⑥若者と老人
朝も早いうちに、バタンという音が静寂な山に響いた。
朧守は何事かと石段の下を覗き込むと、昨日の若者がまた現れ、石段の方に向かってくるのが見えた。
懲りずにまたやってくるとは、これだから人間は好かんのだ……。
朧守は怒りと同時に呆れた感情で、鳥居の陰から若者の行動を見張った。
彼が石段の下まで来ると、こちらに向かって大きな声で話しかけてきた。
「すみませーん。おじいさんいますか?」
――――。
朧守は返事をするつもりは毛頭なかった。
沈黙の中、鶯の声が辺りに響く。
「おじいさんと話がしたくて。だからもう一度お邪魔します」
そう言うと若者は傍若無人に石段を上り始めた。
昨日の怯んだ姿は全くなく、むしろ意気込んだ様子で力強く石段を登って来るのだ。
朧守は彼の様子の変化に少し戸惑いながら、どうやって追い返すか思考を巡らせていた。
だが、昨日若者とあの音を聞いたことが、ずっと朧守の頭から離れず感情に矛盾を作り出していた。
彼の荒い息の音が近づいてくる。
朧守はこれまで長いこと生きてきたが慌てるという感情は今までに経験がない。
追い返す言葉が見当たらないどころか、自分がどう振る舞うべきかも分からず焦りを感じていた。
いよいよ登りきるまであと数段のころで、若者はパッと顔を上げた。
目が合うとすぐに朧守は視線を外し背を向けた。
「良かった。おじいさん居たんですね」
彼は息を切らしながらも嬉しそうに言葉を続けた。
「おじいさんのことが、どうしても気になって……また来ちゃいました。やっぱり、この石段はきついな」
そう言いながら最後の石段をついに登り切ってしまった。
朧守はしばらく彼の息遣いの音を聞くと、大きなため息をつき振り返るように少しだけ体を向けた。
「わしには名がある。朧守だ。そう呼べ」
「おぼろ……もり。すごい名前。俺は灯真。灯すに真って書きます」
「真を灯す者か……」
朧守は自分だけが聞こえるように小さくつぶやくと、若者の顔に目をやった。
すると思いもよらず、彼は何とも喜ばしげな表情を浮かべて目を丸くしていた。
「なぜそんな顔をする。わしには分からんな」
朧守は少し苛立ちながら、また背を向けた。
「嬉しくて。名前を教えてくれたことが、とても嬉しくて」
そう言って灯真がにっこり笑う。
リーン……。
またどこからともなく風が通りすぎ、音が鳴った。
あり得ん。もう巡らぬはずだ……。
朧守は、にわかには信じがたい現状に唖然とする。
だが懐かしいあの音を今度ははっきりと聞き、しばらく動きを止め、ゆっくりと振り返った。
吸い寄せられるように双方の目が合う――。
一瞬ではあったが、時が止まったように感じた。
朧守はハッと我に返り、振り切るように顔を逸らした。
「わしの目を見るな。記憶を取られるぞ」
「記憶?」
「わしは記憶を預かる妖だ。目を見ると過去の記憶がわしに流れ込み、吸い取られた者はその記憶を失くす」
そういうと朧守は背を向けた。
「あや……かし……。やっぱりおじいさん、じゃなくて、朧守は人間じゃなかったんだね。そんな気がしてたんだよなあ。俺、妖怪とかお化けとか一度は見てみたいってずっと思っていて。いやーやっぱりここに来て良かったぁ」
灯真は興奮しながら心を躍らせている様子だった。朧守はまた苛立ちを覚えた。
「何も知らずにそう浮かれるのは、人間が過去を忘れたからであろう。勝手に生み出しておきながら、都合が悪くなると忘れる。人間は消えゆく妖の事など気にも留めまい」
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだ……」
灯真は迂闊な発言をしたことに、申し訳なさそうに頭を下げた。
すると朧守はゆっくりと古い祠に向かって歩き出した。
「妖が存在する理由など人間には理解できまい」
静かな朧守の声に、灯真は少し顔をあげた。
「存在する……理由」
朧守の言葉に、灯真は言葉を詰まらせた。




