プロローグ ①消えかけた守り手
――霧は、静かにこの隔離された世界を侵していた。
山奥にある古祠には、もうとっくに人間が足を踏み入れることがなくなり、石の鳥居には鬱蒼と湿った苔が生えている。
人間に忘れられた祠の主が姿を消してから、どれくらいの年月が経つであろうか……。
崩れかけた石段の途中に、朧守は立っていた。
朧守が指先を見下ろすと、輪郭が淡く揺れる。まるで水面に映った影のように、形が定まらない。
「――また、か」
その声は霧の中に溶け、誰にも届かない。
どこからともなく漂うカビ臭い土の匂いと霧が、この世界を封じているようだった。
朧守は、長い時間を生きてきた。
いや、生きていた、という言葉が正しいのかすら分からない。
かつて祠の近くにあった村には沢山の人間と子どもたちが暮らし、季節の祭りやら行事やらで活気に溢れていた。
世の中にはそんな人間の生活にひっそりと馴染みながら、棲み分けをしてきた妖が数多く存在したのだ。
だが時の流れと共に一軒、また一軒と徐々に空き家が増え、子どもが減り、終いにはこの村の人間はひとりもいなくなってしまった。
そして同じように妖も一人、また一人と姿を消していった。
訳あって朧守は、今でもこの土地に残った最後の妖なのだ。
力が欠け始めてから徐々に老いた姿となったが、彼には最後まで守りたいものがあった。
それは彼の役目であり、自身が存在するための最後の心の灯でもあった。
「いずれ……消えゆくもまた宿命か……」
太く枯れた声でぽつりと言うと、そっと石段に手を置いた。
朧守はかつてこの場所で起きた、誰かの小さな記憶を覗く……。
一人の妖が、村の子どもたちと祠の前で遊んでいる。その妖の見かけは大して村の子どもたちと差がない。
夕暮れになると子どもたちを家まで見送り、風と共に姿を消し祠に帰った。
その妖が笑うと澄んだ鈴のような音がリーンと響く。
その名は……。
朧守が記憶を辿った瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
土蔵の壁が剥がれ落ちるように、たった今頭を巡った記憶が崩れていく。
「――ならぬ。……消えるな!」
朧守は首を振った。しかし、崩れた記憶はもう戻らない。
朧守の足元に、霧が絡みつく。
それは、彼の残された記憶を溶かしていくようだった。
彼は突然、恐怖を知った。それは外敵ではない。刃でも、呪いでもない。
自分が守っていたものを失う恐怖。
自分が消滅すればこれまで預かった記憶がこの世から全て消えてしまうという恐怖――。
朧守はその恐怖と対峙するかのように、少しでも長くその役目を果たそうと足掻いていた。
その時、微かにリーンと鈴がなるような音が聞こえる。紛れもなく幻聴であろう。
それでも懐かしいその音は、静かに朧守の恐怖の感情を静めていった。
「約束を果たすまで。されば……それまではその宿命に抗おうぞ。」
朧守の胸の奥で、小さな灯が揺れた。
それは、遠い昔に交わした約束の灯りだった――。




