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1.それが始まり

人を迷わせるのを楽しむ木々達が集った、深い深い山の中。

そこに、彼は住んでいた。

昨日までは母とともにひっそりと山奥で暮らしていたが、今日から彼は一人で過ごさなければならない。


母は死んだ。

まるで眠っているかのように、苦痛に顔を歪ませることもなく。

朝、彼女はベットの上でいつの間にか息を引き取っていた。


それについては、青年は特に悲しむことはなかった。

突然の母の死は驚きはしたが、冷たい亡骸に触れても涙が出ることもなく、ただ早く弔ってやらなければという義務感だけが湧いた。


彼の感情が最も揺さぶられたのは、その後のことだ。


母親を家の裏手にある見晴らしの良い丘に埋めた、数時間後。

夕暮れ時に、その人は現れた。

腰元よりも長い銀の髪に銀の瞳、そして陶器のような白い肌を黄昏に赤く染めて。


『はじめまして。神サマです』


鈴の音のような声で。

子供の笑顔そのままに笑って。






 さあさあ、退屈な時間は捨てましょう。

 どうやって自分が生きているか、考えなさない。

 どうして己が此処に在るのか、考えなさい。

 いくら待っても、幸せな未来なんて訪れやしないんだから。



 さあさあ、もう覚悟を決めて。

 そして、ほら……―――。






『意味がわからない』


青年は不審を隠そうともせずに訪問者に言い放った。

けれど、少年はあくまでも穏やかに微笑んで、逆に問う。


『何に?』

『全てに、だ』


自分を神だとのたまう、年端もいかないだろうこの子供に。

こんな山奥にまで訪れた珍客そのものに。

どうして自分たちが住んでいるのかさえも疑問に思っていた程に、元々ここは人気が全くない場所だ。

青年の記憶の限りでは、客など一度もこの家に来たことが無い。


もっとも、彼には数年分の記憶しかないのだけれど。

青年の一番古い記憶は、女の泣き顔だ。

…後になって、彼女が自分の親だと知った。


―――嗚呼、神様!有難うございます…っ!


ぐしゃぐしゃにして泣き咽ぶ母親に、何故か嫌悪感を抱いたのは今でも記憶の底にこびり付いている。


神は、いない。


理由は分からないが、その時から彼は神の存在を心底否定していた。


在りもしない存在に祈る気も、感謝する気もない。寧ろそんなもの、ただの時間の浪費とさえ思う。


そんな青年の前に立つ、神を名乗る姿はまだ年若い。

まだ発育途中な体に、あどけなさの残る顔立ちはとても無邪気に青年を見ていた。


『もうじき夜だ。正直に迷ったと言えば、泊めてやる』

『迷った?ボクが?』

『なら、この辺りに住んでるのか?だったらさっさと帰れ』

『もう。折角教えに来てあげたのに、昔よりつまらない人になったんじゃない?』

『……何の話だ?』


思わず眉間にしわを寄せ、細くさせた視線を少年に向ける。

彼はゆっくりと遠くを指差した。

母親がよく眺めていた周りより一段高い丘の先には、隣の山の黄昏に染まった赤い木々がある。

それ以外の物は、青年には見えなかった。


『賭けをしたんだ。君の母親が死んだのが合図。これから此処に沢山の人が来るよ。君を殺しに』


鈴の音に似た声が、青年の鼓膜に木霊した。

子供の戯言にしては、性質が悪すぎる。


何より、どうして彼が母親の死を知っているのか。

青年はまだ、何も言っていないのに。


『そんな顔してどうしたの?大丈夫だよ、君を殺しに来た人達を、殺せば良いだけの話なんだから』

『…冗談にしても、度が過ぎてる』

『冗談?』

『どうして俺が殺されなきゃならない?第一、何で母が死んだことも知っている?』


簡単だよ、と少年はにこりと笑った。


その瞬間、左腕に激痛が走る。


いつの間にか少年の右手には、大振りのナイフが握られていた。

突然の痛みと、動揺で声がまともに紡げない。


『君の母親が、ボクと契約して君を化け物にしたから』


ぽたりと土に零れる赤は、血の色とはとても異なっていた。

それはただの、うっすらと淡い赤みを帯びた水のような液体だった。

呆然と自身の傷口から溢れる異様な血を見つめる青年をよそに、少年は続ける。


『君は一度死んだんだ。これから来る人達もそれを知ってるよ。そして明日の朝までにもう一度殺さないと、君が血に餓えた魔物になると吹き込んでやったから、多分必死になって殺しに掛かるんじゃないかなぁ』

