花は早々に退場し、群れる ☆イラスト有り
森の一画は熱気に包まれていた。鉤形の長い主屋と納屋で三方を囲まれた内庭に白い砂で円が描かれている。円の中で争う数人の女性と、それを取り囲み囃し立てる数十人。喧嘩見物の野次馬にしては整然とした雰囲気だった。
争っているのは三人だ。皆一様に袖無しの胴着とズボンという男のような服装だが、どうやら一人を他の二人が追い回しているらしい。程なく捕まった小柄な赤毛の娘は両側から掴まれて円から放り出された。場外でたたらを踏むのへ押し出した二人が冷笑を浴びせる。
「三班からはグエンとドナイ!」
審判の女が宣言すると労いと喜びの声が掛かった。
「おめでとう」
少々、いやかなりむっとした表情でミアイが言った。敗者が勝者を讃えるのは礼儀である。しかし、これだけ離れれば本人たちには届かないのは承知の上だ。
「大丈夫? 怪我は無い?」
型通りに確かめたのは救護担当の治療師だった。褐色の髪をした二十代半ばのナタリアは、かつて世話になった元・女衆である。一方のミアイは赤みの強い暗褐色の癖っ毛と鳶色の瞳をしており、夏に十六歳になったばかりの若い娘だ。
「平気よ。……ちょっと抓られたけど」
腕を掴まれた時に皮膚の薄い部分に痛みが走った。ぽつりと赤くなった二の腕の内側を擦る。長袖の上着を羽織りつつミアイがこっそりと舌を出す。それを見たナタリアは吹き出すのを必死に堪えていた。
グエンとドナイは数ヶ月前の夏にミアイと一悶着起こしていた。一概にどちらが悪いとは言えないものの、詳しい事情を知るナタリアはミアイに同情し好意的だった。結婚と同時に狩り人を降りた――――資格を放棄した――――ナタリアも、今日はミアイと同じようにズボンを履いている。
「負けちゃって残念ね。この後は男衆の救護に回るんでしょ」
「こっちが終わり次第って事だから急いで行くわ」
鉈や道具帯を手早く装着したミアイは頬を寄せて別れの挨拶をする。樹上に跳んで肩越しにちらりと振り返った。生後半年の息子を抱いたナタリアは自身の手を添えて小さな手を振っている。手を振り返して高速移動に入った。
『樹渡り』はミアイのような狩り人たちが森林を移動する時の手段だ。女子寮の南寮から村までは――――ミアイに取って――――大した距離ではないが、速度を上げて四半刻(十五分)で到着した。広場の喧騒から十分に離れた枝を選んで通り過ぎる。本音を言えば足を止めて覗きたい処だが、樹上での観戦が許されているのは審判のみ。ミアイは己の持ち場へと急いだ。
村の広場と領主館の前庭でも、女子寮と同様の光景が繰り広げられていた。しかし、こちらの二ヶ所は遥かに沢山の村人が集まっている。
見物人は試合場となる円から充分に離れた地面に座っていた。折り良く晴天での開催となったが空気は肌を切るように冷たい。着膨れした観客は敷物の上で毛布や膝掛けに包まり、所々に置かれた火桶で暖を取っている。こちらは寒さと戦いながらの観戦だ。
館の正面玄関前には大きな立て看板の他に天幕や幕屋が建てられている。そのうちの一つは出入り口が開け放たれており、小ぢんまりした丸い天幕は唯一人のためだけに設えられていた。
中には立派な作りの椅子と脇の小卓に湯気の立つ飲み物がある。視界を遮らぬよう卓の前に立ったミアイは少々緊張気味だ。居住まいを正し、飲み物を啜る人物の爪先に視線を据える。
「本日も〈テス〉にはご機嫌麗しき事、お喜び申し上げます。南寮での予選経過をご報告致します。女子の部は六班中三班まで終わりまして御座います」
「報告、大儀」
短めの明るい金髪と優しい色合いの緑の瞳。鼻筋の通った上品な顔立ちの青年が鷹揚に答えた。厚手のズボンに革の長靴。襟や袖口に毛皮をあしらった外套の前をしっかりと合わせ、足元の火鉢で暖を取る彼こそ東ガラットの領主ガリ=テスその人である。
長は敬意を込めて一族の名である〈テス〉と呼ばれる。現在の東ガラットに為政者の血族は唯一人ゆえ、ガリがその頂点に立つのは必然だ。長と領主を兼ねたガリは二十歳を越えたばかりと言えど、名実共に東ガラットの主である。だが、公正な政を行う領主は気さくで大らかな人柄が民に親しまれていた。
「……ところで、テンがどの班か知ってるか?」
声を潜めたガリが砕けた口調でミアイに尋ねた。吊られたミアイも小腰を屈めてひそひそと応じる。
「すみません、わたしも知らないんです」
ガリはミアイが属する狩り組の頭、テンと幼馴染みだ。すまなそうなミアイに、ガリは愛想良く答える。
「そうか、引き止めて悪かった。……そうだ、見物する場所はあるのか? もし無いなら天幕の中に居ても構わんぞ」
「大丈夫です。わたしは治療師として救護を担当するので、そっちにずっと居られますから」
ミアイが指で示した先には大型の幕屋がある。怪我人を寝かせる簡易式の寝台が幾つも用意され、座って休むための分厚い織物に火鉢が置かれている。
そこに手を翳して暖まる娘は試合場へ目を向けていた。多数の男たちが繰り広げるのは、正に乱闘と評するべきものだった。靴を脱いで独りぽつんと座った娘は、誰かを探すように時折村の方角へ目を向けていた。
領主への報告を終えたミアイは貴賓席の後ろを回って救護用の幕屋へ顔を出した。
「お待たせ、ナナイ。でも、思ったより早かったでしょ――――」
―― ◇ ――
クーラ・ベテリナ王国から自治権を獲得して幾年月。半ば独立したドルディア自治領はテス一族が治めていた。その中の一地域、分割自治区東ガラット領。領地の西南にはなだらかな丘陵地帯が横たわり、そこに位置する交易街の周辺は数少ない耕作地となっていた。
交易街から北東へ進むと、左右の景色は大小様々な面積の畑から林となり、やがて森となる。うねりと起伏のある山の街道を荷馬車に揺られる事三日。代々の領主とその一族が生まれ育つお膝元、領地の名を冠した『東ガラット村』へ到着する。
東ガラットは始祖テスの五人の子のうち、唯一の女子サヤナの末裔が住まう土地だ。領内にはおよそ三つの階級が存在し、それはどのテスの地でも同じだった。
数々の特権を持つ支配階級のテス一族。
為政者に従い領内の治安を守る戦士たち。
領主兼氏族長の庇護の下、租税を納めて生活基盤を支える領民たる多数の自由民。
自治領と言えば聞こえは良いが、『隣国』から政へ干渉を受けない代わりに己の身は自らで守らねばならない。
国境を越えて入り込んで来る犯罪者や、山岳地帯特有の希少な薬草や森の獣を乱獲する密猟者。大規模な野盗などの討伐に当たる主力は戦士たちだ。屈強な肉体を異能力で更に強化可能な者に、兵士としての訓練を施した精鋭である。
樹木の枝をリスのように渡り、獣道すら無い山の斜面でもシカのように軽やかに大地を駆け抜ける。驚異的な肉体能力を持つ戦士たちは〈狩り人〉と呼ばれていた。
作中の天幕は円錐型で真上から見ると円形に近いもの(ちょっと立派)。
幕屋は運動会でよく見かけるアレに、風除けとして布が張ってあります。こちらの方がキャンプなどで使用するタイプのテントに近いですかね。