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観測者の分岐

作者: akira
掲載日:2026/04/09

崖から落ちた記憶がある。


だが、その後の記憶がない。


——本当に、自分はあの時“助かった”のか。


子どもの頃、崖から落ちた——はずだった。背中を強く打ち、息ができなくなったところまでは覚えている。


だが、その後の記憶がない。


気がつけば、何事もなかったかのように日常に戻っていた。ケガもなく、後遺症もなく。


——あの時、もし本当に落ちていたら。今の自分は、ここにいなかったのかもしれない。


その違和感は、長い間ただの“間違った記憶”だと思っていた。だがそれは記憶の問題ではなく、「観測」の問題


量子的に分岐した二つの現実。そしてそれを“どちらか一つに確定させる”人間の脳。


やがて、主人公の前に現れる、もう一人の自分。


落ちた自分と、落ちなかった自分。


どちらが本当なのか。それとも——どちらも本当なのか。


第1章 消えない記憶


子供の頃の記憶は曖昧だ。どれだけ大切だったはずの出来事でも、時間が経てば輪郭はぼやけ、やがて断片だけが残る。笑っていたのか泣いていたのかすら曖昧になり、ただ「そんなことがあった」という事実だけが、かすかな痕跡として心の奥に沈んでいく。


だが、その中にあって、どうしても消えない記憶がある。


思い出そうとしなくても浮かび上がる。むしろ、忘れようとしたときほど鮮明になる。理由は分からない。ただ、そこにあり続ける。


私にとって、それは「崖」の記憶だった。


その日のことを、私は今でも細部まで思い出すことができる。空の色、風の匂い、足元の土の感触。普通ならとっくに消えているはずの細かな情報が、なぜか一切失われていない。むしろ、時間が経つほどに補強されていくような感覚すらある。


あの崖の出来事を思い出すとき、どうしても一つだけ引っかかる記憶がある。


それは、その日の出来事ではない。


もっと前、ほんの些細な出来事だ。


だが今になって思えば、それが最初だったのかもしれない。


ウサギの世話をしていたときのことだ。


餌箱の前で、小さく体を動かしながら、いつものように餌をかじっていた。その動きも、耳の揺れ方も、細かいところまで覚えている。


だが、次の瞬間——


いなかった。


本当に、一瞬だった。


視線を少しだけ外して、もう一度見たときには、そこにいるはずの白い姿が消えていた。


「……あれ?」


思わず声が出る。


小屋の中を見渡す。


隅にもいない。影もない。


扉は閉まっている。外に出たはずはない。


「佐藤、ウサギどこに行ったか知らないか?」


後ろにいたはずの佐藤に声をかける。


「え?いるだろ」


その答えに、もう一度小屋の中を見る。


いた。


さっきまでいなかったはずの場所に、普通に座っている。


何事もなかったかのように、こちらを見ている。


「……いや、今いなかったよな?」


思わず言う。


佐藤は不思議そうな顔をする。


「何言ってんだよ。さっきからずっといるぞ」


その言い方は、嘘をついている様子ではなかった。


本当に、そう見えているのだ。


もう一度、ウサギを見る。


確かにいる。


餌を食べている。


さっきまでの「いなかった」感覚の方が、むしろおかしいように思えてくる。


「……見間違いか」


自分に言い聞かせるように呟く。


だが、その違和感は消えなかった。


むしろ、じわじわと広がっていく。


さっき確かに「いなかった」という感覚と、「ずっといた」という現実。


その二つが、うまく重ならない。


帰り道に入ってからも、そのことが頭から離れなかった。


あの一瞬、何が起きたのか。


本当に見間違いだったのか。


それとも——


「いなかった時間」が、確かに存在していたのか。


その答えは出なかった。


だが今なら分かる。


あれは消えたのではない。


「別の状態にあった」だけだ。


そして私は、それを一瞬だけ認識してしまった。


存在している状態と、存在していない状態。


その両方を。


あのときすでに、境界は揺らいでいた。


崖に行く前から。そして、小学校三年の秋だった。放課後、教室に残っていた理由もはっきりしている。クラスで飼っていたウサギの世話当番だった。白い毛並みで、耳の先だけが少し灰色がかっている。人懐っこいというよりは臆病で、近づくと一歩だけ後ろに下がるような癖があった。


その日も、いつもと同じように餌をやり、水を替え、藁を整えていた。だが、校舎の空気は普段とは違っていた。人がほとんどいないせいか、音がやけに響く。遠くで誰かが椅子を引く音や、廊下を歩く足音が、必要以上に大きく感じられた。


一緒に当番だった佐藤が、ほうきを動かしながら言った。


「なあ、このウサギってさ、いつまでいるんだろうな」


その言い方には、特別な意味はなかった。ただの思いつきのような問いだった。


「ずっといるんじゃないのか」


私はそう答えた。何も考えていなかった。ただ、その場を埋めるための言葉だった。


だが佐藤は首を振った。


「いや、動物ってさ、急にいなくなるだろ」


「いなくなるって?」


「死ぬんだよ」


その言葉はあまりにもあっさりしていて、逆に現実味がなかった。


私はウサギを見た。ちょうど餌をかじっているところだった。何も知らないような顔で、ただ目の前のものを食べている。


「でもさ」


佐藤は続ける。


「変じゃないか?さっきまでいたのに、急にいなくなるんだぜ」


その言葉が、妙に引っかかった。


“さっきまでいたのに、いなくなる”


