巨大な絵
その絵はものすごく緻密な絵で、相当な価値がありそうに思えた。
時代は中世ヨーロッパだろう。城下町の絵で、酷く陰鬱な雰囲気に満ち溢れていた。
街の通りには一軒一軒丁寧に家が描かれ、そこに住む人達の生活が描かれている。
ある者は鍛冶屋。ある者は農民。ある者は花屋。
その時代の、それぞれの仕事を営む姿が描かれているが、誰一人として笑みを浮かべている者は居ない。
建物の風化も細かく描かれ、亀裂と、そこから壁の表面に絡み合う蔦が絡み合う様子。
はみ出した雑草は小さな花をつけて風に揺れていた。
それらの自然物とは対象的に、路地の上には汚泥や糞がつもり、見ているだけで悪臭が漂ってきそうだった。
道ばたには病気で全身に黒い斑点が浮かんだ男が寝ていて、魔法使いの様なローブを着た男がその男を松明の炎で燃やそうとしていた。
路地裏からは大量のネズミが列を成して街の外へと逃げていき、それらのネズミを兵士達が踏みつぶして殺している。
大通りを走る馬車は暴走状態で、馬車を引く二頭の馬の口から涎が溢れ出していた。
その馬車に轢かれて、首と腕が変な方向に曲がった男が宙に吹き飛ばされている。
御者は口髭を生やしていて、跳ねた男を汚らわしい目で見ていた。
跳ねられたのは――農夫だ。
この城の領地に住む農夫で、今日は街に作物を納めに来た。
家には妻と一人の子供が居る。
三年続いた凶作で食べ物も金もなく、子供を殺すか年老いた両親を殺すか悩んだ末、先月、両親を殺した。
そして、男もまた、死んだ。
「ひろくん、ひろくん!!」
「あっ……」
気付くと、真結が俺と絵の間に立ち、両肩を掴んで揺さぶっていた。
絵を見ているうちに、その絵に描かれている人物の物語が頭の中に浮かんできて、そのまま絵の虜になっていた。
「その絵、良くない」
「ごめん。絵に引き込まれたんだ。この絵を見ていると、登場人物のストーリーが頭の中に浮かんで来るんだよ」
「このお母さんも、そうかもしれない」
真結がそう言って、奥さんの肩に軽く手を触れると、母親は絵を見たまま無言で立ち上がり、脱衣所の中に入ってしまった。
「深谷さん、大丈夫ですか?」
と声をかけてみた時、中から女性のすすり泣く声が聞こえてきた。
「話、出来そうにないな……」
「ゴミの収集日、冷蔵庫にはってある紙がそうだと思う」
冷蔵庫を見るとマグネットで貼り付けられた紙に、ゴミは月、木と書かれていた。
ひとまず、知りたい事はこれでわかった。
真結と目をあわせ、ここに居ても出来る事は何も無いのを確認しあうと、静かに部屋を出た。
扉を閉め、二階へと登る階段の手すりに手をかけて、上を見上げると、屋根の上で何かが動いたのが見えた。
「あの子、どうしてあんな所に!?」
いつ、どうやって登ったのか、深谷さんの子供が屋根の上に登って俺達を見下ろしていた。
まだ日は高く、周りの人達にも見えている筈だった。
「おい、危ないよ!」
と叫んでみたが、子供の居る所まで登り方が分からないのでは、助けようもなかった。
子供は無表情で俺達を見下ろしていたが、一歩、二歩と退き、屋根の向こうへと姿を消した。
何が出来るかはともかく、俺と真結は二階へと登り、203に入る。
子供はこの部屋の真上に居る筈だった。
もしかしたらベランダから室外機の上に乗って、上へと登れるかもしれない。
そう思ってガラス戸を開けた時。
「ひぃぃぃ!!!」
俺の目の前を、子供が逆さになって落ちていった。
その顔は不気味に笑っていた。
背後でリザリィが悲鳴をあげ、落ちた! 今、子供が落ちた! と叫んでいた。
「……!?」
ベランダに身を乗り出して下を見ると、子供が立って俺の方を見上げていた。
その顔は、落ちた時と同じく笑っている。
目を見開き、口の端を歪め、頬を引きつらせた笑いだった。
子供がする様な笑顔ではなかった。
果たしてあの子は地面に落ちたのか、それとも落ちなかったのか。
見た感じではかすり傷一つ無く、子供はベランダの手すりを乗り越えて、ガラス戸を開けると103号室に入っていった。
これ以上身を乗り出すと、俺が落ちてしまいそうだった。
「こ、子供は……?」
「落ちてないよ、大丈夫」
「お、落ちたわよね? ダーリンも見たわよね?」
「下には何も無いよ」
子供が下から見上げていた事は、二人には話さなかった。
話した所で、どう説明すればいいのか分からない。
子供は確かに落ちていった。
だが子供は地面には激突せず、或いは綺麗に着地したのか、無傷で立っていた。
どちらでも、おかしい事に変わりはない。
(このハイツは……まともじゃない……)
携帯端末を取り出して時計を見ると、まだ一時を過ぎた所だった。
「ひろくん、どうしたの?」
真結は俺の動揺を察していた。
というよりも、俺自身が動揺を隠しきれてないだけだった。
「ここはまともじゃない。それは確かだよ」
「うん……あのね、さっき、下の部屋を見た時、おかしいなって思ったの」
「何か、気付いた?」
「どうして下の部屋は畳で、この部屋はフローリングなのかなって」
「この部屋はリフォームしたからじゃないかな? 元々は畳だったんだと思うよ」
「うん。昔は畳だったんだよね。という事は、下の家族はその頃から住んでるんだよね」
「ああ……うん、そうなるね……」
少し、真結の言いたい事が見えてきた。
3歳ぐらいの子供が居る、30代の夫婦が住むにしては、古すぎるという事だろう。
俺はあの部屋に入った時、絵の方に気を取られてしまい、部屋の様子は殆ど見ていなかった。
「あの部屋ってすっごく古いままの様な気がしたの。薄くて暗くて、じめじめしててて、壁も所々剥がれてた」
「それに、テレビが無かったの。初めて挨拶した時、テレビの音が聞こえてなかった?」
「確か、聞こえてたと思う」
「リザリィも聞いたわ。テレビの音がしてた」
あの時、リザリィは無遠慮にも部屋の中を覗き込んでいた。
テレビの音が聞こえていたのは間違いないだろう。
「さっき見た時、タンスと化粧台と、あの大きな絵しか無かった」
「絵?」
リザリィが何の事かと、俺の顔を見てそう言った。
「大きな絵があったんだ。その絵を見ていると、登場人物の物語が頭の中に浮かんで来るんだよ」
「……ダーリン、その絵に見とれてたりした?」
「うん、してた」
「そう……ちょっと、気になるわね」
「何か、知ってるの?」
「……今日も縫香に会うんでしょ? その時に話すわ」
リザリィにしては珍しく、神妙な面持ちで言葉を控えていた。
いつもなら、何か知ってる事があったら、自慢げに言いふらす所なのに、それをしない事もまた、不安感を駆り立てられた。