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凍雲に舞う  作者: 紅月 実
第四話 肌を刺す空気は清々しく
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肌を刺す空気は清々しく(四)

 エレラに背を向けたバリノフが掌の土を払う。これは一度止めた蹴りの威力を側転で補ったためについたものだ。最前列の観客たちがわっとばかりに避けたが、エレラはその手前の空白地帯で二人の線審に受け止められた。バリノフは娘の無事を目で見ずとも分かっていた。彼は審判が落下予測地点に着くまで待ってから蹴り出したのだ。

 線審の問いに「大丈夫だ」と答えたエレラは、少々顔色が青褪めているものの、気丈な様子で己を待つ父の前に戻った。

 主審が再開の号令を発した。試合に臨む父娘の気迫が同時に高まると、さざなみのように祝福の波動が広がった。盛り上がった選手たちの筋肉や身体の奥底から応える何かで、周囲の観客の期待と興奮はいや増した。


 今度はバリノフから仕掛けた。短い呼気と共に鋭く突き、蹴りを見舞う。それらを受け、かわすエレラが父の足を払い、攻めの周期リズムを断ち切って素早く身を翻した。後ろ回し蹴りを弾いたバリノフもまた、安定した下半身が生み出す蹴りで返した。経験に裏打ちされた強化能力ちから肉体からだの持ち主は相手エレラを翻弄する。

 本当は年若い娘に、事実上併合された一族のまとめ役などを押し付けたくはなかった。しかし、凡庸ではないものの、〈恵み〉の祝福を得ていない息子たちでは一族の者が納得する訳がない。せめてエレラが普通の娘であったなら、己が最後の長として幕を引けただろうに。


 苦い思いを噛み締めながらバリノフが愛娘を突き放す。跳ね上がろうとしたエレラの腿へ直角に拳を落とした。痛みが彼女の動きを鈍らせた。老練な戦士がそれを見逃すはずもなく。

 腕で庇おうとも、異能力で強化した筋肉を緊張させても、重い衝撃は身体の芯まで届いた。打たれる度に一歩、また一歩とエレラが後ずさり、畳み掛けられてとうとうがくりと膝をついた。幸か不幸か、上段蹴りはエレラの頭上を通り過ぎた。次手で終いだと誰もが思った。

 しかし、更に上体を捻って持続させた回転は、エレラから離れるために使われた。それを見て安堵とも不満ともつかぬ溜め息を洩らした観客がどれだけいただろうか。バリノフ自身も溜め息をつきつつ、指先でとんとんと腿を叩いていた。


「……もう終わりか?」

 落胆の色合いを帯びた言葉にエレラががばと跳ね起きた。必死の形相で殴りかかるが、精細を欠いた攻撃は容易く見切られる。それでもなお向かって来るエレラに対してバリノフは驚嘆と憐憫の情を抱いた。

 気力だけなら一人前だった。それどころか賞賛に値する。だが勝者と敗者に分かれるのは必然なのだ。才能に恵まれた己を過信せぬために。未熟である事を知らしめるために。いずれ跡目を譲るにしても、今しばらくの時間を稼ぐために。娘を支える誰かが現れるまで、父は勝たねばならなかった。

 バリノフの容赦のない蹴りを腹に受けたエレラが再び膝をついた。身を折って苦悶していたが、審判の秒読みが半ばを過ぎると腹を押さえて立とうとする。土で汚れた頬に涙の筋がつき、小砂利に痛めつけられた目をきつく閉じていた。


 試合が始まってから、初めてバリノフの顔に動揺が走った。ロウは〈遠見〉の能力者が多く出る血筋だ。そうでなくても、視力に影響がでるやもしれぬとなれば、心配するのは親として当然といえよう。

 一応立ち上がりはしたので主審も秒読みを止めたが、エレラの両の目は固く閉じられたままだ。試合を続けるのかと尋ねられたエレラは苛立っていた。

「平気だと言っている……!」

 声を荒げたせいで痛んだ腹を押さえたエレラは、己を支える主審の手を乱暴に払った。

「私はまだやれる。……やれるんだ」

 せめて顔を洗うように勧める主審との押し問答を見兼ねたバリノフが、娘を宥めようと声をかけた。しかしそれは逆効果だった。かえって激高したエレラは駄々をこねる童子のように無茶苦茶に腕を振り回した。


 それからの出来事はあっという間だった。驚いた審判が避けたためにエレラが体勢を崩した。この場合、大人しく殴られなかった主審が咎められる謂れはないだろう。代わって、ぐらりと傾いだエレラを抱きとめたのはバリノフだった。一時的に視力の無い状態で混乱したエレラは、相手の馴れ馴れしい態度が癇に障り、更に力を入れて突き飛ばそうとした。羽交い絞めにしようとするのが誰か分からないのだ。

 「離せ!」と暴れるエレラの手が何かにぶつかり、耳のすぐそばで誰か・・が苦痛の声をあげた。拘束を解かれたエレラは、氷の蛇の大群が背筋を移動したような気がした。握った拳は固いものに当たり、それを壊した手ごたえがあった。しかも、押し殺した呻き声の主は――――。

 エレラは痛みを堪えて無理に目を開けた。涙で霞む視界に映ったのは、地に伏して膝を押さえたバリノフの姿だった。

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