010 春来りなば 夏遠からじ
草壁郷の西、堀の外で奇妙な形の動物が蠢いている。
山からは米粒ほどの大きさに見えるが、その動物の近くの樹や堀の大きさから考えるに、おそらく体高三メートル程。
四足歩行で灰褐色のずんぐりとした獣だ。孝洋にはハリネズミに似ているように思える。
「里人が矢を射掛けているし、まあ取りあえずは敵か」
郷長との会話でも時折妖怪という単語が出てきていたのを思い出す。
モンスターの類も全部まとめて妖怪と呼んでいるならあれは妖怪だろう、と孝洋は考えた。
「妖怪ってよりは魔獣って感じだが……妖怪は郷に入れないみたいな事言ってなかったか?
でも堀の所に防衛設備があるぐらいだしな……なんにせよ、助太刀だ。
祈祷師不在ってのはちょっと不味そうだ」
言いながら、結界を展開して一直線に空を滑る。
孝洋は草壁郷の防衛能力の詳細を知らない。
祈祷師がそれにどの程度貢献しているのかも知らない。
里人の使う武器が妖怪に対してどの程度有効なのかも判断がつかない。
あるいは、この程度の妖怪の襲撃など日常茶飯事なのかもしれない。
下手に参戦などすれば活躍の場を奪ってしまって、自警団の機嫌を損ねてしまうかもしれない。
(そういう事を考えるのは、ひとまず駆けつけてからだ)
何も無ければそれで良い、骨折り損ならそれで良いのだ。
しかし下らない事で悩んだ為に手遅れになってしまっては、自分が許せない。
時機を逃した間抜けになるぐらいなら、大げさで滑稽な男を演じる方が随分とマシだ。
攻撃に入る前にその辺の人間を捕まえて許可をとってしまえば言い訳は立つ。
助太刀を却下されたら防御だけ手伝えば良い。
スノーボードの要領で、結界で出来た坂を結界で出来た板に乗って滑り降りる。
少々派手な登場になるが、まあ土地神と会った後だし受け入れてもらえるだろうと孝洋は楽観視した。
初日にちょっとした魔法程度で驚かれたのは力の源泉であるはずの神との契約も済まぬ内に術を使ってしまったからであって、万全の状態の祈祷師にあの程度の術も使えないなどという事はまずあるまい。
蛇口に繋いでいないはずのホースから滾々と水が湧き出てくれば、それはまあ、驚くだろう。
郷長の驚きはそういう意味の驚きであったに違いないと孝洋は想像した。
忍術で地震が起こり、英雄が不思議な力で空を駆ける。
そんな世界で、神の代理にして村の有力者足り得る祈祷師が無力なはずがない。
神の後見を受けながら空すら飛べないとは考え難い。
孝洋の中のこの世界の祈祷師像は、仏教説話などで派手に神通力を使う坊主のイメージで固まりつつあった。
鉢に倉を乗せて山越えさせるぐらいは朝飯前だ。
「祈祷師らしい倒し方……剣で倒すのはまずいか」
神意の代行者としてメイスで頭をかち割るのもあるいはアリなのかもしれない、などと考えつつ、祈祷師、祈祷師、と孝洋はぶつぶつと呟いた。
やはり自然現象に関わりの深い神の使徒であるならば、自然の力を借りるのが正解に近いように思える。
「神の力だから何かこう、自然現象で殺傷力のある……アレにしよう」
言うが早いか孝洋は早速魔法の準備に入った。
孝洋が蓄えた魔力が勢いよく消費され、郷全体に広がる程の広範囲に不可視の結界が展開される。
結界を拠り所に結界が生じ、それを始点にまた結界が生え。
各々形状も効果も異なる結界が無数に現れては、役目を終えて消えていく。
結界それ自体は不可視だが、魔力を知覚できぬ者でも何かが起きている事ぐらいはわかる。
その程度には、変化は劇的であった。
川の水が勢いよく天に上り、異常な速さで雲が発達する。
急激な加圧減圧、加熱冷却によって雲がぐねぐねと形を変え、やがて空一面を黒雲が覆った。
里人のみならず妖怪までも、あまりに異常な事態に恐れ慄いている。
空から滑り降りてきた孝洋は減速の為に大きく旋回して矢倉の前にゆっくりと停止した。
矢倉の中にいた弓兵と目が合う。
「あれ、倒しても問題ないですか」
と孝洋は弓兵に問うた。
問われた弓兵は呆然とした様子で首を小さく縦に振った。
今の彼にまともな判断力が期待できるだろうかと孝洋は少し疑問に思ったものの、一先ず許可は得られたものと受け取った。
(……加減を間違えたかもしれん)
空一面の立派な黒雲。
