005 同郷
暮れなずむ空の下、蓮華畑の只中に一人佇む少女が居た。
やや硬質の黒髪を後ろで束ねた、意思の強そうな赤い瞳をした少女。
少女は首を軽く振ると、ため息を一つついた。
「今日も収穫なし、と」
一月程前から、少女はほぼ毎日内なる力を目覚めさせる為に一人で修行を行っていた。
ここ数日の修行内容は主に調息とイメージによる認識の変革である。
日々の雑事を片付けた後、二時間足らずの短い時間ではあるが、およそ一月継続している。
「一時的に感覚が鋭敏に、世界が広くなったような気がする程度。
筋力も運動能力も変わらず、視界にも変化なし。
不思議エネルギーを操れるようになる兆候もなし。
別の方法を考えるしかないか」
呪いがある。妖怪が居る。神が居る。なにより、英雄が居る。
なら、不思議な力のひとつやふたつ、自分にも使えるかもしれない。
そうすれば、あるいは今の状況を打開できるかもしれない。
そう考えて、自分が馬鹿な事をしているとなるべく考えないように、少女はこの一月試行錯誤を繰り返した。
しかしそれももう終わりだ。タイムリミットが近い。
別の方法を模索するなら、もう動き始めないとまずい。
徒労だったな、と少女はため息をついた。
「英雄……明らかに人を外れた力を振るう、元・ただの人間。
各村に一人は居るそれが、今の草壁郷には居ない」
あるいは、その空席に座るのが自分なのかもしれないと思ったのだが、と、少女は自分の考え違いを笑った。
自分には特別な力があるかも知れないとの少女の考えは、根拠のない妄想では無い。
少女には、前世らしきものの記憶があった。
一般的な人間を外れている自分は、既に英雄の端くれなのかも知れない。
なら、力の扱いに開眼すれば、なにかしらの解決策が浮かぶかもしれない。
そう考えての行動であった。
「スピリチュアルだの霊的な力だのはやはり性に合わないな。
雑念が浮かんで没頭しきれない。
しかし科学では、今の郷の技術力では……降雨など、どうしようもない」
逆流防止弁付きのふいごは作れる。
竹か何かを使って、ペットボトルロケットまがいの物は作れるかもしれない。
それを使って、ヨウ化銀ならずとも氷の粒を成長させ得る何かを散布すれば……
そこまで考えて、まあ難しいだろうなと少女は笑った。
「飛んだとして、ちょっとやそっとの工夫でそこまでの高度が出せるかどうか。
出せたとしても、そもそも雲が無いのでは、な」
人工降雨は雲にドライアイスやヨウ化銀を投与する事で氷の粒を成長させ、雨雲に変える技術である。
雨雲未満の雲を、雨雲に変える。雲が無ければ話が始まらない。
以前の旱魃の経験者から話を聞けば、雲一つない晴天が何日も、と皆口をそろえて言う。
雲がないのであれば、お手上げである。
「ちょっと、厳しいな……。
根無し草として生きて行けるはずも無し、こうなれば一沙の王に取り入って、技術を対価に定期的に転地でも……」
考えを口から漏らしながら帰路を辿っていた少女がふと休耕田に目を遣ると、蓮華畑の中で見知らぬ男が佇んでいる。
不審者。しかし、ここは堀の内だ。堀を通ったからには客人であろう。
しかし客人とはいえ、田畑に勝手に踏み入るのはいかがなものか。
着物に似たこの辺りでは見ない格好。まず農民ではあるまい。
妙な所を踏んで畦などを壊されては困るのだ。
失礼にならぬ程度にやんわりと注意をしようと近づいて、少女はふと男の顔を見た。
寂しそうな、何かをこらえるような表情。
父が死んだ時の、叔父の顔と重なった。
「もし、そこのひと。そこで、何を」
知らず、声をかけていた。
「もう日が暮れる。早く戻られた方が良い」
男は少し驚いた様子を見せた後、蓮華畑を見渡して呟いた。
「ここは故郷に似ている。昼の日の下ではなく、夕日の下で一層そう感じる。
懐かしさのあまり心が縫いとめられて、どうにも離れがたい」
少女はふと昔を思い出した。
前世らしきものの記憶に触れた当時の、言い知れぬ寂しさを。
ここには前世の知り合いは居ない。
