ミケ
「待ちなさい! 篤! まだ話は終わってないでしょ!」
バタン!
篤は、まだ話している途中の母・晶子から逃げ出すように、部屋のドアを思いっきり閉めた。
「ああ、うぜえ!」
小さくも、腹の底からの声を出す。
部屋の電気は付けずに、机の上のパソコンにまっすぐ進む。
電源ボタンを少し乱暴に押してから、どかっと音をさせて椅子に腰掛ける。
ぼんやり光りを放つ画面に向き直り、カーソルを動かし、目的の画面を開く。
『青春の怒り場』
そのページの一番上に書かれた大きなタイトル。このサイトの名前だ。
『もう、我慢できない』
カタカタとキーボード叩いて、篤はそう打ち込んだ。
ここは、中高生が集まる掲示板サイト。
学校であった嫌な事や親とトラブルを抱え切れなくなった相談者が、そのはけ口として書き込んでくる。
同じ境遇にいたり、似たような経験を持つ閲覧者が、相談に乗ったり、意見をくれたり、時には叱ってくれたりすることで、相談者の溢れ出しそうな思いを受け止めてくれる。
篤も昨日まではただの閲覧者だった。
でも、今日はこのサイトの厄介にならないといけないようだ。
何回か「更新」ボタンを押していたが、篤の書き込みへのコメントはなかなか付かない。
サイト内を改めて見てみると、あるいじめの相談者からの書き込みに対するコメントが、盛んにやり取りされていて、どうやら皆そっちに夢中のようだ。そのせいで篤の相談に目を向ける閲覧者がなかなか居ないのだろう。
「んだよ、まったくよお!」
力任せに机を叩いて頬杖をつく。
いつも他の相談者の悩みには、それなりに答えてやっているのに、自分の番になったらこんな始末だ。
すっきりできるどころか、イライラがただ増すばかり。
篤は今中学三年生の受験生だ。
勉強をするのは好きではないけど、今は仕方ない事だと思っていた。
それまでは、親ともそこそこうまくやっていけていたはずだ。
でも、一ヶ月前に彼女が出来た。
私立の学校に通う同い年の子で、篤と同じクラスにいる女子の幼なじみ。たまたま写真を見たとかで、向こうから好きだと言ってきた。
初めての彼女だった。
正直に言えば、ハマった。
何をするにも初めてで、楽しかった。
彼女の学校はエスカレーター式だから受験もなく、時間があれば「会いたい」と言ってきた。
篤もそれに出来る限り応えた。
塾を休んでデートもしたし、図書館に行くと言っては休日を彼女と過ごした。
キスもした。
もう頭の中が彼女だらけになっていった。
しかし、それは意外な形で親にバレることになる。
成績だ。
赤ら様にテストの点数が落ち、塾の全国順位も急降下。挙げ句に塾から最近休みがちだと、ご親切に親に電話までしてくれた。
父親は普段仕事で忙しいと言うばかりで、篤と顔をあわせる事も殆どないくせに、その件を知り、こんな時だけ偉そうに怒鳴りつけた。
しかも、篤にではない。
母親に、だ。
お前の教育が悪い、と。
母親の方は、前からいちいちうるさいところはあったが、それ以降、それは束縛とも言える厳しさになっていった。
物理的に無理がかかり、彼女とも別れることになった。
親がうるさくて、と別れ際に言ったら、このマザコン、と捨て台詞を喰らった。
その頃からだろうか。篤は母の顔を見るのも嫌になっていく。
どこに行くの。
だれと会うの。
何時に帰ってくるの。
勉強はちゃんとしているの。
全てをうるさく思った。
言われれば言われる程、煙たく感じるだけだった。
そんな篤に、母親の口調は日を追って厳しくなり、言葉も荒々しくなる。
改善の余地ない堂々巡り。
それに気づかない母親。
積もりゆくフラストレーション。
篤はわからなくなっていた。
なんで、親の言う事を聞かなくちゃいけないのか。
なんで、あんなにうるさく言われなくちゃいけないのか。
ふとパソコンのディスプレイに目をやる。
「あ」
一つ、返事のコメントが来ていると表示されていた。
篤はマウスでそのコメントを開いて読んでみる。
初めに書き込んでから、もう二十分も経っていた。
『何かあったのですか?』
ハンドルネームは「ミケ」と書いてある。もちろん本名ではないだろう。
篤も、ここでのハンドルネームは「ファイター」だ。
相手は女子だろうか。
多分飼っている猫の名前かなにかだろう。うちの死んだ猫も、同じ名前だった。
篤は、その「ミケ」と名乗る相手に、少しずつ、でも正直に自分の親に対する苛立ちを打ち明けていった。
もうこれ以上我慢が出来ないかもしれない、と。
すると、暫くしてまたミケから返事が送られてきた。
『とても共感できます。私も今日、同じような事があったので、その気持ちよくわかります』
ミケはとても丁寧な文章で返事を書いてきた。
その後には、こう書かれていた。
