この国、やばい
「ありがとうございました」
商人から、己の身を包むほどの布切れを買った。
礼を述べる声を背中に受けながら、この買い物が本来のこの国での相場なのかどうかは飛鳥自身、わからないでいた。
というのも、この国の市場は著しく混沌としているのだ。
露天で叩き売りされていた、保存状態もお世辞にも良いとは言えないようなバナナに似た果物。これが一本(日本円に換算して)三千円だと、傍に来たスピネルが耳打ちした。ぎょっとして凝視する飛鳥に、行商人は言う。「二本で四十ペソだよ!」と。日本円に換算して八百円だ。
いずれにせよ高いのは間違いようのない事実だが、何故一本三千円するものが、二本目を買ったら単価四百円になるのか。
わけがわからなかったが、不信感しか沸かない。
だが、おかしいのはそのバナナもどきの行商人だけではないということに飛鳥はすでに気づいていた。
単価数百円だったものが、二つ目を買うと単価数十円という破格の値段になったり。単価数百円だったものが二つ目を買うと単価数千円に跳ね上がったり。そういった店がいくつも並んでいるのだから、この国は詐欺師の集まりなのではないかと、勘ぐる目で見てしまう飛鳥を誰が責められようか。
もう一つ、現代日本で育った飛鳥にとっては違和感を覚えずにはいられないことがあるようで、時折首を傾げては露店の主人に声をかけていた。
飛鳥が五軒目の店での買い物を諦め、離れた所で待ち受けていたスピネルの所に戻ると、面白そうに飛鳥を見る。
「私が思っていたより社交性が高いのですねえ、飛鳥。どの店に行っても必ず店主に声をかけるなど」
面白そうに――否、どこか飛鳥を貶めるような物言いでスピネルは彼の戻りを受け入れた。
「仕方ないだろ、聞かないと値段がわからないんだから」
「そうですか。聞かないとその店がまともな取引ができるのかどうかもわからないのですね。ああ、本当に愚かですね、君は」
こんなのを駒にしなければならないだなんて、ユーリが可哀想です。とまで言い放つスピネルを無視して、飛鳥は次の店に向かった。
「バナナ……?」
ふらりと何の気なしに立ち寄った六軒目の店。それがバナナもどきを単価三千円で売りつけようとした店だ。
「ああ、一本百五十ペソ……君の世界の通貨で言うところの三千円ほどですね」
「さんぜ……っ?」
絶句して二の句が継げずに金魚のように口をパクパクさせる。
バナナ。現代日本人にとって味だけでなく一般家庭においても非常に手に入れやすい価格帯なため、最もポピュラーな果物とされ、生食用と料理用のバナナが存在する。主に高温多湿の地域で栽培されることが多く、日本では沖縄でも作られているが、主に食べられているのは海外――フィリピン産やエクアドル、台湾産なども見られる。甘さがもっとも強くなるのは、表面に茶色い斑点が出ている時だ。このぽつぽつの斑点を「シュガースポット」という。これを目安に食べれば美味しく食べられる。
さて、目の前に陳列されているバナナなのかどうなのかもよくわからない果実はどうだろう。三つ巴の膠着状態となっているという、農業を生業としている国から苦労して仕入れたのかもしれない。しかしだからと言われてもありえない値段が付けられているこのバナナだか何だかわからないバナナみたいなものの味はどうなのだろうか。
そもそもバナナの定義とは何なのだろうか。見慣れたバナナの形はしているが、値段だけ聞くと一般家庭でも手に入れやすい価格帯だというバナナの特徴からかけ離れている。黄色い三日月型の果物をすべてバナナと位置づけるのは若干危険を伴うのではないだろうか。否、これはどこからどうみてもバナナみたいなバナナじゃないバナナっぽいバナナもどき的なバナナではないバナナだ。
そんな現実逃避に走る飛鳥に、店の主人が追い討ちをかける。
「二本で四十ペソだよ!」
「よんじゅ……一本百五十ペソの商品が二本で四十ペソですか?」
「そうだよ、何かおかしいかい?」
悪意も何も秘めていない、至極真っ当な顔でそう返され、飛鳥は頭を抱えた。
「……おじさん、三本だといくらですか?」
「そうだね、考えてなかったなあ。百ペソくらいかな」
「……」
ソウデスカ。アリガトウ。
そう言って礼もそこそこにその場を離れる。口元に手を当て肩を震わせ目を合わせようとしないうさぎ耳が少し離れた場所で待っていた。
