我が名はアス○カ!
「道案内をしてくれているのか、迷い込ませる気なのか……なんて人外みたいな人間が言ってたのもこんな森の中だったよな」
背後を時折振り返っては、飛鳥の歩調に合わせて歩く森の住人について歩きながら、飛鳥はぼそりと呟く。荷物を抱えて何とかの森というわかりやすい名前の森を、先導する者の足の向くままに歩き続けるその姿は、遠い東の地で呪いを受け里を追放された青年を思わせる。
「……目の前にいる奴はあんな可愛いもんじゃないけどな……」
こんなことを考える余裕が出てきたと思うべきなのか、理解の範疇を越えて現実逃避に走ったと考えるべきなのか。
ゴブリンという種族独特の悪臭が漂ってこない程度に一定の距離を保ちつつ、しかし素直に後を行く飛鳥は今更になって己が最初から冷静ではなかったことに気づきはじめているようだった。
足下を這い回る虫たちも木の根元から顔を出す菌糸類も。既視感のあるものとないものが綯い交ぜになってはいるものの、彼の知る地球のそれらの標準サイズより一回り以上大きなものが多い。
前を行くゴブリンが時折投げかけてくる言葉は、非常に拙く聞き取りづらいものだった。その中で「カミサマ」だとか「龍族」だとか、その辺りの言葉だけ耳馴染みが良い。ファンタジーな世界のファンタジーな存在の口から出てくる言葉として妥当だからこそ耳が素直に受け入れるのかもしれない。
人の手によって作り出された自然は人に都合良く明るくて温かい雰囲気なのに対し、人の手が入っていない自然は人に都合悪く暗くて冷たい印象を受ける。この深く暗い魔の森と呼ばれる自然は、まさに後者で、だからこそ獣や魔物が共存して暮らしていられる。
この世界の人間の暮らしぶりがどの程度発達しているのかは定かではないが、森や山を切り開き、または崩して街を作る、切った木は家を建てたり紙を作ったり家材を作ったり。色々な物の材料になるのはどこの世界でも周知の事実だろう。となれば森に住む者たちにとって人間は怨嗟の対象、敵視する者も多いのかもしれない。少なくともゼロではないだろう。
彼女も言っていたではないか。「こちらでは人間を食料としか捉えられない種も多い」と。問題は人間を食料としか捉えられない、などということのない種の者たちだ。人間に対して中立でいる者、友好的である者、そして敵対する者――様々ではあるだろうが、今後身を守る術が一切ないまま知らない土地で暮らしていけると考えるほど飛鳥は楽観的ではなかった。
「……なあ、俺、この世界でやってけると思うか? 地球に帰れんのかな」
ゴブリンではない。腕の中の黒猫に語りかけ、そして返ってこない反応に相手の頭を乱雑に掴んで撫でまわした。
「お前にわかるわけないよな、神様でもないしな」
乱暴な手つきに不満の声をあげる黒猫に、飛鳥は悪い悪いと適当な謝罪を口にする。黒猫は憮然とした様子で尻尾を叩きつけていた。
足下に張った蔓に足を取られそうになった。道行く爬虫類を木の枝と間違えて踏みつけた拍子に驚愕の声を上げ、樹上から人間を丸呑みできる程の大蛇が、大口を開けて降ってきたこともあった。泥濘に足を踏み入れた瞬間、何かに足を掴まれ抜け出せなくなりもした。木と木の間を吹き抜けていく微弱な風に心地よさを覚え足を止めれば、得体の知れない何かが目の前を光の速さで通過し、彼の真横にあったはずの木を爆音と共に粉砕した。文字通り木っ端微塵になった、背も太さも飛鳥より大きな木の傍から這い出てきた未確認生物が「キッキッキキキギギッグギエェアアアァァァァーッ」と奇声をあげながら姿をくらます様を、その場に立ちすくんだまま遠い目で見送ることもあった。その度にゴブリンが足を止め、助けるでもなく「何やってんだこいつ。ドンくせえー」という目で見つめて飛鳥のいたたまれなさを助長するのに一役買っていた。
「早く森を出よう」
その言葉を皮切りに、それまで呑気に黒猫にちょっかいを出しながら歩いていた飛鳥の足取りが早くなったのは言うまでもない。
人間以外の大型動物が踏み敷いてできたけもの道をどれほど歩んだだろうか。少なくとも至って健康的な男子学生の足が疲労を訴えて生まれたての小鹿のように震え、教科書やノート、筆記用具などが入ったカバンと黒猫を抱え続けて腰と肩が限界を迎える程度には足を動かし続けていた。
さすがに小休止を提案しようかと口を開きかけたとき、ゴブリンがようやく足を止め、もはや見慣れてしまった醜悪な笑みを浮かべ振り返って言う。
「ついた。みずうみ」
彼の肩ごしに、視界が開けた。
西日らしき日光が巨大な水たまりに射し込み、映し出された空の色と相まって絶妙な美しさを演出していた。これまでずっと暗い森の中を果てどなく歩き続けていたせいか、飛鳥は眩しげに眉間にしわを寄せ、目を細める。