天の底が抜けたような豪雨を予感させるそれが、不気味な沈黙を保っている。
里人も、妖怪も、見るからに怯えている。
という事は、普段の郷長ならこんな攻撃手段は使わないという事だな、と孝洋は理解した。
(今更雲を引っ込めても無かった事にはしてもらえないだろうしな……。
もうこのまま行ってしまおう。怯えている者に攻撃を加えるのは気が引けるが)
妖怪は毛か何かを飛ばして遠距離攻撃も出来るらしく、死者や重傷者こそ居ないものの里人に数人の怪我人が見られる。
妖怪の侵入を防ぐために橋も落としてしまったようだ。
人的物的に、無視できないレベルの実害が出ている。
何より、里人の放った矢が効いた様子が無い。
彼らの対処能力を超えた敵であるらしい。
(里人の手に負えない、明らかな害獣。気の毒ではあるが下手に仏心を出すべきでは無いな)
意を決し、妖怪を結界で締め上げる。
妖怪の頭上から雲へ向かって真っ直ぐと、棒状の結界を伸ばす。
雲にほど近い高さまで伸びた棒状の結界が拡張され、中空の筒状に変化した。
雨雲を包み込んでいた結界に穴が開き、筒状の結界と接続された。
これを放てばどのような評価を受ける事になるのだろう、と孝洋は想像を巡らせた。
最もマシな結果が特別腕の良い祈祷師との評価だろう。
その程度で済んだとしても、権力に近い者に目を付けられたり何かにつけ噂になったりと人目を意識した振る舞いを要求されるようになるに違いあるまい。
一度有名人側に行ってしまえば完全な一般人に戻るのは難しい。
孝洋は平穏から遠ざかる事になるだろう。
しかし要や次郎や郷長への脅威と成り得るこの妖怪を、このまま見逃すわけにもいかなかった。
見逃された妖怪がそのまま大人しく人に関わらず生きてくれる保証が無い。
(目立ちたくは無いが傍観者でいたくはない。そんな虫のいい話を通せる程俺は器用では無い。
両立させようってのがそもそも無茶だった)
どのみち、五代目に至るまで誰も救えなかった晴れ女を軽々と救って見せようというのだから、目立ちたくないというのはちょっと無理が過ぎる。
孝洋はなるべく目立たないようにとの方針の堅持を諦めた。
目立つ位置に移動し、片腕を上げる。
どうせなら自分の力が確かなものである事を見せつけて、晴れ女の脅威が去った事を強く印象付けてしまおうと考えていた。
「気象再現・雷霆!!」
叫び、上げていた腕を軽く振り下ろして筒状の結界の上端下端を解放した。
自分がこの現象を起こしたのだと宣言するかのように。
耳をつんざく轟音と共に、極太の稲妻が妖怪を貫いた。
─────
「……」
頭の働きは概ね良好ではあるものの、轟音と閃光によるショックで体が強張り言葉が出ない。
要は雷が苦手というわけでも無かったが、たとえ恐怖心がなくともこれ程大きな雷を至近で見たとなれば体が勝手に反応する。
症状から、強い緊張状態にあると推察される。
冷静に普段通りの判断が出来るつもりではあるが、緊張状態であるとなればこの自己評価もあてにはならないな、と要は現在の自分の判断力の評価を引き下げた。
それでも、行動を起こさねば少しまずい。
(世界間転移が可能だの魔法の修行を十年やっただの異世界を十年旅しただのと聞いていたからまだ驚きは少ないが、山本さんちょっとハッスルし過ぎだろう……)
要がある程度の冷静さを保てていたのは、孝洋ならばこの程度の芸当は可能だろうと予想出来ていたからだ。
なにしろ魔法である。前世の記憶にはゲームや漫画に関する知識が豊富にあり、それらの創作物における魔法の代表格は攻撃魔法であった。
炎を生み出し敵にぶつける魔法、高圧水流で敵を攻撃する魔法、温度を下げて敵を氷漬けにする魔法、そして雷で敵を打ち据える魔法。
核爆発で攻撃するような魔法も少なくはなく、雷などはまだ大人しい方だ。
しかしそれは、豊富な創作物に触れる機会のあった現代人なればこその感覚だ。
里人の目には孝洋の姿がどのように映っているだろうか。
(神域における神と同レベルの現象を起こしてしまっては、流石にまずい。
強すぎる力は恐怖を生む。味方の内は良いが、敵に回ればどうなるか。
自分が生まれる前からずっと居た神や、一般的な存在として定着している英雄ならば良いのだ。
しかし山本さんは……)
孝洋には信用が無い。