今すぐ詰め寄って胸ぐらを掴んで脳みそ揺さぶってやる、という感情を存分に顔全体で表す。しかしそれが到底無理な話だということも理解しているようで、現実には実行せず詰め寄るだけに留まった。
「この国の一般大衆に、学がないことは俺だって知ってたよ」
だけど。と、肩を竦める。
「商人が算術を嗜んでないってのはさすがにどうなんだよ……」
砂埃舞う商業区の入り口から、舗装されていない道から徐々に舗装された道へと変わる様を眺めつつ、適当に目に付いた露店を覗いては冷やかして立ち去る。それを六回繰り返したところで飛鳥は諦めた。
詐欺師の集まりなのではない。数学や経済学どころか算数さえ学ぶ機会のなかった大きな子どもたちが、お店屋さんごっこをしている。そう認めたくはなかった。己が保護されている国が工業に突出した国で、商業には力を入れていないということは知識として頭に入ってはいても。
初代王が通貨を定めたのは百年以上前。それから大幅な下落もないと兵士は言っていた。ならばそれなりに滞りなく循環しているものだと思っていた。
「滞りだらけじゃないか! なんで感覚で値段つけてるんだよ! まともに利益出すつもりがないのかよ! 利益率とか考えろよ! なんで三千円から四百円に下がった単価が約七百円にまた上がるんだよ! しかも割り切れねえし!」
頭を掻きむしり声を荒らげる飛鳥を、今度こそ面白いものを見る目でひとしきり見物した後、はあはあと肩で息をする飛鳥と目が合いスピネルは笑みを深めた。
「今さらですね」
「俺はついさっきまで箱入りだったんだよ……っ!」
「言い訳は豆粒以下な君自身をさらに矮小化させますよ」
「うるさいな、もう」
「おや、その返しは負けを認めたも同然ですよ。そんな君には負け犬の称号を差し上げます」
「俺は誰と何の戦いをしてるんだよ、まったく」
砂埃が日差しを僅かに遮り、飛鳥自身も不快そうに砂塵から目や口を守る。自然と視線は下を向き、平然と前を行くスピネルの足を追うことになる。飛鳥の視界の外からはスピネルが苦言を呈してきた。
「君は親の後をおぼつかない足取りでぴよぴよと歩き回る雛鳥か何かですか。親の決めた道を歩くというのはさぞ楽な生き方でしょうね、何も考えなくとも道なりに行けばどこか平凡な場所にたどり着く。なんとも安定していて、そしてなんともつまらない生き方です」
「……うるさいな……」
そこまで黙って聞いていた飛鳥の返す声に剣呑な響きが含まれる。
「だというのに親に図星を突かれれば反抗心むき出しで食ってかかる。思春期というものはこういうものだと理解はしていても、見ていて笑いを禁じえないですね」
「……うるさい」
「何も言い返せなければうるさいの一言で逃げようとする。大人と子どもの境目とはいえ酷く子ども寄り。才能はあっても子ども過ぎて生かしきれない」
「そんなこと、あんたにとやかく言われる筋合いは……!」
ない、と噛み付きかけていくつかの事実に気がつく。拳を血がにじむのではないかと思うほど強く握りしめていたこと。いつの間にか歩みを止めていたこと。それに合わせて歩みを止めこちらに向き直っていた、いつも通り笑顔のスピネルの目が、相手を射殺さんとでも言うかのように細められていること。バザールの一角で起きた些細な喧嘩の火種を嗅ぎ取った通行人たちが、野次馬根性丸出しで集まってきていたこと。そんな野次馬たちの頭を越えた先、一見すると周りの露店と大した違いのない、平凡な店。そこに飾られたほかの店にはなかった異質な物。飛鳥が首を傾げては店主に声をかけ続けた原因であったものが、密かに存在していたこと。
直前までの怒りを忘れ、笑っていない笑顔で喧嘩を売ったスピネルも無視し、周りに集まっていた人ごみをかき分け。砂埃に襲われるのも厭わず、一心不乱にその店に吸い寄せられるように歩いて行った。