そのイメージだけが、なぜか頭に残った。


作業を終えて校門を出た頃には、空はすっかり夕焼けに染まっていた。オレンジ色の光が校舎の壁に反射し、影が長く伸びている。昼間とは違う、少しだけ静かな世界だった。


ランドセルを背負い、歩き出す。いつもと同じ帰り道。見慣れた景色。


途中で高橋と合流した。


「遅かったな」


「当番だったから」


「ふーん」


それだけの会話だった。


そのあとも、テレビの話やゲームの話をしながら歩く。何も特別なことはない。ただの日常だった。


やがて分かれ道に差しかかる。右に行けば住宅街、左に行けば細い道。その先に崖があると、何度も聞かされていた場所だ。


高橋は迷わず右に曲がる。


「じゃあな」


「うん」


それだけ言って別れた。


私はその場に立ち止まった。


本来なら、同じように右へ進むはずだった。


だが、その日は違った。


左の道に、視線が引き寄せられる。


理由は分からない。


ただ、その先の景色が頭に浮かんでいた。細い道、揺れる草、そして崖。


そしてもう一つ。


「ここで落ちる」


その言葉が、はっきりと頭の中にあった。


怖いはずだった。普通なら避けるはずだった。


だが、そのときの私は逆だった。


確かめなければならない。


そんな感覚があった。


足が、自然と左へ向かう。


草が足に触れる。乾いた音がする。風が通り抜け、葉が擦れ合う。


誰もいない。


それでも、不思議と怖くはなかった。


むしろ、知っている場所に戻ってきたような感覚があった。


やがて視界が開ける。


崖だった。


思っていたよりも高い。下を覗くと、吸い込まれそうになる。


その瞬間、確信が強まる。


ここだ。


次の瞬間、足元が崩れた。


土が崩れ、体が前に傾く。


時間がゆっくりになる。


落ちる。


分かっていた。


分かっていたのに、止められなかった。


体が空中に投げ出される。


風が一気に強くなる。耳元で音が鳴る。


視界が回転する。


空と地面が入れ替わる。


息ができない。


叫ぼうとしても声が出ない。


そして、衝撃。


体が地面に叩きつけられる。


痛みが走る。


呼吸ができない。


視界が白くなる。


そのときだった。


自分を見ていた。


崖の下に倒れている自分と、崖の上に立っている自分。


二つの視点。


同時に存在している。


どちらも自分だと分かる。


だが、それはありえない。


思考が追いつかない。


世界が揺れる。


音が遠ざかる。


視界が暗くなる。


そして——


すべてが消えた。


気がつくと、家にいた。


玄関で靴を脱いでいる。ランドセルを背負ったまま。


「おかえり」


母の声。


日常の音。


何も変わっていない世界。


だが一つだけ違っていた。


私は、落ちた記憶を持っている。


それも、はっきりと。


痛みも、恐怖も、全部。


それなのに、生きて帰ってきている。


その矛盾だけが、消えずに残った。


そしてそれが、すべての始まりだった。


第2章 ずれていく日常


子供の頃の記憶は、不思議な形で残る。


はっきりと覚えている場面もあれば、断片だけが浮かび上がるものもある。そして、そのどちらにも当てはまらない、説明のつかない「感覚だけの記憶」がある。


長い間、私はそれを「曖昧な記憶」だと思っていた。


思い出せないだけで、本当はちゃんとした形があるのだと。


だが違った。


それは、思い出せないのではなく——


「一つに定まっていない」だけだった。


きっかけは、大学に入ってからだった。


ある講義の帰り道、ふとした瞬間に、子供の頃の光景が蘇った。


場所は、あの飼育小屋の前。


夕方の光が差し込んでいて、影が長く伸びている。


その中で、自分が立っている。


ただそれだけの、何でもない記憶。


だが、その場面に妙な違和感があった。


「……こんなだったか?」


立ち止まる。


記憶を辿る。


すると、その光景がわずかに揺らぐ。


同じ場所、同じ時間。


だが、少しだけ違う。


一つは、誰もいない小屋の前に立っている自分。


もう一つは、佐藤と話している自分。


さらにもう一つは——


ウサギがいない小屋を覗き込んでいる自分。


複数の場面が、同時に浮かび上がる。


「……なんだよ、これ」


思わず呟く。


その瞬間、理解が追いつく。


これは「思い出している」のではない。


「選び直している」感覚だ。


どの記憶が正しいのかを、今この瞬間に決めようとしている。


だが——決めきれない。


どれもが現実だった感覚を持っているからだ。


そのとき、ふと気づく。


子供の頃、自分は「違和感」を感じていた。


だが、それを深く考えることはなかった。


ただ流していた。


理解するための知識も、経験もなかったからだ。


だから、曖昧なまま残った。


いや——


曖昧なのではない。


「確定していない状態」で、ずっと保留されていた。


今になって、それが動き出している。


人生経験が増え、知識が増えたことで、「意味を持ってしまった」からだ。


「……そういうことか」


ゆっくりと息を吐く。


子供の頃の自分は、すでに境界に触れていた。


だが、それを認識できなかった。


だから、そのまま通り過ぎた。


だが今は違う。


理解してしまう。


意味を見つけてしまう。


それが、現象を加速させている。


記憶は、固定されたものではない。


観測されることで、初めて形を持つ。


そして今、自分は過去すらも観測している。


その結果——


過去が、一つに定まらなくなる。


「……やばいな」


静かに呟く。


未来だけではない。


現在だけでもない。


過去すら、分岐している。


それはつまり、自分という存在そのものが、固定されていないということだった。


歩き出す。


だがその一歩すら、わずかに揺らぐ。


進んだ自分と、立ち止まった自分。


その両方の感覚が、同時に残る。


それでも、進むしかなかった。


もう戻れないところまで来ている。


そう、はっきりと分かっていた。


中学生になって最初に感じたのは、「違和感の質が変わった」ということだった。小学生の頃は、あの崖の記憶だけが異質だった。思い出すたびに現実と噛み合わない、説明できない一つの出来事。しかし中学に入ってからは、その「説明できなさ」が日常の中に入り込んでくるようになった。


最初は、本当に些細なことだった。


授業中、ふとした瞬間に「このあと起きることが分かる」という感覚があった。教師が黒板に式を書き終え、振り返り、誰かを指名する。その一連の流れが、実際に起きるよりもわずかに早く頭の中に浮かぶ。


ただの予想だと思えば、それで済んだかもしれない。


だが、それは予想にしては正確すぎた。


ある日の数学の授業だった。教師が問題を説明し終え、教室を見渡す。その瞬間、頭の中に一つの流れが浮かぶ。


「次は、佐々木が当てられる」


なぜそう思ったのか分からない。ただ、確信だけがあった。


教師は一拍置いてから口を開いた。


「じゃあ……佐々木、やってみろ」


教室の空気がわずかに動く。ざわめきのようなものが広がる。


その一連の流れが、すでに知っていたものとして感じられた。


その日を境に、同じような感覚は何度も繰り返された。


問題は、それが「当たること」ではなかった。


「すでに経験している感覚」があることだった。


ある日の放課後、教室で友人たちと雑談をしていたときのことだ。窓の外は曇り空で、部活動に向かう生徒たちの声が遠くから聞こえていた。机に座ったまま、くだらない話を続けている。


