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『……レム睡眠導入完了。深度、正常。これよりダイブを開始する』
抑揚のあまりない、まるで機械のような感情のない声が遠くの方で聞こえた気がした。
あの鑑定士のものだろうと、まどろんだ意識の中で考えるが、それもどこか私でない誰かの思考のようで、なんだかふわふわしている。
視界が白濁し、意識が泥のように沈んでいく。
…気づけば私は、あの日の、あの熱気の檻の中に立っていた。
鼻を突く、何百人分もの男たちの汗の匂い。
眩しすぎるスポットライト。
そして、私を監視する目、目、目ー
「白雪ちゃん、愛してるよ」
「応援してるよ」
「大好きだよ、また会いにくるね」
壊れたスピーカーのように繰り返される定型句の波。
私は笑っている。
顔の筋肉がひきつっていることに気づかれないよう、一秒間に数ミリの精度で、アイドルを演じている。
……ああ、早く、終わって。
体は鉛のように重い。
最近スケジュールが立て込んでいて、睡眠時間もろくにとれていない。
睡眠不足で視界の端がチカチカと明滅している。
そこへ、一人の男が立った。
デビュー当時から私を追いかけているという、自称・古参のファン。
「白雪。今日のダンス、キレがなかったぞ。お前、天狗になってるんじゃないか?」
「そんなこと……。ごめんなさい、次はもっと頑張りますね」
彼が背を向けた瞬間、肺の底に溜まっていた泥を吐き出すように、私は一息ついた。
やっと終わる。
やっと一人になれる。
あまりに人間的な安堵。
そしてそれは、ほんのわずかな、自分でも気づかないほどの、拒絶の吐息。
その時。
背を向けたはずの男の首が、まるで別の生き物のような速さで真後ろに回転した。
「――今、溜息ついたな?」
逃げ場のない、至近距離。
男の指が、私の両肩に食い込む。
激しい揺さぶりに、視界がぐわんぐわんと歪む。
「なんだその態度は! いくら金を使ったと思ってる! 俺がいなきゃお前はただのゴミだ! プロ失格だ、裏切り者!」
怖い。
怖い怖い怖い怖い。
目の前の男が、私を愛していると嘯くこの怪物が、今すぐ私をバラバラに解体してしまいそうで。
スタッフが割って入る。
男の叫び声が、狭いブース内に反響する。
「触るな! 俺の白雪に触るなッ!」
スタッフが男の体を押さえ込もうとした、その時。
男はポケットから、黒いノック式のボールペンを抜き取った。
「お前がプロを辞めないなら、俺が、辞めさせてやる……!」
男の目が、濁った憎悪で私を射抜く。
彼は、そのペンのペン先をカチリと押し出すと、狂乱のままに私の喉元をめがけて、それを真っ直ぐに突き出した。
細いプラスチックの塊が、私には死神の鎌のように見えた。
殺される。
反射的に目を閉じた。
ー待っていても予想していた痛みや衝撃はない。
目を開けた。
どうやら会場のスタッフがその場を収めてくれたらしい、あの男はもう目の前にはいなかった。
場面が変わったようだ、目の前の光景が変わる。
イベントが終わった直後の、夜の会場裏だった。
スタッフの怒号やファンの喧騒も遠ざかり、ようやく解放されたという安堵感で、私の足取りは軽かった。
「お疲れ様、白雪。車、すぐそこだから」
数歩先を歩くマネージャーの声に頷き、私は夜の空気を吸い込んだ。
その時。
植え込みの影から、一人の男が飛び出してきた。
「――溜息、ついたよな。さっき、俺が背を向けた時」
昼間のイベントにいた、あの古参のファンだった。
男の手には、街灯を反射して鈍く光るーあれは何?刃物?
それを判断する間もなかった。
「死ねよ、裏切り者ッ!」
男が獣のような咆哮を上げ、ナイフを私の首目掛けて真横に薙いだ。
「……っ!」
反射的に体を逸らす。
首筋に冷たい感触が走り、ピリリとした痛みが走る。間一髪、刃先が皮膚を掠めた。
だが、恐怖はそこからだった。
男は体勢を立て直し、今度はナイフを真っ直ぐ、私の喉元へと突き出してきた。
逃げなきゃ。
そう思うのに、足が、腰が、コンクリートに張り付いたように動かない。
網膜に焼き付く、銀色の刃先。
殺されるという純粋な思考が、脳内のすべてを真っ白に塗りつぶした。
「白雪ッ!!」
衝撃。
気づいた時、私の目の前には、血に染まった背中があった。
間に割って入ったマネージャーが、私の喉元に突き刺さるはずだったナイフを、自らの手のひらで掴んで止めていた。
「……あ、が……っ!」
肉を裂き、指の隙間から溢れ出す赤い液体。
マネージャーは激痛に顔を歪めながらも、私を庇うように両腕を広げ、男を突き飛ばした。
飛び散った鮮血が私の服を汚し、鉄の匂いが鼻を突く。
男の狂気。
マネージャーの呻き。
遠くで鳴り響くサイレン。
それらすべてが混ざり合い、頭の中で、最高純度の恐怖が爆発した。
本日の感情残高はいかがでしょうか。
この物語は、感情が価値になる世界のお話です。
これからよろしくお願いします。
この物語の価値は、読者さまの感情で成り立っています。
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