030 齟齬
ゆっくりと体を湯に沈め、よく絞った手拭いで顔を拭く。
「うぁー」
一人きりの浴場で、楠本要十七歳は誰憚る事無くおっさん臭くうめき声をあげた。
「二十四時間いつでも風呂に入れるとは最高であるな」
三日に一度程度しか風呂に入れなかった過日を思い返し、要は満足気に息を吐いた。
桶や甕に汲んだ水を各家庭まで運ぶ水屋と呼ばれる職業があり、水場から少々離れた場所に家を構える楠本家はそれを日常的に利用していた。
要は体格に恵まれず病弱で、水汲み程度の労働でさえ容易ではない。
かといって日中仕事をしている次郎に水汲みまで頼むのは要としては気が咎める。
次郎は要に負担をかける事も気を遣わせる事も嫌ったらしく、ある時知人に仕事を回してやりたいから俺の我儘で水を買うのだと言いだして、以後、対価を払って水を買うという形になった。
水も薪も然程高価な物ではないとはいえ、対価が必要な代物である以上どうしても無駄遣いが憚られる。
自分のひ弱さゆえに余計な出費を強いているという負い目もあり、風呂好きな要としては不本意ながら草壁郷住人の平均に近い三日に一度程度の頻度での入浴が習慣となっていた。
夏場でも入浴は二日に一度、入れない日は濡らした手拭いで汗を拭うに留めざるを得なかった。
しかしそれももう過去の話だ。
「結界技術は本当に素晴らしい……」
結界の選択的透過特性を利用すれば浴場の廃水を速やかに飲み水レベルまで浄化する事が可能であり、ほぼ完全な水の循環が可能である。
風呂場の壁や脱衣所での吸熱で得た魔力を加熱に回せば、水を湯に変えるにも保温するにも殆ど追加の燃料を必要としない。
要が作り上げたこの浴場では、湯を用意するコストはゼロに近い。
「新陳代謝する壁、か。いずれはここにも導入せねば」
濡れた手で資料をめくり、要はそう呟いた。
浴槽の清掃を簡易化する機構は組み込んであるものの、浴室の壁面や天井面、そして床面の清掃は現状人力である。
床壁天井が腐食の心配の無い結界製であるとはいえ、湯気に運ばれる形で壁や天井に付着した汚れやミネラル分、あるいは床に残った水分や垢が雑菌の繁殖を助ける事は当然あり得る。
二十四時間ある程度の温度と湿度を保っている密室であるから、そのあたりは気を配らなければあっという間に不衛生な環境になってしまう。
清掃を自動化できる技術があるならば、導入しない手は無い。
「壁の内側から一定の規則に従ってモザイク状に新しい壁がせり出してきて、古い壁が汚れごと剥がれ落ちる……古い壁は崩壊して消えて、後に残るのは新しい壁だけ。
そして汚れは全て床面に集まる、と。なるほど」
要は図入りで解り易く書かれた資料をパラパラと捲った。
外せない用事が入って欠席した前回の会合で配られた資料だ。
「……せり出すのではなく引っ込む、剥がれ落ちるのではなく洗い流すとした方が床面にも応用が効くのでは?
公衆便所などにこれを用いれば常に清潔で悪臭の無い……いや、もっと幅広く利用できるな。
屋外の構造物で砂埃などが溜まり易い形状の物でもこれからは清掃の手間などを考える必要が無くなるという事で、例えばそれは清掃せずに使っても服が汚れる心配の無い露台やベンチが──」
壁を下敷き代わりに思いついた事を資料に書きこむ。
水に浸かっていたはずの資料は全く濡れておらず、インクが滲む事も無い。
要は書き終えると再び資料を捲った。
「走空器と歩空器の試験運転、経過報告か……まあ順調だな。
これならそろそろ実地での試験に移っても……」
飛行船と並行して開発を進めていた歩空器と走空器、人が生身で空を飛ぶ為の道具と空飛ぶ車の完成が間近に迫っている事をその資料は示していた。
しかし、と要は唸る。
人が走る程度の速度しか出ない歩空器はともかく、中長距離移動用の乗り物である走空器は最高速度が時速150キロ程度で設計されている事もあって衝突事故が発生した場合に死者が出る可能性が否定できない。
「結界間力を利用した走空器間距離調整機構は上手く働いているようだし、障害物の無い高空である走空圏内で動かす分にはそうそう事故は起きないはず。
事故が起きたとしても衝撃は随分緩和されるはずであるから死者は出ないと思うが、しかしやはりゼロとなると」
自分の判断が誰かを死に追いやるかもしれないという事実はやはり重い。
