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カウンセリングルームの重厚な防音扉が、空圧の音を立ててゆっくりと開いた。
鑑定所の待合スペースで、椅子が壊れんばかりの勢いで立ち上がったのは、手に白い包帯を巻いたあのマネージャーだった。
彼は中毒者のような鋭い視線を扉の隙間に注ぐ。
「白雪! 大丈夫か、気分は……!」
彼は、いつものように自分の言葉に怯え、あるいは縋るように見上げてくる、彼らの最高傑作を期待して駆け寄った。
傷ついた騎士が、守るべき姫の無事を確認するかのような、独りよがりな献身を瞳に宿らせて。
しかし、歩み寄ろうとした彼の足が、コンクリートの床に凍りついたように止まった。
扉の向こうから現れた白雪は、彼が十数年かけて作り上げ、守り、調教してきた白雪ではなかった。
「……あ。マネージャーさん、お疲れ様」
その声を聞いた瞬間、佐藤は背筋に冷たい氷を流し込まれたような錯覚に陥った。
先ほどまでの、震える枯れ葉のような掠れた声ではない。
かといって、ステージの上で作られていた、砂糖菓子のように甘く高いアイドルの声でもない。
それは、深い森の奥にある、一切の濁りがない泉の底から響くような、冷徹で、透き通った低音だった。
「白雪……? お前、その顔、どうしたんだ」
マネージャーが、困惑と恐怖の混ざった声を漏らす。
彼女の顔から、あの太陽の笑顔が完全に消失していた。
かつて彼女の代名詞だった、周囲を明るく照らすような、無防備で献身的な微笑み。
それは、ファンという名の怪物を宥めるための擬態であり、自分を守るための盾だったものだ。
その不自然な筋肉の緊張が、抽出という外科手術によって一滴残らず削ぎ落とされている。
今の彼女の表情は、驚くほど静かだった。
眉ひとつ動かさず、ただそこにある。感情という名の重力から解放された、究極の脱力。
だが、その静寂の奥には、以前の彼女には決して持ち得なかった、鋭利な強さが宿っていた。
「……顔がどうしたの? 抽出は成功したわよ。おかげで、頭の中が驚くほどクリア。ノイズが全部消えたみたい」
彼女は、自分を庇って傷を負ったはずのマネージャーの手を、一瞥した。
かつての彼女なら、その包帯を見ただけで涙を流し、自分のせいだと自分を責め立て、過剰なまでの謝罪と感謝を繰り返しただろう。
それこそが、マネージャーが彼女を支配し、繋ぎ止めておくための絆という名の枷だった。
しかし、今の彼女の瞳に映っているのは、単なる負傷した中年男性という客観的な事実だけだった。
「……その怪我、まだ痛むの? 次の撮影、あなたが車を運転するんでしょう? 支障が出るなら、早めに代わりのドライバーを手配して。私はもう、一刻も早くスタジオに入りたいの。この感覚が冷めないうちに」
「……何、を……言ってるんだ。俺は、お前のために……」
「私のために、何?」
白雪は、ゆっくりと歩み寄った。
マネージャーよりも数センチ背が低いはずの彼女が、まるで巨大な捕食者のように彼を威圧する。
彼女の唇が、わずかに弧を描いた。
それは、誰かを喜ばせるための笑顔ではない。
相手の急所を見定め、そこを正確に突き刺すことを確信した者が浮かべる、優雅で、残酷な、悪女の微笑みだった。
「あなたが私を守ってくれたのは、私があなたの商品だったから。違う?……でも、もうそのお遊びは終わり。私はもう、誰かに守られる必要なんてないの。だって、もう何も怖くないんだもの」
彼女は、動けないマネージャーの脇を、風のように通り抜けた。
佐藤は、カウンターの中からその光景を、息をひそめて見守っていた。
抽出された千六百五十万四千円の恐怖は、今、鑑定士の手によって棚に並べられようとしている。
彼女が捨てたのは、弱さだけではない。
他人の痛みに共鳴し、自分を犠牲にしても誰かを想うという、あまりに人間的な、不器用さそのものだったのだ。
「……鑑定士。彼女、あんなに強くなって。……でも、あんなに冷たくなって」
佐藤の呟きに、奥から出てきた鑑定士が、肩をすくめて応えた。
「佐藤。強さと冷酷さは、しばしば同義語だよ。彼女は今日、ようやく自分という檻から脱獄したんだ。……さあ、伝票を処理しろ。千六百五十万の『怪物』の誕生を、祝ってやろうじゃないか」
白雪は一度も振り返ることなく、鑑定所の重い扉を開け、外の世界へと踏み出していった。
表には、彼女を待ち構えるカメラのフラッシュや、執拗なファンの視線が溢れているはずだ。
けれど、今の彼女なら、それらすべてを、ただの背景として踏み潰していけるだろう。
かつての太陽は沈んだ。
しかし、その後に昇ってきたのは、夜の街を冷たく、傲慢に照らし出す、美しき満月だった。
マネージャーは、血の気が引いた顔で、自分の包帯の巻かれた手を震えながら見つめている。
彼が守り抜こうとした白雪は、もう、この世界のどこにも存在しない。
佐藤は、棚に置かれた真っ黒な液体が入った瓶に、最後の手入れを施した。
そこに記されたラベル――『偶像の防衛シェルター』。
それが、かつて一人の少女が、アイドルとして、人間として、必死に生きた証のすべてだった。
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【偶像の防衛シェルター】
成分名:自己防衛型擬態慈愛
「笑っていなければ、殺される」
そんな剥き出しの恐怖を、「ファンへの愛」という美しい包装紙で何重にも包み隠した、とあるアイドルの極めて精巧な偽造感情です。
彼女がステージで見せていたあの慈愛に満ちた眼差しは、実は迫りくる観客の熱狂から自分を守るための、必死の「擬態」に過ぎませんでした。愛という名の盾、微笑みという名の防壁。その内側で、彼女の心は常に悲鳴を上げていました。
[効能]
他者の悪意や過剰な期待を、瞬時に「心地よいもの」へ変換して受け流すことができます。対人関係に疲れ、心を鋼鉄に変えたい方におすすめです。
[備考]
持ち主は、この強固な「防衛本能」を売却したことで、ついに内側の震えを隠す必要がなくなりました。
恐怖を知らない彼女が演じる「悪女」が、これほどまでに残酷なのは当然です。彼女の中から、人を恐れるという『ブレーキ』が消えてしまったのですから。
本日の感情残高はいかがでしょうか。
この物語は、感情が価値になる世界のお話です。
これからよろしくお願いします。
この物語の価値は、読者さまの感情で成り立っています。
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