「昨日さ、駅前でさ——」


山本が話し始めた瞬間、その続きが頭の中に流れ込んできた。


コンビニ。自転車。ぶつかりそうになる。店員の顔。


すべて分かる。


それは想像ではなかった。「思い出している」感覚だった。


気づけば、口が勝手に動いていた。


「自転車とぶつかりそうになったやつだろ」


山本が言葉を止める。


「……は?」


周りの空気が止まる。


「なんで分かるんだよ。まだ何も言ってないぞ」


その声には、はっきりとした警戒が混ざっていた。


しまった、と思ったときには遅かった。


「いや、なんとなく」


適当にごまかすが、説得力はない。


「なんとなくで分かるかよ」


笑いは起きなかった。


誰もが微妙な表情をしている。


そのとき初めて、自分の中で何かがずれ始めていることを実感した。


それからというもの、私は意識的に発言を抑えるようになった。知っていても言わない。分かっていても反応しない。そうしなければ、周囲との距離が確実に開いていくことが分かったからだ。


だが、それでも完全に隠すことはできなかった。


違和感は行動にも現れる。


タイミングが合いすぎる。反応が早すぎる。結果として、「気味が悪い」と思われる。


少しずつ、距離ができていった。


ある日、廊下ですれ違ったとき、後ろでこんな声が聞こえた。


「なんかさ、あいつ怖くね?」


小さな声だったが、はっきりと聞こえた。


「分かる。なんか全部知ってるみたいな感じする」


「先に言われると、ちょっと無理だわ」


足が止まりそうになるのを、無理やり抑えた。


振り返ることはしなかった。


その代わり、初めてはっきりと理解した。


自分は「普通」ではない。


そしてそれは、周囲から見ても同じなのだと。


その頃から、もう一つの変化が現れ始める。


「選択」に対する違和感だった。


最初にそれを強く感じたのは、進路の話が出始めたときだった。高校をどうするか、どの部活に入るか、何を選ぶか。そういった話題が増える中で、私はある異常に気づく。


選択肢を考えた瞬間、その「結果」が同時に浮かぶのだ。


しかも一つではない。


複数。


どれも現実のように具体的で、どれも「経験済み」の感覚を伴っている。


ある日、部活動の見学に行ったときのことだった。体育館の中は独特の匂いがした。汗とゴムと埃が混ざったような、少し重たい空気。バスケットボール部の練習を見ながら、入るかどうかを考える。


その瞬間、二つの光景が浮かんだ。


一つは、入部した自分。練習に参加し、仲間と笑い合い、試合に出る。疲労と達成感が混ざった日々。


もう一つは、入らなかった自分。別の時間の使い方。帰宅後の静かな時間。本を読んでいる姿。


どちらもリアルだった。


どちらも、すでに経験しているかのようだった。


結局、私は入部しなかった。


だがその後も、「入部していた記憶」は消えなかった。


存在しないはずの時間が、確かに存在している。


その事実が、じわじわと現実を侵食していった。


第3章 選ばなかった未来


高校に入る頃には、その現象はさらに深く、そして逃れようのないものになっていた。


特に顕著だったのは、人間関係——とりわけ恋愛に関わる場面だった。


二年の春、同じクラスになった一人の女子がいた。名前を呼ばれるたびに、なぜか懐かしさのような感覚があった。初対面のはずなのに、すでに何度も会話を交わしているような気がする。


最初に話したのは、放課後の教室だった。


「まだ帰らないの?」


彼女がそう声をかけてきた。


窓の外は夕焼けで、教室の中はオレンジ色に染まっていた。机の上には開いたままのノート。帰るタイミングを失って、なんとなく残っていた時間だった。


「ちょっとだけ」


そう答える。


その瞬間、次に彼女が言う言葉が分かった。


「私も、なんか帰るタイミング逃してる」


実際にその通りの言葉が返ってくる。


やはり、知っている。


だが今回は、言わなかった。


ただ、その流れに乗る。


会話が続く。


趣味の話。授業の話。どうでもいい話題。


だがその一つ一つに、「既に知っている感覚」がある。


それでも、不思議と心地よかった。


なぜなら今回は、「距離が近づく未来」も同時に見えていたからだ。


何度も話し、帰り道が一緒になり、少しずつ距離が縮まる。


その流れを、私は知っている。


だが同時に、もう一つの未来も知っていた。


距離を保ったまま、何も起きずに終わる未来。


二つの現実が、同時に存在している。


ある日、彼女と帰り道が重なった。


夕方の空気が少し冷たくなり始めた季節だった。


「ねえ」


彼女が少しだけ間を置いて言う。


「今度さ、どっか行かない?」


その言葉も、知っていた。


ここでの選択で、未来が分かれる。


誘いを受けるか、断るか。


その両方の未来を、私は知っている。


少しの沈黙。


彼女がこちらを見る。


「……どうする?」


その問いに、私は答えを出さなければならなかった。


頭の中では、すでに二つの人生が流れている。


笑い合う時間と、やがて訪れる別れ。


何も始まらず、何も失わない時間。


どちらも本物だ。


どちらも、自分だ。


だが、同時には存在できない。


「……行くよ」


気づけば、そう答えていた。


その瞬間、片方の未来が遠ざかる感覚があった。


だが完全には消えない。


残り続ける。


選ばなかったはずの時間として。


それが何を意味するのか、そのときの私はまだ完全には理解していなかった。


だが一つだけ、確実に言えることがあった。


自分は、普通の時間の中にはいない。


常に分岐の上に立っている。


その感覚だけが、はっきりと存在していた。


関係が変わり始めたのは、ほんの些細な違和感からだった。


それまでの会話は自然に続いていたはずなのに、ある日を境に、言葉の間に微妙なズレが生まれるようになった。何かが噛み合っていない。そう感じる瞬間が、少しずつ増えていく。