しかしそれ以上に、要にとっては孝洋の事が気がかりであった。
(孝洋さんの向こうでの最後の記憶、交通事故なんだよね)
孝洋の出身世界での最後の記憶は高速道路での対向車線の車との正面衝突だと要は聞いている。
常人ならば十中八九は死ぬ事故だ。
死なずに済んだ、少なくとも今現在は生存しているとはいえ、その直後に異世界へ飛ばされ未だ出身世界への帰還が叶っていない孝洋がこの一連の出来事を良い感情とともに記憶しているとは考え難い。
つまるところ、要は孝洋が交通事故とそれによる事故死を強く忌避している可能性が高いと考えていた。
(孝洋さんの力を借りて作った道具で交通事故が起きて、死人が出る。
やはりこれは駄目だろう)
100パーセントの安全などという非現実的な要求はすべきでないと普段の要は考えているが、しかしこの一事に関してはそれを実現する為の最大限の努力をすべきだとも思っていた。
走空器が普及すれば生活はより便利になるに違いないが、若干の不便さを許容すれば軌道車と飛行船と歩空器で一応代用は可能なのだ。
必須というわけでもないものを、恩人に苦痛を強いてまで急いで形にする必要を要は感じていなかった。
「孝洋さん、か」
一昨日の次郎とのやり取りを思い返す。
「全然自覚無かったけど……あれ、やっぱり嫉妬だよなあ……」
手に持っていた物を投げ出して要は頭を抱えた。
資料とペンとを繋ぐ紐だけが水面に浮かび、要が立てた波に煽られゆらゆらと揺れる。
「自分は私情で判断を歪めておきながら、賄賂はいけないだの公平で公正な判断をだのとどの口が言うのか」
これ以上の醜態を晒す前にと急いで席を立ったのは、ベストでないにせよあの場ではベターな選択であったと要は思う。
(あのままあの場に残っていたら、みっともなく自己弁護を始めてしまっていたかもしれない)
少なくとも平常心を欠いた状態にあった事は間違いがなく、その場に留まったとしてもまともな受け答えが出来たとは思えない。
傷を広げる前に非を認め速やかに退くのは正解であったかはともかく間違いではなかったと、要は自分の判断を肯定的に評価した。
(兄さんの指摘通り嫉妬心で正常な判断が出来なくなっている恐れがあるから、今の自分には公正な判断を下す自信が無い、と、確か兄さんにはそのような事を言ったはず。
非を認めて兄さんに判断を預けたのだから、兄さんなら多分これで矛を収めてくれるだろう。
──それにしても)
英雄になればいつでも平常心でいられると思ったのに、と呟いて、要は湯船から掬った湯で顔を洗った。
(まあわかってはいたんだ、望だってああなったんだし。でも少しくらいは)
戦場に於いては恐怖心を強く抑制しあらゆる身体的苦痛に対する許容値を引き上げる英雄の性質は、しかし平常時に於いては心の乱れを抑制する力を発揮してはくれない。
村長の娘という立場を活かし通力と神力について熱心に情報収集していた川上朔弥の記憶を引き継いだ要は、当然その事を知っていた。
それでも全く期待していなかったと言えば嘘になる。
(神であろうと英雄であろうと、結局は皆感情に振り回されながら生きるしかないという事か)
ままならないものだ、と嘆きながら要は湯船のへりに頭を乗せ天を仰いだ。
不可視の天井板を一枚隔てた先に青々とした葉を茂らせる楠の巨木の枝があり、風に揺られる枝葉の隙間から柔らかな日差しが浴室に落ちてくる。
建物の外が見えているわけではない。枝葉も日差しも露天気分を味わう為に要が用意した人工物である。
「あれが嫉妬であるからにはやっぱり、恋……だったりするのかなこれ」
要には要自身の人生も含めて三人分の人生経験がある。
いずれも十代後半までの短い人生ではあったが、合計すれば五十年程にはなる。
既に所帯を持っている草壁郷の友人知人よりもずっと豊富な経験を有しているはずの要は、しかしただの一度も恋をした事が無かった。
(特殊な境遇ゆえに、半ば意識的に異性と距離を取っていたという事情があるにしても)
それにしたって初恋ぐらいは済ませていてもおかしくないだけの年数を生きているはずなのに、と、要は役に立たない過去の記憶を呪った。
ありがちな失敗を避ける為に利用出来そうな記憶も、精神の安定を取り戻す為の知恵も、これが恋であるかどうかを判定する為の経験さえも、要の中にはなにひとつとして蓄積されていない。
「嫉妬はした。おそらくそれは事実だ。
