001 第一村人
「もし、そこのひと」
少女の声に男が顔を上げる。人が居るとは思わなかったと、男は少しうろたえた。
「そこで何を?もう日が暮れる。早く戻られた方が良い」
なにもかもがあいまいな夕暮れの中。
夕日の光を映してか、温かみのある赤い目をした少女が眼前に立っている。
夕日に照らされわずかに輪郭のぼやけた横顔は幻想的で、男にここが現実世界である事をしばし忘れさせた。
現実感の喪失によってであろうか。普段では考えられぬ程の無防備さで、男は心情を吐露した。
「ここは故郷に似ている。昼の日の下ではなく、夕日の下で一層そう感じる。
懐かしさのあまり心が縫いとめられて、どうにも離れがたい」
少女はどこか遠くを見るような目をしたあと、問いを続けた。
「故郷に戻る手立ては」
「無いわけではない。帰ろうともしている。だが、望み薄だ」
「故郷はどちらに」
「日本。と、いうてもわからんだろうな。遠く、遠くだ。遠すぎるほど……」
言って、男は空を見上げた。
正気に返り、少女の顔を直視できなくなったのだ。
こんな小さな子に心配をかけて、俺は何を似合わぬ事をしているのだ、と、男は感傷に浸っていた先程までの自分に心の中で呪詛を吐いた。
羞恥で顔が熱を持つのがわかる。顔の赤みは夕日で誤魔化す事ができているだろうか。
男は──山本孝洋は、ホームシックにかかっていた。
─────
孝洋と少女の出会いから遡る事三時間程。
季節は春。小さな環濠集落へと続く獣道染みた山道を、一人の男が下っていた。
男の名を楠本次郎という。次郎は環濠集落の住人であった。
次郎は集落の外での用事の帰りである。
集落の外は獣や妖怪の害があり、とても安全とは言い難い。
命の軽い外の世界を一人きりで出歩くなどという事は、褒められた行いでは無かった。
人の命はその人間個人の持ち物では無い。
身を寄せ合って生きてゆかねばならない世情であれば尚の事である。
集落の構成員として、次郎には自分の安全を充分に図る義務がある。
彼はそれをなおざりにしていた。
ただ、次郎にも事情というものがあった。
危険を冒してでも集落の外に行かねばならぬ、ぞろぞろと人を引き連れて行くわけにはいかぬ、そんな事情を次郎は抱えていた。
集落へあと一キロといった所で、道の傍でなにやら思案しているらしき男と出くわした。
堀の外とはいえこの辺りは既に集落の勢力圏内、道の周り一帯には田畑が広がり見通しも良い。
周辺には……少なくとも、すぐに飛び出してこられるような距離には人が隠れられるような物影がない。
男の風体からしても物盗りということはなさそうだと次郎は判断した。
「おい、あんたこの辺の人間じゃあなさそうだが、こんな所で何してる」
声をかけてから、少々軽率であったかもしれないと次郎は後悔した。
相手は一人、しかしこちらも一人。周辺には今は人は居ない。
万一相手が武器を持ち害意を持っていれば、自分は殺されるかもしれない。
不審者への誰何は集落に住む者にとっての義務であり、普段であれば一人で行動する事も無いのだから問題のある行動ではない。
しかし今の次郎にとって、これが良い判断であったとは言えない。
次郎は一人きりであり、しかも持ち帰らねばならない情報を抱えていた。
ここで次郎が死ねば、不審者の風貌に関する情報のみならず、危険を冒してまで集落の外で得た情報までもが失われてしまう。
軽率であったかも、ではない。明らかな失敗であった。
(村が見えて気が緩んだか……)
失敗を悟り嫌な汗が噴き出る。今からでも逃げるべきかもしれない。
しかしあまり急に動いて刺激してしまうのも良くない。
遠くから声をかけたから、逃げ切るに充分な距離はあるのだ。
逃げるにしても相手の様子を伺いながら……そこまで考えた頃、男が振り返り口を開いた。
「あ、はい。少々旅をしておりまして、その途中でここに出たという塩梅で」
咄嗟に後退り身構えたが、物腰からは脅威を感じない。
少し驚いたような様子ではあるが、至って穏やかで落ち着いた様子である。
次郎は少し考えすぎたかと安堵し、話を続ける事にした。
「旅、か。一人でか?