放課後、いつものように一緒に帰ることになった日だった。


季節は秋に差しかかっていて、空気が少しだけ冷たくなっている。夕焼けは柔らかく、どこか落ち着いた色をしていた。


しばらく無言で歩いたあと、彼女が口を開いた。


「ねえ」


その呼びかけに、胸の奥がわずかにざわつく。


この流れを、私は知っている。


だが、今回は今までと違っていた。


二つの未来が、同時に浮かぶ。


一つは、このまま何も起きずに終わる未来。


もう一つは——


「最近さ」


彼女が言葉を続ける。


「なんか、変じゃない?」


やはり、その通りだった。


「変って?」


分かっていながら、あえて聞き返す。


「うまく言えないんだけど……」


彼女は少しだけ視線を落とす。


「会話が、もう決まってるみたいな感じする」


その言葉は、予想していた以上に鋭かった。


「先に全部分かってるみたいな」


心臓が一瞬強く脈打つ。


「そんなことないだろ」


とっさに否定する。


だが、自分の声がわずかに硬くなっているのが分かる。


彼女は首を横に振った。


「あるよ」


静かな声だった。


「前から、ちょっと思ってた」


足が止まる。


それにつられて、彼女も立ち止まる。


夕焼けの光が、二人の間に長い影を落としていた。


「なんていうか……」


彼女は言葉を探すように少しだけ間を置く。


「一緒にいるのに、一緒にいない感じがする」


その一言が、胸に深く刺さる。


私は何も言えなかった。


なぜなら、それは否定できるものではなかったからだ。


実際に私は、同時に複数の時間を見ている。


今この瞬間も、別の可能性の中の自分が存在している。


それは彼女にとって、「ここにいない」のと同じことだった。


「ねえ」


彼女がもう一度呼ぶ。


「ちゃんと、ここにいる?」


その問いは、あまりにも真っ直ぐだった。


答えなければならない。


だが、答えられない。


「……いるよ」


ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほど弱かった。


彼女はそれを聞いて、少しだけ寂しそうに笑った。


「うん」


短い返事。


だが、その中にすべてが含まれていた。


しばらく沈黙が続く。


風が通り抜ける音だけが聞こえる。


そのとき、はっきりと分かった。


ここで終わる。


その未来が、強く見える。


そして同時に、終わらない未来も存在している。


何も言わずに帰る未来。


関係を続ける未来。


だが——それらは、もう現実ではない。


目の前の彼女が、静かに言う。


「ごめんね」


その言葉が出た瞬間、すべてが収束した。


「なんか……無理かも」


続く言葉も、すでに知っていた。


それでも、胸の奥が痛む。


知っているはずの未来なのに、初めて経験するような痛みだった。


「そっか」


それだけしか言えなかった。


本当は、もっと言葉があったはずだった。


引き止める言葉も、理由を聞く言葉も。


だが、それを言えばどうなるかを、すでに知っていた。


どの未来でも、結果は同じだった。


「うん」


彼女は小さく頷く。


そして、少しだけ距離を取る。


その動きが、決定的だった。


「あのさ」


最後に彼女が言う。


「ちゃんと、誰かと“同じ時間”にいられるといいね」


その言葉は、優しさだったのかもしれない。


あるいは、別れの言葉としての最後の配慮だったのかもしれない。


答えは分からない。


ただ、その意味だけははっきりと分かった。


私は、同じ時間にいなかった。


最初からずっと。


彼女は背を向けて歩き出す。


その背中を、私は追わなかった。


追えばどうなるかを、知っていたからだ。


やがて、その姿は見えなくなる。


夕焼けの中に溶けるように、消えていった。


一人になった帰り道で、私は初めて立ち止まった。


胸の奥に残っている感覚は、ただ一つだった。


これは「選んだ結果」ではない。


「選べなかった結果」だ。


そう理解したとき、初めて恐怖が形を持った。


もしこのまま、すべての選択を同時に抱え続けるのだとしたら。


自分はどこにも定まらないまま、すべてを失っていくのではないか。


その予感だけが、静かに残り続けた。


別れたあと、しばらくの間は何も変わらなかった。


少なくとも、表面上は。


学校に行き、授業を受け、家に帰る。これまでと同じ日常が、何事もなかったかのように続いていく。彼女と顔を合わせることもあったが、互いに視線を逸らし、言葉を交わすことはなかった。