しかしそれだけを材料にこれを恋だと断じるのは少々短絡的に過ぎるのでは……?」
嫉妬らしい嫉妬をした記憶の無い要とて、親が他の兄弟にばかり構うだとか親友が他の友人と仲良さ気にしているだとか、それぐらいの事でも嫉妬心は起きるものだという程度の知識はある。
嫉妬をするからには少なからぬ執着があるはずだとまでは推測可能だが、それがどういった感情に由来するものであるかを判断するには少しばかり不足があるように要には思えた。
「ううーん……?」
好意は持っている。そこは疑う余地が無い。
家族以外の異性にこれ程の好意を抱いた記憶が要には無い。
しかし恋心と言ってしまうにはどうにも淡く子供染みた素朴な感情であるように思われて、要の想像していた恋情との間には何かもう一つ二つ飛び越えるべき溝があるように感じられた。
「何もわかんない……」
要はそう呟きながら頭の天辺まで湯船に沈んでいった。
─────
「ジロさん、要と仲直りできた?」
ふと思い出したようにそう訊ねた孝洋に、次郎は答えずに視線を逸らした。
「結構長い間話し込んでなかったか」
「いやまあ、拍子抜けするぐらい普通な対応をして貰えたんだけどもさ、だからこそ謝るに謝れなかったというか……。
せっかく普段通りに相手してくれてるのに蒸し返して怒らせるのは怖いじゃん?」
それを聞いた孝洋が反応を返す前に、次郎は掌を孝洋に向けて遮るような仕草をした。
「わかってる。ちゃんと時機を見て上手い具合に謝っておくから。
でも今はちょっと様子を見させて欲しい。
要、不自然なくらいに普段通りで二日前のアレには一切触れないんだよ」
「あんまり怒ってなさそうに見えたけどな。
一昨日もちゃんと謝ったし許してくれたんじゃないか?」
「いやヒロさん、だからこそだ。
有耶無耶にして流せそうな雰囲気だからこそきっちりと謝る必要があるんだ。
やれ助かったとそれに乗っかるような真似をすれば軽蔑される。
俺は今、きちんと反省しているかどうかを試されている……」
「……まあ俺よりはジロさんの方が要の事をよく知っているだろうしな」
それはさておいて、と言いながら孝洋は左手首の甲側にある小さな突起を押し込んだ。
押し込まれた突起が皮膚の下に消え、指を離すとそこから直径3cm程の円盤がせり出てくる。
円盤に記されたアラビア数字の10の字のすぐ近くを短い針が指し示していた。
「中谷さんには腕時計は渡してあるんだったか」
孝洋の左手首に現れたのは結界製の腕時計だ。
精度に関して少なからず調整の余地があるとして一般にはまだ流通しておらず、駅を含む公的な施設以外では一般人が時計を目にする機会はほぼ無い。
これまでは祈祷師の術によって知り得た時間を元に夜明けから日没まで偶数時に鳴らされる鐘が一般の村民が時刻を把握するほぼ唯一の手段だった事もあって、一部を除いて未だ誰もが時間にはルーズであった。
待ち合わせに三十分や一時間の待ち時間が生じるのは日常茶飯事である。
約束の時間は午前十時。今は九時五十八分を少し過ぎていた。
「ああ、多分余四郎がもたついてるんだよ、あいつ人待たせる事を何とも思ってねえから。
ほら、佳苗ちゃんがどれだけ真面目でも余四郎放って一人で来るわけにはいかないしさ」
孝洋の出身地には時間に厳しい人間が多かったと要から聞いていた次郎は内心少し焦りながら佳苗を弁護した。
佳苗を庇う為に余四郎を貶すような形にはなったが、嘘はついていない。
余四郎は情に厚く概ね善良ではあるが色々と雑なところの多い男でもあり、だからこそ神である孝洋にも気安く接する事の出来る人間として次郎が孝洋に引き合わせたという経緯がある。
孝洋も自身の草壁郷における友人知人が良く言えばおおらか悪く言えば雑な人間ばかりである事は承知しているはずであるし、余四郎に責任を被せたとてこれ以上余四郎に対する心証が悪くなる事も無いだろう──という計算も次郎にはあった。
「あ、いや。
もうそろそろかなと思っただけで他意は無いんだ」
孝洋が申し訳なさそうに言葉を返す。
来るのが遅いとの非難を籠めたつもりはなかったらしいと知って次郎は胸を撫で下ろした。
「それにほら、どうやら来たようだし」
言われて次郎が門に目を遣るがまだ動きも無ければ音も無い。
「確信が持てなかったから話さなかったが、それらしい二人組が結構前から少し離れた所で時間を潰している気配があった。
