⑩約束した日
俺の一番好きな季節がまた巡って来た。
山桜が一面に山肌を彩ったこの時期、ここに一人の初老の妖が訪れた。
朧守だ――。
朧守は磐座に座っていた俺を見つけると話しかけてきた。
「この祠の主か? まだ若き妖とて、間もなく消えゆく宿命か……。ならば最後の時、わしがお前の記憶を預かろうぞ」
久しく誰かの声を聴いた俺は、色々な想いが急に込み上げて言葉より先に涙が出た。
「妖が人間のようになぜ泣く。消えるのがそんなに怖いか」
「そうじゃない……。嬉しくて」
俺がそう言うと朧守は眉間に皺を寄せ、奇妙なものを見るような顔をしている。
俺は袖で涙を拭いて、立ち上がった。
「それでさっき話した記憶って何? 何かを渡すの?」
「若いだけあって何も分からんか。これまでの過去で身に起きた物事を、頭の中に記し留めたものが記憶というものだ」
「頭の中に……それが記憶か……。なんで記憶を預かるの?」
俺の問いに朧守は、まるで他人事のように淡々と答える。
「力を失い、消滅してしまえば何もかも無かったことになる。――終わりだ。だがその時期が近づくと、皆、それに抗い、自身が生きた証をこの世に留めたくなる。その証をわしは記憶として預かり、守る。そうすれば消えても尚、わしと共に記憶だけは残る」
俺と違ってこれまで数多くの妖と出会い、そしてそれだけの終わりを見てきたからだろうか。
俺には朧守の感情を掴む事が出来なかった。ただ、なぜか少し冷たく孤独に感じた。
「ねえ……その記憶って温かい?」
俺が不意に尋ねると、朧守はまた奇妙なものを見るような顔をして答えた。
「おかしなことを聞くな。記憶に温かいも冷たいもあるまい」
「そっか……」
――しばらくの間、二人で静かな風の音を黙って聞いていた。
最初に口を開いたのは俺だった。
「俺……。またどこかで生まれることが出来るなら、人間になりたい」
それを聞くと朧守はまた眉間に皺を寄せた。
「人間になりたいなんて、呆れるにも程があろう。人間は勝手な生きものだ。簡単に裏切り、そして……すぐ忘れる。人間に忘れられた答えが、今のお前の姿であろう」
「分かってる。……でも人間は忘れる事で、また前を向くことが出来るのかもしれない。思いはそれぞれ違うと思う。それでも人間と妖の心は同じなんだ」
俺がそう言うと朧守はきょとんとしていた。
「わしには、まったく理解が及ばぬ考えだ。……奇妙な妖に引き寄せられたものだ。ところで、お前の名は? わしは朧守だ」
「俺の名は鈴風」
「鈴風……。闇を祓いて、幸を運ぶ風か……」
朧守は小さく呟いた。
それからは、記憶を預けるまでの僅かな時間を朧守と過ごした。
長いこと誰とも言葉を交わしてなかった俺は、堪らなく嬉しくて夢中になって話をした。
話せば話すほどたくさん溢れてきて……切りがなかった。
朧守は親のように、静かに俺の話をずっと黙って聞いてくれた。
――どれくらい話をしただろう。朧守は静かに時を告げた。
「鈴風よ……。そろそろ記憶を預かろうぞ」
「そっか……」
ひとつの風が通り抜けて行った。
俺は自分が生まれて暮らした里の景色を、ゆっくりと見渡した。
俺は自分の手を見ると、もうその時が来たことを悟った。
「俺が消えたら、朧守はまた独りになるの?」
「我が身の事より他人の心配か」
「ねえ、朧守。俺と約束しようよ。もし俺が、また生まれる事が出来たら……。ここへ必ず会いに来るよ。朧守に渡したいものがあるから、その時に預かって欲しい。だからそれまで待っていて」
朧守は俺の前に立つと、静かに考え答えた。
「約束か……。それも良かろう。また巡る風を、それまで待とう」
そう言うと朧守は、初めて俺と目を合わせた。
朧守の目は強く、寂しく静かな瞳だった。
不思議な感覚だった。
俺のこれまでの全ての記憶が呼び覚まされたようだった。
人間の願いから俺が生まれたこと、風になって空を飛んだこと、草花の香りを運んだこと、森の光を揺らしたこと、小さな雲を運んだこと、村の子どもとたくさん遊んだこと、お糸のこと。村のみんなが好きだったこと。
その記憶はどれも可笑しくて、温かくて、愛おしくて……悲しくて。
気が付くと俺は涙をボロボロ流していた。
記憶と感情の全てが一気に頭の中を駆け巡り、朧守に吸い寄せられるように俺の頭から離れて行った。
朧守が静かに目を閉じると、俺は消えた――。