ここには前世で馴染みのある文化が無い。
そのくせ、ここは妙に記憶にある世界に似ていた。
風が吹く度、花を見る度、虫が鳴く度思い出す。
望郷の念が絶えず刺激され、耐えがたい孤独感に苛まれながら過ごした日々。
前世と今生を切り離して考える事でそれらは次第に治まったが、今でも時折寂しさを感ずる事がある。
「故郷に戻る手立ては」
恐らく容易には帰る事の出来ない事情があるのだろうとは思いながら、少女は問いを続けた。
「無いわけではない。帰ろうともしている。だが、望み薄だ」
無いわけではない。残酷な事だと少女は思う。
全く帰る手だてが無ければまだ耐える事も出来るだろうが、下手に希望が残っていれば苦しみが増すばかりだ。
「故郷はどちらに」
聞いて、どうなるわけでもない。
ただ男の苦しみを和らげる事が出来ればと、少女は男に思いを吐き出させた。
「日本。と、いうてもわからんだろうな。遠く、遠くだ。遠すぎるほど……」
言って、男は空を見上げた。
日本、か。少女はそう頭の中で繰り返した。
不思議と驚きは無い。男の顔を初めて見た時から、何故かそんな予感はしていた。
これが、少女と孝洋の出会いであった。
─────
(さて、どうしたものか、この空気)
山本孝洋は焦っていた。自分の世界から現実に帰還したはいいが、この沈黙である。
日本から来たと言ってからの、少女からのリアクションが無い。
およそ四十のおっさんが、十三、四の少女を前に自分の世界にトリップしてしまっていた訳であるから、とても気まずい。
実年齢はともかく肉体年齢が十八であるから絵面としてはそう酷いものでもないが、孝洋にも四十年生きた男としての自負がある。
失態であった。醜態を晒してしまった。そういう思いが、孝洋の時間間隔を狂わせていた。
実際の所、それほど沈黙が長かったわけでもない。
「日本、か。そこでは例えば」
少女の声が届く。
あまりそこを掘り下げられると誤魔化すのに困るんだが、と孝洋が焦って振り返った時。
「鉄の塊が、地や空を駆けてはいなかったか。自動車と、飛行機というものだ」
孝洋は、ここでは聞けないはずの単語を耳にした。
(─────はっ、いかん、意識が飛んでいた)
意識というよりは、思考が止まっていたという方が正しい。
焦りによって只でさえ思考が乱されている所に、予想外の単語。
孝洋の処理能力を超えた状況に、思考が一時停止した。
「日本を、自動車と飛行機を、知っているのか」
声が震えてしまったかもしれない。十年も放浪して、まるで手に入らなかった故郷の手がかり。
手がかりは無いかもしれないが、もしかすると、少女は日本人なのかもしれない。
二十年以上、日本で過ごした以上の時間を越えての、同郷の人間との出会い。
大人として恥ずかしい行動をしないようにと取り繕うのに精いっぱいで、声や表情までは手がまわらない。
少女は少し考えたそぶりを見せて、
「少し話がしたい。場所を変えないか」
と、提案した。
(場所を、変える……帰る?)
あ、と孝洋は思わず声を出した。郷長との約束を思い出したのだ。
日はほぼ沈み、顔の判別が難しい程暗くなっている。
もう帰らなければ郷長を待たせてしまうだろう。
「すまない、今日は人を待たせていてもう戻らないといけない。
明日、時間を作ってもらえないか」
「──ああ、そうだ、私ももう帰らなくては。
夕食も下準備しか出来ていないんだった。誘っておいて悪いが、今日は無理だ」
孝洋が謝ると、少女も時間が遅いのを思い出したのか慌ててそう言った。
「明日、いつ頃なら都合が良い?
俺は朝から出かけるから多分帰るのは夕方ぐらいになる」
「私も昼過ぎまでは色々とやる事がある。
大体、今ぐらいの時間までの二時間程が自由時間だな。
帰ったら、楠本の家に要は居るかと声をかけてくれ。今日か明日には次郎兄さんが帰るはずだから……」
少女の話を聞いて居た孝洋の動きがピタリと止まる。
「楠本、要?」
少女は名を、楠本要といった。
楠本要、十七歳。旱魃を呼ぶ晴れ女である。