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続きそうな短編集【南風と潮騒の伝承】

佐川様の御宝物

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/07/06

江戸時代、土佐・尾川村。ひとりの農家娘が、筆頭家老の奥へ召された。


 鷹でも茶壷でもあるまいに。


 誰かが、そう囁いた。

 侍の声は、珍しい鷹か、唐渡りの茶器でも運ばれてきたかのようだった。


 呂久ろくは駕籠の簾の内で、膝の上の布を握った。

 佐川の空はよく晴れていた。晴れていることが、かえって恨めしかった。駕籠の外には、深尾家の土居の門がある。尾川の山道で見たどの岩よりも大きく、冷たく、動かない門だった。


 門前に並ぶ侍たちは、誰も呂久を祝う顔をしていない。

 尾川の百姓娘が、一門筋の筆頭家老家に召される。しかも、下働きではない。深尾出羽守重昌の側室として奥へ上がる。


 それが、どれほど異様なことか。

 呂久にも分かっていた。


 駕籠の外で、また低い声がした。

「殿は、よほど珍しいものを拾うてこられた」


 別の声が、かすかに笑った。

「尾川の百姓娘を、奥へ飾るとは」


 飾る。

 その言葉が、簾を抜けて呂久の胸に刺さった。


 呂久は膝の上の布を握りしめる。尾川の女たちが持たせてくれた粗い木綿だった。目はそろわず、端は少し歪み、染めもない。嫁入り道具などと呼べるものではない。けれど呂久が村から持って来られたものは、それだけだった。


 自分は鷹ではない。

 腕に据えられ、空へ放たれるものではない。


 唐の茶壷でもない。

 蔵にしまわれ、客に見せられるものでもない。


 手だ。土を掴み、米を研ぎ、糸を撚ってきた手だ。


「お降りください」

 駕籠の外から声がした。


 呂久はすぐには動けなかった。この駕籠を降りれば、もう尾川の娘ではない。かといって、深尾家の女になれるとも思えない。足元にあるのは敷居ではなく、身分という見えない崖だった。