たどり着いたその店の印象は、やはり遠目で見たときと大差ない。古ぼけて所々傷んでおり、お世辞にも周りに立ち並ぶ有象無象の露店たちと大きく違いがあるとは言えない。吹きさらしの屋根は、晴れの日は砂埃と太陽光から。雨の日は雨水から。無造作に並べられている商品を守るつもりなど微塵もないのだと主張している。商品はどんな素材からできているのかもわからない、ザラザラした肌触りの、非常に風通しの悪そうな衣装やマントなどだ。見た目も非常に粗野で、見ただけでわかるほど生地が傷んでいる様子はないが、それがそのまま品質保証になるわけではない。スピネルに言われるがままに旅支度を整えようという名目で城の外に出たのはいいが、販売環境が劣悪過ぎて目も当てられない店が多く、この店も大差ない。
しかし飛鳥はその店に吸い寄せられた。食い入るように一点を見つめた後、「いらっしゃい」と声をかけてくる愛想のない商人に声をかけた。これまでとは違い、若干熱の入った声だった。
「おじさん、このマント、いくら?」
これまでとは違って、金額が分からず尋ねるのではなく、確認のために尋ねている声音。
「……二百ペソだよ」
二百ペソ。己の身の丈程もあるマントが日本円にして四千円。それが妥当なのかどうかは飛鳥には判断しかねたが、震える声で質問を続けた。
「じ、じゃあ、二つでいくら……?」
「……四百だな」
現代日本であれば何をおかしなことを聞いてくるんだろうと、怪訝な目で見られ、後から影で笑われるのが関の山な質問である。しかし、商人の男は眉一つ動かさず淡々と答える。
「三つはっ?」
「……六百だ」
「一応聞くけど四つで?」
「……はっ」
「買った!」
店主の「ぴゃくだ」に被せるように飛鳥は勢いよく購入を宣言した。
「あ、買うのは一枚ね」
自分の声を遮られたことで若干不機嫌になりつつも、金銭授受と商品の受け渡しを滞りなく済ませた飛鳥に対し、非常に事務的かつ棒読みながらも「よくお似合いですよ」というお世辞を述べる店主。そう。お世辞だ。試着もせずに購入したはいいが、羽織ってみて飛鳥はさっそく理解していた。
「似合わないですねえ、飛鳥」
今さらのように追いついてきたスピネルは情け容赦なく告げる。店主は気まずげにさっと顔を逸らしたが、飛鳥とて似合うとは到底感じていなかったようで、短く息を吐いて肩を竦めた。
「似合わないオブ超似合わないっていう感じだろ?」
言ってて意味わかんないけど。と付け足して続ける。
「ちょっと重たいけど、まあ防塵と防寒にはなりそうだし、まともな取引だったかどうかは分からないけどこの国では珍しい、算術もできて識字率を上げる要因っぽい人だったから」
店に並べられた商品名と金額が書かれたプライスカードを指差す。
「なるほど、半分は感動させられた挙句ただのその場の勢いで買ったということですね」
「うっ……間違っては、ない……」
「しかし運がいいですねえ、飛鳥」
「え、この店当たり?」
「さあ、この店自体が当たりかどうかは知りませんが、彼はこの国出身ではないですね」
言われて店の奥でゴソゴソと作業をしている店主を見、既に平常通りの人の流れに戻っているこの国の住人たちを見、もう一度店主に視線を戻す。
「なるほど、たしかに少し肌の色が違う、かな?」
「まあそんなところですね」
「ふうん。結婚してこっちに越してきたとかかな。まともな買い物がしたければ、ああして値札を付けてる所で買えってことか?」
「相手もこの国の人間相手に値札なんて出しても無駄だと知っていることもあるかもしれませんが、いいんじゃないですか? この界隈なら」
「この界わ……は?」
うさぎ耳の男が最後に言い含めた言葉を復唱しながら辺りを見渡した飛鳥は、辺りの景色が一変した瞬間を目の当たりにした。
今まで立っていた場所が荒野なら、いつの間にか移動していたこの場所は日の当たらないジメジメしたダンジョン。長く先の見えない細い道の両サイドには、檻らしき格子がズラリと並んでおり、中からは気味の悪いうめき声のようなものが漏れている。
格子の中に気配を感じる以外は、周囲に人の気配はない。とはいえそれが逆に不安を煽られるのだが、突然現れた飛鳥たちを目撃されていれば、不穏な事態に陥っていたことは考えるまでもない。下手をすれば両サイドに並んでいる格子の中の人たちが将来のお隣さんだ。
「やばい空気がぷんぷんするんだけど、まさか」
「ええ、彼らは商品ですね」
「商品……」
言われた言葉をそのまま復唱して、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「理解したくないな、人が人に買われて下僕のように仕えるって。どういう経緯でそうなったのかは知らないけど、この人たちにだって本来帰るべき場所や待ってる人がいるんじゃないのかな」