話に聞く英雄や神仙の類ならともかく、一人で旅なぞ出来るものではないだろう」
男は見るからに軽装だ。少し変わった服を着ているが、材質はおそらく麻。
合せから見える地肌を考えるに素肌に一枚羽織っただけだ。
袴は裾が絞られておらず、履物も藁を編んだらしきものをひっかけているだけ。
春とはいえまだ寒い。日が翳ればこの格好では凍えてしまう。
「それに、荷物はどうした。その風呂敷包み一つで旅をしているのか?」
見える範囲にある荷物は左手に提げた風呂敷包み一つ。それも小ぶりなものだ。
二、三日分の食料を詰めるのが関の山である。
なにより、武器らしきものが帯に差した剣一本。
幅広で小ぶり、鞘から抜けば刀身は二十センチ程だろうか。短剣と言って良い長さだ。
これで一人旅をするなど冗談もいいところだ。
ちょっと隣の村まで出かけてくる、その程度の装備である。
「まあ、私は旅の祈祷師でして。
山賊程度なら調伏できますし、行く先々で食料を分けて貰えますので」
男は少し困ったような様子を見せたが、すぐに立て直して説明を始めた。
事情説明を求められる事に慣れているように見える。
客観的に見てまだ充分に怪しい。怪しいが、次郎にとってはそれどころではなかった。
男は今、祈祷師と口にしたのではなかったか。
「祈祷師!祈祷師と言ったか!?」
「祈祷師です。……何かお困りで?」
詰め寄る次郎と余裕をもって穏やかに答える男。
この余裕、自分の力を当てにして縋られる事に慣れている。
頼みにされている事に気付きながらもまるで動揺する様子が見られない。
これは、期待できるのではないか。
「頼む、うちの村に来てくれ!見て欲しい奴がいるんだ!
姪っ子が呪いを受けちまって、どこの祈祷師も呪術師もよその村の事は口出しが出来ぬと……」
祈祷師・呪術師の類は基本的に村に常駐しており外に出張る事が無い。
自分の村の事は自分の村の祈祷師・呪術師に頼むのが筋である。
よその村のやりように口を出すのは要らぬトラブルの元だ。
助けが無ければ力が足りぬというのであれば、それこそが天の意思である。
よって手出しは無用である。
面倒を避ける為のただの方便だったが、それが常識であった。
次郎とてその程度の事を知らなかったわけではない。
しかし知っていたとして、だからどうだというのか。
姪を、優しかった兄と義姉が遺した一人娘を、後を頼むと託された人間が。
そう簡単に、諦められるものではない。
次郎の旅の目的は、どうにかして祈祷師や呪術師の類、姪を救う事の出来る何者かを集落に連れ込む事だった。
その旅の結果として、次郎は一人で集落へと向かっていた。
無理強いした結果、集落間の争いなどが起こってしまえば姪の立場も悪くなる。
大抵の人間は集落の中で生まれ集落の中で死ぬ。集落が世界の全てだ。
その中で災いの種と扱われるようであれば、死ぬのと然程変わり無い。
それでは呪いが解けても意味が無い。
祈祷師や呪術師に穏便にお越し願えなかった以上、次郎にはもはや為すすべなど無かった。
決死の覚悟を持っていたとしても、個人の力でできる事には限界がある。
次郎は失意の中帰路を辿っていた。
自分の村の事は自分の村で。祈祷師・呪術師は他所の村には手出し無用。
とはいえ、例外が無いでもない。まろうど、旅人の存在だ。
旅の者の助けを借りる事は天の意思になんら反するものではない。
旅人がふらりと訪れた事、呼びに行ける範囲に逗留していた事そのものが天命によるものであると解釈する事が出来る。
それ故旅の祈祷師や呪術師は重宝され尊ばれる。
次郎の本命は村に属する祈祷師・呪術師ではなく旅の祈祷師・呪術師だった。
