馬鹿にしないと気が済まないのか?
「世襲制?」
飛鳥は剣を振るいながら今言われた言葉を意味もなく反復した。
「ええ、世襲制。……まさか世襲制という言葉の意味がわからないなどというわけではありますまいな?」
丁寧語を織り交ぜながらも、教育係として任命された兵士の口ぶりは、とても尊敬を含んでいるようには思えないものだった。それどころか、可哀想なものを見る目と、自分より下の者をみる蔑みの目が入り混じっている。少なくとも好感を持てるものではなかった。
「世襲制の意味はわかってます。つまり古きよき血が人の上に立つ絶対条件で、後の世を担っていけるのは生まれてからずっと高等教育を受けてきた努力の賜物ということでしょう?」
「そうですな。この国の現王は初代君主の正当な血筋のお方。何でも初代の王、ヴァイザー陛下は才能溢れるお方だったとか。一代で領土を広げ、この国を近隣諸国と同等まで発展させられたと聞いております。そのようなお方の血を引く現王を尊敬しない者などおりませぬ」
「はあ、そうですか……俺の世界では軍人の家の出から王にまで上り詰めた人もいるっていう話ですけど。そういう野心みたいなのは……ないですよね、はい」
現王を尊敬してやまないと豪語する男に投げかける質問としては愚問だった。怒りにも似た感情をあらわにした鋭い眼光で睨まれる。そこまで尊敬されるような男だっただろうか、とでも言いたげに首をかしげ、熱がこもり気味の兵士との距離をとって素振りを再開した。兵士もこの物分りの悪い青二才に、どうにかバルバッサ王家の素晴らしさを理解させてやろうと、歴代王家の英雄譚という名の私語を再開した。
「ということで現在の通貨もヴァイザー陛下が定められて以降変わっていないし大幅な下落もない。現在のように鉱山からの採掘による収入で発展するきっかけを作られたのは二代目だったか……」
「へえ」
「鉱山にはそれは凶悪で人を食い殺すと言われる鬼のような魔の一族がおってな。当時既に王位に就いておられたお父君の命により、討伐隊を率いたのが後のバルバッサ二世、レーヴェ様だ。二世は勇敢なお方でな、普通は討伐隊員に命令を下して後方で戦局を見守るものだが、彼は違った」
「はあ」
「先陣切って魔の一族の長に斬りかかって行ったんだ」
「そうなんですね」
「どうなったかわかるか?」
「さあ」
「彼は見事に討伐に成功した! 人々は彼に深く感謝し、当初から厚かった隊員からの信頼もより一層深まった。その後近衛隊隊長としての責務を立派に果たされたレーヴェ殿下はバルバッサ二世として君臨し、バルバッサをより豊かな国へとなされた」
「そうなんですか」
適当な相槌を打ちながら適当に聞き流す飛鳥の態度を咎めるでもなく、彼の熱は下がる様子を見せない。三世、四世と英雄譚を語り続けた。そろそろ素振り三千回目になるかという頃になって、急に教育係の男の話すトーンが変わったことに気付かされる。
「だがまあ……私だって出世したくないというわけではない。一兵卒で終わるつもりはない。それなりの成果を出せば出世の道もなくはないのだが……」
言い淀む彼の方に視線を向けると、しっかり目が合ってしまった。気まずい様子で目を泳がせる飛鳥に対して、彼の目には諦めと哀れみが垣間見える。
「……あの?」
何を言われるのかと待ち受けながら彼に近寄ると、盛大なため息と共に手のひらで顔を覆ってしまった。何かわからないが失礼だな。そう言いたげに眉間に皺を寄せたが、飛鳥は何も言わずに宥めるように彼の肩を叩く。木刀とは言え三千回も振り続けて腕が限界を訴えているからそろそろサボりたいという本心には触れずに。いつの間にか敬語すっぽ抜けてますね、などという下らないことにも触れずに。
□ ■ □ ■ □
「あの」
図書館や会議場、映画館などでも見られる光景かもしれない。辺りが異様なまでにしんと静まり返った静寂の世界。張り詰めた空気であったり、これから何が起きるのかという高揚感であったり。そう言った空気は飛鳥も嫌いではない。何か新しい知識が身につくかもしれないという思いは胸を高鳴らせる。
