天使と悪魔と人間と。
「ひろくん、あのね、今日、うちに来れる?」
首にかかるぐらいの、柔らかな栗毛色の女の子は、頬白真結という名前の幼馴染みだ。
ただし、幼馴染みになったのは数か月前の事で、それまで俺に女性の幼馴染みなど居なかった。
彼女は突然現れた幼馴染みで、現れた時には既に交際中という事になっていた。
いきなりそんな事を言われても、何の事だか話が全く見えなかった。
彼女は魔界から来た魔女で、そういう設定の魔法を、妹の硯ちゃんがこの街にかけたのだそうだ。
つまりは記憶を操作された訳で、彼女は本物の幼馴染みでもなければ交際中という訳でも無かった。
だがそんな美味しい設定を、年頃の男性の俺が拒むはずもなかった。
彼女達魔女にとって予想外だったのは、この俺、弓塚弘則という青年が魔法に対する耐性を持っていた事だった。
人間は誰でも多かれ少なかれ、魔法に対して抵抗する力を持っているらしいのだが、俺のその能力は極めて高いらしく、殆どの魔法を弾いてしまうらしい。
よりによって、幼馴染みで交際中という設定の相手に魔法が効かなかったおかげで、俺も頬白も、予想外のお付き合いをする事になってしまった。
こうして日常は非日常へと変わったが、その非日常は彼女が魔女から天使になる事で非現実的な日常へと変わったのだった。
「うん、いいよ」
真結は四人姉妹の三女で、上には縫香さんと襟亜さんという二人の姉がおり、下には硯ちゃんという妹がいる。
この頬白四姉妹はある日曜日に突然、隣に引っ越してきて、そこに居座り始めたのだが、世間的には――そして俺の両親のすり替えられた記憶の中でも――10年以上にわたる家族ぐるみのお付き合いをしている事になっていた。
だから真結は暇な時には俺の家に来るし、或いは今みたいに彼女の方から家に来ないかと誘ってくる事も珍しくなかった。
それだけでなく、次女の襟亜さんは料理と買い物のプロで、俺の母さんと仲が良く、二人で連れ添って買い物に行く事もしばしばあった。
そう。世間的には、仲の良い、お隣さん同士で、家族ぐるみの、お付き合いを……。
「リザリィも行く!」
「いいよ、リザリィちゃんもおいで」
深紅の髪の毛に大きな黒いリボンをつけた、ゴスロリ服の少女が話に割って入る。
ただでさえ目立つ容姿なのに、傍若無人な振る舞いが傍迷惑さに磨きをかけていた。
この、一見年下に見える少女は地獄界から来た悪魔で、俺と真結を堕落させて地獄へ連れ帰るのが目的だった……筈だったが、空回りしている事の方が多く、真結が天使になった今では、もはやその目的は不可能に思えた。
「かしこと町田も居れば良かったのにね」
来島かしこと町田努。この二人は俺達の親友だった。
町田努は本物の俺の幼馴染みで、小さい頃から同じ学校に通っていた。
来島かしこという女の子は、町田の交際している彼女だが、この二人と会う事はしばらく無かった。
町田も来島さんも、それぞれ親の故郷に里帰りしていて、一週間ほどは帰って来ない。
町田に関しては、夏休みは毎年の事だったので、今年もそうなんだ、ぐらいに思っていた。
「それじゃ、そろそろ出ましょうか」
俺達がいつもたまり場代わりにしているハンバーガーショップを出ると、リザリィはすぐに俺の片腕を捕まえて組んでくる。
「リザリィ、暑いから、腕組みはちょっと……」
「人間は不便よね、暑いとか寒いとか色々あって」
「リザリィ、話、聞いてる?」
俺は遠回しに組んで腕を解いてくれと言っているのだが、リザリィは知らぬ顔をしていた。
意味は分かっている筈だ、その上で離そうとしない。
たとえ遠回しに言わずに、離してくれと言っても、嫌だと言うのが彼女だった。
「真結ちゃんも暑いとか寒いとかあるの?」
「あるよ。我慢できるけど」
「あの、本当に暑いんだけど……今日、真夏日だよ……」
「仕方無いわねぇ、ほら、サン・シールドの魔法よ」
リザリィはそう言うと、片手をひらひらとさせて、俺に魔法をかけた。
しかし、何の変化も無かった。
「ちょっと、ダーリン! 魔法を弾かないでくれる!?」
「やろうとしてやってる訳じゃないんだよ、勝手に弾くんだよ」
「人間ってだけでも不便なのに、防御魔法もかからないなんて可哀想だわぁ。さっさと地獄に墜ちればいいのに」
「洒落にならないよ、その言い方……」
「ひろくんが、すごい悪者っぽい言われ方されてる」
「地獄へ堕ちろって、人には言われたくないな……悪魔なら仕方が無いけど」
「なぁによー? 一緒に墜ちようって言ってるんじゃないのー。墜ちる時は真結ちゃんも一緒よ?」
「天使って、地獄に落ちたら堕天使になっちゃうのかな?」
「そうよ! 堕天使大歓迎よ!」
「私、まだほんのり天使なんだけど、歓迎してもらえるかなぁ?」
「真結、墜ちる事なんて考えちゃダメだよ!?」
いつも、こんな調子だった。
いや、こんな風にどうでもいい話が出来る今は、とても幸せな、非日常的日常だった。
「今日は硯ちゃんはプールの日だから、きっと疲れて帰って来るよ」
「プールの日か、そんな日、あったなぁ」
「それ何の日? 何をする日なの?」
「硯ちゃんの通ってる小学校はね、夏休みにプールの授業があるの」
「リザリィは学校に行った事がないからわかんない」
「地獄には学校はないの?」
「無いわよ。家庭教師ってやつ? がいるの。お嬢様、勉強のお時間ですって言って部屋に来るのよ」
「すごい、さすがはお嬢様だぁ」
「逃げ場が無い分、最低限の事は教え込まれるわよ。読み書き出来ないと魔法の勉強が出来ないものね」
「そうだねぇ。魔法の勉強は大変だね」
「で、プールって何?」
「プール、知らないの?」
「プールは知ってるわよ。あのでっかい水槽でしょ? あれで何をするの?」
「水泳の勉強だよ」
「水泳……なんで?」
「人間は魔法が使えないから、溺れないように、だよね」
「あー……人間って……ほんっと、不便よね。生きていくの、辛くない?」
「まぁ、辛いと思う時は、あるね……色々……」
「ダーリン、悪かったわ。何かあったのね。リザリィには相談して良いのよ?」
「何だかもう、よく分からないよ」
悪魔の言う事に、いちいち耳を貸していてはならない、という事を思い知った夏の日だった。