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感情通貨~その「初恋」に100万、その「絶望」に1600万。心を切り売りして人生をリセットする人々~  作者: ヘレン
偶像の防衛シェルター

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8


『……深度、正常値。覚醒ウェイクアップを許可する』


鑑定士の、体温を一切感じさせない無機質な声が防音室のスピーカーから響き渡った。

その合図と同時だった。

横たわっていた白雪の体が、まるで強力な電気ショックを与えられたかのように跳ね起きた。


「はっ……ぁ、……っ!!」


喉の奥で、空気が鋭く引き摺られる音がする。

彼女の細い胸元は激しく上下し、まるで目に見えない巨大な手に首を絞められているかのように苦しげだ。

その瞳は、見開かれたまま焦点が合っていない。

彼女の網膜には、今もまだ夢の中で煌めいたナイフの刃先と、自分を庇ったマネージャーの鮮血が、鮮烈な残像として焼き付いているのだ。

額からは大粒の脂汗が流れ落ち、指先はガタガタと、歯車が噛み合わなくなった機械のように震え続けている。

佐藤は、彼女のそのパニックを否定せず、しかし過剰に踏み込みもせず、慎重に距離を詰めた。


「白雪さん、大丈夫ですよ。ゆっくり、僕の呼吸に合わせてください」


佐藤は自身の気配を極限まで抑え込んだ。

彼には自覚があった。

今の彼女にとって、目の前に立つ自分という男の存在すら、あの夜の暴漢と重なりかねない脅威であるということを。

彼はあえて彼女の正面を避けて、氷水で冷やした清潔なタオルをそっと彼女の手首に当てた。


「冷たいですよ……。ここは鑑定所です。あなたは、もう安全な場所にいます」


手首から伝わる冷たさが、彼女の脈打つ血管を通じて脳へと届けられる。

その刺激が、過去の暗闇に引き摺り込まれそうになっていた彼女の意識を、現在いまという一点に繋ぎ止める楔となった。


「……ぁ、……さ、佐藤、さん……?」


「はい。佐藤です。鑑定士も、別室で見守っています」


白雪の瞳に、ようやく少しずつ知性の光が戻ってきた。

しかし、その瞳の奥におりのように溜まった恐怖は、そう簡単に消えるものではなかった。彼女は震える手で自分の首筋をなぞり、そこに傷がないことを何度も確かめるように指を動かした。


「……あの日から、」


白雪が、枯れた枯れ葉が擦れ合うような声で、ぽつり、ぽつりと話し始めた。


「あの日から、私の世界は反転してしまったんです。……夜道を歩く時、街灯の影が伸びるだけで、心臓が口から飛び出しそうになる。背後で誰かの足音が聞こえれば、それがスタッフであっても、ナイフを隠し持ったあの男に見えてしまう。……一度、自分の部屋のチャイムが鳴っただけで、過呼吸で倒れたこともありました」


佐藤は言葉を挟まず、ただ彼女の言葉を一つひとつ、壊れ物を扱うように丁寧に拾い上げた。


「でも、世間は残酷でした。SNSを開けば、あんな男を刺激するような態度を取った自業自得だとか、愛想が悪いから襲われるんだ、なんて言葉が溢れていて。……休業している間も、私はずっと、透明な檻の中に閉じ込められて、何千人もの悪意に監視されている気がしていました。……だから、私は決めたんです」


彼女の瞳が、ふっと暗い情念を帯びた。


「みんなのアイドルを、演じ切ることにしたんです。聖母のように慈悲深く、誰をもうっとりとさせる笑顔を振り撒き続けていれば、もう誰も私を攻撃しない。怒らせない。そうやって自分自身を騙して、心の底にある怖いという叫びを、これはファンへの愛なんだという嘘で塗りつぶして……。そうしなきゃ、私は一歩も外へ出られなかった。……佐藤さん、私のしてきたことは、そんなに汚いことですか?」


佐藤は、彼女の震える手の上に、そっと自分の手を重ねた。


「いいえ。あなたは、生きるために戦っていただけです。自分自身を守るために、死に物狂いで武装していた。……それは、決して汚いことなんかじゃありません」


その佐藤の底抜けの優しさを含んだ沈黙を切り裂くように、天井のスピーカーから鑑定士の冷徹な声が再び響いた。


『――感情成分の解析、および市場価値の算定が完了した。白雪さん、あなたの持ち込んだ感情は、当初の申告にあった愛ではない。だが、それはあなたが卑下するような単なる怯えでもない』


佐藤がスピーカーを見上げると、鑑定士の声は、数学の難問を解き明かした学者のような、一種の陶酔を孕んだトーンで続けられた。


『あなたの脳内深層に沈殿していたのは、極限状態が生み出した、極めて高度な、対人環境適応型・人格擬態プログラムだ。……驚くべき数値だよ。あなたは、恐怖という激痛を燃料にして、自身の精神構造を根底から書き換えた。他者の攻撃を回避するためだけに、自身の心拍、発汗、瞳孔の開き、果ては声の周波数に至るまでを『無害な偶像アイドル』として最適化し、完全な防衛シェルターを構築したんだ』


鑑定士は、手元の端末で弾き出された数値を読み上げる。


『この感情資産を、現行の感情通貨市場におけるレートで換算すると、基本査定額は千二百万五千円。そこに、元・国民的アイドル、現役女優というアイコンの希少性、および、この擬態プログラムが持つ、他者への完璧な迎合能力という実用的な付加価値を加味し、最終的な買い取り価格は千六百五十万四千円と算出された」


千六百五十万。

一般人の数年分もの年収に相当する大金が、彼女の恐怖の代償として提示された。

しかし、その金額を聞いても、白雪の表情に驚きや喜びの兆しは一切現れなかった。


「……金額には、興味がありません。私が知りたいのは、一つだけ」


白雪は、佐藤の手を離し、スピーカーを、あるいはその向こう側にいる鑑定士を真っ直ぐに見据えた。


「これを売れば……私は、悪女になれますか? 誰に何を言われても、誰に刃物を突きつけられても、眉ひとつ動かさずに相手を支配する。そんな、冷徹な怪物になれますか?」


ダイブ室の扉が開いた。

そこにいる鑑定士は、低く、愉しげに笑っていた。


あまりの珍しさに佐藤は思わず二度見してしまう。


「もちろんだ。この金額は、あなたが人間としてのリミッターを外すための対価だ。これを抽出すれば、あなたの脳から、他者の視線を気にするという防衛本能そのものが削ぎ落とされる。……恐怖を知らない者こそが、真の残酷さを体現できる。あなたは、自身を縛り付けていた防衛シェルターを売り払うことで、皮肉にも、最強の武器を手に入れることになるだろう」


佐藤は、その論理的な絶望に背筋が凍るのを感じた。

鑑定士が提示しているのは、彼女を救うための治療ではない。

彼女を、もはや後戻りできない役者という名の機械へと改造するための、契約だった。


「……白雪さん」


佐藤が声をかける。


「これを売れば、もう二度と、あの時のような恐怖に怯えることはなくなります。でも、同時に……誰かの優しさに触れて、心から安心することもできなくなるかもしれないんですよ」


白雪は、佐藤の問いかけに答えなかった。

ただ、その瞳には、千六百五十万の価値を持つ漆黒の決意が、静かに、しかし確実に宿っていた。



本日の感情残高はいかがでしょうか。

この物語は、感情が価値になる世界のお話です。

これからよろしくお願いします。


この物語の価値は、読者さまの感情で成り立っています。

面白い、続きが気になると思っていただけましたら、

☆評価やブックマークという“感情通貨”を少し分けていただけると嬉しいです。


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