 どうして、こんなことになったのだろう。


 答えは、三月前の尾川にあった。




 その年、尾川の女たちは、例年より早く黙った。

 稲の穂は垂れていた。庄屋は「まずまず」と言い、男たちは、今年は年貢もどうにかなるろうと笑った。


 けれど呂久には、分かっていた。

 女たちの手が、早く空きすぎている。

 田に長く立った年の指は、もっと泥を覚えている。赤子を負う紐の結び目も、もっと固い。今年の手は、きれいすぎた。


 腹が鳴る前に、手が騒ぐ。


 その日、佐川から深尾出羽守重昌が来た。


 呂久は女たちと土間にいた。麻糸を撚っていた。向かいの家の若い嫁が糸を甘く撚ったので、呂久は笑って言った。


「糸が泣きゆう」

「泣くもんかね、糸が」

「撚りが甘いと泣く」


 女たちは少し笑った。

 笑いは囲炉裏の煙に混じって、すぐ消えた。


 重昌は庄屋の取り繕う言葉を聞き、蔵を見、水を見た。そのあとで、土間の女たちへ目を向けた。

「では、女の手も見る」


 庄屋は顔を上げた。

「女の手、にございますか」

「米は男だけで納まるものではなかろう」

 その言葉で、女たちは一斉に目を伏せた。


 重昌の目が、呂久の膝で止まった。


「その糸は、売るのか」

 母が隣で袖を引いた。見るな、話すな、余計なことを言うな。その指が、そう言っていた。


「売れるほどのものではございませぬ」

「では何にする」


「家のものに。破れたところを繕うたり、赤子の紐にしたり」

「余れば」

「余りませぬ」


 言ってから、強すぎたと思った。

 庄屋が息を呑む音がした。母の指が、呂久の袖に食い込んだ。


 重昌は怒らなかった。

「余らぬほど、使うのか」


「余らぬほど、足りませぬ」

 土間が静まり返った。


「娘の浅知恵にございます」

 庄屋が慌てて頭を下げる。


「呂久、もうえい」

 母が低く名を呼んだ。


 だが重昌は、庄屋を見なかった。

「今年は、足りぬ年か」


 呂久は迷った。

 庄屋は足りると言った。男たちは何とかなると言った。役人の前で村が苦しいなどと言えば、庄屋の顔を潰す。母が詫びて回ることになる。


 それでも、若い嫁の指を思い出した。

 撚りの甘い糸。緩い赤子紐。早く空きすぎた女たちの手。


「米は、すぐには尽きませぬ」

 呂久は言った。


「けれど、今年は皆、手がきれいすぎます。冬は、蔵が空になってから来るものではございませぬ。女らが黙り始めたら、もう来ております」


 誰かが小さく息を漏らした。

 泣き声ではない。笑いでもない。堪えていたものが、喉の奥から少しだけこぼれた音だった。

 重昌はしばらく黙っていた。


「去年、越せぬ声を聞き損ねた」

 呂久は目を上げた。


「帳面では足りるはずの村で、春を見ぬ子が出た。蔵の数だけ見て、人の腹を見ておらなんだ」

 庄屋は身じろぎもできなかった。


 重昌は、そこで初めて呂久をまっすぐ見た。

「呂久。そなたは、泣く前の声を聞いたのだな」


 名を呼ばれた瞬間、胸の奥を押されたような気がした。

 母に呼ばれる名とも、村の者に呼ばれる名とも違った。恐ろしいほど静かで、逃げ場がなかった。


「糸は泣くか」

「撚りが甘ければ、泣きます」


「人は」

 呂久は女たちを見た。

 誰も泣いていなかった。泣いていないのに、土間は湿っていた。


「泣く前に、黙ります」


 重昌の口元が、ほんの少しだけ動いた。


「覚えておこう」

 それだけ言って、重昌は供の侍へ目をやった。


「尾川の麻と木綿の出入りを調べよ。女仕事もだ」


 呂久は急に、自分が何をしたのか分からなくなった。

 村の困りごとを言ったつもりだった。だが、それは庄屋の不手際を殿に告げたことにもなる。

 蹄の音が遠ざかるまで、誰も動かなかった。


 やがて庄屋が呂久を睨んだ。母は何も言わず、呂久の手を掴んで土間の外へ引いた。

「おまん、何をしたか分かっちゅうがか」


 呂久は答えられなかった。

 ただ、袖に残った母の指の痛みと、名を呼ばれた時の胸の熱だけが、いつまでも消えなかった。

 三月も経たぬうちに、佐川の深尾屋敷から迎えが来た。




 駕籠を降りる時、膝が少し震えた。


 深尾家の奥は、音が少なかった。

 尾川の家には、いつも何かの音があった。薪の爆ぜる音。米を研ぐ音。赤子の泣く声。犬の吠える声。女たちが糸を撚りながらこぼす笑い声。


 ここには、それがない。

 足音も、衣擦れも、咳払いさえも、障子に吸われるように小さくなる。庭の砂は白く、踏まれても乱れない。柱は黒く磨かれ、呂久の顔がぼんやり映った。そこに映る自分は、見慣れぬ着物を着た知らない女だった。