それだけだった。


それだけのはずだった。


だが、変化はゆっくりと、確実に進んでいた。


最初に気づいたのは、ある朝のことだった。


目が覚めた瞬間、強い違和感があった。


夢を見ていたのだと思った。


だが、それにしてはあまりにもはっきりしている。


部屋の天井を見上げながら、さっきまでの光景を思い出す。


彼女と話していた。


場所は駅前のカフェ。窓際の席。午後の光。テーブルの上に置かれたコーヒーカップ。彼女が笑いながら何かを話している。その内容まで、細かく思い出せる。


夢にしては、現実的すぎる。


というより——


「記憶」に近かった。


起き上がりながら、頭の中を整理する。


そんな場所には行っていない。


別れてから、二人で出かけたことは一度もない。


なのに、その時間は確かに存在している。


感情も、空気も、すべて。


「……なんだよ、これ」


思わず声が漏れる。


それは、その日だけでは終わらなかった。


数日後、また別の記憶が入り込んでくる。


今度は、雨の日だった。


傘を差しながら歩く彼女の隣に、自分がいる。水たまりを避けながら、少しだけ歩幅を合わせている。何気ない会話。笑い声。


そのときの「濡れた空気の匂い」まで、はっきりと感じられる。


だが現実では、その日は一人で帰っていた。


誰とも話さず、ただ家に帰ったはずだった。


それなのに、もう一つの時間が、確かに存在している。


混乱が、恐怖に変わり始める。


これは夢ではない。


錯覚でもない。


「別の現実」が、記憶として侵食してきている。


ある日、ついに限界が来た。


放課後、教室に残っていたときだった。


誰もいないはずの教室で、声が聞こえた。


「ねえ」


振り向く。


そこに彼女が立っている。


一瞬、思考が止まる。


だが次の瞬間、理解する。


これは“現実の彼女”ではない。


「……来てくれたんだ」


彼女がそう言う。


その言葉に、違和感はなかった。


なぜなら、その会話をすでに知っていたからだ。


「……これは」


言葉が続かない。


彼女は少しだけ首を傾げる。


「どうしたの?」


その仕草も、声も、すべてが本物だった。


だが同時に、それが「ここに存在してはいけないもの」であることも分かっていた。


「お前……今、どこの時間だ?」


自分でも意味の分からない質問をする。


彼女は少し考えるような表情をしてから、静かに答えた。


「どこって……今でしょ?」


その答えは、あまりにも自然だった。


だが、それが一番恐ろしかった。


彼女にとっては、これが現実なのだ。


別れなかった未来。


関係が続いた時間。


その中の「今」。


私は一歩後ろに下がる。


心臓の音がうるさい。


「……俺は、そっちにいない」


ようやくそれだけ言う。


彼女の表情が、わずかに曇る。


「どういうこと?」


「俺は……こっちを選んだ」


言葉にした瞬間、はっきりと分かった。


これが分岐だ。


選択によって分かれた現実。


そして今、自分はその両方を同時に認識している。


彼女はしばらく黙っていた。


そして、ぽつりと言う。


「じゃあ、私は?」


その問いに、答えはなかった。


どちらの彼女も本物だ。


だが、同時には存在できない。


「……分からない」


正直に答えるしかなかった。


彼女はゆっくりと息を吐く。


「そっか」


その声には、少しだけ寂しさが混じっていた。


「でもさ」


続けて言う。


「私は、ちゃんといたよ」


その一言が、胸に深く刺さる。


存在していた時間。


共有していたはずの時間。


だがそれは、もう「こちら」には存在しない。


彼女の輪郭が、少しずつ薄れていく。


「待て」


思わず手を伸ばす。


だが、触れることはできない。


「またね」


彼女はそう言って、消えた。


教室には静寂だけが残る。


私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動くことができなかった。


呼吸が乱れる。


頭の中がぐちゃぐちゃになる。


これはもう、ただの違和感ではない。


分岐が閉じていない。


現実が重なっている。


そして自分は、その境界に立っている。


もしこのまま続けば——


どちらにも定まらないまま、すべてが崩れる。


その予感だけが、はっきりと残った。


第4章 理論と確信


高校を卒業する頃には、自分の中で一つの確信が形を持ち始めていた。これは単なる記憶の異常ではない。脳の錯覚でも、既視感の延長でもない。もっと構造的な、現実そのものに関わる現象だという感覚があった。


大学では迷わず心理学を選んだが、それだけでは足りないことは最初から分かっていた。講義で扱われる記憶の再構築や錯誤、デジャヴのメカニズムは興味深かったが、自分の体験の一部しか説明できなかったからだ。むしろ、それらを知れば知るほど、「自分の現象はそこから外れている」という違和感が強まっていった。


転機は、選択科目で履修した量子論の基礎だった。


講義室はいつもより静かで、教授の声だけが淡々と響いていた。黒板には複雑な数式が並び、最初は理解すること自体が目的のような内容だったが、ある説明の瞬間、すべてが繋がった。


「観測されるまで、状態は確定しない」


教授はそう言って、チョークで図を描いた。


複数の可能性が同時に存在し、観測によって一つに収束するという概念。


その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。


自分は、それを“体験している”。


講義が終わるのを待たずに、ノートに必死で書き込んだ。単なる理解ではなく、照合だった。これまでの自分の体験と、理論とを一つずつ重ね合わせていく。


もし、人間の意識が「観測」に関与しているとしたら。


もし、観測のタイミングや方法によって、収束の仕方が変わるとしたら。


そしてもし、自分がその収束を「一つに固定できていない」としたら。


すべてが説明できる。


その日から、私は講義の枠を越えて文献を探し始めた。図書館にこもり、関連しそうな論文を片っ端から読み漁る。心理学、神経科学、量子論、哲学。分野を問わず、とにかく手がかりを求めた。


だが、決定的なものは見つからなかった。


似ている概念はいくつもある。だが「複数の現実を同時に認識し続ける個人」の具体的な記録は、ほとんど存在しなかった。


ただ一つを除いて。


それは、正規の論文ではなかった。引用も少なく、評価も不明な、いわば半ば埋もれた研究記録だった。


タイトルは簡素だった。


「観測分岐認識に関するケーススタディ」


著者名は見覚えがなかったが、内容は明らかに異質だった。


読み進めるうちに、手が止まらなくなる。


そこに書かれていたのは、自分と同じ現象だった。


事故をきっかけに、複数の結果を同時に認識するようになった被験者。初期は既視感として現れ、中期には選択の結果が並列に存在し、後期には自己認識の分裂が起きる。


そして最後に記されていた言葉。


「収束不能により、存在の確定が維持できなくなる」


その一文を読んだとき、全身が冷えた。


理解してしまったからだ。


これは、行き着く先がある現象だ。


そして、自分はその途中にいる。


その論文を読み終えたあと、私はしばらく席から動くことができなかった。画面に表示された文字列はすでに頭の中に入っているはずなのに、理解が追いつかない。いや、理解してしまっているからこそ、動けなかった。


もしこの仮説が正しいのだとすれば、自分はすでに「例外的な状態」にいる。そしてそれは、自然に解消されるものではない。


確かめる必要があった。


ただし、崖に行く前に、もう一つやっておきたいことがあった。自分の状態がどの程度まで再現可能なのか、どこまでが偶発的で、どこからが再現性のある現象なのか。それを確認しておきたかった。


