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感情通貨~その「初恋」に100万、その「絶望」に1600万。心を切り売りして人生をリセットする人々~  作者: ヘレン
偶像の防衛シェルター

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9


カウンセリングルームの重厚な防音扉が、空圧の音を立ててゆっくりと開いた。

鑑定所の待合スペースで、椅子が壊れんばかりの勢いで立ち上がったのは、手に白い包帯を巻いたあのマネージャーだった。

彼は中毒者のような鋭い視線を扉の隙間に注ぐ。


「白雪! 大丈夫か、気分は……!」


彼は、いつものように自分の言葉に怯え、あるいは縋るように見上げてくる、彼らの最高傑作を期待して駆け寄った。

傷ついた騎士が、守るべき姫の無事を確認するかのような、独りよがりな献身を瞳に宿らせて。

しかし、歩み寄ろうとした彼の足が、コンクリートの床に凍りついたように止まった。

扉の向こうから現れた白雪は、彼が十数年かけて作り上げ、守り、調教してきた白雪ではなかった。


「……あ。マネージャーさん、お疲れ様」


その声を聞いた瞬間、佐藤は背筋に冷たい氷を流し込まれたような錯覚に陥った。

先ほどまでの、震える枯れ葉のような掠れた声ではない。

かといって、ステージの上で作られていた、砂糖菓子のように甘く高いアイドルの声でもない。

それは、深い森の奥にある、一切の濁りがない泉の底から響くような、冷徹で、透き通った低音だった。


「白雪……? お前、その顔、どうしたんだ」


マネージャーが、困惑と恐怖の混ざった声を漏らす。

彼女の顔から、あの太陽の笑顔が完全に消失していた。

かつて彼女の代名詞だった、周囲を明るく照らすような、無防備で献身的な微笑み。

それは、ファンという名の怪物を宥めるための擬態であり、自分を守るための盾だったものだ。

その不自然な筋肉の緊張が、抽出という外科手術によって一滴残らず削ぎ落とされている。

今の彼女の表情は、驚くほど静かだった。

眉ひとつ動かさず、ただそこにある。感情という名の重力から解放された、究極の脱力。

だが、その静寂の奥には、以前の彼女には決して持ち得なかった、鋭利な強さが宿っていた。


「……顔がどうしたの? 抽出は成功したわよ。おかげで、頭の中が驚くほどクリア。ノイズが全部消えたみたい」


彼女は、自分を庇って傷を負ったはずのマネージャーの手を、一瞥した。

かつての彼女なら、その包帯を見ただけで涙を流し、自分のせいだと自分を責め立て、過剰なまでの謝罪と感謝を繰り返しただろう。

それこそが、マネージャーが彼女を支配し、繋ぎ止めておくための絆という名のかせだった。

しかし、今の彼女の瞳に映っているのは、単なる負傷した中年男性という客観的な事実だけだった。


「……その怪我、まだ痛むの? 次の撮影、あなたが車を運転するんでしょう? 支障が出るなら、早めに代わりのドライバーを手配して。私はもう、一刻も早くスタジオに入りたいの。この感覚が冷めないうちに」


「……何、を……言ってるんだ。俺は、お前のために……」


「私のために、何?」


白雪は、ゆっくりと歩み寄った。

マネージャーよりも数センチ背が低いはずの彼女が、まるで巨大な捕食者のように彼を威圧する。

彼女の唇が、わずかに弧を描いた。

それは、誰かを喜ばせるための笑顔ではない。

相手の急所を見定め、そこを正確に突き刺すことを確信した者が浮かべる、優雅で、残酷な、悪女の微笑みだった。


「あなたが私を守ってくれたのは、私があなたの商品だったから。違う?……でも、もうそのお遊びは終わり。私はもう、誰かに守られる必要なんてないの。だって、もう何も怖くないんだもの」


彼女は、動けないマネージャーの脇を、風のように通り抜けた。


佐藤は、カウンターの中からその光景を、息をひそめて見守っていた。

抽出された千六百五十万四千円の恐怖は、今、鑑定士の手によって棚に並べられようとしている。

彼女が捨てたのは、弱さだけではない。

他人の痛みに共鳴し、自分を犠牲にしても誰かを想うという、あまりに人間的な、不器用さそのものだったのだ。


「……鑑定士。彼女、あんなに強くなって。……でも、あんなに冷たくなって」


佐藤の呟きに、奥から出てきた鑑定士が、肩をすくめて応えた。


「佐藤。強さと冷酷さは、しばしば同義語だよ。彼女は今日、ようやく自分という檻から脱獄したんだ。……さあ、伝票を処理しろ。千六百五十万の『怪物』の誕生を、祝ってやろうじゃないか」


白雪は一度も振り返ることなく、鑑定所の重い扉を開け、外の世界へと踏み出していった。

表には、彼女を待ち構えるカメラのフラッシュや、執拗なファンの視線が溢れているはずだ。

けれど、今の彼女なら、それらすべてを、ただの背景として踏み潰していけるだろう。


かつての太陽は沈んだ。


しかし、その後に昇ってきたのは、夜の街を冷たく、傲慢に照らし出す、美しき満月だった。

マネージャーは、血の気が引いた顔で、自分の包帯の巻かれた手を震えながら見つめている。

彼が守り抜こうとした白雪は、もう、この世界のどこにも存在しない。


佐藤は、棚に置かれた真っ黒な液体が入った瓶に、最後の手入れを施した。

そこに記されたラベル――『偶像の防衛シェルター』。


それが、かつて一人の少女が、アイドルとして、人間として、必死に生きた証のすべてだった。



ーーーー



【偶像の防衛シェルター】

成分名:自己防衛型擬態慈愛


「笑っていなければ、殺される」

そんな剥き出しの恐怖を、「ファンへの愛」という美しい包装紙で何重にも包み隠した、とあるアイドルの極めて精巧な偽造感情です。


彼女がステージで見せていたあの慈愛に満ちた眼差しは、実は迫りくる観客の熱狂から自分を守るための、必死の「擬態」に過ぎませんでした。愛という名の盾、微笑みという名の防壁。その内側で、彼女の心は常に悲鳴を上げていました。


[効能]

他者の悪意や過剰な期待を、瞬時に「心地よいもの」へ変換して受け流すことができます。対人関係に疲れ、心を鋼鉄に変えたい方におすすめです。


[備考]

持ち主は、この強固な「防衛本能」を売却したことで、ついに内側の震えを隠す必要がなくなりました。

恐怖を知らない彼女が演じる「悪女」が、これほどまでに残酷なのは当然です。彼女の中から、人を恐れるという『ブレーキ』が消えてしまったのですから。



本日の感情残高はいかがでしょうか。

この物語は、感情が価値になる世界のお話です。

これからよろしくお願いします。


この物語の価値は、読者さまの感情で成り立っています。

面白い、続きが気になると思っていただけましたら、

☆評価やブックマークという“感情通貨”を少し分けていただけると嬉しいです。


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