草は伸び放題、花も咲き放題。色んな箇所に雑多に伸びまくり、咲き乱れている。空には夕暮れを告げる鳥が人を馬鹿にしながら飛んでいく姿が見られた。その上空を薄い雲が覆っている。
「おお……」
一歩、二歩。疲労からか覚束ない足取りでゴブリンの横を通過し、彼の視線が追ってくるのも気にせず前へ出る。
楽園とまでは行かないまでも、当初の目的の場所へと辿り着いた。その達成感からか飛鳥は醜悪な見た目の連れの存在を一瞬忘れかけていた。辺りを見回していると後方から肩を叩かれる。振り返れば相変わらず見た者を凍りつかせるような笑みを浮かべたゴブリンが、グッと親指を突き立て「健闘を祈る」のポーズをしていた。見た目はともかく気の良いゴブリンだ。
その見た目から判断して咄嗟に逃げ出してしまったこと。お世辞にも良い感情を抱いていなかったこと――否、良い感情を抱けずにいること、その証に未だに一定の距離を保っていつでも逃げ出せる体勢を整えていること。だというのに一瞬存在を忘れかけたこと。
色々な思いが交錯しているのだろう。飛鳥はバツの悪い顔を浮かべて、ゴブリンの足元付近に視線をやり頭を掻いた。
「あーっ……と……ありがと、な」
何も言わずこくりと大きく頷くと、背中を向けて元来た道を歩いて行った。その背中を見えなくなるまで見送った飛鳥は気づいていない。ドリアードが放った言葉の意味に。
「彼が人間に出会えそうなところまで案内してくれる」
そう。人間に出会えそうな場所まで。
安全地帯などでは決してないということに彼が気づくのは、案内役兼護衛役の姿が豆粒のようになった頃だった。
◻︎ ■ ■ ■ ◻︎
「どうかしましたか、ユーリ?」
森の中を先行していたスピネルは、背後の少女が進行方向とは違う方向を向いて足を止めていることに気づき、彼女に倣い足を止めた。森の中。森の住人であればまだしも、彼女は人間で、森で生活した経験も少なく、似たような木々が生い茂るこの地では確実に方向感覚を失う。正直現在地も分かっていないだろう。だというのに彼女はその方角を穴が開くほど、飽きないのかと問いたくなるほど見つめ続けていた。
「ユーリ?」
二度目の呼びかけで、少女はようやくスピネルの呼びかけに応じる。
利き手を地面に水平に持ち上げ、真っ暗な森の奥を指し示した。
「あっちで今、男の人の悲鳴が聞こえた」
確信めいた力を持って、ユーリは言う。それに対してスピネルもまた確信めいた言葉で肯定した。
「よく聴こえましたね、さすが私のユーリです。ところでこの先に美味しいフルーツがなる木があるのですが」
「……や、それより敵? 味方?」
「私はユーリの味方に決まっているではないですか」
「うん、そうじゃなくてね」
「ああ、悩ましげに頭を抱えるユーリも愛らしいです。しかし私のユーリを悩ませるとは一体どこの命知らずな悪党なのでしょうか! 私がこの手で痛みと恐怖を最大限に味わわせて差し上げた上で存在ごと消してあげましょう」
「や、うん。物騒なのはやめてね? そうじゃなくて、あの悲鳴の主が私たちの味方になる人だったら助けた方がいいのかなー、って思うんだけど」
「さすがユーリです! 何処の馬の骨とも知れない男の人命救助に死力を尽くそうと言うその慈愛に満ちた心の何と聖母の如き純真無垢なことでしょう! あなたこそ本当に聖母と呼ばれるに相応しい! このようないたいけなユーリの統べる世界とはどれだけ幸せに満ち溢れているのでしょうか! そんなユーリの道を阻む者は全てこの手で根絶やしにして差し上げましょう! 手始めにこの先にいて今現在ユーリの足を止めている罪深い男を消し炭に」
「味方なら助けないとって言ってるでしょ」
助けようかと言っている相手を消し炭にしてどうする。ジトッとした目でそう訴えるユーリに、スピネルはしかし堪えない。相変わらず神官らしくない笑みを浮かべたまま、彼はユーリの頭を撫でた。
「敵か味方かで言えば、利用価値があるという意味では味方です。しかし大丈夫ですよ、彼はこのようなところで果てる運命にはありませんから」
「なんでそんなことわかるの?」
「さて、何故でしょう」
さらに笑みを深め、胡散臭さが倍増したスピネルを暫し疑わしい目で見据えていたが、やがて諦めたようにため息をつき肩を竦めて歩き出した。
「……信じるよ。スピネルは変だけど、私が不利になるようなことはしないもんね」
「ああユーリ、そんなにも心の底から私に信頼を寄せてくださっていたのですね! 感激です! 結納はいつにしますか?」
「はいはい」
下らないやり取りを交えながら、元の進行方向へと彼らは姿を消した。