007 山の神霊
男二人、山道を歩く。
夜が明けて間もない山の中は冷涼な空気に満ちている。
郷では見られなかった動植物がそこかしこに見られ、孝洋の目を楽しませた。
所々にポツ、ポツと、薄紅色や白の花を付けた木が見える。山桜だ。
「桜が、咲いていますね」
散策を目的としない山歩きは、どうしても口数が少なくなる。
郷長はまだ五十代、年不相応に頑健な体をしているが、原因は疲労ではないからその点はあまり関係が無い。
足元や周囲に注意を払いながらの長時間の有酸素運動。
予定した時間までに目的地に着くという目的意識。
それが、会話を忘れさせる。
行動への没頭によって思考は半ば停止し、ふとしたきっかけ、例えば見知った花を見つけるなどした時に、意識が浮上する。
そういったきっかけか、あるいは疲労による集中力の低下がなければ、ただの山歩きをする機械として無言で山を登るのみである。
「ですな」
受け答えも自然と簡素な、飾り気のないものになる。
しかしそこに気まずさや険悪さは無い。
孝洋と郷長は、清々しい朝の空気を共有していた。
「桜は、郷には植えないんですか」
「一本植わっておりますが、まああまり必要性もありませぬゆえ」
孝洋が草壁郷で見た桜は一本だけ。
桜の季節であるが、日本のようにあちこちに植樹されているわけでは無いらしい。
「必要性、ですか」
「桜は弱いのですよ。台風なぞで大きな傷がつきますと、腐ってしまいまする」
ああ、と孝洋は昔聞いた言葉を思い出した。
桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿。
桜は傷に弱い。傷から内部に侵入した腐朽菌によって、芯材が腐りやすいのだ。
「手間をかけて世話をしても利を生みませぬし、葉や花びらの掃除の手間もあります。
美しいとは思いますが、最近までは余裕があまりありませなんだから」
しかしそろそろ娯楽の充実を考える時期かもしれませんな、と郷長は続けた。
「人はただ飯を食って働くだけの存在ではありません。
目を楽しませるものの一つや二つは有った方が、生活に張りが出ます。
それが、働く為の活力になる。
──というのが、桜を植えた次郎の言い分です」
要の発案だろうな、と孝洋は考えた。
要も日本人としての記憶を持っているのだ。春に桜が見られないのは、やはり寂しいのだろう。
「一本試しに育てて病などへの対処法を蓄積する、というので許可を出しました。
世話はもっぱら要がしておるようです。
次郎が何か新しい事をする時は大概要が関わっておりますから、まあ要が桜が好きだとでも言うたのでしょうな。
甘味を得る為と言うて山の楓に傷を入れる許可を取りに来た時も……と、そろそろ、ヤマツミさまの社が見えるはずです」
言われて郷長の視線の先に目を遣ると、木々の合間、岩の向こうに人工物らしきものの一部が見える。春の山には似つかわしくない、朱色の何か。
「鳥居、ですか」
「鳥居ですな。山本様の故郷でもこの形でしたか」
「ええ。うちのは柱が丸かったように思いますが」
鳥居の形は日本全国一律で同じものではない。
土地によって、作られた時期によって、形が違う。
孝洋の記憶にあったのは明神鳥居であり、ヤマツミの社の鳥居は角鳥居である。
明神鳥居は一般によく見られる形式の鳥居で柱が円柱状であるのに対し、角鳥居は文字通り柱が四角柱になっている。
「鮮やかな色ですね。完成したばかりのような」
「いえ、以前よりもわずかに汚れが増えておりますな。ヤマツミ様は少々お疲れのようだ」
言われて鳥居を観察して見るが、孝洋にはどこが汚れているのかよくわからない。
野ざらしの鳥居がこれ程の美しさを保っているのは驚くべき事に思えるが、郷長にとっては充分なものでは無いらしい。
自分の扱う結界と同様、劣化や汚損をほぼ完全に防げるような何かがあるのだろうと孝洋は予想した。
それが汚れているという事は、その仕掛けが充分に動作していない……管理者の力が衰えているという事なのだろう。
恐らく、原因は晴れ女への対処。
孝洋は、対処は早いに越したことはないとの郷長の言を思い出していた。
「さて、こちらがヤマツミ様の社です」
話をする内に鳥居の前に到着した。
郷長は社というが、鳥居の奥には大岩を背にした小さく真新しい祠があるばかりだ。