戦争で捕らえられ、捕虜として連れてこられ、奴隷という末路を辿る者。
税が払えず市民としての身分を剥奪された者。
貧しい家を救うためと、金の代わりに売られた子ども。
逆に家族を救うため、己の身を売った者。
人を騙して誘拐――奴隷を仕入れて売りつける奴隷商人とかいうものも存在するだろう。
「ですが君もお城では人に買われた人を使って生活をしているものだと思っていましたが」
「そんなことしないさ」
飛鳥がしてもらうとすればせいぜい朝起こしてもらう程度のことだ。
飛鳥の部屋は元々学校帰りだったこともあり、荷物が殆どない。勇者ともてはやされる割に非常に質素で、王宮の一室というには手狭な石造りの部屋。毎日掃除をするにしても女官一人で事足りるほどの狭さなのである。飛鳥としても、「あまり広い部屋を充てがわれるより、ある程度狭い方が落ち着くから」と、狭い部屋を充てがわれたことに対して何故か本人よりも憤りを顕にした若い女官を諌めたこともあった。本心からの言葉ではあったが、専属の世話係を命じられたらしいその女官は、どこか納得していない様子で部屋の中を睨みつけていた。
「俺のことよりこの人たちだろ? まさか解放しようなんて――言うわけないよな、ごめん。知ってた」
暗がりでもわかるほど、言っている最中にスピネルの笑みに深みが増した。「どうして私がユーリの役に立ちそうにもないこんな奴隷たちを解放しなければならないのですか」とでも言いたそうな顔をしていた。
「奴隷を手中に収めとけば後々この国を落とすときの役に立つかも、とか――ごめん、あんたなら一人でも落とせそうだって知ってた。ごめん」
ニコニコが止まらないスピネルに、飛鳥は何かを言うことを諦めて嘆息した。
奴隷を売買することはこの国の法律で禁じられている。と、兵士が言っていた。
奴隷。人間でありながら人間としての権利や自由を認められず、同じ人間に所有され、売買の対象となり、どんな惨たらしい最期を迎えたとしても文句を許されない存在。
毒ガスが吹き出す鉱山や事故多発地帯での採掘作業の労働力として派遣され、その途中で死んだとしても。土地を広げるためと魔物が巣食う山や森に赴く討伐隊の矢面に立ち、盾となり死ねと強要されても。神に対する生贄として生きたまま服を剥いで極寒の地に放り込まれようとも。不衛生な環境で魔物の解体や死人の後処理を強制的に任されたとしても。誰も責任は取らず、取る必要もない。
そういった存在が穢多非人という身分階級で日本にも存在したという説や、否、穢多非人と奴隷は全くの別物だという説もある。
誰かがやらねばならない。だけど誰もやりたくはない。知性を持つ人間だからこそ、そんな仕事が生まれ、そしてそんな仕事は一般人より下に属するものにやらせればいい。そして、彼らのもう一つ重要な役割。彼らを見て「見ろ、あんなことをしてる奴らより自分たちの方が余程マシだ」と卑下して矮小な己の存在を肯定させ、上への不満を減衰される。そんな考え方から生まれたのが奴隷や穢多非人だ。
「……と、頭でわかってるのと目の前で見るのはやっぱり違うな……」
「君は奴隷のいない環境から来たのですね。本物を見た感想はどうですか?」
「そんなこと聞くなよ。胸糞悪くなってくる……なんでこんなところに連れてきたわけ?」
「そんなこと決まっているではないですか」
そこまで言って、スピネルは話すのを止めた。
怪しげな彼の笑みに警戒心を顕にしつつ話の続きを待っていた飛鳥は、背後から近づいてきたもう一人の仲間に気づかなかった!
「なんていう死亡フラグというか縮小フラグはやめろよ!」
「何を言っているのですか?」
「……いや、なんでもない。ここにジンとかウォッカとかいう酒が並んでなければなんでもない話だ……」
「……全く何を言っているのかわからないですが、ここに君を連れてきた理由など明白です」
そう言ってにこやかな笑みを湛えた彼の背後から、カツカツと規則正しい足音が聞こえて来た。
こんな場所を自由に歩き回る人間。そんなに多くはいないだろう。
飛鳥の脳内には、約一週間ぶりに最大級の警鐘が鳴り響いていた。