 奥の部屋で、志津しづは待っていた。


 深尾重忠の娘。重昌の正室。幼い頃からの許婚だった人。

 呂久がそのことを聞いたのは、屋敷へ来る途中だった。奥方さまは殿と幼い頃より御縁のある方。御身体こそ弱うございますが、深尾のお家を誰よりも重んじておられる。


 それを聞いた時、呂久は布を握る手に力を込めた。

 身分だけではない。


 時でも、負けている。


 志津は、白い顔をしていた。

 病人の白さだった。だが弱々しくは見えなかった。背筋は細く、手首は折れそうなほどなのに、座る姿に乱れがない。目だけが静かに澄んでいる。


 呂久は畳に手をつき、深く頭を下げた。

「尾川村より参りました、呂久にございます」


 志津はしばらく黙っていた。


「顔を上げなさい」

 呂久は顔を上げた。


 志津の目が、呂久の顔ではなく、手元の布へ落ちた。

「それは」


「村の者が、持たせてくれました」

「売り物ですか」

「いいえ」

「では、なぜ持って来たのです」


 呂久は答えに詰まった。

「これしか、ございませなんだ」


 志津は何も言わなかった。

 布を見て、呂久を見て、それから静かに茶碗を置いた。


「殿の御心は、そなたをここへ入れました。けれど、ここに留めるものは別です」

「はい」

「奥は、情だけで立つ場所ではありません」


 呂久はさらに頭を下げた。

 頬が熱い。恥ずかしさなのか、怒りなのか、自分でも分からなかった。

 情。


 その言葉を、志津の口から聞かされることがつらかった。


 自分は本当に愛されているのか。才を買われたのか。珍しがられただけなのか。呂久自身、まだ分からなかった。


「奥方さま」

 呂久は絞り出すように言った。


「わたくしは、深尾のお家を乱すつもりで参ったのではございませぬ」

「乱す者は、たいていそう言います」


 志津の声は冷たくはなかった。

 だから余計に刺さった。


「けれど、乱れるかどうかは、そなたのつもりでは決まりません」

 呂久は何も言えなかった。




 家中の反発は、呂久にも聞こえた。

 誰も面と向かっては言わない。けれど廊下の角、障子の向こう、庭を挟んだ別室から、言葉の端は漏れる。


「家臣の娘ならまだしも」

「庄屋筋でもない」

「尾川の百姓娘とは」

「殿は、これまでどなたを勧めても固辞なされたというのに」


 その言葉を聞いた時、呂久は足を止めた。

 これまでどなたを勧めても。

 ならば、なぜ自分だけがここにいるのか。

 考えるほど、胸の奥が重くなった。


 重昌は呂久に優しかった。


 ただし、人前では距離を置いた。奥で二人きりになると、少しだけ声が柔らかくなる。それが呂久には嬉しく、怖かった。


 ある夜、重昌は膳に出された白い飯に箸をつけず、呂久に尋ねた。

「尾川では、冬に何を食う」


「粟です。干し菜です。味噌を薄めます」

「うまいか」

「腹が空けば、たいていのものはうまいです」


 重昌は笑わなかった。

 屋敷の者たちは、尾川の食べ物の話をすると、どこか困ったような顔をする。だが重昌は目を逸らさなかった。


「薄めた味噌は、どれほど薄い」

「椀の底が見えるほど」


 重昌は、自分の膳の椀を見た。汁は濃く、具も多い。

「去年、わしは椀の底を見ておらなんだ」


 この人は、自分の村を笑わない。

 そのことが、呂久の胸を危うくした。


「そなたは、領内を見る目を持つ」

 重昌は言った。


「わしはそれを買った」


 呂久は、そこで聞きたくなった。

 殿は、本当にそれだけでわたくしを召したのですか。


 だが聞けなかった。

 もし才だと言われれば、どこか寂しい。もし情だと言われれば、もっと怖い。情は米より傷みやすい。いつ冷めるか分からない。


 才で呼ばれたと思いたかった。

 才なら、働けばよい。足りなければ磨けばよい。けれど情で呼ばれたのなら、自分は何を磨けばここに残れるのだろう。




 奥の女たちは、呂久を丁重に扱った。

