白い吐息は長く尾を引く(二)
試合を終えたテンは担架で運ばれるセサを見送った。そしてテン自身も、脇腹を押さえているのを審判に見咎められ、救護幕屋へ行くよう指示された。一足先に運ばれたセサは担架ごと寝台に乗せられた。両側の折り返し部分から棒を抜き取れば担架は丈夫な敷布となる。ナタリアは二本の指が有り得ない方向へ曲がった左手を、鋏で服を切り開いたミアイは徹底的にやられた肝臓付近をそれぞれ調べる。
ミアイが肋骨の折れた箇所を見付けた時にちょうどやって来たテンは、脇腹へ手をやり少し背を丸めていた。セサに群がる治療師たちの一角を避けて、織物を敷いてある隅へ向かう。
ミアイが口を開く前に、ナタリアのほうから「テンをお願い!」と許可が出た。選手二人が同時に負傷した場合については、先ほど広場の救護班が合流したときに打ち合わせ済みだ。
治療師師補のナタリアとミアイは分かれて診察し、より重症の患者をナタリアが担当すること。師補未満の三人はナタリアの指示に従うことだった。もちろん、ミアイが判断に迷えばナタリアの助言を求めるし、必要なら調合士の誰かがミアイを手伝う事になる。
肩越しに手元を覗いていたナナイに患部を示して、ミアイはテンの元に急いだ。自分で歩けるのだからセサほどひどくは無いだろうと思っていた。しかし衝立の陰を覗いたミアイはすぐに慌てる事となる。そこには火桶のそばですやすや眠るナタリアの息子と、蹲って苦悶するテンがいたのだ。
〈祝福〉の使い過ぎで消耗した肉体と、試合の緊張が解けた精神が、持ち主に休息を要求したのだ。極度に疲弊しているので痛みが特に堪える。二度の強打を受けたその場所は、奇しくもセサと同じく右のあばらだった。
呼吸の度に痛むので自然と浅い呼吸になっているが、痛みに耐えようと身体が緊張するので悪循環になっていた。可能な限り優しく胴着を脱がせるのを手伝って、ようやく診察に漕ぎ付けた。指先に神経を集中して肩甲骨の下に当てた。背中から脇腹へ斜めに繋がる腹斜筋の上から肋骨に沿って確認する。
ミアイの指がある一点を押すとテンが苦痛の呻きを洩らす。その周辺を重点的に探ると、ちょうど鳩尾の横の骨が二本傷付いているようだ。しかし位置は正常だったので、ミアイはほっと胸を撫で下ろした。
動かすと患部にかなり響くのでズボンを脱がすのは諦めた。全身をくまなく調べても打撲以上の怪我は無いようだ。靴を脱がせてから足に毛布を掛け、幅の広い白布を用意した。
「あばらが二本折れてると思う。これを巻いたらすぐに薬を用意するね」
「……薬?」
ミアイが意外そうに問い掛けるテンを見返す。何が言いたいのかを察して、鳶色の目を大きく見開いた。折れた骨が内臓を傷付けなかったのは不幸中の幸いだったが、試合を続ければそうなる可能性は恐ろしいほどに高まる。
「まだやる気なの!? ダメよ、そんなの……」
テンがちらりと見た先には赤ん坊が寝ていた。叫びたいのを必死に堪えたミアイは、突然沸いた歓声に飛び上がった。次の試合が始まったのだ。ナタリアの息子はうるさそうに眉をしかめたが、すぐにまた規則正しい寝息を立て始めた。
テンが息を詰めて苦しげに眉根を寄せた。強張った上半身に筋肉が浮き上がり、素肌に汗が滲んで光る。痛みの波をやり過ごしたテンが力を抜くと、吊られて緊張していたミアイも大きく息を吐いた。
「とりあえず包帯で固定するね。……そうすれば楽になるはずだから」
息を吸うと肺が広がり、肺を含む胸腔が膨らむので刺激された患部が痛むのだ。吐き切ったところで息を止め、胸を縮めた状態で圧迫すれば胸腔はそれ以上広がらなくなる。但し、その分呼吸が浅くなるので、激しい運動を避けて安静にしなければならない。
患部に湿布を当てて、臍の少し上から乳頭の下まできっちりと包帯で覆う。腹で呼吸するよう指示して肩にも毛布を掛けると、テンはぐったりと柱に寄りかかった。薬缶の中身を杯に空け、薬を煎じる前にテント裏できれいに洗おうとそれを手にして腰を浮かせた。
「骨はずれてないから静かにしてればちゃんと治るわ。だから無理しないで薬を飲んで」
急に腕を掴まれてよろめいたミアイがテンの肩にぶつかった。歯を食い縛って苦痛に耐えながらも、テンはミアイの腕を放さない。
「薬はいらない、飲めば棄権になる。駄目だ」
「ダメよ!」
老齢や虚弱と縁遠いテンならば、適切な処置と休養で問題なく完治する程度の怪我だ。しかし無理をして健康を損ねれば、狩り人としての将来はもちろん生命まで危うい。全てを失う危険を冒して、『現在』無理をする理由がミアイには分からなかった。
声を潜めた言い合いは、どちらも譲らないので平行線だった。とうとう感情の昂ぶったミアイが目に涙を溜めてきっとテンを睨む。
「どうしてそんなに試合に出たがるのよっ!?」
沈黙したテンが迷っているのは明らかだ。最終的には選手の希望が通るといっても、我を通すと治療師に取って後味が悪い結果ともなり得る。その選手が試合に負けて怪我がひどくなった場合は特に。
本職が狩り人のミアイから見ると、同じ狩り組の頭であるテンは上役だ。今後の付き合いに蟠りを残さないためには、選手のテンが治療師のミアイを穏便に説き伏せるほうが良い。零れ落ちる寸前だったミアイの涙が乾きかけた頃にテンが折れた。
「……理由を言ったら他の治療師に報告するのは止めるか?」
「名誉とか自慢したいとか賞金なんかの他に、ちゃんとした理由があるならね!」
「名誉と言えば名誉なのかも知れないが……、できれば優勝したい。でも、もしかしたら、四位以上でも良いのかも知れない」
再沸騰する前にミアイの怒りは急速に静まり、代わりにもやもやと疑問が湧いてきた。御前試合に進んだ四人は別格で一目置かれるが、それならば既に勝ち得ている。テンは、きょとんと見返すミアイに苦笑した。
「俺は一人前になりたいんだ」