ふらりと現れた、見慣れない服装をした自称旅の祈祷師。
しかし、これはどう見ても祈祷師の所業ではない。
身分を詐称したのは何故なのか。どこから、何を目的としてここに来たのか。扱う力の正体は何で、その出所は何処なのか。
何もかもが不明瞭だ。
そうすると、この妖怪退治が善意でなされた事なのかどうかも疑わしくなってくる。
郷を守護する祈祷師にしてまとめ役である郷長の不在時に現れた、強大な力を持った不審人物。
それが孝洋である。
(恐慌、は流石にないか。
里人の多くは賢明だ。我々には山本さんに対抗する力が無いのは明白であるのだから、内心はともかくひとまず友好的な接触を試みるはずだ。
この場での問題は起きないと見ていいだろう)
しかし、後々の事を考えれば問題が無いわけではない。
大半の里人は孝洋を見るのもこれが初めてのはずなのだ。
つまりはこれが孝洋への第一印象という事になる。
一度刷り込まれた第一印象を覆すのは難しい。
孝洋を恐怖し危険視する里人が増えるのは、孝洋に恩のある人間として、要にとって好ましい事ではない。
(未知であるから怖いのだ。
既存のものと結び付け、理解できるものに落とし込んでしまえば恐怖は薄れる。
知っているというだけでなんとなく対処できるような気になってしまうのが人間というものだ)
「あ、か、要」
引き留めようとする次郎をかわして、要は孝洋のもとへと歩き出す。
呆然と孝洋を見ていた里人達の視線が要にも注がれ始めた。
(荒御魂を鎮撫する事で人を守る善神へと認識を挿げ替えるように、恐ろしい存在であっても既存の枠組みにはめ込んでしまえば、障りが無いままに時が過ぎれば、親しみを覚えるようにさえなるのだ。首輪を付けたと思い込ませればいい)
壊れた橋の手前に立ち、倒れ伏した妖怪を見る。
どうも、一撃で絶命したらしかった。
「山本さん、これはもう」
死んだのか、と要は空中に留まって所在無げにしている孝洋に問うた。
この里人たちの反応を予想していなかったという様子でもない。
要が動き出したのを見て、ひとまず動かずに様子を見る事にしたらしかった。
「死んだはずだ。脈も呼吸も無い。
妖怪の体の仕組みは知らないが、電気は内臓までしっかり通してある。
念の為にまだ押さえつけてもいる」
少し自信なさげながら孝洋が答えた。
呼吸や脈拍が元から無い可能性や、内臓への電撃が致命傷にならない可能性を考えているらしい。
妖怪相手に自分の常識が通じない可能性を考慮している。
派手な倒し方をして何を考えているのかと思ったが、頭の悪い人では無いな、と要は思った。
この世界に来たばかりだと言っていたから、思慮が浅く思えるこの行動もきっと認識の齟齬が原因なのだろう。
予備知識無しに見知らぬ国に放り込まれれば多少のミスはするものだ。
(表皮を通らずに体内を通ったのなら、まあ即死だろう)
雷による被害者の死亡率は世界平均で三割程、日本では七割程と、雷の持つエネルギーに比してそれ程高いものではない。
これは直撃以外の感電なども被害者数に含むからで、実際は直撃雷で八割程度の死亡率となっている。
それでも、二割程度は生存する。
通電時間が非常に短い為、電気が重要な臓器を避けて流れた場合には死亡せずに助かる可能性があるのだ。
中でも体表をごく短い経路で流れた場合は皮膚に火傷こそ負うものの重傷にはいたらず、短期間で回復する例が多いとされる。
内臓にしっかり電気を通したと話すあたり、孝洋は雷による攻撃の不確実さを認識している。
おそらく何度か失敗した事があるのだろうと要は考えた。
「山本さん、少し話を合わせて欲しい。あまり良くない状況だ。
あと、声がよく通るような魔法は無いだろうか。なるべく多くの里人に聞かせたい」
孝洋にどうにか聞こえる程度の小声で要が話すと、孝洋は神妙な顔でわかったと答えた。
一秒弱の間があって、声が通るように仕掛けをしたとの合図があった。
随分と手早い。
あるいは、似たような事態を想定して下準備を終えていたのかもしれない。
「不在の郷長草壁にかわりまして、まずは御礼を申し上げたい。
祈祷師、山本孝洋様。いえ……雷神様」
よく通る声で要が孝洋に語り掛ける。
雷神……と、そこかしこでつぶやきが聞こえる。
孝洋の表情が少し強張った。