 丁重であることは、親しいこととは違う。


 ある日、若い女中が、袖口のほつれを直していた。

 呂久は思わず手を伸ばした。


「そこは、糸を替えた方がえい」


 女中の肩がびくりと跳ねた。

「申し訳ございませぬ」

「怒ったのではない。貸してみい」

 呂久が針を取ろうとすると、女中は固まった。

「呂久さまのお手を煩わせるわけには」


 さま。

 その呼び方が、くすぐったくて痛かった。


「手を使わねば、手ではなくなります」

 呂久はそう言って、針を取った。

 指が自然に動く。ほつれの目を拾い、糸の撚りを確かめ、布の疲れたところを少しだけ余らせる。


 女中がぽつりと言った。

「お上手でございますね」

「上手ではない。これしかしてこなかっただけ」


 女中は少し笑った。

 その笑いは、呂久が屋敷へ来てから初めて聞いた、こちらへ向いた笑いだった。

 だが、その笑いはすぐに消えた。


 重昌が廊下の端に立っていた。

 女中は青ざめて平伏した。呂久も慌てて針を置こうとした。側室として置かれた女が、女中の袖を直している。咎められると思った。


 重昌は歩み寄り、呂久の手を見た。

 麻で荒れた指。針を持つ時だけ迷わない指。尾川から持って来た、隠しようのない手。


「その手を隠すな」


 呂久は動きを止めた。

 重昌は、落としかけた針をそっと拾い、呂久の前に置いた。

「わしが召したのは、その手ごとだ」


 呂久は顔を上げられなかった。


 才を買われたのだと思いたかった。けれど今の言葉は、才よりも深く、もっと逃げにくい場所へ届いた。


 その手ごと。

 尾川も、土も、糸も、荒れた指も、全部見られていた。

 その夜、呂久は尾川の冬を思い出した。

 女たちの手。空いた手。借りる口実を探す手。糸を撚る手。

 あの手を、ただ黙らせておくのは惜しい。


 呂久は重昌に話した。

「村の女たちに、糸を回せませぬか」


 重昌は静かに聞いた。

「麻でも木綿でも、冬に撚らせ、織らせます。買い上げる仕組みがあれば、少しは銭になります。冬に田は動きませぬ。けれど手は動きます」


「誰が仕切る」

「わたくしが」


 言ってから、自分でも驚いた。

 重昌は驚かなかった。

「そなたの名で出せば、潰される」


 呂久の胸が冷えた。

「わたくしが、尾川の娘ゆえですか」


「そうだ」

 重昌はきれいごとを言わなかった。


「家中はまだ、そなたを呑み込んでおらぬ。領内の仕組みに口を出せば、才を見る前に身分を見る」


「では」

「形を整えねばならぬ」

 その答えは、翌日、志津の口から出た。




 志津の前には、白い紙と筆が置かれていた。


「糸は、どこから入れます。誰が教えます。織った布を、誰が買います」


 呂久は答えようとして、言葉に詰まった。

 考えていたつもりだった。けれど、それは村の土間で思いつく形のままだった。屋敷の帳面に乗せるには、足りないところだらけだった。


「思いつきは、情けに似ています」

 志津は言った。


「手に持っているうちは温かい。けれど人に渡すには、こぼれぬ器が要ります」

「奥方さまは、諦めよと仰せですか」


「逆です」

 志津の声は、少しも揺れなかった。

「やるなら、潰されぬ形にしなさい」


 その日から、呂久は志津の前で帳面を書いた。


 糸の出入り。村ごとの女手。布の値。損をする者が出ぬように、数字を合わせる。

 針ならば何度でも刺し直せた。

 けれど数字は、刺した場所が見えなかった。

 志津の問いは、糸をほぐす指ではなく、絡んだ糸を断つ小刀に似ていた。


「この値では、織る女が損をします」

「けれど、高うすると買い手が」

「だから考えるのです」


 紙が戻される。

 呂久はそのたびに、尾川の女たちの手を思い出した。数字の一つがずれれば、あの手から銭がこぼれる。


 帳面は冷たいものだと思っていた。

 けれど冷たいのは、使う者の手なのかもしれなかった。


 ある夕刻、志津が咳き込んだ。

