⑦風
俺は朧守の背中を目で追っていた。
そして祠の前で立ち止まると静かに話し始めた。
「妖にも色々おる。自然から生まれた妖もおれば、人間が生み出した妖もおる」
「人間が生み出すってどういうこと?」
「そうだな……。人間の思いや願いから生まれる妖がおるということだ。人間がその存在を忘れれば、そこから生まれた妖は力を失い……、やがて消える宿命なのだ。消滅してしまえば何も残らない……。皆……消えて行った」
朧守は大きなため息をつくと、ゆっくりと振り返った。
「わしはそんな消えゆくものたちの記憶を預かり、ただ守る妖だ」
「ただ……記憶を守る……妖」
俺は胸が痛んだ。
しばらく黙ると、遠くで風に木の軋む音が聞こえる。
「ねえ……その記憶って温かい?」
俺が不意に尋ねると朧守は目を開き、何かを言い当てられたような顔をした。
「……なぜそんな事を聞く。――――だが、昔同じ事を言っていた妖がいた。記憶に温かいも冷たいもあるまいに」
そう答えるとまた背中を向けた。
「あれを見ろ。あれは人間が建てた祠だ。ここにはかつて風を司る妖が住んでおった」
目をやると、人間が丹念に作り上げた石造りの祠には苔がむし、中は枯れ葉が重なっていた。
「もう……いないの?」
そう聞き返すと、朧守は何も答えず磐座に静かに腰を下ろした。
高い木々が風に揺れ、サラサラと葉を揺らしている。
しばらくの間、二人で静かな風の音を黙って聞いていた。
「草木を揺らすこの風を、人間はただの風と思うであろう――。だがな、灯真。風にも役目をもつものがいる」
「役目……」
「ずっと昔の話だ。一番最初はこの土地に、炭を焼いて生業を立てる人間が住み始めた。それから一軒、また一軒と増えていき、村ができた」
朧守は空を見上げ、見えない風を目で追った。
「村の人間は皆、風は季節を巡らせ、良い知らせを運ぶ縁起物として考え出した。――やがて子どもが増えると、親はわが子が風のように健やかかに育つよう願い、この祠を建てた。その人間の思いから生まれたのが、あの祠の主だ」
朧守はまるで記憶の破片を集めるように、ゆっくりと話し始めた。
「わしには何が可笑しいのか分らんが……その妖はよく笑っておった。その妖が笑うと鈴の揺れるような音が聞こえた。その音を聞くと不思議と心が落ち着き、安心する……」
朧守はその妖と出会った場所に目をやっていた。
「その話……、知ってるかも……」
俺は小さく呟いた。そして心に違和感を覚えた。
これまで誰かに聞いたわけでもなく、本で読んだわけでもない。
だが、なぜか必然的に知っていたという感覚に囚われていた。
朧守は腰を上げると、俺を見て言った。
「だがな、人間とは勝手な生きものだ。わが身に良くないことが起きれば、手のひらを返し、簡単に裏切り、そして……すぐ忘れる」
過去、その妖に人間が何かをやらかしたのだと俺はすぐに悟った。
朧守の静かな怒りを感じる。自分も人間であるが故に複雑な気持ちだ。
その祠の主はきっと……、人間に忘れられてしまったのだろう。
俺は空を見上げ、見えない風を目で追った。
「その……妖の名は?」
「名か……」
その問いに、朧守は苦しげな表情を浮かべた。その時だ。大きな風が吹き上げ、空へ駆け抜けていった。
これまで静かに揺れていた木々が、四方に大きく枝を揺らし乱れていた。
俺はその風を見上げると、何か良くない胸騒ぎを覚え慌てて朧守に目をやった。
見ると朧守の輪郭が歪み、身体は影のように透け、衣の裾がボロボロと崩れた。
「もう……長くはないか……」
そう言って朧守は自分の手をじっと見つめている。
俺は悪い予感が当たったことに、一気に不安と焦りを感じ朧守に詰め寄った。
「何が起きてるの? 長くないって、何が?」
「灯真よ、そう騒ぐな……。記憶を預ける妖が居なくなれば、わしの役目もいずれ終わる。必然なことだ」
朧守はその宿命を受け入れているようだった。
「わしはかつて人間の少なくなった村々を巡り、消える妖の記憶を預かっては、また次の地へと歩いたものだ。――だが、ここに留まることを選んだ。それは人間のお前には関係のないことだ。これは己が決めたことだ……」
朧守は真っすぐ祠を見つめると、磐座にゆっくり腰を下ろした。
「誰かを……待っているんだね」
「――――灯真よ。もう帰れ。お前に話すことはもうない」
俺がこれ以上話をすれば、朧守を苦しめてしまうと感じた。
「また会えるよね?」
俺はそう尋ねたが、朧守は答えなかった。
後ろ髪を引かれながらも、俺は仕方なくその場を後にした。




