握りつつ、頭の中に響く死んだ子供の笑い声を振り払おうと頭を振っていた。
俺達が扉から外に出ると、玄関はバタンと音をたてて閉じ、ガチャリと鍵がかかった音がした。
「はぁ、はぁ……あ、ありがとう……リザリィ……おかしくなりそうだった……」
「ああ、もうー……びっくりは嫌だって言ってるのに……」
二人で膝に手を付き、荒い息を吐いていると、どこかから呼ばれた様な気がした。
また、幻聴かと思って顔を上げると、敷地の向こう側に硯ちゃんが居て手を降っていた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
「硯ちゃん……」
「お兄ちゃん、大丈夫? なんだか、顔色悪いけど……」
「大丈夫、では、ないかな……」
「お姉ちゃんはどこ? 一緒じゃないの?」
「真結ちゃんなら二階で寝てるわよ?」
「電話が繋がらないの、メールも。本当にいる?」
硯ちゃんのその言葉に、俺とリザリィは顔を見合わせる。
「お、俺、見てくる!」
すぐにその場から離れた俺とリザリィを追いかけて、硯ちゃんが敷地内に入ると、七色の球体が現れて、硯ちゃんの身体を守った。
赤、青、紫の結界がバチン、バチンという音をたててはじけ飛び、黄色い結界と白い結界だけが残り、表面に魔方陣とルーン文字を浮かび上がらせていた。
「ごめんなさい! シールド張っちゃった! これ以上、近づけないよ」
「硯ちゃんは外で待ってて!」