しかし。飛鳥は辟易しきった様子だった。
紺色のローブと三角帽子を身に纏った、いかにもと言った出で立ちの宮廷魔術師に声をかける。
彼女は飛鳥を気だるげに一瞥すると、まるで会話をすることに意味を感じていない様子で視線を戻した。彼女の視線の先には手のひらサイズの石板らしきものがあり、細かな文字らしき模様が所狭しと刻まれている。
どうやらこの世界に製紙法は未だ伝わっていないらしく、粘土で形作った板に文字を彫り、それを固めて粘土板として保存する。それを幾重にも連ねた物が本と言われるものになるわけだ。非常に嵩張る、値が張る、重量に難がある。その他大人の事情により、一般には出回っていない。国民の中でも文字を読める存在は稀有で、王族やその側近、宮廷魔術師、学士、師団長クラスの軍人は文字が読めて当然、しかしそれ以外の人間は文字が読めなくて当然、といった世界だ。
要するに飛鳥の魔術指導係に抜擢され、飛鳥を指導する立場にも関わらず彼女が没頭している粘土板は世界全体として貴重な蔵書なのだ。ということを飛鳥が理解したのはつい三日ほど前だったか。
ここでしか読めない貴重な蔵書。ともなればそちらに没頭したくなる気持ちもわからなくはないが、指導係としての仕事を放り投げるというのもいかがなものなのか。
否。放り投げているわけではない。飛鳥には彼女から課せられた巨大な壁があるのだ。自身だけでは解決できそうにないてっぺんの見えない壁だ。
まずそこを越えないことには先に進むことすらできず、ここ一週間ほど一歩も前に進めない状態が進んでいた。
それは小学校でカタカナを覚え始めた子どもが、ナとメ、シとツ、ソとンの違いに僅かに躓くがごとく。英語を習い始めたばかりの子どもが小文字のbとdを覚えるのに少し苦労するがごとく。少しのきっかけさえあればなんてことのない障害が、きっかけのきの字も与えられないばかりに底なし沼のように深い深い泥沼と化していた。
「あの、少しくらい口を聞いてもらえると嬉しいんですけど……」
どこの棚からか持ち寄り手渡された粘土板を胸の前に抱えて、一度無視された相手に再度声をかけると、きつく睨み返される。
「……うるさい。それ、読んでて。前も言った」
そうだ。一週間前にも言われた。胸に抱えた粘土板に刻まれた文字の羅列を読めと課題を出された。この国の文字すら読めないのに、だ。
その読めない文字の羅列を、いきなり読めと言われて読める者がいるのであれば目の前に連れてきて欲しい。「お前という前例がいるから、こういう無茶振りをされて俺たち凡人が泣きを見るんだ! 頼むから人々の記憶から存在ごと消去される死に方で死んでくれ! 俺の全く関与しないところで!」と、そいつの胸ぐらを掴んで脳みそが蕩けるほど揺さぶりながら、魂の叫びを吐き出した後ボッコボコに殴りたい。
と、抗議の声をあげようかという表情で指導係を数十秒見つめ、口を開いたところで遠くから鐘の音が聞こえた。宮殿中に響き渡る鐘の音が三度。
飛鳥がこの一週間少々で学んだ数少ない常識。
「……帰る」
紺色のローブを羽織った魔術師は口数少なく立ち上がると、粘土板を元あった棚に戻し足早にその場を去っていった。
魔術師は貴重。故に優遇される。
例えば魔術で気に入らない勢力の村を勝手に焼き払ったり。
例えば魔術で興奮して手のつけられなくなった獣を反抗的な勢力の村に勝手にけしかけたり。
例えば常識を教えてやれと言われ、右も左もわからず文字など読めるはずもない異世界人に「勝手に粘土板を読んで自分で世界の常識を学べ」などと適当な授業を行っても。
例えば終業の鐘が鳴った瞬間、異世界人が声をかけようと口を開きかけていたのを無視して帰路についても。許されるのだ。それが、この国の魔術師の立ち位置である。
この世界にガラスという物は存在しない。やや風通しをよくするため、狭間のような窓が開いており、吹きさらしになっている。
書庫に一人残された飛鳥は粘土板を近くの台の上に置き、自由になった片腕を狭間から外界に突き出した。
「んん……っ! 風が気持ち良いなー……」