 乾いた咳だった。白い手が口元を覆い、細い肩が小さく折れた。呂久は慌てて水を差し出す。


「お休みください」

 志津は水を受け取り、一口だけ飲んだ。


「休めば、深尾の名も休むのですか」

 呂久は言葉を失った。

 病の人ではない。

 病を抱えたまま、倒れることを許されぬ人なのだ。




 それでも、奥の空気は変わらなかった。


 ある日、呂久は廊下の向こうで、女中たちの囁きを聞いた。

「鷹でも茶壷でもあるまいに」


 声はすぐ止まった。

 呂久が立っていることに気づいたのだ。


 女中たちは青ざめて頭を下げた。

「申し訳ございませぬ」


 呂久は何も言わなかった。

 怒る気にはならなかった。怒れるほど、自分の立場を持っていなかった。


 鷹。

 茶壷。


 その言葉が胸の奥で転がった。

 鷹ならば、腕に据えられても空を見る。放たれれば、自分の翼で戻ることも、戻らぬこともできる。

 茶壷ならば、蔵にしまわれる。珍しいものとして守られ、客の前にだけ出される。


 では、自分は何なのか。

 飛ぶ羽もなく、しまわれるほど高価でもない。

 ただ、手だけがあった。


 その夜、呂久は眠れなかった。


 重昌の部屋へは行かなかった。行けば優しくされるだろう。その優しさに縋れば、もう戻れなくなる気がした。


 翌朝、呂久は志津のもとへ行った。

 障子の前で手をつき、告げた。

「奥方さま。お願いがございます」

「入りなさい」


 志津は文を読んでいた。顔色は悪い。唇に血の気がない。だが目はいつものように澄んでいた。

「どうしました」


 呂久は頭を下げた。

「わたくしを、尾川へお返しください」


 部屋の空気が止まった。


「なぜ」

「わたくしがおれば、奥方さまを傷つけます。殿を家中と争わせます。深尾のお家を乱します」


「戻って、元に戻れるとでも」

 呂久は答えられなかった。


 分かっていた。

 戻れない。屋敷を出ても、もう元の呂久ではない。深尾の門をくぐった時に、尾川の娘だった自分は一度死んだのだ。


「戻るなど、許しません」

 志津の声が、初めて鋭くなった。


 呂久は顔を上げた。


 志津の手が、膝の上で震えていた。怒りのためか、病のためか分からない。だがその目だけは、これまで見たどの時よりも強かった。


「そなたをここへ入れたのは、わたくしです」


 呂久は、言葉の意味が分からなかった。


「奥方さまが」

「そうです」


 志津は小さく息をついた。

「殿には、これまで何度も側室を勧めました。けれど、殿はすべて退けられた」


「なぜ」

「わしには志津がいる、と」


 その言葉は、呂久の胸にも痛かった。

 志津は笑わなかった。


「嬉しゅうございました。けれど、その情だけでは深尾は続きません」

 白い指が、膝の上でかすかに震えていた。


「殿が初めて退けなかった女。それが、そなたです」


「わたくしが、奥方さまから殿を奪ったのでは」

「奪えるほど、殿は物ではありません。そして、わたくしも、奪われるだけの女ではありません」


 呂久は息を呑んだ。

「戻ることは許しません。そなたを入れるために、わたくしも飲み込んだものがあります」


 志津の声が、わずかに掠れた。

「愛されるだけで潰れるなら、ここで潰れなさい。残るなら、そなたの手で残る理由を作りなさい」


 呂久は畳に手をついた。

 涙が一粒、畳に落ちた。


「奥方さま」

「その呼び方は、おやめなさい」


 呂久は顔を上げた。

「では、何と」


「志津、と」

「よろしいのですか」


「許しただけです。甘えてよいとは言っていません」

 その硬さが、かえってありがたかった。


「志津さま」

 声に出した瞬間、呂久の中で何かが変わった。


 目の前にいるのは、正室という役目だけではなかった。幼い頃から重昌を愛し、それでも自分をここへ入れた女だった。病みながら、傷つきながら、深尾という名を次へ渡そうとする女だった。


