徘徊なんてしたつもりはなかったんだ
神様なんていないよ。
そう言って嘲笑うように突き放されることなど幾度となく経験してきた。
魔法なんて夢物語だよ。
指をさして馬鹿にされたことも一度や二度ではない。
だが、だから何だというのだ。それは常識であっても事実ではない。常識とは世間の大多数が事実だと思っているだけの不確定要素である。
そうでなければ何故。個人の能力にここまでの差が生まれるのか。どうして人の見る世界には差異が生まれるのか。どうして価値観の差がつくのか。
世の中には説明がつかないことばかりだ。
暗闇の中、視線の高さまで持ち上げた黒猫の瞳に映る己の姿を、無言で見つめていた。
終業の鐘が鳴る。飛鳥は日直の仕事を終え、既に人がまばらになった教室を後にした。早い生徒は既に着替えを済ませ、部活動に勤しむため体育館やグラウンドに向かっている。ある生徒は委員会に出席するため足早に生徒会室へと向かい、またある生徒はすれ違いざまに彼に気付いて軽い挨拶をして過ぎ去っていった。
特定の部活動にも委員会にも所属していない飛鳥は、授業が終われば最低限の用事を済ませてそのまま校門を出ることになる。三階の「2-B」と書かれたシンプルなプレートが下がった教室から出て階段を下った。
二階と一階の間にある踊り場。そこにかけられた全身鏡の前でふと足を止める。黒く短い髪の毛はボサボサで多方向に飛び跳ねている。学校の規定通り――二年生以降は私服可という規定通りの服は皺だらけでアイロンをかけた後のぱりっとした印象もない。黒い瞳は虚ろで、ブサイクというには敵が多いと思われる顔 面には、服の皺の痕と思われる二本の線がくっきりとついていた。頭の先からつま先まで。全身で寝起きを表現した己の姿に、居住まいを正す。服の皺を伸ばし、髪を手櫛で軽く梳かしてから止めた歩みを再開した。
下駄箱への道をまっすぐ行きかけて、ふと方向転換をする。向かった先は二学年の下駄箱からそう遠くはない位置にある購買部の建物。食堂と文房具屋が一緒に入っている形式になっており、食堂は昼時のみの利用に制限されているため無人だ。
建物自体が人の集まる場所から少し離れた位置にあるため、放課後の文具店は用事のある生徒しか寄り付かない。人が少ない。店番をしているのは生徒たちとさほど年齢の変わらない若い女性だ。学校の卒業生の中からアルバイトを募集しているのだとか。
「ノート三冊お願いします。一気に三冊同時に切れちゃって。あとHBのシャー芯と赤と黒のボールペンも」
「いらっしゃい新山くん。ノート三冊とHBの芯と赤と黒のボールペンね。ノートは色の指定は?」
「ないです。っていうやりとり何回かしませんでした?」
「決まりなんだもの。仕方ないでしょう?」
「そんなもんですか」
「そんなもんよ」
苦笑混じりに他愛ない会話で口を動かしながら、両者ともお金の授受を手早く済ませる。
何度か通ううちに互いに顔を覚え、顔見知り以上友人未満の関係になった。店員の女性は頼まれた商品を注文通りに引渡しつつ、そういえばと話を切り出した。
「知ってる? 最近、帰宅途中のうちの生徒が忽然と姿を消すっていう事件が相次いでるらしいわよ」
「ええ? やめてくださいよ」
「ビビってるの? 大丈夫、そういうのにはちゃんとオチがあってね……」
「あー、いいですいいです。俺そういうの苦手なんで。帰ります」
可笑しそうに悪戯に笑う彼女の話を途中で遮り、飛鳥は足早にその場を立ち去る。彼の背後では「ありがとうございました」と明るく見送る声が響いていた。
靴を履き替え校門までの道を行く。空は白く厚い雲が立ち込めている。いつ雨が降りだしてもおかしくない天気の中、学校に用事のない生徒たちは帰路を急いでいた。壁の上で居眠りをかます猫がいる校門を、飛鳥も例に漏れず足早に通過しかけて足を止める。
「嫌な予感がする」
ぼそりと呟いたその言葉を気に留める者などその場にはいない。否。唯一、柱の上で丸くなっていた黒猫が尻尾で寝床を叩いたのを除けば。皆足早に過ぎ去っていく。
車の往来がいつになく激しい。騒がしいエンジン音は普段の閑静な学校周辺の雰囲気をぶち壊すには十分だった。
車道に面した校門を出て南に下っていけば、飛鳥の暮らすマンションが入居者募集中の看板を下げずに数年間客が入らないまま、今か今かと人を待ち構えている。逆に北上すれば全く別の街並みが広がっている。
飛鳥が向かうのは当然南で、だが飛鳥は南に向かうためのその一歩を踏み出せずにいた。何を思ったのか足元に転がっていた、拳で覆える程度の大きさの石を外に向かって投げ始める。タイミング悪く車が通れば傷を付けて問題になるであろうことは容易に想像できた。しかし躊躇わない。二分ほどその奇行を続けた後、いつの間にか柱から移動し足下に擦り寄ってきていた黒猫を抱き上げる。