『な…、』

『事実だよ。ついでに言えば、君は明日の朝までにそいつらを殺さないと死ぬから』

『ふざけるな!どうして俺がそんな…っ』

『コレをあげるから、頑張ってね』


そう言って、少年が手に握らせたのは先程のナイフだった。


『折角まだ残ってる命なんだからね。惜しまなきゃダメだよ?』


触れられた瞬間に伝わった体温。

あどけない表情。

悪戯を考えた子供のような瞳。


どれもこれも、普通の人間のそれと同じだ。

なのに、唇から零れる柔らかい声が言葉とあまりに不釣合いで恐ろしい。


『……お前、何者だ?』


可愛らしい唇がすっと、弧を描く。


『神サマだよ』







「―――そろそろ五百年経つのかな?」

「……ああ、そうだな。いい加減、早くお前との縁を切りたいよ」


鉄錆の匂いが漂う豪奢な部屋の中、嗤っているのはどちらも魔物である。

屋敷の主である青年は優雅な振る舞いで執務机に頬杖をつきながら部屋の隅に視線を流し、この部屋には不釣合いな平民の服装の少年は気後れする様子もなく革張りの応接ソファにゆったりと座っていた。


青年の視線の先には、今しがた出来たばかりの肉塊が毛足の長い絨毯を汚している。

惨状の中で平常でいられるのは、異常者の証だ。


ソファに腰掛けていた少年は、おもむろに脚を組み直して、先ほど青年自らが入れた紅茶を口に運ぶ。

銀髪の整った顔立ちをした子供が、ただゆっくりと茶を啜るだけでも十分に絵になるものなのだな、と青年は内心で僅かに感心した。


「侯爵サマともあろう人が賓客にファーストフラッシュも出さないなんて、ケチだね」

「賓客だからこそ、あえて自分の好物を出したんだがな。ファーストフラッシュなんてただ貴重なだけだ」


第一、お前に春摘みと夏摘みの違いなんて分かるのか、と青年は揶揄する。


「流石にそれぐらいは知ってるよ。香りも味も全然違うんでしょ?」

「へぇ。どんな風に?」

「……なんか、爵位に付いてから嫌味っぽくなったよね」


不満に頬を膨らましながらも紅茶を啜る少年の姿に、思わず口角が上がった。

本当に変わらない。

五百年前から、何一つ。


元々この世界には、多くはないが数百年生きている民族はいる。

それでも、五百年も姿が全く変わらないと言うのはまず有り得ないことだ。


そう、だから異常なのだ。

彼も、自分も。


青年は、僅かに部屋の隅に転がっている死体に再び視線を投げた。


「……国内でも指折りの術者だったんだがな」

「所詮、ただの人ってことだよ。神サマを殺すならあれぐらいじゃ無理だね」


少年は自身を神だという。

神を信じない青年でさえそうだと思うほど、彼の魔力は凄まじいものだ。








――――どれだけ野獣が狩りをして獲物を貪ったって、こんな匂いを出せやしないだろう。

もうじき朝日が昇る時刻だが、うっそうとした木々のせいでこの山には光が射す場所が少ない。

いつまでも暗い山奥には、いくつもの死体が重なり、血と腐臭がむせ返っていた。


その中で動く影は二つ。

死肉の血を啜る青年と、それを楽しそうに眺める少年の姿だけ。


『あーあ、あれだけ殺すのは嫌だって言ってたのにねぇ。……人の血は美味しいでしょう?』


そう言って、少年は銀の髪を薄闇の風に流した。

青年は何も応えずに、ひたすらに血を啜る。


ありえないと思いながらも、それが鼻腔を擽る感覚に酔った。

誘惑に負けてそれを一口、口に含むとどんな美酒よりも甘く濃厚だった。

独特のとろみが喉を通るのが、えもいえぬ快感だった。


なのに、理性はそれをひたすらに拒絶する。

それは人の血だと、自身を説き伏せようとする。


歓喜と嫌悪の狭間で、青年は泣きながら血を啜っていた。


『よく覚えておいて。それがこれから貴方の糧になる。他のどんなものを口にしても、それが無いと貴方は飢えて理性さえ保てやしない』


水気を帯びた土を踏む音が、静かに響く。

足元が赤黒く汚れるのも厭わずに、少年は一歩一歩、ゆっくりと青年に歩み寄って行った。


『時々、自分の血の色を見るといい。血の色から透明に近ければ近いほど、貴方に血が必要な証拠だから』


忘れないで、と少年はついに青年の目の前で足を止めた。

見上げて来る青年の口元にそっと指を当てる。


『赤みがなくなったら、貴方はただの血に飢えた理性のない化け物になるだけだから。死を望むならボクを……、―――神を殺さないとダメだよ』


血を拭った指をぺろりと舐める仕草は、子供の幼さと娼婦の艶が混じったものに見えた。

青年は口に含んでいた血と共に、何かを一緒に喉を鳴らして飲み込んだ。


『……お前は、何がしたいんだ?』


無邪気だった瞳が一瞬だけ、寂しさとも諦めとも取れる色に揺らいだ気がした。


『退屈なんだ』


だからボクと遊んでよ、と少年は再び嗤った。


『ボクは大昔にね、この地を鎮めるために奉られた。だけど、そんなの今じゃ誰も憶えてる人なんていない。挙句、こうやって死んだこいつらみたいに信仰を食い物にする馬鹿まで出てくる。……神サマをやるのも飽きてきたんだ』