(神寂びた風情も無い、真新しい鳥居に祠。だというのに、妙に心が惹かれる)
単なる人工物では無いと主張するかのような存在感を孝洋は鳥居と祠から感じ取っていた。
鳥居と玉垣で囲われた空間、その内側と外側が隔絶されているような印象を受ける。
「では入りましょうか」
「私も入ってもよろしいので?」
「山に入った時点で山本様に気付いておいでですよ。会う気がなければ道に迷うておるはずです」
そういうものか、と郷長に続いて鳥居をくぐり、次の瞬間には孝洋は神社の境内に立っていた。
社務所その他の施設が無く、拝殿とその奥にある本殿を除けば手水舎と石像ぐらいしか無いシンプルな神社。
拝殿に向かって左手に手水舎があり、拝殿手前には狛犬代わりかうりぼうの石像が備えられている。
振り返るが、鳥居の向こうは濃霧が漂い見通す事が出来ない。
予感した通り、どうやら別世界に入り込んでしまったようであった。
「神域……?」
「ええ、ヤマツミ様の神域ですな。何かおかしなところでも?」
手水舎で手と口を漱ぎながら郷長が訊ねる。孝洋もそれに倣い手と口を清めた。
「ああ、いえ、何でもありません」
孝洋は旅の祈祷師という事になっている。
旅の祈祷師は訪れた土地の土地神に会うのが一般的であるらしい。
つまりは、こういった不思議な空間にも、神の姿や行動にも、慣れていないとおかしい。
何があろうと平静を装わねばならない、と孝洋は気を引き締めた。
「前回より随分間が空いたな、草壁の。寂しいではないか」
拝殿に着き本殿の方角に向かって拍手を打つと、本殿の中から声が聞こえる。
拝殿と言っても、屋根と祭壇と本殿への廊下があるばかりで、本殿を目視出来る造りになっていた。
「まだ三日ではないですか、ヤマツミ様。少し仕事が溜まっておりましてな」
郷長は親しげにその声に応じた。
どうやら、神の使いなどを介さずに直接話をする事が出来るらしい。
自分も挨拶ぐらいはすべきなのだろうかと孝洋は迷い、郷長の紹介があるまで待つ事にした。
直言を許されているのは郷長だけである可能性がある。
やんごとなき立場の方と会う際は、多少不恰好になっても慎重である方が良い。
要にこういう時の作法だけでも聞いておくべきだったと思いながら、孝洋は正解がまるでわからない不安をただ耐えた。
「草壁、用向きを聞こう。人を伴うからには何事か用があって来たのだろう」
「はい。こちらは山本孝洋様、旅の祈祷師を名乗る方です」
郷長が片腕を腰程の高さまで上げ、半身になって腕で孝洋を示す。
日本でのマナーを考えるに、ここは一歩進み出てヤマツミに自己紹介をすべき場面だ。
「紹介に与りました山本です。
本日は私の要望によりまして草壁様にヤマツミ様へのお目通りを仲介していただきました」
ちら、と郷長の顔色を窺う。どうやら、この対応で問題ないようだと孝洋は安堵した。
「祈祷師、か……まあそれはさておき、用を聞こう」
祈祷師という部分に何か納得のいかない様子ながらも、ヤマツミが先を促した。
神ともなれば祈祷師かそうでないかぐらいは会えばわかる。考えてみればあたりまえだ。
孝洋はどうにも自分は考えが浅いなと嘆きつつ、穏便にこの場面をのりきる方策を考えた。
幸い、ヤマツミは孝洋が祈祷師であるなしに関わらず話を聞く気があるようだ。
そちらで充分に自分の有用性を売り込めれば、詐称ぐらいは大目に見て貰える可能性がある。
つまりは、ヤマツミから引き出した情報で、晴れ女にまつわる問題を解決する方法に目鼻を付ける事が出来ればそれで良いのだ。
結局の所やる事に変わりはない。少々、成果を早く出す必要が生まれただけである。
「晴れ女の解呪を考えております。
少々変わった術が使えまして、私の術にヤマツミ様のお力添えを頂ければあるいは、と思いまして。
晴れ女に関する情報と、ヤマツミ様の見立て、解呪をするにあたっての問題点などをお聞かせ願えればと」
率直に要件を伝える。
確認したい事は、過去の事例とそこから推測される呪いの仕組み、ヤマツミ達土地神が晴れ女の解呪を行えない理由、解呪に対するヤマツミの姿勢。
呪いの仕組みがわかれば処置の難易度が下がる。リスクを冒して実験を重ねずに済む。
ヤマツミでは解呪できなかった理由を分析すれば、孝洋個人での解呪が難しい場合、互いに不足している能力を補い合う事で解呪が可能になる可能性がある。