多分時計を渡したから、時間丁度に行かなくてはと思わせてしまったんじゃないか」
「ああ、なるほど」
(待たせるのは失礼、早過ぎても迷惑、時間丁度に着いても時間に余裕を持たせろと怒られる。
訪問時間は、特に相手の立場が強い場合は中々難しいからな。
常識的な選択であるか否かに関わらず先方の機嫌を損ねたら負けだ)
ほんの少し早い訪問が最も無難で取り繕う余地のある選択だと言えるが、おそらくは時計を渡された事でそこからなにか(有りもしない)深い意味を読み取ってしまったのだろうと思われた。
「あの、御免下さい」
時計の長針が12を指すと同時、控えめな訪いの声が響いた。
─────
「それじゃヒロさん、ちょっとお茶淹れてくるわ」
「ああ、頼む」
佳苗と余四郎を客間に通して軽い挨拶を終えるなり次郎がそう言って席を立つ。
「あ、ちょっと待った」
それをすぐさま余四郎が引き留め、立ち上がって次郎に歩み寄った。
「俺も行くわ。ヒロさん家の中どうなってるのかまだ見た事ないし」
「お前ね、今日は見物に来たわけじゃねえんだから……。
客は大人しく座ってろ」
「いやあ、大事な親戚を預けるからにはどういう感じの場所なのかぐらいはちゃんと見ておかないと、やっぱ責任ってもんがさ。
大丈夫大丈夫、寄り道はしないし茶を運ぶのも手伝うから」
「まーた屁理屈を……」
嫌そうに余四郎をあしらっていた次郎が申し訳なさそうな顔で孝洋を見る。
それを受けた孝洋は笑って小さく頷いた。
「ごめんヒロさん、すぐ戻るから」
それまでどうにか間をもたせてと、声を出さずに次郎の口が動く。
気を遣わせてしまっているな、と少し情けく思いながら孝洋は手を振ってそれに答えた。
(女性への苦手意識も改善していかなくてはと思ってはいるが……今回も立場が立場だしな)
原因の大部分は中学生の頃からの友人に聞かされた女性関係の失敗談の数々にあるが、それがその後の二十年に渡る異世界生活によってさえ改善されなかったのは、世界転移後早々にある程度の地位を獲得してしまえる孝洋の魔法や魔術の力量の高さに原因があった。
不用意に異性と接近すればハニートラップにかかったりスキャンダルに発展したりといったリスクのある環境に長く身を置いた事で、特に最初から自分に好意的な女性や距離を詰めてくる女性に対しては強く警戒する体質を獲得してしまっている。
(この世界に骨を埋めると決めた以上は、そろそろ結婚なんかも考えていくべきなんだろうが)
女性との日常会話も満足にこなせないこの状態ではどうにも先は長そうだ、などとぼんやりと考えながら孝洋は次郎を見送った。
「あ、あの」
「ん?」
互いの立場を考えるに、この場は自分が上手く緊張をほぐしてやるべきだろう──と会話の糸口を探して孝洋が思案している間に、佳苗の方から先に話しかけてきた。
「次郎さんもこちらで働かれているのでしょうか?
私以外にここでどんな方が働かれているのか知っておきたいな、と思いまして」
「ああ……今まで殆ど次郎さん一人でここの管理をしていたし、これからも佳苗さんの補助として引き続きお願いするつもりです。
偶に次郎さんの手が足りない時に次郎さんの友人が手伝いに来てくれていたらしいが、これからしばらくは次郎さんと佳苗さんの二人だけになると思う」
「ふ、二人きり?」
目に見えて佳苗が動揺する。
「あ、いや。やりづらいようならもう一人二人女性を雇っても」
「あ、いえ、それは結構です!」
二人だけの職場、尚且つ相手は最近知り合ったばかりの親しくもない異性となると、女性としては心細く感じるかもしれない。
そう思い孝洋が提案した増員は直後に佳苗に却下された。
「その、大きいお社でしたのでもっと沢山働いておられる方が居るのかと思っただけで。
私ちょっと人見知りする所があるので、少人数の方が有難いんです」
「人見知りなら二人きりの方がつらいのでは」
「一対一なら初対面の方ともある程度普通にお話出来るんですよ。
これが三人四人と人数が増えると上手く話に割り込めなくてもう置物になるしか……」
そういえば昔似たような事を言っていた友人が居たなと思い至り、ああなるほどと孝洋は相槌を打った。
「追加で雇うとしたら多分草壁郷の方になると思いますし、その中で私だけ出身地が違うと、その……」