『だから、お前を殺せと?』

『うん。でも簡単にはボクは死なないよ。なんてったて、神サマだから』

『そんなの尚更、俺に出来るわけがないだろ。俺には武芸も魔力もほとんどない』

『だから君に永遠の命をあげたんじゃない。永い時間を使って考えて、ボクを殺してみてよ』


その笑みは、狂気から来るものなのか。

悠久とは、神でさえも狂わせられるらしい。








「ああ、そうだ。今日は貴方に会わせたい人がいるんだった」

「会わせたい人?」

「ここに呼んでもいいかな?廊下で待ってるんだけど」


どうぞ、と青年が許可を出す間もなく、少年は樫の扉に声を投げた。

相変わらずの自由っぷりに、吐き出す皮肉も五百年の間に尽きてしまった。


部屋に入って来たのは、青年より若干年上らしい姿の男だった。

貴族を前にしても緊張する素振りも見せず、男は不遜に笑って挨拶した。


「誰だ?」

「君と同じ境遇の人だよ」


その言葉に、自然と青年の視線が鋭さを増した。


「君一人じゃ中々ボクを殺せそうにないみたいだから、ちょっと仲間を増やしたんだ」


少年のまるで犬でも拾ってきたかの言い様に、青年と男が共に苦い笑いを浮かべた。


「貴方も不運だな…」


こんな死神に目を付けられて、と青年が手を差し出せば男はそれに応えた。


「いや。滅多にない神殺しが堂々と出来るんだから、幸運ですよ」

「あれを殺すのは随分と手が掛かるぞ」

「まあ、永遠に近い命だ。最初から楽に終わるとは思ってません。気長にやらせてもらいます」


男二人が少年に視線を投げると、彼はいつの間にか紅茶を飲み干し窓辺にいた。


「ごちそうさま。じゃあ二人とも仲良くやってね。また遊びに来るから」


鈴の音の声を残して、そのまま少年の姿はふわりと部屋から消えた。


「……全く、骨の折れる戯れだ」


ぽつりと青年は溜息を零した。


この遊びを終わらせるには、あの子供を殺さないと。

殺してしまえば後は自由。

死も望めるし、少年の後を継いで神になることも出来る。

後者は要らないが、それでも血を欲する生活は終えられる。


それで十分だ。


ひくひくと、男の鼻が何かを捉えている。

室内に充満する血の匂いだろう。

五百年の時間で青年はある程度、己を抑えることを覚えたが、新参者の男にはまだ血の誘惑には勝てないらしい。


「飢えて理性が切れる前に飲んだらいい。でないと、村一つ分くらいの人間を殺すことになる」


それぐらい、渇きは強烈なものだ。

普段は一人分で充分なのに、一度切れたらその何百倍もの人の血を得ねば正気に戻れない。


男は躊躇なく、肉塊に手を伸ばした。

そして、問う。


「あの狂った神サマを殺すことが出来ると、本当に思ってますか?」

「殺さないと終わりがないのだから……。殺すさ、必ず」







 さあさあ、退屈な時間は捨てましょう。

 穏やかな日常なんて、覚悟を腐らせるだけ。

 どうやって自分が生きているか、考えなさない。

 どうして己が此処に在るのか、考えなさい。

 いくら待っても、幸せな未来なんて訪れやしないんだから。


 さあさあ、もう決心して?


 この逃げられない戯れを、とっとと終わらせてしまいましょう。







「……一つ、考えていたことがあるんだが。貴方が来たからちょうどいいかもしれないな」

