だからどうしてこうなった
冷静に対処しようとするのではなかった。様子見なんて考えずに、気付いた時点ですぐに逃げ出せば良かったのだと飛鳥は心の中で叫ぶ。
口の中にじわりと広がる鉄の味。そしてドクドクと煩い心臓の音に、飛鳥は恐怖から叫び出したい衝動を必死に理性で抑えつけながらひたすらに走り続けた。
化け物。
化け物がいた。
とにかく出会った「それ」から逃げる事だけを考え、手足を懸命に動かし続けた。
飛鳥自身どこを目指して走り続けているのか理解できていない。森の出口へ出なければとは思うのだが、出口がそのまま安全地帯になるのかと考えればそうだという確証もなく、終わりのない鬼ごっこをしている気分でますます飛鳥の心は重くなる。否。捕まればそれは死だ。捕まったら殺される。その事実から必死に目を背けて走る事のみに飛鳥は集中した。
現代日本であれば無縁であったであろう死への恐怖が、冷静な判断力をどんどん奪っていく。
だからこそ飛鳥は、普段であれば気付けていたであろう事に気付けないでいた。
背後から迫ってくる「それ」にばかり意識を向けすぎて、前方への注意を怠っていたのである。
「うわあ!」
両足に鈍い痛みを感じた瞬間、ぐるりと視界が反転した。
突然の出来事に軽いパニックに陥りかけるも、人間、理解できる許容範囲を超えてしまうと一周回って冷静になれるらしい。
「ドラゴン? いや、トカゲ? 違う。やっぱりドラゴンか?」
茫然と呟く飛鳥の視線の先には、秋の山を思わせるような見事な紅葉色のドラゴンがいた。しかし、ゲームやアニメで見るような巨大なそれではなく、三十センチ程の小柄なドラゴンで、体と同じサイズの蝙蝠のような翼や鋭利な爪がなければ、飛鳥は巨大なトカゲと判断していただろう。
「はは……やっぱこれって夢だよなあ」
「のお」
誰でも良い。
誰でも良いから夢だと言ってほしい。この今という現実を否定して欲しい。そんな飛鳥の願いをあっさりと黒猫が打ち砕く。運よく宙吊りにされた時に放り出さずに済んだ黒猫は、NOと鳴ける黒猫であったらしい。
思わず現状を忘れて遠い目をしていた飛鳥であったが、背後からの物音、荒い息遣いがすぐに現実へと思考を引き戻す。覚悟を決めて振り返った飛鳥は、やはり夢であって欲しいと願いながらも「それ」の総称を口にした。
「ゴブリン……だよな?」
RPGなどの冒険ゲームでお馴染みのゴブリン。百五十にも満たない小柄な身長ながらも肌は緑色で筋肉質。生理的に吐き気を催す悪臭と思わず眉をしかめてしまいそうな醜悪な容姿で尖った耳が特徴的。飛鳥の世界での一般的といえるゴブリンがそこにいた。
「ド、ドリ、アード、たすかった」
「しゃべった!?」
子どもの奇声のような、耳障りな甲高い声。それにまたもや飛鳥は眉を顰めながらも、視線をゴブリンから外すことはしなかった。ゴブリンは女を犯すが男はどうするのだったか。人間を食料とするのか。そんな思いが駆け巡るが、当のゴブリンはギョロリとその青い目に飛鳥とは別の者を映している。それに気付いた飛鳥はその視線を辿り、だんだんと異常事態に慣れてきた自身を皮肉げに笑いながらその様子を見守った。
ぼこりとぬかるんだ地面がうごめき、飛鳥を捕えていた木の根よりもさらに太い、飛鳥の腰回り程の太さの根が集結し、人型を象っていく。
何がどうしてそうなったのか、しばらくしてその人型はなめらかな素肌を得て上半身が裸の人間の女、下半身は木の根の集合体という不思議な生き物となった。
「おお」
状況を一時忘れて、ある一点に視線が釘付けになる。
新緑の長い髪と目を持つ豊満な胸の美女(ただし下半身は木の根の集合体)
宙吊りから地面に降ろされ、するすると痛みを感じない程度に木の根で拘束されている今、立て続けに起きた出来事に感覚がすでに麻痺しているのか、目の前のそれに飛鳥は一時恐怖を忘れた。
「黒髪黒目。主様と同じ御色。しかし主様と同じではない。坊や、迷い人かい?」
妖艶な容姿からは想像出来ないようなしわがれた老婆の声に、ようやく胸から視線を上げる飛鳥。