 けれど、呂久がここに残る理由は、それだけではない。


 呂久は涙を拭った。

「わたくしは、ここに残りとうございます」


 志津は黙って聞いていた。

「殿に召されたからでも、志津さまに許されたからでもなく、尾川の手を黙らせぬために」


 長い沈黙のあと、志津が言った。

「ならば、まず字を覚えなさい」

「はい」

「汚い帳面では、人は救えません」


 呂久は泣きながら笑った。

「はい、志津さま」




 機織りの案は、志津の名で出された。


 表向きは、奥向きの差配だった。女たちの冬仕事を整え、領内の暮らしを助ける。そういう形にすれば、家中は表立って潰せない。


 けれど実務は、呂久が詰めた。

 尾川だけではない。周辺の村の女手を数え、糸の出入りを調べ、布の値を決めた。志津が文を書き、重昌が印を押した。


 家臣たちはまだ納得していなかった。


 ある日、評議の席で一人が言った。

「奥に、土の匂いが入りましたな」


 場が凍った。

 呂久は膝の上の手を握った。

 志津が静かに返した。

「土の匂いを嫌う家が、何を食べて続きましょう」


 それ以上言う者はいなかった。


 だが、志津が道を開いてくれただけでは何も変わらない。

 歩くのは、呂久だった。


 村へ糸を回す。教え手を探す。織り損じを引き取る。町方に売り先を作る。帳面の数字は何度もずれた。値を高くすれば買い手が渋り、安くすれば女たちの手から銭がこぼれる。


 そのたびに、呂久は尾川の女たちの顔を思い出した。


 あの手を、黙らせない。

 ただ、それだけを考えた。




 冬が来た。

 尾川には、例年より早く霜が降りた。薪は細り、粟は混じり、赤子は夜に泣いた。


 けれど、その冬、女たちの手は黙りきらなかった。

 麻が回った。木綿が回った。撚った糸が集まり、粗い布が織られた。最初は目が乱れた。端が歪んだ。売り物にならぬものも多かった。


 それでも、手は動いた。


 佐川の奥へ、尾川から布が届いた。

 呂久はその布を膝に広げた。


 粗い。

 まだ粗い。


 けれど、あの日持って来た布より、少しだけ目がそろっている。


 重昌がそばに座った。

「そなたは、冬を少し遠ざけた」


 呂久は首を振った。

「わたくし一人ではございませぬ」


 視線の先に、志津がいた。

 志津は布を手に取り、指先で目を確かめた。顔色は相変わらず白い。近頃は咳も増えた。それでも布を見る目は鋭かった。


「まだ粗い」

「はい」


「けれど、破れにくい」

 呂久は息を止めた。

 それが、志津なりの褒め言葉だと分かった。


「ありがとうございます」

「礼は、尾川の女たちへ」

「はい」


 志津は布を畳み、呂久へ返した。

「この布は、蔵へ入れずに使いなさい」

「使う、のでございますか」

「布は使うものです」

 その言葉に、呂久は胸を突かれた。


 鷹でも茶壷でもあるまいに。


 門前で聞いた嫌味が、遠くなる。


「志津さま」

「何です」


「わたくしは、飛ぶ鷹にはなれませぬ」

「あたりまえです」


「けれど、蔵へ入れられる茶壷にもなりませぬ」

 志津の目が、わずかに和らいだ。


「知っています」


 ただ、それだけだった。

 それだけでよかった。


 その仕組みは、ひと冬で終わらなかった。


 次の冬も、その次の冬も、尾川から布は届いた。粗い布は少しずつ目をそろえ、女たちは少しずつ値の取り方を覚えた。手は、黙るばかりではなくなった。




 それから幾年かして、佐川の子供たちが庭先で歌っているのを、呂久は聞いた。


 佐川殿様の御宝物は、

 野田の太兵衛さんに白斑の御鷹、

 唐の茶壷に於呂久さま。


 呂久は廊下の陰で足を止めた。


 子供たちは意味を分かっているのかいないのか、調子よく歌っている。白斑の鷹も、唐の茶壷も、於呂久さまも、同じ拍子で跳ねていく。


「宝物らあ、よう言う」

 呂久は小さく呟いた。


 隣で、志津が聞いていた。

 いつからいたのか分からなかった。病のせいか足音が軽い。いや、もともと志津は、気配を乱さぬ人だった。


「嫌ですか」

 志津が尋ねた。


「嫌というより、落ち着きませぬ」

「でしょうね」

「志津さまは、嫌ではございませぬか」


 志津は庭を見た。

 梅の枝に、薄い蕾がついている。冬を越した枝は黒く、固く、けれど先に小さな色を含んでいた。


「初めは、嫌でした」

 志津は言った。

 呂久は黙った。


「殿の望んだ女が、歌になるなど」

 志津は淡々と言った。

 その淡々とした声が、かえって呂久の胸を締めつけた。


「けれど、残った者がそう呼ぶなら、それでよいのでしょう」

「残った者」

「宝とは、自分で名乗るものではありません」


 志津は呂久を見た。

「誰かが、失ってはならぬと思った時、そう呼ぶのです」


 呂久は膝の上で、自分の手を見た。

 爪の際の土は、もうない。

 けれど、親指の腹には、糸を撚る時にできた硬さがまだ残っている。


 宝など、分からない。

 ただ、この手で残したものがある。


 子供たちの歌が、庭を抜けていく。


 佐川様での御宝物は。


 尾川の女たちの手。志津の白い指。重昌の静かな目。母が袖を握った痛み。土間で黙っていた嫁たち。粗い布。汚い字の帳面。冬の朝に届いた麻。

 