しかしながらそんなものにそうそう出会えるものではない。
良くて数年に一度、山を二つ越えた所に泊まって行ったらしいなどと人づてに聞く程度。
次郎が村を訪問したその日その時その村で、ちょうど出くわすなどという事はありえない。
だから次郎も多少の期待こそすれ、そんなものと本当に遭遇できるとは思っても居なかった。
それが、目の前に居る。
軽装備ながらも旅装をした、自称祈祷師が。
救いの神が。
「伺いましょう」
「ありがたい!」
藁にも縋る思いで頼み込む次郎に男は淀みなく応えた。
次郎は感激のあまり涙を滲ませ、男の手を握り膝を折って拝んだ。
失敗を告げる為に帰路を急いでいた次郎にとって男はまさに救いの神であった。
絶望しきった心に差し込んだ一筋の希望は不信感を拭い去り信奉に近い崇敬の念を持たせるには十分な威力を持っていた。
─────
「あの、祈祷師様はなんとおっしゃる方なんで……」
はやる気持ちを押さえて失礼の無いようにゆっくりと男を先導しながら、次郎はふと疑問に思った事を尋ねた。
そういえば、まだ互いに名前も知らない。
「あ、自分から名乗りもせずに名前を聞くなどと、失礼を致しました。
自分は次郎といいまして、楠の木の近くに畑を持ってるもんだから楠本の次郎と呼ばれております」
「楠本さんですか。私は山本孝洋です」
礼を失している事に気付き早口で自己紹介をした次郎に、男、山本孝洋は静かに答えた。
不審者を問い詰める立場から一転、媚びるような低姿勢となった次郎を気にした様子も無い。
揺るぎの無い態度というものは、不安を感じている者にとってはとてもとても有難いものだ。
並みならぬ安心感を与えてくれる。
時には、実際に頼りになるかどうかよりも重視される要素である。
心乱される安全よりも、心安らぐ危険な場所。人はストレスに弱いのだ。
次郎の目には孝洋は人に頼られる側の人間として充分な資質を持っているように映った。
「山本様ですか。山本様は祈祷師になられてから長いんで?」
とはいえ、実際の能力を目にしたわけではない以上、不安を拭いきれるものでもない。
次郎は舞い上がりながらも多少の冷静さを残していた。
孝洋でも駄目ならもう誰も姪を助ける事は出来まい。頼るあてはもう無いのだ。
これで駄目だったとしても孝洋を恨むようなことはすまい。駄目で元々だったのだ。
……そう思いはしても、駄目でした、で諦められる程次郎は物わかりの良い男ではない。
孝洋と出会った事で勇気づけられ祈祷師探しの気力がまた湧いてきている。
孝洋の力が頼りになりそうになければ、今からでも他の旅の祈祷師を探しに行くつもりになっていた。
時間を無駄にしている余裕は無い。ここで孝洋の能力を量り切ってしまいたい。
「もう二十二、三年になりますかね」
「二十年以上!そうしますと生まれた時からの……」
「いえ、見た目は若いんですがもう少し年がいっております」
見た所十七、八の若者といった姿をしているが、見た目通りの年齢ではない。
そういう人間の話は次郎も聞いたことがある。
神や仙人、英雄もそうだという。
そういった人外の力を持った存在はほぼ例外なく長命で老いが遅いと聞く。
つまりは……
「山本様は……人を超えなすったんですか?」
「超え……? すみません、よくわかりません」
「そ、そうですか」
孝洋は少し戸惑った様子で答えた。
不快だというわけではないようだが、返答を濁したという事は触れない方が良いということなのかもしれない、と次郎は思った。
何か訳があるのだろう。なんにせよ、老化が遅いのであればなおの事期待が持てる。姪の呪いが解けるかもしれない。
次郎は期待が高まるのを抑える事が出来なかった。