嘆きの城
恐る恐る目を開けると、風景は現実に戻っていた。
開け放たれ、蒸し暑い夜風が流れ込んでいたガラス戸をリザリィが片手で閉める。
その向こうには見慣れた夜景が見えていた。
「今のは……何?」
「まずは気絶してる真結ちゃんを寝かせましょ。ダーリン、力強く抱きすぎよ」
「あ、うん」
自分が怖かった事もあり、夢中で真結の身体を抱きしめていた。
力を緩めると、真結の身体はぐったりと力が抜けて床上へと崩れ落ちていく。
夕食が乗ったままのテーブルを部屋の端に寄せ、布団を敷いて、リザリィと二人がかりで真結の身体を移動させて寝かせてやった。
背後ではテレビが付きっぱなしになっていて、ニュースではなく、バラエティ番組をやっていた。
ふと、額を見ると、錆付いたガラス戸と、その向こうにピンク色の平野の絵が描かれていた。
先ほど見たのと同じ風景だった。
「絵が……」
「なんだかどんどん面倒臭くなってきたわねぇ……それ、狂気界に繋がってるわよ。額はどうでもいいのよ。問題は『絵』よ」
リザリィの言う通りだった。
その平原は、生きていた。
地面自体が巨大な生物で、所々に管があり、そこから異臭を放つ汚液を吐き出していた。
白濁色の汚液は、地面の窪みや筋に溜まると、序々に地面に染み込んでいく。
地面は薄い半透明の幕で覆われていて、巨大な赤ん坊の様な生物が埋まっていた。
「ほら、見ると吸い込まれるわよ」
リザリィは夕食を入れて来たビニール袋を絵に被せて隠してしまった。
おかげで俺の呪縛は解き放たれ、身体が自由になる。
抗う事は出来ず、一方的に心を侵されていく。
身体も心も固まり、恐怖に怯える事しか出来ない。
でも、心のどこかでは、その後どうなるのだろう、という好奇心があるのだからタチが悪い。
そのおかげで、狂気を見続ける事になってしまうのだろう。
誰かが止めてくれなければ、助からない様に思える。
「……で、リザリィが見た男と、下のオヤジが同じ男か別人かって話よね」
「あ? ああ、そうだね」
「見に行くしかないわねぇ。電気が付いてるなら誰か居るんでしょ?」
リザリィは部屋の隅に寄せたテーブルの上から、鳥肉の唐揚げを一つつまんで頬張り、むしゃむしゃと食べ始めた。
先ほどの狂気の世界の事など、どこ吹く風といった具合だった。
俺は今は、何かを食べる気になんて、なれそうにない。
唐揚げを食べ、ティッシュで手を拭いた後、リザリィは俺に手をさしのべて立ち上がらせた。
「真結ちゃんは休ませておきましょ。今、一番危険なのはダーリンだから、リザリィが守ってあげる」
リザリィは俺の右手をしっかりと握りしめて、玄関へと誘う。
それは真結と手を繋いでいる時とは少し違う感じだった。
真結の手から伝わってくるのは優しさで、リザリィの手から伝わってくるのは力だった。
姿形は子供の小さい手だが、そこに宿る力強さを感じると、自分がか弱い女の子になった様な気がした。
「さぁ、どこの誰がいったい何様のつもりで、このリザリィを巻き込んだのか、とっととケリをつけたいわね」
リザリィの強さを裏打ちしていたのは、上級悪魔のプライドの様だった。
襟亜さんの言葉が頭に浮かぶ。
悪とは、自分に刃向かう者だと言っていた。
一応鍵をかけて203号室を後にし、階段を降りて103号室のチャイムを鳴らす。
「深谷さん? 居ませんか?」
名前を呼ぶも返事が帰って来る様子は無かった。
この前は、少し待っていると子供が出てきてくれたのだが、今日はその気配も無い。
開くかどうかドアノブに手をかけてみると、カギはかかっていなかった。
「あら、入って来いって事みたいね」
リザリィは扉を開けてさっさと中に入ってしまったので、俺も続いて失礼しますと小声で言いながら103号室に入る。
リビングの畳の部屋の中では、奥さんが一人で泣きながら絵を見ていた。
この前よりも酷い。顔も幾分やつれている。
絵を見るのを止めさせなければ、死んでしまうかもしれなかった。
部屋には子供の姿も男性の姿もなく、奥さん一人だった。
「ダーリン、絵は絶対に見ないでね」
「分かった。この奥さん、助けられない?」
「無理よ。声が届くのは親しみのある相手だけよ。赤の他人の声は届かないわ」
「深谷さん、しっかりして下さい。絵を見ないで」
そう言って、肩を揺さぶってみたが、リザリィの言う通り、奥さんに俺の声は届いていなかった。
「この絵……題名は嘆きの城って言ったかしら。随分昔に地獄界の貴族が狂気界の絵師に書いてもらった物だと思うわ」
「素敵な絵でね、これを見た人間は描かれた人物の人生を体験する事が出来るの。今時のVRってやつ?」
「でもね、ここに描かれている人間は皆、苦しみと哀しみに苦しんだ挙げ句、全員が死ぬのよね」
「それを見て悪魔は笑い、死まで体験した魂を手に入れるんだけど……」
「お城に飾られるような巨大な絵を、どうしてこんな狭い所に持って来たのかしら」
その説明は悪魔視点の物だった。
人間は犠牲者で、苦しみと哀しみの果てに死ぬ姿を見て愉しむという。
「持ち主の悪魔の仕業じゃないの?」
「お城を持ってる様な上級の悪魔がする事じゃないのよねぇ……成り上がりたい中級悪魔か、下賤な下級悪魔なら分かるけど、そんな奴らに絵を貸したりしないと思うし」
「全然わかんないわね。そもそも考えるのも面倒だしぃ」
リザリィが町田のように論理的な推理をしている姿など想像も出来ない。
知らない事は分からない、見てみないとどうしようもない。
ある意味ではとても現実的な生き方だった。
Brrrr……
「ん?」
どこかから携帯端末の振動する音が聞こえた。
音がする方を頼りに身をかがめてみると、畳の上で震えていたのを見つけた。
手にとると、着信名に病院の名前が表示されていたが、ピピピピというバッテリー切れの音が鳴り響いた直後に端末の電源はきれてしまった。
「どこかに充電器があると思うんだけど……」
端末の充電器を探して部屋の中を見回すと、壁際のコンセントにそれらしき機械が刺さっているのが見えた。
繋げて電源を入れれば、どこから電話がかかってきたのか分かるだろう。




