肌を刺す空気は清々しく(二)
「よし!!」
「…………うそ」
二つの口から異口同音に出た言葉は爆発した声援に飲み込まれ、誰の耳にも届かなかった。肘掛けに打ち付けた拳をこっそり摩るガリと、鳶色の目を見開いたミアイは、違う場所、違う立場で同じ人物へ視線を注いでいた。割れんばかりの声援と熱狂を送られるその人物は、肩で大きく息をしていた。
―― ◇ ――
主審がセサの横に膝をついているのを、テンは少し離れた所から見下ろしていた。右腕や指を動かすと、胴体の横――――あばら付近に痛みがある。しかし痛みは筋肉のものらしく、痛覚を遮断すると痛みが鈍くなった。骨は折れておらず悪くてもひび程度だろうと極力楽観視する。審判の秒読みが進み、セサへの声援が弱まったその瞬間。流れる汗を拭うテンの手が止まった。
「良いぞ、テン! そのままやっちまえ!」
聞き覚えがあると思う間もなく見やった先でカクが叫んでいた。まさか自分に野次以外が寄せられると思っておらず、そうと認識するのに若干の時間が必要だった。テンの気が逸れたほんの数秒の間に、規定内の八秒でセサが立ち上がる。
「手加減なんかすんなよ!」
再び届いた大仰な激励に握った拳を上げると、会場にざわめきが広がった。テンは狩り組の仲間に答えただけだが、その仕草を勝利宣言と受け取った者たちが動揺したのである。「セサが負ける訳がない。身の程知らずが」、「いやいや、テンも腕を上げている。もしかしたらがあるかも」と熱く語る自称事情通の思惑など露知らず、テンは静かに振り返った。
「……大丈夫、問題ない。まだやれる――――」
試合続行をしつこく確かめる主審に辛抱強く答えるセサと目が合った。主審の心配は尤もだが、セサの顔は苦痛と雪辱に燃えていた。睨み合う二人を構えさせた主審は、開始の合図で大きく飛び退いた。
しかしセサは、先ほどとは打って変わって闘志を剥き出しにしているものの焦る様子はない。テンとて、本気になったセサを相手に同じ手を繰り返すほど愚かではなかった。
テンが左へ回ればセサも同様に自身の左へ動く。逆にセサが右へ二歩進めばテンも右へ同じだけ進む。ほんの数歩の距離を隔てて睨み合い二人だけの空間を作り出した。セサは両手を開いて胸の高さで構えており、肘から先は風になびく蔓草のようにゆらゆらと揺れていた。
人は目の前で動く物に気を取られがちだ。セサの手が微妙に動きを変えたただけでテンの緊張がいや増す。揺れる両手が鎌首をもたげたヘビに見えて来たところで我に返り、僅かに身体の力を抜いた。セサの胸から喉周辺に焦点を移し、手の動きは大雑把に捉える事にする。
試合は幾度も目にしていたが、手合わせで確信したのは、セサはやはり『囮』だと言う事だった。背丈に比して少なめの筋肉量は身軽さの助けになると同時に、持久力不足の要因となる。
短所を補うのも実力があってこそとは言え、既に同点で怪我の度合いも似たり寄ったり。傷めた箇所に強打を受け、負傷が次の段階に進めば痛覚の制御が利かなくなるのも同じだろう。しかしテンには、次はセサから仕掛けて来ると言う予感めいたものがあった。
それを現実にすべくテンは一つの手段を講じた。内なる力と周囲の霊気、〈祝福〉と〈恵み〉で自身の身体を満たしたのだ。貫き手の形にした左手を前に、腰に当てた拳――――正確には右手中指の先にある祝福の源――――〈月〉から熱いモノを全身へと広げる。そして後ろに引いた右足を根に見立て、植物が大地の養分を吸い上げる様を心に思い描く。目には見えずとも、超自然的な力の流れを肌で捉えたセサの面が強張る。
生まれながらの素質たる祝福と、自然に存在する恵みの力を取り込む能力。その二つを己に宿らせて心身を強化する場合、「どれだけの力を集め、且つ使えるか」が影響するのは自明の理。活力を集めるのに必要な時間や、貯めておける量などの要素を総合したものが異能力の強さとなる。
狩り組を編成する際は、許容量が少なくとも瞬時に全力が出せれば囮役に、溜めが必要でも重い一撃を放てるのなら『止め』と言った具合に役割が決められる。
テンの祝福は厖大で巫女や衛士に比肩する。それは彼を、「父の知れぬ私生児」と蔑む者でさえ認めざるを得ない事実だった。
だがセサには相手に有利な条件が整うまで黙って待つ義理は無く、己も恵みを蓄える形で誘いに乗った。疾く間に準備を終えて地を蹴る。予想通りの攻撃を軽やかにかわすテン。セサの手刀が空を切る。
「もらった!」
狙い澄ましたセサの回し蹴りがテンの脇腹に吸い込まれる。しかし、テンはセサの腿を打って迎撃。大幅に威力を減じるのみならず、左足はテンの胴体で止まり、更に脇に抱え込まれる。僅かに遅れてテンの力が最高潮に達した。肘を曲げた腕が鋭角な軌跡を描く。至近距離で重い拳を幾度も叩き込んだテンは、これで最後とばかりに腰の入った強打を放った。
テンは両利きだが元は左利きである。当人は同じようにしているつもりでも、やはり何かが違うのだ。急所を本来の利き手の的にされたセサの戦意はとうに霧散していた。足の戒めが解かれると支えを失って崩折れる。
「う……」
力を出し切り、どっと押し寄せる疲労感にテンの目が眩んだ。しかし、突如湧いた敵意に全身が粟立つ。脛を蹴られたテンが平衡を崩して転倒した。だが、幸運を司る『春の女神』はテンに味方したらしく、倒れたのはセサの上。すぐさま腕で首の後ろを圧迫し、右腕を強引に捻り上げた。
「審判!」
「一! 二――――」
背中から振り落とそうとばたつく両足も自身の足でがっちりと拘束した。未だ諦めないセサの執念を必死に捻じ伏せる。抗うセサの身体から小さな破砕音が聞こえても、テンは力を緩めず尚一層の力を込めた。
「……九! 十!! 一本! おい、そこをどけ!!」
主審が少々手荒くテンを押し退けた。背を丸めて苦痛の洗礼を受けるセサの肩を掴んで横向きにする。そして身体の下敷きになっていた左手を目にして即座に助けを呼んだ。
「指が……! もしかしたら腕も折れてるかもしれん。誰か、担架を持って来い!」
慌しく立ち回る審判の一人がテンに手を貸して立たせる。元気付けるように肩を叩かれたテンは、少々放心気味に見返した。セサを乗せた担架とテンの間に立った主審が咳払いをした。担架の担ぎ手を残し、他の審判員は揃って一歩下がる。
「この試合の勝者はテンである! 我らがテスに栄誉あれ!」
二人の戦士が跪いた。一人は片膝をついて深くと頭を垂れ、一人は傷身を横たえたまま恭敬の念を以って。そして民も、若き王と共に戦士たちに賛辞を贈った。




