3話
その後、お兄ちゃんの結納は滞りなく終わった。
兄と親友が顔を見合わせ幸せそうに微笑む横顔に、ほんの少し目の奥が熱くなった。
家業を継ぎ、料理人として生きていくことが義務付けられたお兄ちゃんが背負っていたプレッシャーは相当なものだったと思う。
私のように、この街から離れて別の世界を見たいと思ったこともあるに違いないけれど、そんな自分の想い全てを封印し、両親の期待に応えるためだけに自分の時間を捧げてきたお兄ちゃん。
そんなお兄ちゃんに恋して、料亭の女将となることを受け入れた親友。
小さな頃からお母さんの苦労を見ている私には、大切な親友がこれから味わう苦労が手に取るようにわかる。
あえてそれを伝え、お兄ちゃんへの恋心だけでは続けていけないと諭したけれど、彼女の気持ちが揺らぐことはなかった。
誰と結婚しても苦労はする。
それなら、大切な人に愛されながら苦労を背負いたいと、強い口調で笑った彼女。
どうか、幸せになって。
そう何度も心で呟きながら、涙をこらえた。
そして、結納でさえこんなに胸がいっぱいになるのなら、結婚式の時にはどうなるんだろうかと新たな不安も生まれた。
結納が終わり、実家に戻った私に「もう一泊くらいしていけ」という家族からの言葉は笑って流し、朔弥の車に乗り込んで自宅に向かった。
助手席に体を預け緊張感を解放しようとするけれど、どうしてもすっきりしない気持ちに支配されて会話も弾まない。
そっと運転席の朔弥を見ると、普段と変わらない落ち着いた表情のまま運転に集中している。
その姿も妙に納得できない。
私の家族に会って結婚したいなんて言ったくせに、どうしてそんなに落ち着いていられるんだろう。
付き合ってるわけでもないのに。
ましてや好きだと直接言われたなんてことなんて、全くないのに。
私は朔弥の事ずっと好きだけど。
一人悶々と考え込んでいると、くすくすと笑う朔弥の声が聞こえた。
「なあ、なんでも聞いてくれていいんだぞ?」
前方を見ながらだけど、笑いながら軽くそう言う朔弥。
面白がっているような声音に、ほんの少しいらっとくる。
「詩織が聞きたい事、なんでも聞いてくれ。なんでも答えるし説明する。でも、俺が詩織の家族に言ったことを取り消すつもりはないから」
……は?
この男、自分が発言した言葉の意味を、分かっているのだろうか。
「そんな困った顔するな。ちゃんと自分が言ってる意味は分かってるから」
……分かってないでしょ。
小さくため息が出てしまうのを止めることもできない。
「朔弥には、彼女がいるでしょ?保母さんだっけ?美園さんだっけ?」
去年の年末ごろ、休日の映画館で偶然会ったことがある彼女。
小柄で優しげな女の子は、朔弥に寄り添いながらにこやかに笑っていた。
気まずそうに私に紹介する朔弥は、彼女を隠すように立ち、とても大事にしているように見えた。
女の子と付き合っても半年くらいで別れてしまう朔弥なのに、彼女とは一年くらい続いているせいか、結婚も近いんじゃないかと同期の間では話題になっている。
そんな噂、忘れてしまいたいし、次の恋愛をして気持ちをそらしたいけれど、既に一年以上彼氏もいない私。
朔弥への気持ちが残っている限りは他の男性との恋愛なんてできないってわかっているから、朔弥を忘れるための恋愛はもうやめた。
それからは、ただただ仕事にだけ気持ちを向けてきた。
私の傍らで、朔弥が幸せそうに笑っているのもつらいし、彼女の事を聞くのも心が痛いから、敢えてそのことを話題にすることもないけれど。
久しぶりに彼女の事を口にした私に、朔弥はちらっと視線を投げた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「彼女……妊娠したんだ」
私はそんな言葉は予想していなくて、今までに感じたこともないほどの痛みが体に溢れた。
同時に、どこか朔弥に期待していた自分に気づいてしまう。
私の実家までわざわざ来てプロポーズまがいの言葉を言ってくれた朔弥との未来を、少なからず現実にできるかもしれない期待を持っていたと気づく。
私が一方的に想いを寄せていて、叶わぬ痛みを心の端に隠していたっていうことにも、改めて気づく。
昨夜と違って昼間の明るい街を軽快に走る車内には、沈黙が続いた。
朔弥からキスされる事に抵抗しなかった自分。
家族に、朔弥との本当の関係を正直に言わなかった自分。
言えなかったじゃなく言わなかった。
それは、私の気持ちのどこかに、朔弥との将来を現実にしたいという願望が見え隠れしていたからかもしれない。
私って、ずるいな。
きっと朔弥は、結婚をすすめる家族からのプレッシャーから私を助け出す為に嘘を並べてくれたに違いないのに。