「迷い人?」
「そう、迷い人。こちらの世界は不安定でねえ。よく世界に穴が開く。そうすると、違う世界から坊やのような子が落ちてくるのさ。こちらではそれを迷い人と呼ぶ。馴染みがないかい? 坊やの世界では違う名称で呼んでいるのかな」
「にんげん! にんげん、まよいびと! にんげんはにんげんのもとに!」
「あーうん、ですよねー」
異なる世界。つまり日本どころか地球ですらない。要するに異世界。
その事実をきちんと言葉でつきつけられ、薄々予想はしつつも目を向けたくなかったと溜息を吐く。無性に泣き喚きたくなったが、わずかばかり残っていた理性やら羞恥心がそれを邪魔をした。
「ギャ! ギャギャ!」
「紅葉殿? ふむ。坊やよ、その黒猫もこちらでは異物。坊やと同じだねえ。それも連れていくように」
黒猫を抱いたまま、座り込むような形で再度拘束されていたが、あっけなく木の根が解けて地面の中に消えて解放される。じっと黒猫を見つめて視線を逸らさないドラゴンから隠すように抱き込みながら、飛鳥はゆっくりと立ち上がった。
不思議と命の危険をもう感じていない事に信用し過ぎだ、流され過ぎだと感じて苦笑しつつ、もっと冷静にならなくてはと自分に言い聞かせる。
この世界で頼りになるのは自分自身のみだと。善悪が分からない今、すべてを鵜呑みにすることは危険だ。考えることをやめて停滞してしまえば、そこがもう飛鳥の墓場となるのだろう。
「あー駄目もとで聞くんだが。元の世界に帰る方法は?」
「死ねば良い。魂は同じ世界を巡る。死ねば坊やの魂はこちらの世界の物ではないのだから、本来あるべき場……つまり坊やの世界へと勝手に戻るだろう」
明日の天気を話すように、それこそちょっとそこのリモコン取って、のような軽いノリで爆弾を投下され、覚悟はしていたが一瞬だけ飛鳥の思考が停止する。
「あー。うん。じゃあ……あれだ。俺以外のその……迷い人だったか。そいつらはどうしてる? よく世界に穴が開くならそれなりの人数がいるんだろう? おお、うん。ありがとう」
よくその考えに至れましたと褒めるかのように、木の根で体についた泥を優しく払われて、反射的にお礼を言う。
「適応出来ずに死ぬ者もおるし、こちらの世界で地位を築く者もおる。人間の迷い人であれば、迷い人の世界での文明をこちらに広めることでその迷い人自身の価値を高めるようとする者が多いようだ。そうそう。坊やがそれに当てはまるかどうかは知らぬが、迷い人の中にはこちらの世界の方が魂と波長が合うようで、特別な、もしくは珍しい力が解放される者もおるらしい。そう言った者は国を興したり勇者や偉人と呼ばれたり人の記憶に刻まれる人生を歩むようだな」
品定めをされるように全身を舐めるように見られ、居心地悪く飛鳥は視線を逸らせる。すると今度はゴブリンと目が合ってしまって飛鳥の頬がひくりと引き攣ったとしても、それはそれで御愛嬌だろう。
「ここは魔の森と人間に呼ばれている地。名の通り、人間以外の種が暮らす場だ。坊やは人間だから同じ人間の元へ行くのが最善だろう。こちらでは人間を食料としか捉えられない種も多いからな。うん。生活の基盤を築けるかは坊や次第だ。すぐに死ぬつもりがないならば、足掻いて生きよ」
それはつまり、これから出会う人物によってはいきなり殺されたり売り払われたりと言う最悪なパターンもあるのでは。飛鳥は投げかけられた言葉の意味を正確に把握しながら、思わず浮かべてしまった最悪のパターンにやり場のない怒りを必死に押さえつけた。そうしなければ、腕の中で庇護されるのが当然とばかりに呑気にうとうとしている黒猫にぶつけてしまいそうだったからだ。
「まあ安心おし。一人で放り出して死なれても面倒だ。彼が人間に出会えそうな所まで案内してくれる」
彼、と示されてゴブリンがニタリと笑う。ゴブリンからすればまかせろと力強く微笑んだだけかもしれないが、泣く子も思わず黙ってしまいそうな醜悪な微笑みはただただ飛鳥の背筋を凍らせるだけであった。