Landscape VI
「額……」
何も書かれていない、白い紙の入った額。
103にあった大きな物では無く、A4程度の大きさの物だった。
問題は大きさではなく、誰がこの額を置いていったか、だが……。
近付いて額を取り外そうとしたが、壁にぴったりとくっついていて取れない。
額そのものは、ごく普通の物に見えるし、103号室の絵の様に吸い込まれる様子もなかった。
「どうしてテレビの位置が変わってるのよ!」
リザリィが怒ったのは額とは関係無く、テレビが隅に動かされた事に対してだった。
「リザリィ、テレビよりも、この額だけど……」
「ただの額でしょ? 額は怖くないわよ、問題は『絵』よ」
「なるほど……確かに……」
何も描かれていないから、絵に惹かれる事も無いのだろう。
「でも、何だか気になるね……」
「うん……良いものじゃないと思う……」
「エアコンつけて、テレビつけて、ご飯食べましょう!」
そう言うとリザリィはさっさとテレビの前に布団を引き、リモコンでテレビをつけるとくつろぎ始めてしまった。
「怠惰、強欲、嫉妬、暴食、高慢、憤怒に色欲! 今、足りないのは嫉妬と色気と憤怒よね」
怠惰と強欲と暴食と高慢はリザリィ一人で十分らしい。
そして色気が足りないという自覚もあるみたいだった。
俺と真結は額の事は一旦忘れて、作って貰った夕食を食べる事にした。
部屋の隅に斜めに置かれたテレビの前にリザリィが陣取っているので、テーブルも斜めに置く事になり、なんだか微妙な配置になってしまった。
テーブルの上にお重を広げて置くと、昨日よりも一回り豪華になっていて、襟亜さんの言っていた通り、鳥肉の代わりに牛肉の炒めた物が入っていた。
ビニール袋の主な重量を占めていたおひつをテーブルの脇に置き、茶碗に三人分のご飯をよそった後、手を合わせて頂きますと言ったのを見て、リザリィは少し驚いていた。
「あ、人間界では頂きますって言うのよね。なんだか変な習慣よね」
そう言いつつ、リザリィも形だけ手をあわせていたが、元々これは神様に感謝する意味合いだから、悪魔はしなくてもいい様な気がした。
「襟亜さんの作る料理って本当に美味しいね」
「うん、私もお姉ちゃんぐらい上手に出来たらいいんだけど」
「真結もお弁当作ってくれた事あったよね、美味しかったよ」
「ありがとう。でもあれも、襟亜お姉ちゃんに教えてもらってやっとだから」
慎ましやかに食事を食べる俺達の横で、リザリィは寝たままで紙皿の上に取り分けたおかずを食べていた。
怠惰と強欲と暴食を満喫していた彼女が、テレビにリモコンを向けた時、何度もボタンを押している事に気付いた。
「どうしたの?」
「リモコンがきかないの」
「もしかして、また、電池かな?」
クーラーの為に買ってきた電池だったが、同じ単四電池なのでテレビのリモコンの電池と入れ替えてみた。
だが、それでもチャンネルは変わらず、電源のオンオフも出来ない。
「食事時にニュースなんか見たく無いのに、なんでそんな所で止まるのよ!」
リザリィはそう怒りながら、ご飯を頬張りつつ、テレビの所まで行く。
これで憤怒も満たされたかもしれない。
テレビでは、交通事故のニュースがやっていて、跳ねられたのは、深谷さんという30代の男性だった。
「深谷さん? えっ?」
ニュースのテロップでは、御鑑市に住む深谷さん30歳と書かれている。
「これ、103号室の人だ……」
脳裏に、103号室の絵が鮮明に蘇った。
大通りを走る馬車とそれに轢かれる男性。
「あの絵の中で、男の人が馬車に轢かれてた……男の人は家に奥さんと子供が居た……家計が苦しくて、先月、両親を殺したんだ……」