一対一なら初対面の相手ともすぐに打ち解けるその友人は、既に出来上がってしまっている人間関係に割り込むとなると全く動けなくなるのだと嘆いていた。
佳苗がそれと同じ種類の人見知りであるとするならば、同郷の人間同士で固まっている所に一人だけ出身地の違う佳苗を放り込むのは大変酷な事のように思える。
「あ、その、勿論人手が必要だという事でしたら私などが口をはさむ事ではありませんし、頑張ってちゃんと馴染んでみせますので!」
そう言って慌てて頭を下げようとする佳苗を押し留め、孝洋はしばしの間思案した。
内装や家具の表面には結界による処理が施されていて雑に扱った所で痛む心配もなく、要の開発した吸水粉末と専用掃除機を利用すれば防水処理の施された天井や床に対しては少ない労力で水洗いまで可能である。
食事とて長期保存可能で作り置きも可、楠本家と佳苗の分まで作ったとしても人間四人前であり、そう大きな負担ではない。
(問題は)
どうしても人手が必要な部分は、参拝者への対応である。
連邦に大きな影響力を持つ雷神の社への参拝客は今後大きく増えるものと考えられ、正直二人では厳しい。
今すぐではなくとも、将来的には増員が必要であるように思われた。
(仕事を覚え、ジロさんとの信頼関係を築いて、ある程度の地盤を固めてから後輩を迎えるという形であれば)
今すぐにまわりを草壁郷出身の同僚で固められるよりは、いくらか居心地の悪さも緩和されるのではないか、と孝洋には思える。
(今すぐに数を揃える必要がある、という状況ではないはずだ。猶予期間を作ってあげる事は可能だろう)
とはいえ、その猶予期間が佳苗にとって充分な長さである保証は無い。
「……先々の事までは約束出来ないが、しばらくは二人でやって貰う事になると思う。
それで問題ないかな」
「は、はい! 有難う御座います!」
現実的にはこれ以上の事は約束できないと理解しつつ、ほっとした様子で礼を述べる佳苗に孝洋は少々の罪悪感を感じていた。
農産物の価格変動にしても移住条件の緩和にしても孝洋が関わらなければここまで急激な変化が起こる事はまずなかったはずで、佳苗が細い縁故を頼って草壁郷まで出稼ぎに来る事になったのは概ね孝洋に原因があると言って良い。
(自分の選択を後悔しているわけではない。しかし)
その選択によって割を食った佳苗から感謝を受ける資格は自分にはないのではないかと、孝洋には思えた。
(出来ればもう少し力になってやりたいが……)
ずっと次郎と二人きりで働いて貰う、というわけには流石にいかない。
どれ程優秀な人間でも体は一人に一つだ。
並行して実行できる仕事量には限りがあり、今後参拝客が増えるのならどうしたって頭数は必要になる。
(……ん? 頭数を揃えられれば良いのなら)
ふと思いつき、孝洋は佳苗を観察した。
神としての力を得てからは以前よりもはっきりと神力や通力を感じ取れるようになっている。
その感覚が捉えていたわずかな違和感、それを確かめる為に結界魔法で佳苗の通力を少し探り、確信を得た。
「佳苗さんは分身の術なんかは使えますか?」
ほんの一瞬、佳苗の表情が強張る。
「分身の術、は……えっと、忍者じゃないと使えない術なので私は」
気まずそうな笑みを浮かべそう答える佳苗に、もしやデリカシーに欠ける質問をしてしまったのではと孝洋は少し後悔した。
多少勉強したとはいえ、孝洋はこの世界の事情にはまだまだ疎い。
「ああ……。失礼、そのあたりはどうも詳しくなくて」
通力の手応えからして、中谷佳苗は半人半忍だ。
注意深く調べなければわからない程一般人に近いささやかな反応ではあるが、一沙の川上夜須奈の通力特性と似通った部分がある。
(忍者に使えて半人半忍には使えない術があるという事なら、人によってはそこにコンプレックスを抱えていてもおかしくはない。
どれほど努力しても親と同じ術を習得できないと生まれた時から決まっているという事だから)
「え、えっと」
(とはいえ、どうやら分身の術自体はあるようだ)
術の類で頭数の問題を克服できるとしたら、そのままずっと二人でというわけにはいかなくとも猶予期間を伸ばす事は出来るかもしれない。
(要や郷長に相談してみれば、もしかして──)
「ごめんなさい……」
消え入りそうな声でそう呟く佳苗に、思考に集中していた孝洋が視線を向ける。
佳苗は静かに涙を流していた。