孝洋の魔法とて万能ではないのだ。ヤマツミの協力が得られるならその方が良い。
ヤマツミは要に同情的だという話ではあるが、なにかしらの理由で解呪を渋っている可能性がある。
解呪可能ではあるが、解呪を行わない。そういうスタンスである可能性がある。
その場合、孝洋が魔法を使って解呪をする事に反対される恐れがある。
土地神の権威は草壁郷内に限って言えば相当なものだろう。
敵対を避けなければ要や次郎の立場が酷く悪くなる。
その場合、どうにか説き伏せるところから始める必要がある。
「解呪、か。その難しさをわかったうえで言っているのか」
ヤマツミは探るような声音でそう言った。
「要嬢個人に限って、日照りを呼ぶ力を押しとどめる目処がつきました。
問題は、要嬢に外部より加わっている力の正体の究明と、次代の晴れ女誕生の予防です」
息をのむ音。
少なくとも、尋常の祈祷師に出来る事では無いのだろう。
「偽りは、無いか」
「日照りを押しとどめるのが可能、という部分についてでしょうか」
「そうだ」
「自分のこれまでの生に誓って、ありません」
「試したのか?」
「許可を得ずにこのような大事を進められませんので、まだ。ただ、よく似た例を経験しており、成功実績があります」
「如何なる方法か」
「要嬢の内と外の力の行き来を一部遮断します。天候に働きかける前に止める形です」
そのような事が可能なのか、とヤマツミは呟いた。
「私は限定的ながら天候を操れる。可能であると言うなら試しに見せてみよ」
「……恐れながら、これは対象に直に触れ、同意を取ったうえでなければ充分に効果が出ませぬ。
今ここからかけるのであれば、少々抵抗出来るという程度で、すぐに解けてしまいます」
嘘である。接触も同意も結界の効果には関係が無い。
精密な操作を行う上で接触した方が都合がよく、同意があった方が抵抗されずに済むのでやりやすいというのはある。
が、必須では無い。
神相手に術をかけるのは問題があるのではないか、と躊躇したがゆえの嘘だった。
相手は信仰対象である。当事者が良いと言っていても後々面倒が起きないとも限らない。
トラブルはかなう限り避けたいというのが孝洋の本心である。
直に触れて同意を得る必要があるといえば、恐らく退くだろう。
強力な呪いをかける際の条件としてはポピュラーなものであり、余程の信用か自分の力に自信がなければ飲めない条件だ。
「不完全で構わぬから見せてみよ。それを見て、汝を信ずるかどうか決める」
こう言われてしまっては仕方が無い。孝洋は諦めた。
「では」
本殿を囲むように結界を展開し、絞り込む。
ほどなく、本殿の中に居るヤマツミらしきものに張り付くように結界が形成された。
透過条件はヤマツミの纏う神力とでもいうべき力以外の全て。
神力の行き来を制限する以外の効果を持たない結界が張られただけで、視覚的には何の変化も無い。
「……試すまでも無いな、これは。領域の制御が私の手を離れた」
せ、と気合を入れる声と共に、強度を弱めに設定しておいた結界が破られる。
なるほど、とヤマツミの呟く声が聞こえた。
「これなら確かに可能だろう。発現の前に抑えてしまえば必要な力もずっと少ない。
要が意図的に力を強めなければ充分に抑え続けられる。
……礼を言う。私は、あの子の事を半ば諦めていた」
本殿の扉が開かれ、中から猪……というよりは、その子供であるうりぼうが歩み出てきた。
生後四ヶ月程で消えてしまうはずの、シマウリに似た縞模様がしっかり残っている。
「姿も見せず、失礼した。神ともなると、威厳や神秘性というものも必要でな。……重ねて礼を」
ヤマツミの声がそう言い、それに合わせるようにうりぼうが頭を下げた。
「……依り代、でしょうか」
うりぼうに神々しい雰囲気はある。あるにはあるが、それよりは可愛らしさが勝る。
孝洋は拝殿前の猪の像を思い出し、眷属かなにかを依り代にしているのだと考えた。
「……本体だ。文句があるか」
ヤマツミは不機嫌そうに答えた。
郷長が前日言っていた事を思い出す。猪の姿をした神だと、言っていたのではなかったか。
「ああ、いえ、滅相も無い。大変失礼いたしました」
慌てて、孝洋は深々と頭を下げた。
猪神……もとい、うりぼう神ヤマツミ。宍鳴山と草壁郷を統べる山の神、田の神である。