翌日、研究室に向かった。昼休みの時間帯で、人は少なかったが、完全に無人ではない。だからこそ、逆に都合がよかった。


「なあ、ちょっといいか」


同じゼミに所属している後輩に声をかける。


「はい?」


「簡単なテストに付き合ってほしいんだけど」


少し不思議そうな顔をしたが、特に疑う様子もなく頷いた。


「いいですよ、何やるんですか?」


私は椅子に座り直し、机の上にノートを置いた。


「今から質問するから、思いついたことをそのまま答えてくれ」


「それだけですか?」


「ああ。ただし、考えすぎないでほしい。直感でいい」


「分かりました」


その返事を聞いた瞬間、私はすでに“次に起きる流れ”を知っていた。


それでも、あえて進める。


「じゃあいくぞ。今、頭に浮かんだ動物は?」


「……犬」


やはり同じだった。


「色は?」


「青……いや、違うな。黒」


一瞬の迷いまで含めて、すべて一致している。


「じゃあ次。数字を一つ」


「7」


そこまでで、私は一度息を吐いた。


予測ではない。これはやはり“記憶”だ。


だが、それだけでは足りない。


「最後に一つだけ。これだけは、できるだけランダムに考えてくれ」


「はい」


「今から5秒後に、右手か左手のどちらかを上げてくれ」


後輩は少し笑った。


「それ、意味あります?」


「いいから」


「分かりました」


彼は軽く肩を回しながら構える。


その瞬間、二つの結果が同時に見えた。


右手を上げるパターンと、左手を上げるパターン。


どちらも同じくらいの“現実”として存在している。


だが——今回は、少し違った。


どちらか一方が“強い”。


わずかに、右手の方がはっきりしている。


「……」


カウントを始める。


「5、4、3、2、1」


後輩が動く。


上がったのは——右手だった。


その瞬間、もう一方の結果が消える。


完全にではない。


だが、急激に遠ざかる。


まるで、観測されたことで収束したかのように。


「……今、右を上げるって決めてたか?」


思わず聞く。


「いや、直前まで迷ってましたよ。どっちにしようかなって」


その答えを聞いたとき、確信が一段階深まる。


「迷っていた状態」が、確かに存在していた。


そして自分は、その両方を同時に認識していた。


「ありがとな」


「いえ、なんかよく分からないですけど」


後輩は軽く笑って席を立った。


その背中を見送りながら、私はノートに一行だけ書き込む。


『観測前:分岐同時認識 観測後:単一収束』


手がわずかに震えていた。


これは理論ではない。


もう、現実だ。


そして同時に、逃げ場がないことも意味していた。


その研究記録の末尾には、著者の連絡先が残されていた。


半ば衝動だった。


本当に存在する人物なのかも分からない。それでも、これを見過ごすことはできなかった。


メールを送ったのは深夜だった。


自分の体験を、できる限り客観的にまとめて書いた。崖のこと、分岐の認識、記憶の重複。書きながら、自分でもそれが現実の話とは思えなかった。


返信は来ないかもしれない。


そう思っていたが、翌日の夕方、短いメールが届いた。


『話を聞かせてください』


それだけだった。


指定された場所は、大学の外れにある小さな研究棟だった。普段はほとんど使われていないらしく、人の気配はほとんどない。


ドアをノックすると、すぐに中から声がした。


「どうぞ」


中に入る。


机の上には資料が山積みになっていた。その奥に、一人の男が座っている。


年齢は五十代くらいだろうか。無精ひげを生やし、どこか疲れたような目をしている。


「君がメールの」


「はい」


椅子に座るよう促される。


しばらく無言の時間が流れる。


その間も、相手はこちらをじっと見ていた。


観察されている。


そんな感覚があった。


「……君は、いつからだ?」


唐突に聞かれる。


「小学生の頃です」


「きっかけは?」


「崖から落ちました」


その言葉に、男の視線がわずかに変わる。


「なるほど」


短く呟く。


「典型的だ」


その一言に、わずかな苛立ちが湧く。


「典型って、どういう意味ですか」


思わず聞き返す。


男は少しだけ口元を歪める。


「事故や強い衝撃を境に、“観測の固定”がずれるケースがある」


「固定……」


「本来、人間の意識は一つの結果に収束する。だが、ごく稀にそれがうまくいかない個体がいる」


言葉は淡々としていたが、その内容は重かった。


「じゃあ俺は——」


「複数を同時に保持している状態だ」


即答だった。


「それって、どうなるんですか」


男は一瞬だけ視線を落とす。


「長くは持たない」


その言葉は、予想していたにも関わらず重かった。


「なぜですか」


「矛盾する情報を同時に保持し続けると、自己認識が崩れる」


机の上の資料を一枚取り上げる。


「最終的には、“どれが自分か分からなくなる”」


その説明は、すでに体感しているものだった。


「じゃあ、どうすればいい」


声が少しだけ強くなる。


男はしばらく黙っていた。


そして、ゆっくりと口を開く。


「選ぶしかない」


やはり、その答えだった。


「だが一つだけ、条件がある」


「条件?」


「自分で選ぶことだ」


その言葉の意味が、すぐには分からなかった。


「外的要因で決まった収束は、不安定になる」


男は続ける。


「誰かに決められるな。状況に流されるな」


その視線が、まっすぐこちらに向く。


「自分で“これだ”と決めろ」


その言葉には、妙な重みがあった。


まるで、それを守れなかった例を知っているかのように。


「……分かりました」


それしか言えなかった。


帰り際、ドアの前で男が言った。


「君はまだいい方だ」


振り返る。


「両方を認識している時点で、“選ぶ余地”がある」


その言葉は、救いだったのかもしれない。


あるいは——


期限付きの宣告だったのかもしれない。


第5章 記録された終わり


その記録には、さらに詳細なログが添えられていた。


被験者A。男性。二十代後半。交通事故をきっかけに現象発生。


初期段階では、未来の予測として認識されるが、本人は「予測ではなく記憶」と表現。


中期段階では、選択の分岐ごとに「両方の経験」が残存。


後期段階において、自己認識の二重化が確認される。


ここまでは、自分と完全に一致していた。


問題は、その先だった。


音声ログが残されていた。


再生ボタンを押すと、かすれた声が流れ出す。


『……どっちも俺なんだよ』


息が荒い。何かに追い詰められているような声だった。


『選べって言われてもさ、どっちも本物なんだよ』


しばらく無言が続く。ノイズのような音が混ざる。


『消えるのは嫌だ』


声が震えている。


『でも、選ばないといけないのか?』


何かがぶつかる音。


『なんでだよ……』


沈黙。


そして最後に、かすれた声が残る。


『俺は……どこにいる?』


そこで記録は途切れていた。


その後のデータは存在しない。


削除されたのか、それとも——


存在しなくなったのか。


その可能性に思い至ったとき、背筋が凍る。


「収束できなかった」ということは、「どこにも存在できない」ということだ。