「……103って、電気がついてたと思うよ? 旦那さんが交通事故にあったなら、いないと思う」
真結が不安げな顔でそう言う。
ここに帰ってきた時、103の電気はついていた。
ニュースが今頃流れるという事は、事故があったのはもっと前だろう。
真結の言う通り、本当に旦那さんが事故にあっていたら、家族は病院に行っている筈だった。
103の電気がまだついているかどうかは、ベランダに出てみれば分かる。
そう思った俺がガラス戸を開けて身を乗り出した時、背後でリザリィが悲鳴をあげた。
「何か落ちた! ダーリンの横を男が落ちてった!」
「な、何も落ちてないよ?」
ベランダから身を乗り出し、下をのぞくと、103号室の電気はついていた。
勿論、地面に何かが落ちた様子は無く、先日の子供の時の様に、誰かがこちらを見上げているという事もなかった。
「下の部屋の電気、ついてるね……」
「真結ちゃんは見たわよね? 血だらけの男が上から落ちていったわよね!?」
「見てなかったかも……」
「なぁんでリザリィばっかり見るのよ、呪われてるの!? 呪うのはこっちの仕事なのよ!?」
リザリィは立ち上がると、あからさまに不機嫌な顔で俺の側に寄ってくる。
ぐい、と身体を押しつけて俺と同じく身を乗り出し、上と下を見て、落ちた物が無いかを確認した。
「うっ!?」
「あっ! ダーリン、危ない!!」
下を見た時、地面が赤く染まったのが見えた。
そしてベランダの手すりが、木製であるにもかかわらず、赤く錆び付き、あわてて俺は手を離した。
リザリィが俺の身体を強く抱いて、部屋の中に引っ張り込む。
目の前でガラス戸の窓枠が赤錆に覆われていくのが見えた。
壁と天井には血管のような赤い触手が伸びていき、折り重なって固まった時、それは木の根のように見えた。
窓の外には真っ赤な空と、なだらかなピンク色の大地が広がっていた。
地面は僅かに脈動していて、ぶるっ、ぶるっ、と震えている。
俺の顔を暖かくて柔らかい感触が包み、目を閉じさせた。
「目を開けちゃダメよ。狂気界の浸食現象だわ。真結ちゃんはダーリンをしっかりと抱いて守って」
俺の目を閉じてくれたのはリザリィだった。
彼女の言葉に従って、俺の身体を背後から強く抱きしめてくれたのは真結だろう。
いつの間にか、身体の芯が冷え切って氷のように凍てついていた。
真結の身体は焼ける様に熱く、その熱さが俺の身体を焦がしていく様に思えた。
だが、一度熱が伝わった後は、逆に手足が凍えている様に感じて、震える手で真結の身体を抱き返し、その温かさを分けてもらった。
「さぁ、ケンカを売るつもりなら来てみなさいよ。闇の令嬢が伊達じゃないって事、分からせてあげるわ」
頼もしいリザリィの言葉が聞こえるも、周り中に何かがガサガサと這い回る音がして、抱きしめていた真結の身体が固く硬直した。
「む、虫は……ムリ……」
足先から身体に、身体から顔に、足の長い何かが大量に這い上がってくる。
怖くて目を開ける勇気も無く、力を失って倒れかけている真結の身体を抱いて支えるのが精一杯だった。
「むむ、虫は怖くないけど、ちょっと数が多すぎるわ。ダーリン、絶対、目を開けちゃダメよ」
「う、うん……」
「あーもー! うっとーしーわね! うじゃうじゃむかつくのよ!」
何が起こったのだろうか。
リザリィがとうとう本気で怒ったらしく、怒鳴り声を上げた時、辺りは突然静かになった。
全身に這い上ってきていた、虫らしき何かの感触も一瞬にして消えた。
体温も普通に戻っていて、熱くもなく、凍えてもいない。
抱きしめた真結の細い身体が、とくん、とくんと心音を奏でていて、俺の身体に伝わってくる。
「はぁ……終わったわよ」