それをちゃんとわかっていたはずなのに、知らないふりで、朔弥の側で過ごしていた。
朔弥の言葉や行動に戸惑うふりをして、実は喜んでいた。
彼女が妊娠。
その言葉は強烈で、私が隠してた想いを伝えるなんて永遠にしてはいけないと鍵をかけられたように重い現実だ。
「おめでとう。彼女とお幸せにね」
今はまだ、そのことを心から祝う気持ちを朔弥に見せるなんて演技はできないけれど。
どうにか泣かずに、そう言えた。
しばらく黙っていた朔弥は、高速を運転しているせいか、前だけを見たまま呟いた。
「彼女にはおめでとうだけど、俺にはもう関係ないんだ」
「え……?関係ない?」
思わず見入る朔弥の顔は平然としていて、どこかあっけらかんとしているのにも驚く。
「彼女、妊娠3か月らしいけど、俺は半年以上彼女を抱いてないんだ」
「はあ……。半年……?」
半年抱いてないって。
えっと。
ぼんやりとしていた頭が少しずつ動きだす。
彼女が妊娠3か月で。
「じゃあ、彼女のお腹の赤ちゃんは……」
予想してしまう切ない現実を確認するような私の低い声。
「彼女、他に好きな男がいたらしい。俺と付き合う前、なんか誤解が重なって距離を置いている間に俺と付き合うことになったってさ。
ま、詳しい事は知らねえけど結果的には俺よりもそいつを選んだって事」
「そんな……朔弥は彼女の事が好きだったんでしょ?」
「ん?好き、だったかな。一緒にいて楽だったし、いい女だったし。
でも、半年以上抱かなくても平気でいられる程度にしか好きじゃなかった」
まるで他人事のように軽く言い放つ朔弥の気持ちは、言葉だけではわからない。
私が去年見た彼女は、朔弥といて優しく笑っていたし、傍らの朔弥は私に見せないように彼女を隠していた。
とても大切にしてるって見えたし、愛し合ってるって感じたのは私の勘違いだったのかな。
「可愛い人だったね……」
「あぁ、詩織は会ったな」
朔弥は苦笑しながら呟いた。
「朔弥、私に見せないように大事そうに背中の向こうに隠してたから、すっごく愛してるのかなって。
ちょっと寂しかったな……」
思い返すような私の言葉に、朔弥は驚いた表情を向けた。
「詩織……」
どこか唸っているような、低い声。
「あっ……」
思わず無意識に呟いた
『寂しかった』
に、朔弥は反応したに違いなくて、私の鼓動はばくばくと跳ねてしまう。
気を緩めていたのか、言いたくもない本音をつい口にしてしまった。
「ごめん、気にしないで」
それだけを言うのがせいいっぱいで、膝に乗せた両手をぎゅっと握りしめた。
勢いを増す心臓の音と緊張感とは裏腹に、朔弥はほんの少し車のスピードを落として高速の出口へと向かった。
気付けば、私の家の近くを走っていて、朔弥との密な週末も終わるんだと感じる。
何事もなかったかのようになめらかに運転をする朔弥は、高速を下りてすぐの信号で車が停車すると。
「詩織の部屋、なんか食べるものあるか?途中で買って帰る?さすがに実家で両親に会うってのは疲れた」
まるで普段もそうしてるかのようにためらいもなくそう言う朔弥に驚いた私は、何も言えず、ただ頭の中で今の状況を整理するだけ。
確か、朔弥が彼女と別れたって話をしていたんだよね。
で、私の寂しいっていう言葉に反応していたはずなのに。
いつまで朔弥の言葉一つに振り回されるんだろう。
昨日から、ううん、出会った時からずっとずっと朔弥には振り回されているように思える。
私が朔弥を好きだから、仕方ないんだけど。
あれ……?彼女とは、ちゃんと別れたんだよね。
妊娠した事しか聞いてないけど、結局二人の関係はどうなったんだろう。
そんな私の不安げな様子にちらっと視線を向けた朔弥は、安心させるように私の手を握りしめた。
片手でハンドルを握る朔弥は、前を見ながら。
「ちゃんと終わってるから。彼女とは別れてるっていうか、お腹の赤ちゃんの父親と両想いなのに、付き合ってるわけねえし」
どうして、私の不安がわかったのか、どきっとしたけど、その言葉に少し安心した。
相変わらず私の手を握る朔弥の手が気になるけど、私から振り払うなんてできないし、きっとそんなことしないって朔弥もわかっているのか余裕さえ感じる。
ずっと好きだった私の気持ちはとっくに見透かされているようで、照れくさくもある。
私の気持ちをわかったうえで、こうして手を包み込んでくれるのは、私の気持ちを受け入れてくれるって事?
それは素直に嬉しい。
でも、朔弥が私の傍にいてくれるのは、彼女が別の男性のもとに去ってしまった寂しさを紛らわせるためなのかな。
大切にしていた彼女と別れて悲しいから、私の傍にいるの?