ここに連れてこられてから飛鳥がまともに外に出たことはない。出ようとすれば兵に見つかり連れ戻される。王が「勇者を外に出せば、神の色に気づいた民衆が色めき立つ。一度騒ぎが起きれば根こそぎ民衆を焼き払わねば……」などと不穏なことを宣ったと聞き、飛鳥をぎょっとさせた。騒ぎが起きただけで何故根こそぎ焼き払うという結論に至るのか不明だ。
この国を訪れて未だ一週間少々だ。国民どころか王宮に詰めている兵たちの顔すら殆ど記憶していない赤の他人である。それでも自分が勝手に動いた結果として血を見ることになるという構図が一番嫌だと、飛鳥は外に出るのを自粛するようになった。
狭間から外に出ることは叶わない。穴が小さすぎて、猫や兎といった小動物でなければ通り抜けることは不可能だ。内側の穴は大きく、外側の穴は小さいという狭間の構造上、こちらから外を眺めることはできても、外側から室内に対して何かしらのアクションを取ることもまた、難しい。
「……まあ出られないなら変わりないよな……まさかこんなに外が恋しいとか思う日が来るとは……」
「おや、外が恋しいのですか。自分で選んでこの場所に飛び込んだように見えたのですがねえ」
檻に閉じ込められた室内犬のような心地で漏れた言葉は、空気に溶けずに思いもよらないレスポンスを得ることになった。
聞き慣れない男の声、しかし警戒心を抱かせない言葉遣い。ただし嫌味が多分に含まれる。差し引きして好感度零になる声の主を探すべく振り返ると、探すまでもなく彼はいた。
飛鳥が先刻粘土板を置いた台のすぐそば。確認するまでもなく直前まで誰もいなかった場所に、男は何食わぬ顔で立っていた。飛鳥と殆ど変わらない中肉中背という体格に、ざんばらに切られた髪。この世界を訪れてから飛鳥の周りにいた人間たちと変わらない。黒髪ではないという点では。兵士たちに比べて筋肉があるようにも見えず、何かにつけて強そうという印象もない、普通の男という印象だった。しかし一点だけ刮目すべき箇所がある。その一点に視線を集中させていると、不気味なほど赤い瞳が嘲るようにこちらを見据え、細められた。凝視してしまったことに若干の気まずさを覚えた飛鳥は誤魔化すように咳払いする。
「あなたは? 見た所少なくともこの国の住民ではないと思いますが。どうして――」
「どうしてこんなところにいるか、ですか。それはきっと私が兎だからではないでしょうかねえ」
「なるほど、兎だからこのくそ狭い狭間を抜けて室内に――って一瞬納得しかけたけどそんなわけないでしょう」
飛鳥の言葉に反応するように、髪の色と同化したような色のロップイヤーがピクピクと動き、その獣耳が変態的な趣味趣向による飾りではないことを主張する。
獣人が存在すること自体に対する驚きはもはや飛鳥の中にはない。散々ゴブリンに追い掛け回され、ドリアードにつるし上げられ、名前も知らない奇妙な生物に木っ端微塵にされそうになった経験を思えば、話の通じる人型の生物はむしろ安心する部類に入るようだ。飛鳥が驚くのは獣人の存在ではなく、彼の存在だった。
「この国って人間しかいないものだと思ってたんですけど。獣人も暮らしてるんですか?」
投げかけられた質問に対する答えはない。――否、答えはあった。目を逸らしふっと鼻で笑われる、要するに小馬鹿にしたような返しをされる。
むっとした表情を見せる飛鳥に対する、言葉による返答はないまま、彼の視線は台の上に置かれたままになった粘土板に移っていた。そのまま文字の向きに沿って赤い瞳は滑っていく。
「……もしかして、読めるんですか?」
バルバッサ国民の一割程度しか読めないと言われる文字を。確認するように尋ねると赤い視線は飛鳥に向けられ、またも嘲るように細められた。
「もしかして、読めないのですか?」
「実はこの国に来たばかりで。字が読めるってことは宮廷魔術師か何かなんですか?」
「まさか」
彼は肩を竦める。
「初めて訪れましたし、初めて見た文字ですよ」
あくまで小馬鹿にする態度を崩さず放たれた言葉は、飛鳥の脳に「脳みそを揺さぶった後ボコボコに殴り倒すべき敵である」とインプットするには十分すぎるものだった。