「晴れ女の呪いを解くばかりか妖怪の襲撃からも救っていただき、深く感謝しております。
雷神様の巫女を務めるこの楠本要、雷神様への畏敬の念を一層深く致しました」
巫女、という単語に里人達が反応する。
いつの間に、昨日、そういえば次郎と一緒に郷長の家に、などと話し合う声が聞こえる。
一言も声を発する事の出来ない緊張状態は解消されたようだと、要は成果を確認した。
(私が巫女を名乗る事で、要ある限り山本孝洋は草壁郷を守護する神であり続けると認識させられれば一応成功だ。
相談出来る窓口があれば、理不尽への恐怖も多少なりとも緩和される)
「必ず、この御恩には報います。どうか末永く良い関係を」
言って、要が頭を下げる。
顔を上げて孝洋と目が合った。多少の緊張は見られるものの、落ち着いた表情をしている。
提示した設定と着地点がおおよそ飲み込めたらしい。
「雷神様、雷神様のお力で晴れ女の呪いが解かれました事、未だ周知出来ておりません。
里人の中には不安に思う者も少なからず居るものと思われます。
どうか、里人へお言葉を頂けないでしょうか」
しばしの沈黙。
これにアドリブで合わせろというのはちょっと無理があったか、と要の内心に焦りが生まれる。
しかし孝洋に全く喋らせず、要一人で話を締めるというのは少し難しい。
いまさら孝洋の声を待たずに要が話し出すのはちょっと収まりが悪いが、最早そうも言ってられないかと要が打開策を考え始めた頃、孝洋が口を開いた。
「縁あって楠本の家に助力する事になった、流浪する神にして雷神、山本だ。
見ての通り、雷雲は俺の意のままに動く」
言いながら、孝洋が天を指差す。
上空に静かに留まっていた雷雲がぐにゃりと形を変え、雲の内部で盛大に放電を始めた。
良いデモンストレーションだと要が頷く。
雷雲が孝洋の完全な制御下にあると嫌でもわかる。
「雷雲を操れる以上、雨を降らせる事など造作も無い。
俺がここに在る限り日照りを恐れる必要は無い」
孝洋が軽く腕を降ろすと稲妻が連続して地に落ちる。
稲妻を合図にするように、静かに雨が降り始めた。
「楠本要は晴れ女ではない。雷神に仕える巫女だ。晴れ女は既に死んだ。……俺が殺した!」
一際大きな稲妻が走り、雨脚が強くなった。
バケツを引っ繰り返したような、土砂降りの雨。
その雨の中であるにもかかわらず、魔法の効果によるものか、孝洋の声が響く。
「今日からは枕を高くして眠られよ。草壁郷は今日より渇水とは無縁となった」
─────
雨に打たれながら、ひとまずどうにかなったか、と要は安堵した。
雨でよく聞こえないながらも、所々で明るい声が聞こえる。
雷と土砂降りの雨という非日常、派手な演出による興奮状態。
そこに晴れ女問題の解決という好ましい情報を与えた事で好意的な雰囲気が形成されている。
一連の出来事はポジティブな感情と共に記憶され、それによって孝洋の第一印象もプラスの補正を受けるだろう。
もとより、神や英雄や妖怪と日常的に接するこの郷の人々は超常的な存在への抵抗感が薄い。
神という既知の存在で、巫女というストッパーが存在する。
ただそれだけで、孝洋への恐怖は一般的な神に対するそれと同程度まで引き下げられたはずだ。
演技を終えて冷静になった頭がこの騒動で新たに生まれた問題について考え始めるが、要はひとまずはそれを棚上げして家に帰る事にした。
「山本さん、向こうで兄さんを拾って取り敢えず帰ろう。風邪をひく」
「そうだな」
並んで歩きながら二人で色々と話をする。
ここまで濡れてしまえば走って帰るのも馬鹿らしい。
ゆっくりと、散歩するような速度で歩いた。
無茶振りはやめてくれだとか派手な行動は慎んでくれだとか互いに言い合いながら帰路に着く。
ひとしきり降ると、先程までの豪雨が嘘のようにさっと雨が止んだ。まるで夕立のようだ。
快晴であった午前中に温められた草花が、湿り気を帯びて匂い立つ。
夕立に、蒸れた草の匂い。
一足早く夏が来たようだと、要はすこし可笑しくなった。
(鏡に映る赤い目を見た時には、今年の夏は来ないかもしれないと思ったものだが)
今年もきっと、自分にも夏はやって来る。
要にはそんな予感があった。
山本孝洋は楠本家を救うために訪れた客人神、災厄を打ち払う雷神である。
そういう事になった。