私は端末を閉じた。


そして、決めた。


確かめるしかない。


すべての始まりだった場所で。


第6章 再訪


その夜、私は眠ることができなかった。


理由は分かっていた。


分かりすぎるほど、分かっていた。


「選ばなければならない」


あの研究者の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


だが、その“選ぶ”という行為そのものが、自分にとって何を意味するのかが分からなかった。


ベッドに横になり、天井を見つめる。


電気は消している。


暗闇の中で、意識だけがやけに鮮明だった。


時間の感覚が曖昧になる。


数分しか経っていないようにも思えるし、何時間も経ったようにも感じる。


そのとき、ふと気づく。


「……今、どの時間だ?」


思わず呟く。


その問いに、答えはない。


だが同時に、複数の感覚が浮かぶ。


眠っている自分。


起きている自分。


スマートフォンを触っている自分。


それらが、同時に存在している。


「……違う」


首を振る。


これはもう、分岐の認識ではない。


“状態そのもの”が分かれている。


体を起こす。


床に足をつける。


その動作すら、わずかにズレる。


立ち上がった感覚と、まだ座っている感覚が重なる。


視界が歪む。


思わず壁に手をつく。


冷たい。


その感触だけが、かろうじて現実を繋ぎ止めている。


「やばいな……」


小さく呟く。


声が、少し遅れて聞こえる。


まるで、自分の中で時間がずれているかのようだった。


部屋を出る。


廊下に出た瞬間、違和感が強まる。


家の中の空気が、どこか違う。


静かすぎる。


いや——


静かな状態と、物音がある状態が重なっている。


足音が二重に響く。


一つは自分のもの。


もう一つは、ほんのわずかに遅れた、自分の足音。


「……誰だよ」


思わず言う。


だが、その問いはすぐに自分に返ってくる。


これは他人ではない。


「別の自分」だ。


リビングに入る。


電気をつける。


光が広がる。


だが、その光もまた、一瞬だけズレる。


点いた状態と、まだ暗い状態。


その両方が同時に存在する。


視界が安定しない。


頭が痛い。


「……くそ」


ソファに座る。


だが、座った感覚と、まだ立っている感覚が重なる。


どちらが本当か分からない。


いや——


どちらも本当だ。


その事実が、恐怖として迫ってくる。


もしこのまま進めば、自分はどこにも固定されない。


観測できない存在になる。


それはつまり——


「存在していないのと同じ」になるということだ。


その考えに至った瞬間、強烈な寒気が走る。


息が浅くなる。


心臓の鼓動が早い。


「……ダメだ」


はっきりと言う。


このままでは終わる。


確実に。


自分で分かる。


限界が来ている。


そのとき、ふと窓の外を見る。


夜の街が広がっている。


街灯の光が、規則的に並んでいる。


その光景だけが、妙に安定して見えた。


一つの世界として、存在している。


その中に、自分がいる。


「……戻るか」


自然に言葉が出る。


戻る場所は一つしかない。


あの崖だ。


始まった場所。


そして——


終わらせることができる場所。


立ち上がる。


今度は、感覚が一つにまとまる。


まだ完全ではない。


だが、方向は決まった。


選ぶしかない。


それが、唯一の方法だ。


その確信だけが、はっきりと残った。


部屋に戻る。


鍵を手に取る。


その動作は、今度はズレなかった。


「……行くか」


静かに呟く。


その言葉は、どの分岐にも属していない。


ただ一つの意思だった。


限界は、ある日突然やってきたわけではなかった。


むしろ、少しずつ、確実に積み重なっていた。


朝起きたとき、自分がどの時間の続きにいるのか分からなくなる。昨日の記憶が一つではない。複数ある。そのどれもが「現実」として成立している。


歯を磨いている最中にも、別の自分が違うタイミングで同じ行動をしている感覚がある。鏡に映る自分が、わずかにズレて見える。


一瞬だけ、遅れる。


いや、違う。


もう一つの動きが、同時に見えている。


「……やばいな」


洗面台に手をつきながら呟く。


言葉にした瞬間、さらに現実感が薄れる。


大学へ向かう途中でも、それは続いた。


信号待ちで立ち止まる。


青になる前に、二つの未来が見える。


渡る自分と、立ち止まる自分。


そして、どちらも“すでに経験している”。


足が動かない。


「渡れよ」


後ろから声がする。


振り向くと、誰もいない。


いや、違う。


「渡った自分」が、もう先に進んでいる。


視界の端で、それが見える。


現実と、もう一つの現実が重なっている。


その瞬間、強烈な吐き気がこみ上げた。


その場にしゃがみ込む。


呼吸が乱れる。


「……限界だ」


はっきりと分かった。


このままでは、どちらにも定まらない。


存在が、分裂したままになる。


大学にも行けなかった。


そのまま家に戻り、部屋に閉じこもる。


ベッドに座りながら、何もできずに時間だけが過ぎていく。


いや——時間すら一つではない。


複数の流れが、同時に進んでいる。


目を閉じても、別の現実が浮かぶ。


彼女と過ごす時間。


一人でいる時間。


研究室にいる時間。


すべてが同時に存在している。


「……終わるな、これ」


直感だった。


そして、その直感には確信があった。


収束しなければならない。


どこかで、決めなければならない。


そのとき、あの場所が浮かぶ。


崖。


すべての始まりだった場所。


そして、おそらく——終わらせることができる場所。


立ち上がる。


同時に、立ち上がらない自分もいる。


だが、もう迷わなかった。


車のキーを手に取る。


外に出る。


エンジンをかける。


その一連の動作の中で、無数の分岐が生まれては消える。


運転しながらも、それは続く。


右に曲がる未来。


直進する未来。


途中で引き返す未来。


すべてが見える。


ハンドルを握る手が震える。


どの選択も、自分だ。


だが、すべては選べない。


「一つでいい……」


そう呟く。


その言葉が、自分に向けたものだと分かる。


やがて、見慣れた道に入る。


子供の頃に歩いたあの道。


景色は変わっていない。


だが、自分は変わってしまった。


車を止める。


エンジンを切る。


静寂が広がる。


その中で、はっきりと感じる。


ここが境界だ。


ここで、すべてが決まる。


ドアを開ける。


外に出る。


同時に、出ない自分もいる。


だが、その像は弱い。


すでに、収束が始まっている。


一歩、踏み出す。


草が揺れる。


風が通る。


そのすべてが、異様に鮮明だった。


そして、崖が見える。


胸の奥で、何かが静かに決まる。


ここで終わらせる。


いや——


ここで、選ぶ。


数年ぶりに訪れたその場所は、驚くほど変わっていなかった。舗装されることもなく、観光地化されることもなく、ただそこに在り続けている。まるで時間から切り離されたかのように、あの日のまま残っていた。


