ある芸術家の苦悩
あるところに芸術家がいた。
彼は有名な画家で、毎日たくさんの絵を描いていた。彼は心から絵を描くことが大好きだった。
しかし、いつからであろうか。
彼が絵を描くことを苦痛だと思い始めたのは。
彼が絵を描くことを義務のように感じはじめたのは。
それこそ初めは絵を描くのが楽しくて仕方がなかった。描いて描いて描き続けた。
筆が踊るように滑らかに滑り、真っ白なキャンバスはあっという間に彼の色に染まっていく。
ところが、彼の筆はある時を境に止まってしまった。絵が描けなくなってしまったのである。
絵の描けなくなってしまった彼に世間は冷たかった。
「絵の描けないお前など画家を名乗る資格はない」
彼の心には深い傷が残っただけ、彼から絵を取ったら何もなくなってしまった。
自分はこんなにも空虚な人間だったのか、絵が描けない自分には存在価値などないのではないだろうか。
ーー描かなければ。
そう思えば思うほど描けない。今も彼の前には真っ白なままのキャンバスがある。
ああ、あの日のように絵を描きたい。
彼は心から願った。
けれども、彼の筆は進まなかった。
彼は過去の自分の作品を見返してみる。鮮やかな絵の具で描かれた絵はもう自分には描けない気がした。
極彩色の過去の作品。目の前の真っ白なキャンバス、まるで正反対ではないか。
ふと、彼のいる部屋の扉がノックされた。
出てみるとそこにいたのはかつての恩師だった。
「やあ、久しぶりだね」
「先生……」
恩師はだいぶ老けており、白髪が目立っている。久しぶりの恩師との再会なのに彼の心は沈んだままだった。
「聞いたよ、絵が描けないそうだね」
「はい」
「君の作品はどれも素晴らしいものだ」
「……ありがとうございます」
「自信をもちなさい、そして描きたいものを描けばいい。周りの声や目など気にしてはならないよ」
先生は真剣な目で語る。その言葉に彼は大切なことに気がついた。
自分の描きたいものを描くこと、それが今の彼には足りない物だった。
昔は好きなものを描いていた。今はどうだろう、世間が求めるものばかり描いていた。そんなの芸術家失格である。
「いいかい、僕は君の絵が好きだ。赴くまま、自由に描く君の絵が好きだ。また君の絵が見たい」
「はい、描きます」
そう言うと先生は微笑んだ。
「待ってるよ、君の絵を」
それだけ言い残すと先生は部屋を出ていった。
彼は久しぶりに絵の具を出して、キャンバスに向かう。先ほどまでとは違い描きたいものが浮かんだ。
そうだ、先生を描こう。
彼は鉛筆を手に取り下絵を描き始める。
ああ、楽しい。
鉛筆が踊るようにキャンバスを走る。
良い絵が描けそうだ。
彼はその日から自分の描きたいものを描き続けた。もとのような名声は戻らなかったが、少なからず彼の絵を評価してくれる人もいた。
それだけで彼は幸せだった。
あの日の恩師の言葉は忘れない。
描きたいものを描ける、何て素晴らしいのだろう。
ため続けていたフラストレーションが一気に昇華されていくのを感じた。
「先生、ありがとうございます……」
ある日、一人の老人が新聞を読んでいた。
目に留まったのは凛々しい顔立ちにうっすらと笑みを浮かべた青年、その横には青年の描いたであろう人物画が飾ってあった。
それは紛れもなく老人の顔であった。
「描きたいものは、それかね……」
そう呟いてどこか幸せそうに笑った。
「そう、描きたいものを描けば良い、我慢する必要なんてない」
老人は真っ黒なキャンバスに目を向けた、彼は俗に言うスランプに陥っていた。
描きたいものを描けばいい、偉そうに言ったはいいが自分も描けずにいた。描けない自分に腹が立ち、老人は絵の具でキャンバスを塗りつぶした。
「どれ、お返しに描こうかね」
老人は皺だらけの手で鉛筆を握る、久しぶりに楽しく絵が描けそうな気がした。