「いいからさっさと前へ出ろって? そういうことはな」
猫の訴えるような瞳に語りかけ、そして猫を抱えたまま、両腕を振りかぶった。
猫は何が起こるかを察したようににわかに暴れだす。爪を出し必死にしがみつこうとしていたが、構わなかった。
「お前がやってから言え!」
動物虐待者と罵られる行為をすんなりと行って尚、顔色一つ変えずに黒猫を投げ飛ばした校門の外に視線を送る。
「俺の勘に狂いはなかった」
満足げに頷く飛鳥の視線の先、投げた方向に猫の姿はなかった。車の往来が殆どない静かな放課後という日常がいつも通りに流れ出す。あの黒猫がどこに行ったかはわからないが、どこかで生きてはいるだろう。そう思ったのか、飛鳥は特に悪びれた様子もなく踏み出せずにいた一歩をようやく踏み出す。
――その先は、地獄の一丁目だった。
「……は?」
呆けた声をあげる彼の視界に広がったのは、日の光が差し込む余地など一切ないほど鬱蒼と生い茂る木々だった。木。木。とにかく木だ。どう考えても森の中である。
聞こえるのは、獣の唸り声、鳴き声、鳥のさえずり。うす暗い森に響く、女のすすり泣くような不気味な音。
湿った葉の香り。つい数秒前まで体重を預けていたはずのアスファルトではない、土がむき出しになっている地面の感触。
彼の学校は平地にある。夢遊病者のように徘徊するにも周りにこんな湿り切った森は存在しない。
「勇気を出して一歩を踏み出したら現代日本ではないどこかを徘徊していました」と、そんなことを説明して誰が信じようか。恐らくそれを説明している張本人ですら自分自身を信じないだろう。こんな奇天烈な珍事がそうそう起きてたまるものか、そうだこれは夢だ夢に違いない。と。
悪夢から目覚めるための、頭を打ち付ける道具ならそこら中に転がっている。否、そびえている。何せ森だ。めぼしい大木ならいくらでもある。
一心不乱に森中を駆け回って体力を使い切って寝てしまうのも手ではある。目を覚ませば元通りの生活に戻れるかもしれない。目を覚ます前にそこら中にひしめく野生動物の襲撃に遭い、目を覚ませなくなる危険も隣り合わせだが。大声で助けを求めてみるのもまた然りだ。
携帯電話で知り合いや警察へ連絡を試みるのも候補には挙がる。しかし電波が入るとは思えない。よしんば電波が通じたとしても現在地すら分かりそうにないどことも知れない森の中で、無事発見してもらえる希望など針の先より小さい。
何か行動を起こすにしても、やることはそう多くはないだろう。
放り投げた黒猫が目の前で忽然と姿を消していなければ、ここまで落ち着いてはいられなかったかもしれない。
校門前で一歩を踏み出せずにいたのと同一人物だとは思えないほど、飛鳥は躊躇いなく最初の一歩を踏み出した。目指すべくは、方角が分かる開けた場所だ。
一歩踏み出すごとに重なった落ち葉たちが鳴き声をあげる。落ち葉を踏みしめる音を、時折聞こえる動物の鳴き声や鳥のさえずりと重ねて連ねてみても、暗い森は暗いままで目指す場所はどこにあるのか見当もつかない。
どのくらい歩けばこの湿った森の中から脱出できるのか。数分なのか、数時間なのか、数日かかるのか。
数日かかるとなれば獣以外にも問題が発生する。
寝る場所は確保できるのか。獣避けに火を起こしたくともライターなど持ち歩いてはいない。素行に問題ありと言われる若者ならばタバコと一緒にライターも持ち歩いていそうだが、そう言った面で彼は残念なほどに品行方正と名高い。
また、食糧は、水分は確保できるのか。何せ学校帰りだったのだ。手持ちの食糧など底が知れていて、水分も多くはない。しかしそこは幸いにして陽の射さない湿った森の中だ。
「探せばキノコは手に入るかも知れないけどな……」
熱消毒もできそうにない環境で、生の自然の特産物のお世話になるのはごめんだ。と存分に含ませて独りごちる。
なんとしてもキノコのお世話にはなりたくないと言った様子で、躊躇なく森中を歩き回っていたが、しばししてこれまでとは明らかにリズムの違う音に足を止めた。場所は背後。茂みの中だ。
熊か、猪か。もっと小型の狐や兎なら幸運、この場での危険は回避できたと考えられる。逆に見たこともない大型の未確認生物なら人生詰んだと涙しながら、最後の抵抗として全力で逃げるまでだ。
何にせよ、相手を確認しなければ対処のしようがない。
飛鳥はいつでも逃げ出せる体勢を整えつつ後ろを振り返り、そして。「それ」が抱えた見覚えのある黒猫を奪取し、全力でその場から逃走した。