「ほう、どんな?」


一瞬だけ、青年の脳裏にあの幼い銀の姿が浮かんで、消えた。


「四十年ほど前にツバス族の人間をあれに仕向けたんだ。まあ、結局失敗に終わったが……、それでもそいつよりは随分と役に立っていた」


つい、と青年は男の餌を顎で示す。

ツバス族は世界でも一、二を争う魔力と長寿を誇る民族だ。

しかし銀目銀髪の稀有な美しさが仇となって、乱獲が後を絶たず今では随分と数が少ない。


「目には目をって感じですかね。あの神とおそらく同種のツバス族の方が殺せる確立が高いと?」

「そう。けれど、ツバスは稀少だ」


だから、造ってみてはどうだろう?


男の動きが止まった。

細い目を大きく見開いて、同胞の表情をただ追っていた。


自分よりも姿だけは若く見える青年の精神は、男の範疇をとっくに超えている。

狂っているのは、神も彼も一緒だと思った。

そして、自分もいずれこうなるのか、と内心で高揚した。


「ツバスの遺伝子を、他の人間に与えられたら…と考えていたんだ。そうすれば、ツバス一人で複数の術者が出来る」

「イデンシ?」

「俺が投資している民間の医療機関で、最近研究しているものだ。詳しいことは知らないが生き物の中にある、親から子へ引き継がれたりする情報体のことらしい」

「面白そうですね」

「まあ、まだ実用化が出来るかどうかわからないけどな。それに、これは人道に(もと)る行為だ」


僅かにまだ残っている常識が、青年に歩みを踏みとどまらせていた。

けれどその迷いを、男が事も無げに一蹴してしまった。


「どうせ人間を糧に生きてる我々です。今更、道徳も倫理もないでしょう」

「……そうだな」


権力が有った方が何かと都合が良いだろうと、他人を蹴落として今の地位を得た。

特に感嘆も罪悪感もなかった。

自分たちは最早人間ですらない。


人間とは、自分たちの餌だ。

―――何を悩むことがあったのだろう。


「では、早速貴方にお願いしようか。国内外問わない、いつでも戦争が起こせるように仕向けてくれ。金に糸目はつけない」

「それはまた、どうしてです?」


青年はくつりと笑った。

穏やかな表情とは裏腹に、剣呑な雰囲気が彼を包む。


「神殺しの凶器を造るには、平和な時代は何かと都合が悪いだろう?」


世界は神の遊び場で、自分たちはこの世界を使うことを許されているのだ。

神を、殺すために。

ならば遠慮なく、その遊び場も一緒に壊してしまえ。




『ねぇ、世の中には裏と表があるでしょう?正義と悪。生と死。白と黒。全てに相反するものがあるんだ。片方だけじゃ成り立たない。対立するものがあるからこそ、その存在が活きるんだと思わない?』




あの夜、少年はそう零した。

それは暗に、自分には対になるものもいない、独りなのだと自白しているように思えた。


「あれを殺した後も、こんな世界で生きるのは真っ平御免だ。世界ごと、神の墓碑にしてやる」


子供が寂しくないように。

全てまとめて滅ぼしてやろう。


口元を血で汚した男は、目の前の計り知れない狂気に、恭しく頭を下げた。




それが、もう数百年も前のお話。

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