流れていく景色は見慣れたものなのに、いつもとは違うものに見えて仕方がない。
包み込んでくれる手からは確かに朔弥の体温を感じるのに、今までで一番朔弥を遠くに感じる。
そろそろ私の住むマンションに到着するという頃、朔弥のスマートフォンが鳴った。
車内に響く音は、それまで二人がいた現実離れした時間から一気に現実へと呼び戻す音のように思えて体がびくっと震えた。
コンビニの駐車場に車を入れながら、朔弥はスマートフォンの画面を見る。
一瞬はっとしたように見えたのは、気のせいだろうか。
「はい。……ああ、大丈夫だけど。え?今日?……無理だな。出先だし先約があるから」
淡々とそう話す朔弥。
きっと、今日これから会いたいとか……言われているように聞こえて。
隣にいるのがなんだか居心地悪くて、足元に置いていた鞄を手にした。
『コンビニ、入ってるから』
ほとんど聞き取れないような小さな声でそう言って、ドアを開けようとした。
けれど、すぐに伸びてきた朔弥の手が私の右腕を掴んでそれを拒んだ。
え?
振り返ると、何故か機嫌の悪そうな朔弥の顔が近くにあった。
スマートフォンを耳にあてたまま、どんどん近づく朔弥。
気付けば唇には朔弥の唇が落とされていて、ただただ驚く私。
目を閉じることもできずに、朔弥から与えられる啄むようなキスに茫然とする。
すっと離れた唇は尚も近くにあって、私の腕を掴んだまま、電波の向こうの元彼女と話している。
「全部捨てていい。俺の物なんて大してないだろ?そういう事は気をつかわなくていいから、体を大切にして幸せにしてもらえよ」
どうしてだろう。
まるで私に理解させるように、目の前ではっきりとした口調で話す朔弥。
彼女との終わりをちゃんと言葉にしているように、私に認めさせるように。
そんな朔弥の思いの意図がわからないながらも、ほんの少しだけ、心が落ち着いたような気がした。
*****
私の家に着いたのは、夕方近くになってからだ。
朔弥は別れたらしい彼女との電話を切ったあと、それまで以上に優しい表情を浮かべていた。
当たり前のように私の住むマンションの来客用の駐車場に車を停めると、助手席に座る私の肩を抱き寄せて唇を落としてくる。
一瞬のことに避ける余裕もなかったけど、そんな朔弥を許してにる自分に複雑な気持ちになった。
「一年ぶりくらいだな」
部屋に入ると、懐かしそうにベランダに出て外を眺める朔弥。
そういえば、10階のこの部屋から見える海を気に入っていたっけ。
初めてこの部屋に来た時にも、朔弥はベランダに出てのんびりと景色を眺めていたことを思い出した。
朔弥に彼女ができた一年くらい前から、プライベートで一緒に過ごす事はなくなった。
そして、お互いの部屋を同期のみんなで行き来する機会も減っていた。
けれど今、私の部屋に朔弥がいる。
荷物を適当に片付けたあと、コーヒーをリビングに運ぶと、朔弥はソファに座っていた。
ソファに体を預けてのんびりとテレビを見ている姿は、まるでいつもこの部屋で過ごしているみたいに自然で、私の心が少し震えた。
気持ちを緩めている朔弥の様子は、何の悩みもなさそうで、私とは対極にいるようだ。
自分に自信があって、欲しい物はちゃんと手にいれる強さを感じる。
一方私は、朔弥と同じ時間を過ごしていたこの二日間をどうしても理解できなくて。
自分に都合のいい想いを抱きそうになるけれど、それを必死で押しのけている自分。
そんな自分に疲れ果ててしまいそうになる。
一体、今って、どういう状態なんだろう。
どうして朔弥はここにいるの?
「コーヒー淹れたから」
「ん。ありがとう」
朔弥の前の小さなテーブルにコーヒーを置くと、途端にどうしていいのかわからなくなって、とりあえず朔弥の足元に並んで、カーペットに直接座った。
まだ熱いコーヒーを飲みながら、何か話さなきゃと戸惑っていると、頭上から朔弥の手が伸びてきた。
そっと私の手からコーヒーを取り上げると、そのままテーブルに置いた。
「朔弥……?」
「どうしてそこにいるんだ?」
「は?」
「こっちに来るだろ、普通」
朔弥は私の腕を掴むと、強引に自分に引き寄せた。
強い力に引っ張られて、気付けば私の体は朔弥の膝の上に座らされていた。
横抱きにされて、朔弥の腕に包まれた私はただ驚いて言葉も出なかった。
そんな私をじっと見る朔弥は、頬にかかる私の髪を後ろに梳きながらも、私を離さないように肩を抱いたままだ。
「なあ、そろそろ終わりにしないか?」
一瞬で震える私の鼓動なんか無視して、低く重い声でそう呟いた。