車を降り、ゆっくりと歩き出す。


一歩踏み出すごとに、感覚が重くなる。


足元の土の感触が、妙にリアルだ。


風の匂いも、温度も、すべてが記憶と一致している。


いや、違う。


「記憶と一致している」のではない。


「すでに経験している」ものを、もう一度なぞっている。


その感覚だった。


崖が見える。


胸の奥がざわつく。


同時に、二つの感覚が立ち上がる。


進む自分。


引き返す自分。


どちらも存在している。


だが今回は、止まらなかった。


そのまま崖の縁まで進む。


そして——


「遅かったな」


声がした。


振り向く。


そこにいたのは、自分だった。


第7章 もう一人の自分


顔も、体も、声も同じ。


違うのは、目だけだった。


どこか疲れ、そしてどこか諦めたような光を持っている。


「……お前は」


「落ちた方だよ」


あっさりと答える。


その言葉だけで、すべてが繋がる。


「お前が両方見たせいで、こうなってる」


責める口調ではない。ただ事実を述べている。


「本来なら、どっちかで終わってた」


一歩、近づいてくる。


「でも今は違う」


空間が揺れる。視界が歪む。


「このままだと、どっちも消える」


その言葉には、現実味があった。


「……選べってことか」


「そうだ」


即答だった。


沈黙が落ちる。


風の音だけが聞こえる。


「なあ」


もう一人の自分が言う。


「覚えてるだろ」


「……何を」


「落ちたときのこと」


あの感覚が蘇る。


息ができない苦しさ。


体が動かない恐怖。


「俺は、あそこで終わった」


静かな声だった。


「でもお前は続いた」


その違いが、すべてだった。


「どっちも俺だ」


「分かってる」


「じゃあ、なんで片方消すんだよ」


その問いに、すぐには答えられなかった。


「消すんじゃない」


ようやく言葉が出る。


「続けるんだ」


一瞬、間が空く。


「……同じことだろ」


「違う」


はっきりと言う。


「お前は止まってる。俺は進んでる」


言いながら、自分でもそれが残酷な言葉だと分かっていた。


だが、嘘は言えなかった。


「進める方を選ぶ」


それが結論だった。


もう一人の自分は、少しだけ笑った。


「そっか」


その表情は、どこか納得しているようにも見えた。


「じゃあ、頼むわ」


その一言が、妙に軽く聞こえた。


最終章 収束


世界が静止する。


風が止まり、音が消える。


すべてが一点に収束していく。


もう一人の自分の輪郭が、ゆっくりと薄れていく。


「ちゃんと生きろよ」


最後の言葉。


そして、消えた。


静寂が戻る。


崖の上に立っているのは、自分一人だけだった。


深く息を吸う。


肺に空気が入る感覚が、妙に鮮明だった。


生きている。


その実感が、初めて現実として重くのしかかる。


あれから数年が経った。


あの現象は、完全には消えていない。


時折、わずかな既視感のようなものが残る。


だが、以前のように分岐が同時に見えることはない。


現実は一つに固定されている。


それでも、ふと考えることがある。


もし、あのとき別の選択をしていたら。


別の自分は、どこに行ったのか。


その答えは分からない。


だが、一つだけ確かなことがある。


自分は選んだ。


そして、その結果として今ここにいる。


それでいい。


それが、自分の現実だからだ。


エピローグ その後の世界


あの崖から戻ってきてから、時間の流れは明らかに変わった。


以前のような、複数の現実が同時に押し寄せてくる感覚はない。朝起きれば、そのまま一日の連続性の中にいることができる。昨日の延長として今日があり、今日の先に明日がある。


それは、本来なら当たり前のことだった。


だが、自分にとっては違った。


「一つしかない」ということが、これほど静かで、これほど重いものだとは思わなかった。


大学へ向かう道を歩きながら、ふと立ち止まる。


信号が青に変わる。


足は自然に前に出る。


かつてなら、ここで二つの未来が見えていた。


渡る自分と、渡らない自分。


その両方を同時に認識していた。


だが今は違う。


見えるのは一つだけだ。


そのことに、わずかな安心と、そしてわずかな寂しさを感じる。


「……これでいいんだよな」


小さく呟く。


答えは返ってこない。


だが、足は止まらない。


それが答えなのだと思った。


講義を受け、ノートを取り、昼休みに適当に食事をする。周囲の学生たちの会話が耳に入るが、その内容は特別なものではない。どこにでもある、普通の日常だ。


だがその中で、時折、引っかかる瞬間がある。


既視感に似た感覚。


だが、以前とは違う。


あのときは、分岐そのものを認識していた。


今は——


「可能性の痕跡」のようなものだけが残っている。


ふと、窓の外を見る。


雨が降っている。


その光景を見た瞬間、胸の奥にわずかな感覚が浮かぶ。


傘を差して歩く自分。


隣に誰かがいる感覚。


だが、その像はすぐに消える。


輪郭を持たないまま、遠ざかる。


「……」


しばらくそのまま外を見つめる。


そして、ゆっくりと視線を戻す。


それ以上、追いかけることはしない。


追えばどうなるかを、知っているからだ。


放課後、帰り道を歩く。


空は少しだけ明るくなっていた。


雨は止みかけている。


濡れたアスファルトが光を反射している。


その中を、一人で歩く。


だが、不思議と孤独は感じなかった。


かつては、常に複数の自分がいた。


選ばなかった自分。


選ばれなかった時間。


それらが重なり合って、自分という存在を曖昧にしていた。


だが今は違う。


ここにいる自分は一人だ。


そしてそれは、「選んだ結果」だ。


ふと、足を止める。


前方に、小さな公園が見える。


子供の頃、よく遊んでいた場所だ。


なんとなく中に入る。


ブランコが揺れている。


風のせいだろう。


ゆっくりと近づく。


手を伸ばし、その鎖に触れる。


冷たい感触が伝わる。


その瞬間、わずかに何かが浮かぶ。


子供の頃の自分。


笑っている。


誰かと話している。


だが、その相手の顔は分からない。


いや——


分からないのではない。


「一つに決まっていない」


複数の可能性が、重なっている。


だが、それはもう問題ではなかった。


「……そうか」


小さく呟く。


すべてを確定させる必要はない。


すべてを知る必要もない。


選んだものだけが、自分の現実になる。


それでいい。


それで十分だ。


ブランコから手を離す。


揺れが少しずつ収まっていく。


その様子を見ながら、ゆっくりと息を吐く。


空を見上げる。


雲の切れ間から、わずかに光が差し込んでいる。


その光は、はっきりと一方向から来ていた。


かつてのように、複数ではない。


一つの光だ。


それを見ている自分も、一人だけだ。


「……生きるか」


自然に言葉が出る。


誰に向けたものでもない。


ただ、自分の中で決まったことだった。


過去は一つではないかもしれない。


未来も、無数に存在しているのかもしれない。


だが、自分が立っているこの瞬間は、一つしかない。


そしてその一つを、自分は選んだ。


その事実だけが、確かだった。


歩き出す。


もう迷いはない。


選ばなかった時間は、もう追ってこない。


それでも、完全に消えたわけではない。


どこかに、確かに存在している。


だがそれは——


もう自分ではない。


風が吹く。


少しだけ冷たい。


だが、不快ではなかった。


むしろ、はっきりとした感覚だった。


現実の温度。


現実の空気。


それを感じながら、私は前に進む。


振り返ることはない。


必要がないからだ。


すべては、すでに終わっている。


そして同時に——


ここから、すべてが始まる。


(完)

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