『親は子供の気持ちがわからないんですよね。お互いになぜあんなに通じあえないのかな、と思います。毎日同じ屋根の下で生活して、顔をあわせているのに、全てが行き違うんですよね』
篤は、同じ環境にいるというミケに同意してもらえたことが、素直に嬉しかった。
理解してくれる誰かがいる事に、ずっと欲しかった安堵感を得る事が出来た。
何度かコメントの交換をした後で、篤はこう続けた。
『母親は俺を憎んでいるんだ。言う事を聞かず、そのせいで父親に怒られて、俺なんていなければいいと思ってるに違いない。それなのに、愛もない親の言う事を、なんで聞かないといけないのか、って気持ちになるんだ。わかってもらえる?』
聞いてくれることに安心して、篤はずっと気持ちの底辺にあった部分を書き込んでいた。
なんだ、寂しいだけか、と思われるかもしれない。
それでも、篤はここで聞いて欲しかった。ここでミケに聞いて欲しかった。
このコメントへの返事は、少し時間が経ってから返ってきた。
ちょっと長い文章だった。
『ファイターさん。私はあなたの何を知っている訳ではありません。あなたのお悩みを完璧に解決してあげる事など、決してできないでしょう。私はただ、あなたのお悩みを聞いていると同時に、自分自身の悩みも共有させてもらっているのかもしれません。でも、一つだけ。一つだけ言わせてください。お母様があなたを愛していないだなんて、絶対ないと思います。お母様も、ファイターさんと同じ人間です。なかなか言う事を聞いてくれないファイターさんを、一瞬でも憎らしく思う事があったかもしれません』
ミケのコメントは、ここで一度改行され、意識的にそれ以降を目立たせて書かれていた。
『でも、忘れないでください。愛情の反対は憎しみではありません。愛情の反対は、無関心です。ですから、ファイターさんとお母様には、ちゃんと向き合う事さえ出来れば、必ずわかり合えるときが来ると思います。そのきっかけは、いつか必ず訪れるはずです。だって、親子なのですから』
篤は、そのコメントを何度も読み返した。
母親は、ヒステリックな小言を言う事は何度もあったが、一度たりとも篤を無視したことはなかった。
顔を見れば文句ばかりだったが、存在を意識し続けてきてくれたことは、間違いないのだろう。
なんとなく、力が抜けた。
ミケの言う事を素直に全て受け入れた訳ではない。
やっぱり母親のことはまだ疎ましく思うし、素直になろうとも思えない。
でも、無関心でいられることに比べたら、自分はまだ、母親にとって何か意味のある存在であるのかも知れない、と思えた。
こうやって喧嘩を続けていけるのも、親だからなのかもしれない、と思えた。
『ありがとう』
篤は多くを語らず、それだけを入力して送信した。
『こちらこそ、ありがとうございました。偉そうな事言って、ごめんね』
ミケは最後の最後に、親しみ易い一面を見せて消えていった。
「ふう……」
篤は背もたれに体を任せてぶらりとし、ミケの言葉をもう一度思い出していた。
篤は思う。
会ったこともないミケという存在に、なぜこんなに素直になれたのか、と。
理由は良くわからない。
でも、ミケの言葉は、包むような優しさがあった。
その雰囲気は、とても暖かく、居心地がとても良かったのだと思う。
「行って来ます」
晶子は、息子が久しぶりにそう言って出かけて行くのを、信じられないと言わんばかりの顔で見送った。
昨日も、ちゃんと話し合う事すら出来ずに部屋に閉じ込まれてしまった。
その事でまた夫に嫌みを言われ、朝から憂鬱だった。
しかし、息子は今日、「行って来ます」と言ってくれた。
他ならぬ、母親である自分に。
まだ何が変わった訳ではない。
ただ、「行って来ます」と言っただけである。
しかし、この小さな変化が、何かのきっかけであるかもしれないと思って、何が悪いのか。
晶子はやつれた顔を、ほんの僅かに微笑ませた。
たったそれすら、すっかりご無沙汰の動作であった。
携帯電話の呼び出し音が聞こえる。
長い間その音を出す事のなかった晶子の物だ。
着信は、篤が小学校で同級生だった子の母親。
唯一今でも連絡を取り合う父母仲間だ。
「もしもし、どうしたの? ひさしぶりね、元気? そう、良かった。ん? ああ、あのサイト? どうしたの、何か悩み事? ああ……そうよね、ごめんなさい。ううん、いいの。もし相談相手が必要なら言ってね。そうね。あそこなら今の子供達が何を考えてるのか、よくわかると思うわよ。うん、見てみたら良いと思う」
そう言って晶子は、サイトのアドレスをわかりやすくはっきりと発音していく。
「そう、それであってる。私もお陰で色々勉強させてもらってるわ。サイトで出くわすかもね、ふふ。え? 私? 「ミケ」って名前で登録してるから、見つけたら……」
終わり