 どれも、蔵にしまえるものではなかった。


 白斑の御鷹。

 唐の茶壷。

 そして、於呂久さま。


 志津が静かに言った。

「呂久」

「はい」


「次の帳面を持って来なさい」

 呂久は笑った。

「はい、志津さま」


 春の風が、庭の白砂をかすかに撫でた。


 呂久は帳面を取りに立った。

 その手には、まだ糸の硬さが残っていた。



ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。


本作『佐川様の御宝物』は、土佐藩筆頭家老・佐川深尾家二代当主、深尾重昌の側室として伝わる「於呂久さま」を題材にした歴史恋愛短編です。


『佐川郷史』では於呂久、またはお呂久夫人は、尾川村、現在の高知県高岡郡佐川町尾川地区引地の百姓・西内与助の娘であり、美人であったと紹介されています。


呂久は、深尾重昌の側室となった後、正室との序列を厳しく守り、重昌の酒色を戒め、家臣や領民をよく助けた賢婦として伝えられています。また、邸内の女性たちの先頭に立って機を織り、陣衣や陣幕を手作りしたこと、領内の開墾・植林・河川改修などにも関わったことが記されています。


その事績は、尾川のお呂久新田やお呂久堰、妙像寺山門のお呂久の楓などに伝えられてます。機織りなどに功績があったという伝承や、妙像寺再興に関わったともいわれることから、単なる「寵愛された女性」ではなく、佐川の土地に何かを残した女性として記憶されてきたのだと思います。


重昌は山内一豊の弟・山内康豊の子であり、深尾家は佐川領一万石を預かる土佐藩筆頭家老の家でした。その当主が、百姓の娘を側室に迎えたというのは、相当に異例な出来事であったと思われます。


また、佐川に伝わる俗謡には、


 佐川殿様の御宝物は

 野田の太兵衛さんに白斑の御鷹

 唐の茶壷に於呂久さま


という歌があります。


名鷹や唐物の茶壷と並んで、一人の女性の名が「御宝物」として歌われる。その不思議さに強く惹かれました。宝とは何か。飾られるものなのか、失ってはならないものなのか。本作では、その問いを軸に、於呂久という女性を描いてみました。


さらに、お呂久夫人については「おろく、おろくと木芽もなびく」「こんど行く時ゃお呂久をつれて、おろくは櫓も押しゃ櫂もとる」といった俗謡も伝わっています。そこからは、於呂久さまがただ奥に飾られた美女ではなく、人々に親しまれ、働き者で、何でもこなす女性として記憶されていたことがうかがえます。


ただし、作中の志津という正室像、重昌との幼馴染設定、側室を勧めた経緯、呂久との会話や奥向きのやり取りは創作です。史料に残る隙間に、物語としての糸を通しました。


身分の隔たり、正室と側室、家を継ぐこと、土地を支える女たちの手仕事。現代の感覚では割り切れないものばかりですが、その中でも誰かを思い、家を思い、土地を思って生きた人々がいたはずです。


呂久は、自分が後世に「御宝物」と歌われるなど、思いもしなかったかもしれません。

けれど、名を残そうとしなかった手の仕事ほど、長く人を温めることがあります。


この物語が、佐川の山あいに響いたかもしれない機の音を、少しでも思い浮かべるきっかけになれば幸いです。


なお、同じ題材で、『幼馴染の正室が農民の娘を側室に推してくる件』も投稿しています。こちらは重昌視点のライト版です。ご興味がありましたら、ぜひご一読ください。


参考文献:『佐川郷史』、『土佐藩家老物語』

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